
憎き土井半助が嫁を迎えるらしい。
その話を聞かされた瞬間、私の脳裏に真っ先に浮かんだのは、いつも土井を見つめては頬を赤く染め、はにかんだ笑みを浮かべる忍術学園事務員――だった。
傍から見れば、彼女が土井に想いを寄せていることなど一目瞭然。なのに当の本人である土井は気付いているのかいないのか、いつも飄々とした態度で彼女に接している。そのちぐはぐさに見ていて苛立つことも多かったのだが、なんだ。彼奴ら、結局は収まるところに収まった、というわけか。
「土井殿のお相手、きり丸くんがよくバイトをしている紙屋の娘らしいよ」
「……へっ?」
詰所での休憩中のことだった。
ばりん、と勢いよく前歯で噛み砕いた煎餅が、膝の上にぽろりと落ちる。眉を顰める高坂さんが視界の端に入ったが、私の視線は目の前で雑炊を啜る組頭から離れなかった。
余程間の抜けた面をしていたのだろう。組頭が怪訝そうに首を傾げる。
「どうした、尊奈門」
「あ、いえ……てっきり私は、土井の相手はかと思ったのですが」
「ああ、殿」
組頭は頬に手を当てて、何かを思案するように深いため息を吐いた。いつもなら、横座りと同じくらい女々しい仕草にああだこうだ言うところだが、今はそんな気分になれなかった。私は煎餅を片手に、黙って組頭の次の言葉を待った。
「まあ、あれくらいの歳の女子は、失恋の一つや二つしておいた方が良い経験になるでしょ」
ね、と組頭に同意を求められた高坂さんが深く頷く。そういうものなのか、と首を捻りながら隣を見れば、茶を淹れていた山本小頭も「いずれは良い思い出となるでしょうな」と、どこか感慨深く言った。
落ちた煎餅の欠片を拾い上げ、口の中に放り込む。ばりばりと音を立てて咀嚼しながら、私は胸の奥で同じ問いを繰り返した。
『そういうものなのか?』と。
色恋というものが一体全体どういうものなのか、私は詳しくは知らない。先輩方はよく、色恋とは身を焦がすものだとおっしゃるが、わざわざ好んで身を焦がすなど、馬鹿のすることではないかとすら思っている。
自分もそろそろ妻を迎える年頃ではある。だが、婚姻を結ぶこと自体に愛だの情だのは不要であるし、何より今は憧れの組頭と肩を並べて戦える忍びになるため、鍛錬に身を捧げるべきときだと考えている。
それに、タソガレドキ忍軍は組頭が嫁を取らないためか独り者が多い。組頭の隣で涼しい顔をしている高坂さんだって私より年上なのに未婚だ。
だからとにかく、私にとって色恋というものは不要なものなのだ。
「私には、分かりません」
湯気の立つ茶の中で揺れる自分の顔を見つめながら、ぽつりと呟く。
「何が?」
組頭にそう問われ、私は顔を上げた。
「なぜ失恋をすれば、それが良い経験となるのか……実らなければ、すべて無駄ではないですか。そもそも私は、色恋が何なのかも分かりません」
だから、の土井に対する想いも、土井のために費やした時間も。全部、何もかも意味などなかったのだ。なんとも哀れな話だ。
言い切った直後、ぷっと噴き出す声が聞こえた。視線を横に向けると、小頭が口元を手の甲で押さえ、肩を揺らして笑っている。
この中で唯一の妻帯者である小頭は、私の言葉に何か思うところがあるのかもしれない。だが、だからといって笑われていい気はしない。
む、と唇を尖らせれば、小頭は気を取り直すように咳払いをし、破顔したまま私の肩を叩いた。
「すまんすまん、若いなと思ってな」
「……だからって、笑うことないじゃないですかぁ」
「尊奈門」
文句を零す私の名を、組頭が呼んだ。正面を向くと、組頭は笑うことなくまっすぐこちらを見据えていて、その真剣な眼差しに思わず背筋が伸びた。
組頭なら、きっと色恋とやらについて胸に響く教えをくださるに違いない。
そう期待して待っていた私に、投げかけられた言葉は――。
「お前は、色恋というものがどんなものか、十分知っているはずだよ」
▽
――というわけで、忍術学園へのおつかいよろしくね。
「何が『というわけで』なのかは分からないが……雑用を押し付けられてしまった……」
組頭に渡された大きな包みを背負い、私は白い息を吐きながら歩いていた。
冬の風は容赦なく、頬や耳を刺すように冷たい。首元から忍び込む冷気に、思わず肩を竦める。
