あの夜から、早いもので1週間が経った。もうすっかり平気かと聞かれると、正直まだ怖い部分はある。家の中は幸いそこまで被害もなく、今のところ普通に生活できているが、畑はそういう訳にはいかなかった。暗闇で見えなかったが、広範囲を踏み荒らされていたため駄目になってしまった薬草も多く、商売に影響が出ることを覚悟しなければならなかった。
その旨をしのぶ様へ説明し、蝶屋敷をあとにしようとした時のことだ。ふわ、と風が吹いて、どうして窓もない場所で風が?と疑問が浮かんだと同時に、何かが私のお尻をするりと撫でたので全身に鳥肌が立った。
「な、なに!?」
「へえ、あんたが不死川のお気に入りか」
勢いよく振り返ると、そこには背丈が六尺はある体格のいい男性が立っており、私のお尻をするすると触り続けている。慌ててその手を叩き落とし、彼からお尻を隠すように向かい合った。身長差があるせいで随分と見上げる形になる。派手な額当て、左目に施されているのは赤い化粧、だろうか。謎の男性は私を上から下まで品定めするかのように眺めたかと思えば、にやりと笑って「安産型だな」と呟いた。その言葉に、かっと顔が熱くなる。それにしても『不死川のお気に入り』とは、あの噂のことを言っているのだろうか。
「な、何ですかいきなり…!」
「良いだろ、減るもんでもねぇし」
「そういう問題では…って、あなた誰ですか!」
「何だよ、この宇髄天元様のことを知らねぇのか?」
「宇髄…」
その名前にはっとして、もう一度目の前の失礼な男性を見上げた。宇髄天元。柱の方だ。名前だけは聞いたことがあったが、実際に会うのはこれが初めてだ。
なんて最悪な初対面なんだろう。いくら柱の方でも、いきなり女性のお尻を触るだなんて、如何なものかと思うが。ぐっと押し黙った私に、宇髄様は顎に手を当てたまま腰を曲げて顔を近付けてきた。
「ふーん」
「な、何ですか」
「ちと地味だが、俺の嫁にしてやろーか」
「…は!?」
「冗談だよ」
ははっと笑って宇髄様はくるりと踵を返した。「ま、不死川と末永~く仲良くやってな」という言葉を残し、ひらひらと手を振ったかと思ったら一瞬で煙のように消えてしまった。
呆気に取られ、そのままその場に立ち尽くす。あんな方が柱だなんて!と憤慨したが、深呼吸を繰り返すといくらか頭が冷えたように思えた。
それにしても、不死川様と私についての噂をどうにかしないといけない。
「早く不死川様にお会いしないと…」
「俺がどうしたァ?」
気配を感じないことには既に慣れつつあるが、やはり急に現れると驚いてしまう。私の背後に立ってこちらを見下ろす不死川様と目が合い、まず何を話すべきか、と頭の中でぐるぐる考える。先日のお礼ももちろん言うべきだし、そのせいで隊士の方々の間で変な噂話が飛び交っているようだから、それについて謝らねばならないし。不死川様が何も言わない私を見て、眉根を寄せる。
咄嗟に口から出てきたのは、今しがたあったこと。
「宇髄様が!」
「あ?宇髄?」
「わ、私のお尻を触られまして、安産型とのことでした…」
何を言ってるんだ、私。
「…あ?」
ほら、変なことを言うから不死川様も呆れているではないか。私は慌てて手を振り「すみません、忘れてください」と言って話を変えようとしたが、何やら不死川様の様子がおかしい。
「…を、」
「え?」
「尻を、触られただとォ…?」
まるでピキピキという音が聞こえてきそうなほど立派な青筋を浮かべた不死川様が「ちょっと殺してくるわァ」と不穏な台詞を吐いて立ち去ろうとしたので、腕を掴んで必死に引き止めた。が、私のひ弱な力では不死川様を止めることなどできるはずもなく、ずるずると引き摺られてしまう。
「そ、そんなことより大変なことが、不死川様!」
「あァ!?そんなことって何だ、そんなことって」
「せっ先日、不死川様が私を蝶屋敷まで背負って運んでくださったのを見ていた方がいらっしゃったようで、」
私の言葉にようやく不死川様が立ち止まる。少し落ち着いたのか、黙ってこちらを見下ろす不死川様と目が合い、なんだか恥ずかしくて目を逸らした。不死川様は、あの噂を耳にしたことがあるだろうか。腕を掴んでいる手をどう離せば良いか分からない。
「その…私が不死川様の…」
「んだよ、はっきり喋りやがれェ」
「好い人ではないか、と」
しばらく沈黙が流れ、耐えきれなくなった私はぱっと不死川様の腕を掴む手を離した。「申し訳ありません」と謝ると、不死川様は軽く舌打ちをして私の眉間を指で軽くつついた。びっくりして瞬きを繰り返す。
「そんなん、気にすんなよ」
「…気にしますよ、私のせいで不死川様にさらにご迷惑を」
「俺は気にしてねェし、迷惑でもねえ」
「え?」
思わず聞き返すと、今度は頬を軽くつねられた。
「次は簡単に尻なんか触らせんじゃねえぞ…」
「は、はひ…」
不死川様は私の返事に満足したのか、にやりと笑うと用事があると言って去っていった。再度、一人その場に立ち尽くす。恐らく初めて見たであろう不死川様の笑った顔が、頭に焼き付いて離れない。
「…あれ?」
顔が熱い。先程宇髄様にお尻を触られた時とは、なんだか違う。顔中から汗が吹き出してしまいそうで、私は落ち着くまでひたすらぱたぱたと手で顔に風を送り続けていた。
(屈曲花/イベリス)