転落
その日の晩、わたしはとにかく疲れていた。
早く眠ってしまいたかったが、せめてシャワーだけは浴びておこうと、疲れきった身体に鞭を打って汗や汚れをお湯で洗い流した。そして、あとは眠るだけだと、必死に狭い部屋へと続く階段をのぼった。階下から母がわたしに声をかけてきたが、何と言っていたかまでは分からない。
だがその後、部屋に入ったわたしの身体を、弾力のあるポケットコイルのマットレスも柔らかなシーツも、受け止めてはくれなかった。
代わりに、何かが壊れる音が聞こえた気がした。バキン、と、盛大に。
その直後である。
「いっ、だあ!!」
びたんっ。
着地に失敗したカエルのように、わたしはベッドではなく、冷たい板張りの床に腹から落ちた。両目を開けても、辺りは真っ暗な闇に覆われていて何も見えない。
え、え、え? と震える声を漏らしながら辺りを探るが、あるはずのベッドはどこにもなく、そこは明らかにわたしの部屋ではなかった。思いきりぶつけた顎は、酷くジンジンと痺れている。
「誰じゃ!」
突然、そう離れていない場所から男の声が聞こえた。
びくっと肩を震わせて咄嗟に立ち上がったわたしは、上から落ちてきた何かに踏み潰されて、またもや腹這いの体勢になった。今度はまるで、車に轢かれたカエルのようだったと思う。
ただでさえ打ちつけた腹と顎が痛いのに、肩をものすごい力で掴まれて身体を反転させられ、言葉にならない声が喉の奥から漏れる。闇の中、誰かが馬乗りになっていることに気づいたが、悲鳴を上げる前に口の中へ何かをずぼっと突っ込まれた。
「んぐ、んん!?」
口の中でわたしの舌を掴んだのは、誰かの長く太い指だった。
その乾いた指の持ち主は、わたしに噛まれても怯むことはなかった。あが、んぐ、と喘ぐたびに、飲み込むことのできない唾液が口の端から垂れていく。心臓が猛烈な勢いで動き出し、今にも過呼吸を起こしそうだ。
そのとき、ぼんやりと朧げな灯りが浮かんだ。
その灯りのおかげで見えるようになったわたしの両目が捉えたのは、ぎろりと強い光を放つ、一つの眼。驚いて、ひゅっと空気を飲み込んだわたしは激しく咳き込んだ。
「くノ一が儂を殺しに来たか?」
そのおどろおどろしい眼の後ろから、今度は一人の男が現れた。声的に、最初に「誰じゃ!」と叫んだ男のようだった。鼻の下でくるりと綺麗にカールした髭を持つその男は、眠たいのか大きな欠伸を零す。
くノ一? くノ一って、女の忍者ってこと?
何も理解できない状況で、真っ先にそんな疑問が頭に浮かぶ。
少しずつ目が慣れてきて、おばけか妖怪の類だと思った一つの眼は、わたしに馬乗りになっている男の片目であることに気がついた。
じと、と寄ってくるその片目に、ひっと悲鳴を上げたが、その声は涎になって流れていくだけ。次第にがくがくと震えだしたわたしをじろじろと観察したあと、男はようやくわたしの口から指を引き抜いた。
おえ、と嘔吐いたがとりあえず吐かなかったことに安堵し、自由な方の片腕で口元を拭う。馬乗りになっている男を突き飛ばしたかったが、非力なわたしにそんなことができるとは到底思えなかった。
男はそっと、わたしの首に触れた。殺される、と反射的に目を閉じたが、すぐに彼の指は離れていく。
「……いえ、恐らく違うかと」
「お主の着衣、南蛮のものではないか?」
二人が同時に喋り出し、わたしは何も答えられずに彼らを交互に見つめた。
灯りがあるとはいえ、周りが暗いことに変わりはない。ゆらゆらと揺れる火だけが頼りである中、片目の男は、もう片方の偉そうな男の言葉を聞いてわたしの服を見下ろした。
ちなみに、彼が片手で押さえつけているのはわたしの胸のあたりだった。そのことに気づいたのか、服をちゃんと見ようとしたのか、男はそっと手を退ける。
「しかし、今までに見たことのない装いじゃ。お主、それはどこで手に入れた?」
「こっ、これは、近所の、ユニクロで、買いました」