忍術学園の保健委員会に、と託された包みは大きさの割には軽く、中にはタソガレドキ領で採取した薬草がたっぷり詰め込まれている。以前、保健委員会委員長・善法寺伊作に恩を受けたことがあるという組頭は、やたらと忍術学園の子どもたちのことを気にかけていた。
確かに、私が下っ端であることは認めよう。しかし、だからといって、なぜこの寒空の下を私が雑用のために歩かねばならんのだ。
ぶつぶつ愚痴を零しながら、忍術学園までの道のりを歩く。
面倒だが、さっさと済ませてしまおう。潔く切り替えて歩調を上げた、そのときだった。前方を歩く見覚えのある後ろ姿が目に入り、自然と足が止まる。
「あれは……」
大きな荷物を両手に抱え、冷たい風に煽られながらよろよろと歩く小柄な女子。私服姿だが、すぐに誰だか分かった。
。
組頭たちと噂していた、まさにその人物だ。
胸の奥に、ひやりとしたものが落ちる。土井の縁組に、一番心を痛めているのは彼女のはず。もし、あからさまに落ち込んでいたら――私はどんな顔で、どんな言葉をかければいいのだ。
そんなことを考えながら、彼女に気付かれぬよう距離を取ったまま歩いていたが、次第にその歩みの遅さが気に障り始めた。冷たい風が吹く中、外に長く留まるのは得策ではない。
同じ方角に向かって歩いているということは、彼女も忍術学園へ向かっているのだろう。このまま彼女の速度に合わせていたら、日が傾く前に指先の感覚がなくなりそうだ。
ああもう、と苛立ちをそのまま吐き捨て、私は笠を被り直し、大股で彼女との距離を詰めた。
ぬ、と自分の影に覆われたが、ゆっくりと振り返る。
「おい、荷物を貸せ。このままじゃ夜に――」
そこまで言って、言葉が途切れた。
彼女の目の下にはうっすらと隈が浮かび、寒さのせいもあるだろうが、こちらを見上げる表情には生気というものがほとんど感じられない。
別人とまでは言わないが、これまで何度も目にしてきたあの朗らかな笑顔の面影はどこにも見当たらなかった。
思わず口元が引き攣る。もはや『落ち込んでいる』などという生易しい状態ではないぞ、これは。
彼女は少し遅れて、はっと目を見開いた。ようやく私が誰か気付いたようだ。
「諸泉さん、お久しぶりです」
「おま、お前……なんだ、その……大荷物は」
なんだその顔は、と、喉まで出かかった言葉を飲み込み、彼女が抱えている荷物を指さす。彼女は「ああ」と小声で言って、風呂敷に包まれた荷を持ち上げてみせた。
「こっちが学園長先生に頼まれた菓子で、こっちが食堂のおばちゃんに頼まれたお皿。そしてこっちは、包帯に使えそうな古布が売ってあったので伊作くんたちに――」
「そうじゃない、なぜ一人で運んでいる」
「あ、えと、本当は小松田くんと二人で行く予定だったんですけど……彼、別の用ができちゃって」
話を聞いて、思わずため息が漏れる。あの小松田のことだ、どうせ何かやらかして、その後始末に追われているのだろう。
視線を落とすと、彼女の両手が目に入った。乾燥した冬の空気のせいか、あかぎれやささくれが目立つ手。年頃の女子の手とは思えないほど、赤く荒れている。
私は何も言わず、その手から皿が入っているらしい包みを半ば強引に奪い取った。歩き出すと、背後から「えっ、あ」と戸惑う声が聞こえ、すぐに小走りの足音が追ってくる。隣に並んだ彼女を横目で確認し、私はほんの少しだけ歩調を緩めた。
それに気付いたのか、彼女はほっと息を吐き、私を見上げる。
「すみません、ありがとうございます。諸泉さんは、今日も学園に御用ですか?」
「……そうでなければ、私がわざわざこんなところを歩いているはずがないだろう」
「あ、それもそうですね。でも、土井先生は不在ですよ」
彼女の口から土井の名が出たことにぎくりとする。ちらりと盗み見れば、隣を歩く彼女は前を向いているのに、その視線はどこか遠くを彷徨っている。
「今日は土井に用があるわけじゃない。組頭に頼まれて、保健委員会に薬草を届けるだけだ」
「あ、じゃあ私が渡しておきましょうか。諸泉さんもお忙しいでしょうし」
「荷物を増やしてどうする……運べないだろ」
「あ」
そうですね、と彼女は笑った。それは、私が知っている明るい笑みではなかった。ふにゃりと力が抜けた、どこか困ったような。自ら土井の名を口にして、傷を抉ってしまったかのような、そんな笑顔。
ふいに胸の奥を突かれたような気がした。
