いつの間にかすっかり懐いて我が家に住み着いた迷い犬に、私は実(みのる)と名を付けた。


−どうか、あなたが−


「実、ご飯だよ」


少し大きな声でそう呼びかければ、いつも元気に庭を駆けてくる実の姿が見当たらない。不思議に思い、実のご飯を持ったまま庭に出る。もう一度名前を呼んでみても姿を現さない。玄関の方へ回ってみると、そこにはご機嫌そうに尻尾を振ってお座りしている実と、しばらく見なかった人の姿があった。


「不死川様!」
「よォ」


お久しぶりですと挨拶すると同時に、私が持っているものに気付いた実が勢いよく飛びかかってくる。まあまあ大きい体の実を抑えるのはなかなか大変で、それでも何とかご飯を地面に置くと実は尻尾を振ったまま食べ始めた。彼の茶色い毛並みを撫でていると、上から「名前、みのるにしたのかァ」という声が振ってきて、私は顔を上げる。


「はい、不死川様から一文字いただきました」
「…あァ?」
「実弥の『実』で、みのるです」


空中で指を動かし『実』と書くと、不死川様は分かりやすく顔を顰めた。


「…もっとマシな名前があるだろォ」
「命の恩人の名前からいただいたんですから、これ以上マシな名前はありません」


ご飯を食べ終えた実が、再び不死川様の方へ近付いていく。不死川様は呆れたようにため息をついていたが、それでもどこか嬉しそうに実の頭を優しくぽんぽんと叩いた。

ひと月ほど前、夜ひとりで歩いていたところを鬼に襲われ、たまたま近くを通りかかった不死川様に助けていただいた。鬼のこと、そして鬼狩り様のことは、私が小さい頃に亡くなった祖母から話を聞いたことがあったが、ずっとおとぎ話だと思っていた。

そして鬼を倒した不死川様は、ぺたりと地べたに座り込んで震える私に向かって「こんな夜に女が一人で出歩くんじゃねェ…」と地を這うような声で唸るように言ったのだった。

これは本人には内緒だが、その時の不死川様は鬼と同じくらい恐ろしかったことをよく覚えている。

次に不死川様とお会いした時、彼は実と一緒にいた。『あの時の鬼狩り様だ』と咄嗟に隠れたのだが、実を撫でる姿に助けていただいた時の恐ろしさは感じられず、私はそばへ近寄り「犬がお好きなんですか?」と尋ねた。


「…あァ、好きだ」


その時の不死川様は鬼狩りの顔ではなく年相応の表情を浮かべていて、それが私に対しての言葉ではないと分かっていても思わずどきりとしてしまった。そこでようやく、私は彼に感謝の言葉を伝えることができたのだ。

そしてあれから、実が我が家に住み着くようになり、不死川様もたまにだが姿を現すようになった。私ではなく実に会いに来ていると分かっていても、嬉しかった。


「不死川様、その大根は?」


不死川様が片手に持った袋には、立派な大根が三本も入っていた。それを不死川様は私に差し出す。軽々と持っているように見えたが、受け取ってみるとなかなかの重量だ。


「貰ったが食わねェから、やる」


詳しい話を聞くと、先日私のように鬼から救った老夫婦からお礼にと貰ったものらしい。私は腕の中に抱いた大根と不死川様を交互に見て首を傾げた。


「大根、お嫌いなんですか?」
「料理する暇がないだけだァ」
「…じゃあ、私が料理したら食べに来てくださいますか?」


不死川様は少し驚いた顔をして私に視線を向けた。その表情にハッとした私は、慌てて言葉をつなぐ。


「私、大根大好きなんです!ぶり大根とか鮭大根とか、煮物にするとおいしいですよね、あとは定番ですけどふろふき大根とか…こんなにたくさんの大根、一人で食べ切るのも勿体ないので」
「…じゃ、また来るわァ」


不死川様は、狼狽している私ではなく足元に座る実に視線を落としたまま、そう呟いた。

そのまま家に上がられずに帰る不死川様の背中を、私と実で見送る。姿が見えなくなり、私は実の隣にしゃがみこんだ。実は舌を出して、にこにこと笑っているようだ。


「いいねお前は、不死川様に好かれてて」


また来るって、私に言ってくれる日は来るのだろうか。そんなことを思いながら、私は実の頭を静かに撫でた。

ぶり大根も鮭大根もふろふき大根も、話に出した料理はすべて作り残った分は漬物や甘酢漬けにした。しかし、その日を境に不死川様はぴたりと来なくなった。実が何かに気付いて走って行っては、私も慌てて実を追いかける日々がしばらく続いた。

祖母から鬼狩り様の話を聞くとき、いつも「鬼狩り様は命を懸けて鬼と戦ってくれているから、感謝しなきゃいけないねえ」と言っていた。その時は適当に流して聞いていたのだが、実際に不死川様と知り合って、彼が命を懸けて日々戦っているのだと考えるととても恐ろしくなった。

不死川様が、自分の命を大切にできるようになれば良いのに。そう思っている間に冬が終わり、春が訪れた。

庭に咲いた桜の木の枝を仏壇に飾ろうと鋏を入れる。見頃を少し過ぎた桜は、しばらくしたら全て散ってしまうだろう。すると隣で大人しく座っていた実が何かに気が付いたように玄関の方へと駆けて行った。客だろうか。少しだけ期待を抱きながらも、どうせ違う、と小さく呟いて彼の後を追う。


「実?」


一瞬、誰だか分からなかった。そこにいたのは実と、そして今までとは違い着物姿で立つ不死川様だった。実は嬉しそうに不死川様に飛びかかっていて、私は夢でも見ているのではないかと不思議な気持ちに襲われる。その場に呆然と立ち尽くす私を、不死川様の瞳が捉えた。


「よォ」
「ご、ご無沙汰して…」


ちらりと見えた胸元や手に包帯が巻いてあることに気付き、言葉に詰まる。怪我をされたのだろうか。


「終わったぜェ、全部な」


終わった。そう言って微かに笑う不死川様を、私は瞬きを繰り返し見つめる。そして気が付けば持っていた桜の枝も鋏も地面に落とし、不死川様の元に駆け寄って彼の着物の衿を掴んでいた。私の突然の行動に、不死川様は困惑の表情を浮かべ、実は私たちの足元をくるくると回り続けている。


「終わりということは、もう鬼を狩ることはないということですか?」
「あァ」
「じゃあ、じゃあ不死川様は、もう命を懸けなくて良いのですか?」
「そうだなァ」
「よ、良かった…」


ほっとして膝から力が抜けそうになる。不死川様が生きていてくれたこと。そして、これから彼が自分の命を大事にすることができるということ。それがどうしようもなく嬉しい。私はそのまま不死川様の胸元に顔を埋めた。良かった。本当に良かった。


「…大根、食えなくて悪かったなァ」
「これから何度でも作ります、不死川様がもう大根なんて見たくないって言うくらいたくさん作ります」
「はっ、じゃあ食い切るまで何度でも来ねェとなァ」
「何度でも来てくれるんですか?」
「何度でもだ」


確かめるように、顔を上げて不死川様の表情を窺う。鋭くておっかなかった瞳はとても穏やかに、期待に満ちた私の顔を映している。

足元で自分も撫でてほしいと言わんばかりに吠える実を見て、私たちは二人で笑ったのだった。


(2022.3.25)