ようやく絞り出した声はしゃがれていて、まるで老婆のようだった。
途切れ途切れ言葉を紡ぐわたしを見て、片目の男が身体の上から退いた。それにあわせて、私もゆっくりと起き上がる。腹や顎だけでなく、掴まれた肩など身体中あちこちが痛い。そのうえ顔は涎に涙、汗まみれ。頑張ってシャワーを浴びた意味がない。
かろうじて股が濡れていないことに、わたしはひそかに安堵した。
「ゆに……? 何じゃ、それは」
彼らにはわたしの言葉の意味が分からないようだ。ユニクロも知らないらしい。
もう一度二人を見て、次に自分がいる部屋を見渡す。電気はなく、灯りは蝋燭の火が一つだけ。
きっと、本当のわたしは今頃ベッドの上でぐっすり眠っているのだ。日々の疲れを少しでも解消するために、熟睡しているに違いない——。そう考えようとしたが、この妙に現実感のある感覚がどうしてもただの夢には思えず、わたしは大人のくせにめそめそと泣いた。膝に落ちる涙の粒はちゃんと温かく、それがさらに悲しかった。
なぜ泣いているのか、明らかに分かっていない様子の男たちは、ただ黙ってわたしを見つめている。
やがてあることに気づいたわたしは、ハッとして呟いた。神隠しだ、と。
「なに、神隠し?」
偉そうな男が髭を撫でつけながら首を傾げる。
片目の男は相変わらず口数が少ないようだ。わたしは何度も頷いた。
「あのわたし、十歳くらいの頃にしばらく行方不明になったことがあって、全然何があったか覚えていないんですけど、近くの山の中で発見されて……もうとにかく当時は大騒ぎだったらしくて、警察やマスコミやら……」
思いつくままに、まとまりのない話を続ける。
実際、その話はすべて事実だった。今から十五年ほど前の話だ。
わたしが行方不明になった最初の二週間は、テレビのワイドショーでひっきりなしに『ちゃん行方不明事件』を取り上げていたらしい。近所に住んでいた男子大学生がオタクだったというだけで怪しまれていたことや、両親にも疑いの目が向けられたこと、それによってわたしの母が精神的におかしくなってしまったこと——。
無事に五体満足で発見されたとき、それはもう日本中がお祭り騒ぎだった。しかし皆、無事でよかったと喜びながらも、わたしが誰かにある種の『いたずら』をされたのではないかと注目し、期待した。しかし、わたしが行方不明になっている間のことを何も覚えていなかったため、様々な週刊誌で『神隠し』という言葉が用いられ、最終的に『ちゃん行方不明事件』は人々の記憶から消え去っていったのである。
不思議なことに、それを説明する声はいつものわたしのものに戻っていて、言葉は流れる水のようにするすると口から出てきた。
きっと本能的に、自分は怪しい人間ではないことを証明しなければ、と感じたのかもしれない。だってこの男たち——特に片目の男の方——は、人を殺すことに躊躇しないタイプの人間に思えたから。
「お主、面白い女子じゃのう」
わたしの話す内容を理解したようには思えなかったが、偉そうな男はそう言ってにやりと笑った。
昔話をしただけで特に面白い話をしたつもりはないのだが、ただ怪しまれるよりかは面白いと思ってもらえた方がずっとよかった。わたしはうんうんと頷いて、「だから今回も、きっと神隠しです!」と無理やり結論づけた。
だが、そのとき。
本当にそう思っているのか。そう目で訴えてくる、もう一人のわたしがいた。
この『もう一人のわたし』は、わたしだけに見えているものらしい。会話もできず、十五年前の神隠しについて何かを思い出そうとすると、たまに現れる存在だ。
このことを、母曰く『こころのお医者さん』である銀縁の眼鏡をかけた医師に伝えたところ、彼は心配そうな表情をつくって、きっと事件のことでまだ頭が混乱しているのだ、すぐに落ち着くだろうと誰でも言える言葉を吐いた。子どもながら、その頃の母の精神状態がマトモでなかったことを分かっていたわたしは、それから先、もう一人のわたしの話を母にするのは控えるようになった。