やはり、色恋など馬鹿のすることだ。土井のような察しの悪い男に惚れるから、そんな顔をする羽目になるのだ――。
他人の色恋には、口を出さない方がいい。これも先輩方がよくおっしゃっていたことだ。
私はそれ以上何も言えず、学園への道を彼女の歩幅に合わせて歩き続けた。
▽
学園に到着すると、は「あとは誰かに運んでもらいますから」と言って、私の手から荷物を受け取った。ぺこぺこと何度も頭を下げる仕草は、必要以上に控えめでどこか胸に引っかかる。
「ありがとうございました」
そう礼を言う彼女を、私はじっと見つめた。
失恋を嘲笑うことも、そのやつれた顔はなんだと罵ることもできたはずだ。だが、どちらも喉の奥で引っかかり、言葉にはならなかった。
「馬鹿」
目をしぱしぱさせる彼女に、結局その一言だけを告げる。驚いた彼女は一瞬だけたじろぎ、すぐに恥ずかしそうに指で頬を搔いた。
「すみません……一人で運べると思ったんですが」
ふん、と鼻を鳴らし、珍しく姿を見せない小松田の代わりに彼女へサインした入門票を差し出した。
悔しいが、過去に何度も忍術学園で手当てを受けているため、案内がなくとも医務室への道は分かる。ふい、と彼女から顔を逸らし、私は歩き出した。
「寒いので、風邪引かないよう気をつけてくださいね」
背後からかけられた言葉に、ぎゅっと唇を結んだ。
馬鹿すぎて反吐が出る。人の心配などしている場合か。
ずんずんと廊下を進みながら、胸の内に渦巻く苛立ちを押さえ込もうとするが、頭の中は雑音だらけでうまくいかない。
そもそも、なぜ私はこんなにも気を使い、こんなにも腹を立てているのだ。
医務室の札が視界に入った瞬間、そのままの勢いで障子を開け放つ。すぱん! という乾いた音が廊下に響き、室内にいた人物――善法寺伊作と土井半助が、一斉に振り向いた。
驚いて目を丸くする土井を見て、不在ではなかったのか、と不意打ちを食らったような気分になる。だが、それも束の間、腹の底から猛烈な怒りが湧き上がった。
「土井半助ぇ……!」
「え、尊奈門くん? あれ、果たし合いの約束してたっけ?」
「今日はお前に用じゃない! 組頭の使いで、保健委員会に薬草を届けに来ただけだ!」
「あ、そうなんだ? なんかすごく怒っているように見えるんだが……」
「怒ってない!」
苦笑を浮かべる土井を睨みつけ、私はぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
なぜこいつはいつもヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラと! 能天気に笑っていられるのだ!
そんな私の怒気など気にも留めず、善法寺はこれまた土井と同じようにヘラヘラと笑い、手にしていた薬壺を土井に差し出した。
「先生、これ頼まれていた塗り薬です」
「ありがとう。彼女、楮の刈り取りでよく指を切るみたいで、助かったよ」
照れたように笑いながら薬壺を受け取る土井。
楮は、紙の原料になる木だ。土井の言葉と、組頭の言っていた『紙屋の娘』という言葉が頭の中で重なり合う。
他人の色恋には口を出さない方がいい。先輩方の言葉が、ぐるぐると脳内を駆け巡る。
そのとき、土井が何かを思い出したように「そうだ」と呟いて、善法寺へと顔を向けた。
「この薬、ついでにもう一つ用意できないか? さん、最近手荒れが酷いみたいで、薬があった方が喜ぶだろうから」
ぷつん、と、頭の中で何かが切れる音が聞こえた。視界がじわりと赤く染まり、気が付けば私は薬草の入った包みを土井の顔面めがけてぶん投げていた。
しかし、包みが飛んでくる気配を察知したのか、土井はそれを容易く片手で受け止め、そばにいた善法寺へ渡す。そして呆れたように、私の名を呼ぶ。
「尊奈門くん、今日は果たし合いしにきたわけじゃないんだよね?」
「……だと?」
「え?」
聞き取れなかったらしい土井がそう聞き返す。
いつの間にか俯いていた私は、ばっと顔を上げ、土井に詰め寄った。
困惑した瞳の中に、怒りに燃える自分の顔が映る。だから、どうして私はこんなにも腹を立てているのだ――。
「ついでだと?」
「え……」
「さすが、きり丸の雇い主の娘に手をつけるような恥知らずな男は言うことが違うなあ!」
「んなっ」
