いつもより風の強い夜だった。
入浴を済ませた後、ガタガタと窓が揺れる音を聞きながら薬棚の在庫を確認していた。夕方の空の様子では雨が降りそうになかったが、少し天気が崩れるのだろうか。明日も早いし、これが終わったら寝よう。そう思っていたら、一際大きな音を立てて窓が揺れたので体がびくりと跳ねた。
「…?」
作業の手を止めて揺れた窓から外を見るが、暗くて何も見えない。今のも風だろうか。それとも獣?裏にある薬草畑が気になった私は少し悩んで、羽織りを着て灯りを持ち外に出た。薬草栽培で鳥獣被害に遭うことは滅多にないが、心配しておいて損はないはずだ。
風でなびく髪を押さえながら畑の方へ向かった。家は街の外れにあるため、辺りがより暗く静かに感じる。
畑の前で屈んでみると、いくつか薬草が踏み荒らされていた。やはり獣だろうか。僅かに不安を感じた時、何かが動く音がして私は慌てて立ち上がった。灯りを高く掲げると、畑の中に一人背の高い男の人が立っているのが見え、獣だと思っていた私はぎょっとする。
「…あの、」
恐る恐る彼の背中に声を掛けるが返答はない。少し近付くと、彼の足元で薬草がいくつも踏まれて倒れているのが見え、先程よりも大きな声で話しかける。
「あの、ここは私有地で…す…」
すっ、と振り向いた彼の姿を見た瞬間、以前しのぶ様と交わした会話が頭に浮かんだ。鬼を見たことのない私が、鬼とはどのようなものなのか、聞いた時の話。
「姿形は、人間と変わりない者もいれば、すっかり変貌してしまった者もいます。同様に、理性的な者もいれば、人を食いたいという本能を剥き出しにして襲ってくる者もいる…大半は後者ですが」
「…恐ろしいですね」
ぽつりとそう呟いた私に、しのぶ様は頷いた。
「もちろん、鬼と出会わずに過ごせれば一番良いのですが…こればかりは、運でしょうか」
「出会ってしまったら、どうすればいいのでしょう」
「出会ってしまったら…とにかく逃げてください。自分の命を守ることだけを考えて」
唸り声を発する口元から涎が滴り落ちた瞬間、勢いよく飛びかかってきた彼に向かって、私は持っていた灯りを投げ付けた。ギャッという短い悲鳴とともに、一瞬で辺りが暗くなる。はあ、はあ、という荒い呼吸が自分のものなのか、それとも彼の…鬼のものなのか、分からない。
鋭い耳鳴りがして目眩がする。私はがくがく震える体に鞭打って走り出した。足元が暗く何度も転びそうになりながら、家から漏れる僅かな灯りと感覚を頼りに家の中に逃げ込み、震える手で鍵を閉める。
「は、はあっ、」
閉めた戸から目を離さずに後退りする。どうしよう、とうしよう、どうしよう…!混乱する頭で次にとるべき行動を必死に考えるが、とりあえず隠れなくては、何か身を守るための武器になるものを探さなくては、灯りを消さなくては、等いろんな考えが交錯してさらに混乱する。部屋を移動しようとした時、窓が割れ私は悲鳴をあげてその場にしゃがみ込んだ。
窓を割って入ってきたのは、先程の鬼。血走った赤い目が逃げる私を捉え、またもや襲いかかってくる。掴まれた羽織りが破れ、ひっくり返りそうになるが、何とか足元にあった薬研を鬼の顔目掛けて投げつけた。そのまま四つん這いになって隣の部屋に逃げ込む。
「誰か、誰か!!」
誰も来るわけがないと分かっていても、必死に震える声で助けを求める。床の間にあった刀が目に入り、それを手にした瞬間、ぐるんと視界が反転した。仰向けになった私に馬乗りになった鬼が私の首をギリギリと締め付ける。猛獣のような牙、息遣いがすぐ目の前にあって、どんどん血の気が引いていく。頭の中で警笛が鳴るが、助けを呼ぶ声も出ない。右手に持った刀で抵抗する力もない。
もう、死ぬ。
気を失いそうになった、その時だった。
「!!」
名前を呼ばれた瞬間、強い風が吹いて急に呼吸が楽になった。勢いよく咳込み目を開けると、私を抱きながら刀を構える傷のある横顔が目に入る。少し視線をずらすと、先程私が倒されていた場所に鬼が倒れていて、ハラハラと紙吹雪のように散っていくのが見えた。
「…不死川様、」
最近なぜかよく会う彼が私を強く抱いていて、バッとこちらを振り向いた。あまりに勢いよく振り向かれたので、一瞬また息が止まりそうになる。
「大丈夫かァ!」
「だ、大丈夫です、が、ちょっと…苦しくて」
静まり返った部屋の畳に下ろされ、座り込んで深呼吸を繰り返すと少し気分が楽になった。と言っても心臓の鼓動は早いままで、押さえつけられた首は切れて血が出ている。小刻みに震える手で傷口を押さえながら、不死川様を見上げた。
「た、助けていただいて、ありがとうございます…」
そう言って笑おうとしたが、顔が強ばって思うようにいかない。そんな私を見て、不死川様は苛ついたように自身の白い羽織りを脱いで私に投げた。着てろと言われ、自分の羽織りがぼろぼろになっていることに気付く。どかっと目の前に胡座をかいて座った不死川様が私を睨みつけたので、びくっとして少し後ろに仰け反った。
「無理矢理笑うんじゃねェ」
そう言ってふいっと顔を背けてしまった不死川様を見て、驚くと同時に大粒の涙が零れ始めた。命の危機に瀕した時さえ涙なんて出なかったのに、なぜだろう。
黙って座る不死川様の前で、私は声をあげて泣いた。一番苦手な方の存在に、酷く安心して。
(乙女桜/プリムラ・マラコイデス)