だが、彼女は今でもこうして健在だ。姿かたちは十歳の頃のわたしのままで、ずっとわたしのそばにいる。
「——門」
「は」
よく聞こえなかったが、偉そうな男に呼ばれた片目の男は、床に片膝をついて頭を下げた。
ようやく薄闇に慣れきった目で片目の男を見ると、彼は忍者のような格好をしていて、片目しか見えないのはもう片方の目を包帯で覆っているからであることが分かった。
「この女子、奥の一室にでも入れておけ」
その言葉に、とりあえず殺されることはないかも……とほっと胸を撫で下ろしていたら、無口な片目の男が「お言葉ですが」と口を開いた。
「ずっと見張っておりましたが、この女子、姿を現すまでまったく気配を感じませんでした。刺客ではないようですが、そのような者を城に置いたままとするのはいかがなものか、と」
「ふむ……ではどうする?」
「私の屋敷で監視いたします」
「お主の?」
嫌です!! と叫びたいのを堪えて、わたしはなんとか口を挟むタイミングを見計らったが、片目の男に睨まれてしまい、ぐっと押し黙る。
まさに、ヘビに睨まれたカエルだ。
「私の屋敷であれば忍軍の詰所も近い。下手な動きはできないでしょう」
「だが、忍軍の秘密を握られる可能性も無きにしも非ず……ではないか?」
「ご安心を。そのような失態は犯しません」
ここってお城だったのか。ということは、『神隠し』というより『タイムスリップ』と言った方が近いだろうか。
彼らの話についていけないままぐすぐすと鼻をすすっていたら、しばらく考え込んでいた偉そうな男は「よかろう」と頷いてみせた。最悪なことに、わたしの行き先はこの恐ろしい片目の男の屋敷に決まってしまったらしい。
もう一人のわたしがかすかに微笑んだのが見えた。何がおかしいのか分からないが、彼女は話さないわりに表情は豊かだ。
「あとのことはすべてお主に任せるぞ。儂はもう寝る」
「承知いたしました」
偉そうな男はもう一度欠伸をすると、もう下がれと言わんばかりに手を振って、闇の中に消えていった。
ここがお城だというのなら、あの偉そうな男はお殿様だったのだろうか。
ということは、面白い女子だと思われなければ、首を刎ねられていてもおかしくなかったのでは?
そう考えて、ぞぞぞ、と背中に悪寒が走った。片目の男は偉そうな男を見送ったあと、ぶるぶると震えているわたしの方を向いた。
「名は」
「……、です」
「……殿。では、おいで」
いきなり名前呼びか、と思いながら、差し出された手があまりにも大きくて、わたしは息を呑んだ。昔の人って、たとえ男の人だろうとここまで大きくはなかったはずだが、この男は別格なのだろうか。
恐ろしいことに変わりはなかったが、「来い」ではなく「おいで」と優しく言われたことに、わたしは少しだけ気が緩んだ。しかしすぐに、いやでもこの人いきなり口に指突っ込んできたしな……と思い直す。
手を取らず、動かないまま固まっているわたしを見て、片目の男はもう一度「殿」と呼ぶ。
「……しが」
「え?」
「腰が、抜けて、動けない、です……」
次第に声が尻すぼみになっていった。
もう一人のわたしが面白そうに笑っている。
男はしばらく黙っていたが、やがて一言「失礼」と言うと、わたしを横抱きにして、ひょいと軽く持ち上げた。てっきり米俵のように肩にでも担がれるかと思ったが、妙に扱いが優しいし、最初に軽く断りを入れるところもなかなかポイントが高い。
いやでもこの人いきなり口に——と、そこまで考えて、あとはやめた。もうとにかく、わたしは頭も身体も疲れ切っていた。
恐らくこれは夢ではないし、この片目の男の屋敷に行くことは決定事項なのだ。このまま駄々をこねてここに居座っていたら、それこそ本当に首を刎ねられかねない。ならば大人しく、彼らの言う通りにするほかないだろう。
これが本当に二度目の神隠しならば、きっとまた、前みたいに元の世界へ戻れるはずだ。
そう信じるしかなかった。