ぶわ、と一気に土井の顔が赤くなる。様子を窺っていた善法寺が呑気に「あれ、尊奈門さんご存知なんですね」と言ったが、そんなことはどうでもよかった。
私は茹で蛸のような土井の顔を指さし、捲し立てる。
「お前、その『ついで』の善意がにとってどれだけ残酷なことか分からないのか? なぜそれに普段からそばにいるお前が気付かないのだ! 鈍感も度が過ぎればただの阿呆だぞ!」
「尊奈門くん、一回落ち着いて……な、何の話?」
「だ、か、ら!」
すう、と大きく息を吸い込み、私は叫んだ。
「お前のことを好いているを、これ以上傷つけるような真似はやめろと言ってるんだ!」
ぜえ、ぜえ、と肩で息をする私の耳に、善法寺の「あっ」という声が届いた。すぐ目の前にいる土井の視線が、ゆっくりと私の背後へ移る。
嫌な予感に導かれるように振り返り、私の口からも「あ」という一音が零れ落ちた。
そこにいたのはだった。彼女は今日買ったと話していた古布を大事そうに抱え、今にも泣き出しそうな真っ赤な顔で、ぽつんとその場に立ち尽くしていたのだ。
▽
じゃぶじゃぶ、じゃぶじゃぶ。盥に溜めた井戸水で、着物の押し洗いを繰り返す。
そろそろ、水を温めないと厳しい季節になってきたな。かじかんで赤くなった指先を見つめ、ぼんやりとそんなことを思う。
組頭の使いで忍術学園へ行き、土井に向かって怒鳴り散らしたあの日からすでに二十日が経っていた。
あのあとのことは、正直、あまり覚えていない。
走り去って行ったを追いかけることはできなかった。私の身体が動くより先に、土井が彼女を追って行ってしまったからだ。
そもそも、私は土井と、二人の件についてはまったくの部外者なのだ。土井に対して怒る資格も、を馬鹿だと罵る資格もない、無関係の第三者。それが、私だ。
――なのに、なぜあんなことを。
「……ん、尊奈門」
「うわぁっ! く、組頭!?」
盥の前でしゃがみ込んでいた私の真横に、いつの間にか同じように身をかがめ、こちらを覗き込む組頭がいた。驚きのあまり、思わずひっくり返りそうになる。
気配にまったく気付かなかった。一体いつから呼ばれていたのだろう。
組頭の手には、三色団子が一本握られている。
「団子をたくさん買ってきたんだけど、食べない?」
「え、ああ……ありがとうございます。これが終わったらいただきます……」
「ふうん」
そう言うと、組頭は口布の隙間から団子を差し込み、もぐもぐと咀嚼し始めた。
団子。ふと、の顔が浮かんだ。確か彼女は、甘いものに目がなかったはずだ。先日、土井に彼女の想いを暴露してしまったことへの詫びとして、団子を持って行こうか。
一瞬浮かんだそんな考えを打ち消すように、私はぶんぶんと首を振った。だから、私は無関係の第三者ではないか。そんなことする必要も、義理もない。それに何より、自身が私の顔などもう見たくないに決まっている。
ちゃぷ、と盥の水が小さく音を立てる。水の中に手を突っ込んだまま動かない私に、組頭がじっと視線を向けていたことにはまったく気が付かなかった。
後日。
狼隊の訓練場へ行くと、待っていた組頭が開口一番こう言った。
「今日は忍術学園の学園長殿と茶の約束をしている。尊奈門、お前も来い」
いつもなら、組頭の行くところならどこでもお供します! と二つ返事で了承するところだが、罰が悪い私は視線を彷徨わせ、やがて俯いた。
「……その、高坂さんと行っていただくことは難しいですか?」
「陣左は今日、忍務に出ているよ」
「山本小頭は」
「陣内は私が不在の間、今日の訓練の指揮を執ってもらわないといけないからね」
「……私も、訓練に参加したいのですが」
「先日、忍術学園で何があったか、伊作くんから聞いているよ」
ぱっと顔を上げる。腕を組み、こちらを見下ろす組頭の姿に、私は言葉を失った。
きっと組頭は怒っておられるのだ。しょっちゅう土井に果たし合いを挑みに行っては負けて帰ってくる私が、ただのお使いに行ったはずなのに学園内で別の騒ぎまで起こしたのだから。
謝罪のために頭を下げようとしたそのとき、組頭は何も言わず踵を返し、すたすたと歩き出した。
どうやら、私に『行かない』という選択肢はないらしい。私は小さくため息をつき、離れていく大きな背中を追った。
あれからどうなっただろう、とか、はきっと私に怒っているだろうな、とか、前みたいに笑えるようになっただろうか、とか。空いた時間ができるたび、私はのことを考えてしまう。それが嫌で、最近の私はほとんど休みも取らず鍛錬に明け暮れていた。
山本小頭から聞いた話では、私が忍術学園を避けていたこの二十日の間に、土井は紙屋の娘と祝言を挙げたらしい。
あまり新婚の邪魔をするなよ、と釘を刺されたため、私はだけでなく土井とも顔を合わせていなかった。
珍しく、学園の正門を堂々と叩く組頭の後ろで、私は息を呑んだ。しばらくして戸が開き、小松田がひょっこりと顔を出す。
「雑渡昆奈門さんに諸泉尊奈門さん、今日はどうされましたかぁ?」
「学園長殿と、茶を飲みながら情報交換をする約束をしていてね」
「そうでしたか。じゃ、こちらの入門票にサインお願いしまぁす」
差し出された入門票に名を記し、学園内へと足を踏み入れる。園内を箒で掃くの姿がないことにほっと胸を撫で下ろした。が。
「伊作くん」
組頭がそう呼ぶ声が聞こえ、はっとして振り返る。
そこにいたのは、救急箱を抱えた善法寺伊作だった。こちらに気付き、にこりと微笑む。だが私は先日の一件を思い出し、小さな気まずさが込み上げた。
「雑渡さんに尊奈門さん、先日は貴重な薬草をありがとうございました」
「少しでも役に立てば嬉しいよ。冬は採取できる薬草も限られるだろうからね」
「そうですね。それにしても、今日は一段と冷えますね……さん、大丈夫かな」
斜め上を見上げて、独り言のように呟いた善法寺の言葉に、思わず肩がぴくりと跳ねた。
なぜ、ここでの名が出るのだ――?
胸の奥が嫌な予感を孕んでざわつく。私が口を開くより先に、組頭が「そういえば」と周囲を見渡した。
「殿は不在かな? いつもなら、この時間は外を掃除されているはずだが」
「さんなら、今日はお休みでご実家に帰られてますよ。なんでも縁談が来ているとかで」
「な、えっ……縁談!?」
思わず声が裏返った。しかし、そんな私をよそに組頭も善法寺もいたって落ち着いた様子だ。
「もう大分前に出立されたはずですが、天気が心配で」
「確か、殿の故郷は丹波の八上だったかな」
「ええ。歩きで半日くらいでしょうか」
二人の会話を聞きながら、じんわりと額に汗が滲んでいくのを感じる。
に縁談が来ること自体、冷静に考えれば何もおかしくはない。彼女は忍びではないし、あの年ならすでに子がいても不思議ではない。むしろ、独り身でいることの方が珍しいくらいだ。
だが、彼女はそれでいいのか? 土井が駄目なら、別の男でもいいのか? それでお前は、またあの笑顔を取り戻せるのか?
くるり、と組頭がこちらを振り返った。
「尊奈門、私は伊作くんと学園長殿のところへ行くから、お前は戻っていいよ」
「……ええっ!?」
来いとおっしゃったのは組頭なのに!?
あまりにも唐突な解放宣言に呆然とする私を見て、組頭は不思議そうに首を傾げた。
「訓練に参加したいと言っていただろう」
「は、はい……」
「他に行きたいところがあれば、話は別だが」
「いや……別に、そんなところなど……」
「じゃあね」
あっさりと、まるで最初から私など必要なかったかのように、組頭は善法寺とともに私に背を向けて歩き去っていく。二人の姿が見えなくなってからもしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて私は重い足取りで来た道を引き返した。
肩を落とし、とぼとぼと歩く私に気付いた小松田が素っ頓狂な声を上げる。
「あれぇ? 諸泉さん、もうお帰りですか?」
「ああ……」
差し出された出門票にサインをする。ついさっき入門票に名を記したばかりだと言うのに、とんぼ返りどころの話ではない。
出門票を受け取った小松田が、分厚い雲に覆われた空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「雪が降りそうな天気ですねぇ」
つられて、私も空を仰ぐ。確かに、この冷え込みなら雨ではなく雪になるだろう。
学園を後にし、タソガレドキの方角へと歩き出す。今から戻れば、訓練には十分間に合うはずだ。
ひゅう、と冷たい風が吹き、一つくしゃみが漏れた。その瞬間、ぴたりと足が止まる。
あの日。風邪には気をつけるように、と言った彼女は、どんな顔をしていただろう。
ふわり、と白く小さな雪片が鼻先に触れ、すぐに溶けて消えていく。
――馬鹿は、本当に彼女だけだろうか?
「少し、わざとらしかったでしょうか?」
塀の上に腰掛けた雑渡を見上げ、善法寺がそう尋ねる。尊奈門に聞かせた一連のやりとりは、すべて雑渡が仕組んだものだったのだ。
雑渡は、タソガレドキとは逆方向へ駆けていく尊奈門を背中を見送り、ふっと笑みを零した。
「この世には、わざとらしくしなければ気付かぬ馬鹿もいるのだよ」
▽
なぜ私は、こんなにも必死になって走っているのだろう。
頭の中は至極冷静なはずなのに、焦燥感に駆られていた。前へ前へと進む足は、速度を緩めることなく動き続けている。
仮にに追いついたとして、私は彼女に何を言えばいいのだろう。結局団子は買えていないが、先日はすまなかったと謝るべきか。それとも――。
やがて一本の橋が見えて来た。忍術学園から八上へ向かうには、あの橋を渡らなければならない。だから、きっと彼女もここを通ったはずだ。そう思ったそのとき、橋の中央で立ち止まり、身を乗り出すようにして崖下を覗き込む女子の姿が目に入った。
そしてその女子がであることに気付いた瞬間、私は頭に血が上るのを感じた。物凄い勢いで突進して行けば、向こうもこちらに気付き目を丸くする。
私は、彼女の腕を引っ掴んでその場に押し倒した。
「あいった! な、え!? も、諸泉さ……」
「こんのっ……馬鹿っ!!」
地面に組み敷いた彼女をそう怒鳴りつけると、は怯えたように「ひっ」と声を上げ、ぎゅっと目を閉じた。長距離を走ってきたせいか、心臓はばくばくと激しく鳴り、呼吸をするたびに額から汗がぽたりと滴り落ちる。
恐る恐る、が目を開ける。戸惑いと恐怖を含んだ瞳が、私を見上げていた。
「身投げなど、馬鹿なことを考えるな!」
「すっ、すみま……えっ」
「大体っ、大体お前、土井なんかのどこがいいのだ! あんないつも人を小馬鹿にしているような男より、断っ然うちの組頭の方がいい男だろう! 高坂さんだって厳しいところはあるがタソガレドキで一、二を争う美丈夫だ! それに、私だって――」
そこで言葉を切る。私は彼女の身投げを阻止できたことに安堵して、吐き出すように言った。
「私は、お前に無理して笑ってほしくないのだ……」
頭の中で渦巻いていた苛立ちと、ずっと心を重く覆っていた靄のような想いが、ようやく言語化できた気がする。私はそのまま項垂れるように、彼女の肩口に顔を埋めた。
はいつも土井を見ていた。そして私はいつも、そんな彼女の横顔を見ていた。私は、決して自分には向けられることのない眼差しを一身に受けておきながら、ヘラヘラ笑っている土井にとにかく腹を立て続けていた。
でも、が幸せなら。毎日、好いた男のそばで、あんな風に笑っていられるのなら、それでいい。そう思っていたのだ。
――そうか。私はずっと、のことを好いていたのだ。
そのとき、耳元で「もろいずみさん」と弱々しく裏返った声が聞こえ、私は「ん?」と顔を上げた。すぐそばに、顔を真っ赤にしてこちらをじっと見つめるの顔があった。
仰向けに倒れる彼女と、その上に馬乗りになっている私。視線が絡み合った瞬間、一気に顔中が熱くなる。
「さすがにちょっと、どいていただけると、助かるのですが……」
「……うわっ!!」
慌てて飛び退き、冬の冷たい橋の板に盛大に尻を打ちつける。
はゆっくり体を起こし、私を避けるように視線を彷徨わせたあと、深く息を吐くと静かに言った。
「身投げなど、しませんよ」
「……は、でもお前、さっき」
「下に当帰が生えているのが見えて……ほら、当帰の根の部分って薬効があるでしょう? だから伊作くんたちに教えてあげようと思って」
「ま、紛らわしいことをするな、馬鹿!」
「……馬鹿だから、笑うことしかできないんです。そうしないと泣いちゃいそうだから」
鼻声で呟く彼女の言葉に、私は視線を上げた。少し赤い目を伏せていた彼女が、ふっと表情を緩める。
「先日、諸泉さんが学園に来られた日。あのあと、土井先生とはきちんと話ができました」
「……そうか」
「辛いですけど……でも、ちゃんと、土井先生には幸せになってほしいって思ってます」
笑う彼女に、私は眉を顰めてふいと顔を逸らした。
だから、無理して笑うなと言っているのに。
そう小さな声で呟いてすぐ、くくく、と押し殺すような笑い声が聞こえ、視線を戻すと両手で口元を押さえ、肩を震わせながら笑いを堪えている彼女が見えた。しかし次第に我慢できなくなったのか、声を上げて笑い始めたので思わずぎょっとする。
「な、何がおかしい」
「だって、ふ、身投げって……も、諸泉さん、すごく必死な顔してるし……」
「んなっ」
一瞬かっとなったが、けらけらと笑う彼女を見るのは随分と久しぶりで、思わず力が抜けた。もういい、と思ったのだ。こいつが心から笑えるのなら、なんだって。
人通りがないとは言え、いつまでも橋のど真ん中に座ってはいられず、私は立ち上がり笑い続けている彼女に手を差し伸べた。荒れてはいるが、柔らかく白い手を握り、彼女の身体を起こす。寒さで冷えきった手を握り締めて離さない私を、彼女は不安げに見上げた。
「諸泉さん、お、怒ってます?」
「……お前に縁談の話が来ていると聞いたが」
「え?」
「受けるつもりなのか」
彼女は困惑した表情で私を見つめたあと、今度は「ん?」と首を傾げる。
「縁談の話が来ているのは姉ですよ」
「……はあ!?」
「とてもいいお話なので、恐らく受けると思いますけど」
お相手は公家や寺社などに茶葉や香料を納める豪商の御方だそうで――と、どこか嬉しそうに話す彼女を前に、私は学園での組頭と善法寺の会話を思い出していた。
あの二人、確かに『本人に縁談が来た』とは言っていない。
一人愕然とする私に、はさらに自分は今から学園に帰るところだと告げる。話を聞けば、脚を怪我した父親の様子を見に、昨日から実家に帰っていたらしい。つまり、善法寺の言っていた『出立されたはず』は、実家から学園へ戻ることを指していたのだ。
すべては私の勘違い――。
がくりと肩を落とす私に、がそわそわしながら「あの」と呟いた。
「なんだ」
「その、諸泉さんは……私のことを」
ぎく、とする私との視線が重なる。潤んだ瞳、ほんのり赤く染まった頬。思わずごくりと唾を飲み込んだ。こいつ、こんなに可愛かったか?
「……雑渡さんや高坂さんの嫁に、と考えていらっしゃるのですか?」
「……なぜ! そうなる!」
「えっ、いや、土井先生より雑渡さんや高坂さんの方がいい男だろうとおっしゃったので」
「お、お前のようなへなちょこが組頭や高坂さんに嫁ぐなど、言語道断だ! この……」
馬鹿、という言葉を飲み込み、私はため息を吐いた。
わざわざ好んで身を焦がすような思いをするなど、馬鹿のすることではないか。
そう思っていたが、私も所詮、馬鹿の一人だったというわけだ。
「帰るぞ」
一言だけそう告げ、握ったままの彼女の手を引いた。手を離さない私に彼女は戸惑っているようだったが、知ったことではない。
私は決めたのだ。この手を二度と離してやるものか、と。
▽
「阿呆だねえ」
橋の上での一悶着を終え、忍術学園の方角へ向かって歩いて行く二人の背を、雑渡は木の上から眺めながらそう呟いた。冬の冷たい風に枝葉が揺れ、かすかに雪が舞っている。
阿呆、と口では言いながらも、その横顔にはどこか楽しげな色が浮かんでおり、隣に控えていた押都は小さく、しかしはっきりとため息を零した。
「組頭は尊奈門を甘やかしすぎではないですか?」
「え、そう?」
「部下想いなのは結構ですが……たかが女子一人落とすために、わざわざここまで手を貸さずとも」
押都は視線を下ろし、彼女を引っ張るようにして歩く尊奈門の姿を見やった。
正確に言えば、まだ落とせていない上に、あの不器用さでは相当な時間を要するだろうが――。
その様子を見て取ったのか、雑渡はふっと喉を鳴らすように笑った。
「面白いじゃない、人の色恋って」
「まあ、それは否定しませんが」
「それに、『ここまで手を貸さずとも』と言うが……これは私の発案ではないだろう?」
口布の下で愉快そうに笑みを含ませ、雑渡はそう言った。
まったくこの人は――。
押都は、この船に乗ってしまった己の判断をほんの少しだけ悔いながら、冷たい空気を吸い込み、再び深くため息をついた。
〈おまけ〉
「組頭より『各隊小頭はタソガレドキ詰所へ急ぎ参集せよ』とのことです」
伝令として動かしていた五条の低い囁きに、押都は一言「そうか」とだけ応じた。
やはり、先に動くか――。
押都は遠くに佇む城塞を静かに見据えた。冬空の下、石壁は鈍く沈んだ色を帯びていた。
ドクタケに怪しい動きあり、との報告を受け、探りを入れ始めて早七日。兵糧や火薬、油を不自然な量で買い集め、馬の数も増えて馬屋まで拡張されている。夜間の見張りは厳格さを増し、合図や符丁までもが変わった。
戦を仕掛けようとしていることは明白。しかし、その刃が向く先をいまだ掴めずにいる。
だが、我らが殿はこのドクタケの動きを黙って見過ごすような御方ではない。ドクタケがもしタソガレドキを攻めようとしているのならば、攻められる前に攻める。また、タソガレドキではない別の城を狙っているのならば、その隙を突いてドクタケを攻める。
敵対する相手に対しては決して受けには回らぬ男。それが黄昏甚兵衛という男なのだ。
わざわざ各隊の小頭のみが招集されるということは、今後の動きについてすでに何かしらの決定が下されたに違いない――。
「でさあ、ずっとぼうっとしてるんだよ。私の団子の食べ方にも文句言わないし。おかしいと思って伊作くんに尋ねたら、殿がいることに気付かず土井殿に喋っちゃったらしいんだよ。殿が土井殿を好いていること。さすがにまずいと思わない? いくらあの優しい殿でも、怒ってると思うんだよね。だからまずは尊奈門を忍術学園に行かせて、一度ちゃんと話をさせた方が良いのではないか、と」
「はい」
「何? 押都」
「帰っていいですか?」
「だめ」
雑渡に一蹴され、押都は手を下げて遠慮という言葉を忘れたかのように盛大な舌打ちを飛ばした。
詰所へ戻って来たはいいが、部屋にいたのは雑渡と狼隊小頭・山本のみ。しかも議題はドクタケの動向に対する算段ではなく、諸泉尊奈門と忍術学園事務員・の仲を如何にして取り持つか、であった。
ずっと腕を組み、渋い顔をしている山本へと押都は顔を向ける。
「……そういえば、招集されたのは各隊小頭では。月輪と隼はまだですかな」
「どちらも押都殿より先に来たが、月輪隊小頭は訓練があると言って出て行ってしまった。隼隊小頭は……そういえば、厠に行くと言って戻って来ないな」
なるほど、と押都は一人納得する。恐らく隼隊小頭は、このまま戻っては来ぬだろう。
真剣に部下の恋路を案じる雑渡に、山本が深く息を吐き「組頭、いい加減にしてください」と苦言を呈する。
お、と内心期待し、押都は山本の次の言葉を待った。
「話をする機会を与えたところで、あの尊奈門が殿とまともに話せるとは思いません。ですから、ここは内々に忍術学園へ根回しをして、殿を尊奈門の嫁として迎える手筈を整える方が良いかと」
あ、だめだこの人。組頭寄りなうえ、言うことがえげつない。
「う~ん、まあそれが手っ取り早くはあるけどねえ」
「尊奈門は高坂と違い、そそっかしいところがありますから。早く所帯を持った方が落ち着くと思うのです」
「押都はどう思う?」
どうでもいい、という態度で話を聞いていた押都だったが、隊の垣根を越えれば尊奈門は押都にとっても可愛い部下である。
ふむ、と顎に手を当てて思案した末、押都は一つの策を思いつき、指を立てて口を開いた。
「無理矢理殿を嫁にあてがっても、尊奈門は喜ばぬでしょう。かと言って顔を合わせての会話も心許ない……であれば、尊奈門に嘘の情報を流し、うまく焚きつけるのがよろしいかと。彼奴は思ったことがよく顔に出るうえ、勢いで余計なことを喋る癖がありますからな」
確か殿の姉に縁談があったはず。それを利用してはどうか、と押都は続ける。忍術学園の関係者については、親族に至るまで細かく調べ上げていた。
話を聞いた雑渡が、にやりと笑う。
「よし、それでいこう」
「しかし嘘の情報など……尊奈門が知れば、腹を立てるのでは?」
「嘘などつかずとも、尊奈門一人騙すことなど朝飯前だよ」
山本に向かって自信満々に言い切り、さて、と立ち上がった雑渡に、押都は静かに安堵した。余計な時間を取られたが、これで忍務に戻れる。
そう思ったのも束の間、雑渡は「そうだ」と言って押都を振り返る。
「近々、殿が実家へ帰る日がないか、調べてくれる?」
「私が……ですか?」
「うん。だって押都の案だし。それが分かり次第、伊作くんへ協力を仰ぐから」
まさか、ドクタケの動向よりも部下が抱く思いの行く末を優先せなばならぬとは。
よろしくね、と念を押す雑渡に、押都が逆らえるはずもない。やれやれ、と心中でぼやきつつ、彼は重い腰を上げたのだった。
( 2026.01.11 / ままならぬもの )