うっすらと前世の記憶がある。そう言ったら、『そんなばかみたいな話』と笑われるだろうか。

黒板に次々と数字や記号が並んでいく。よくチョークであんなにスラスラと字が書けるものだ。腕まくりしたシャツから伸びる逞しい腕からは想像出来ないほどの美しい字に、私は一人で感心した。


「ここちゃんと理解しとかねェと、次のテストで死ぬからなァ」


振り返って教室内をぐるりと見渡す不死川先生の言葉に、生徒達の間で緊張が走るのを感じる。「死ぬ」というのは、テストの点が悪く自滅するという意味なのか、はたまた不死川先生に殺されるという意味なのか。

ぱちりと不死川先生と視線がぶつかった。目を逸らし、黒板に並ぶ公式をノートに書き写す。しばらくしてそっと目線だけ上げると、先生は教科書に目を落としていて、こちらを見ていないことに少しだけほっとした。

不死川先生は、生徒達から恐れられている。それでも私は、先生のことを怖いと思えない。

それは恐らく、前世の記憶が関係している、と思う。そう呼ぶにはおこがましいほど曖昧なものだが、私の頭の中には、私が今の人生で経験したことの無い記憶があった。たくさんの人と一緒に刀を振っていた気がするし、不死川先生に似た人と親しくしていた気がする。全て「気がする」で纏められてしまう程度の、朧気な記憶。ひょっとしたら、いつか見た夢を勝手に前世の記憶と勘違いしているのかもしれない。しかし、それらは『夢』という一言で片付けることが出来ないほど、頭の中に残り続けていた。


、ばいばーい」
「ばいばい、また明日」


夕方、一人で教室に残った私は数学の問題集を開く。家だといろんな誘惑に負けてしまうので、特に予定が無いときはこうして学校で勉強して帰ることが多かった。それでも、成績はあまり良くない。


「…?」


少しだけ集中し始めたとき、私を呼ぶ声が聞こえてふと顔を上げる。教室の入口で、不死川先生が驚いたようにこちらを見つめて立っていた。一瞬だけどきりとし、私はシャーペンを持っていた手を軽く掲げる。


「ちょうど良かった、不死川先生、ここの答え教えてください」
「解き方ならまだしも、答えを教えろと言われて教える数学教師なんざそうそういねェよ」


不死川先生は呆れたようにため息をつくと、数学の教科書で肩を叩きながら私の席へ近付いてきた。机に置いた問題集の真横に先生の手が置かれ、「どこが分かんねえんだァ?」と声が落ちてくる。先生の指先は、チョークの粉で少しだけ白い。


「おい?」
「あ、ここ!ここです」


先生の手を盗み見ていたことがばれないよう、慌てて問題集のページをシャーペンでつつく。それを見た不死川先生は「お〜ま〜え〜」と地を這うような低い声を出した後、「今日授業でやったやつじゃねえかァ」と呟き、私の前席の椅子を引いて座った。向かい合い、お互いが問題を解くために前屈みになっているせいで、額がぶつかりそうなほど距離が近い。しかし、この距離を意識しているのはきっと私だけなんだろう。そっと、シャーペンを持つ手に力を込めた。


「いいかァ、コツがあんだよ、こういうのは」


不死川先生の指が問題をなぞる。今の言葉、どこかで聞いたことがあるような気がする。ふと、曖昧に残る記憶が頭の中に浮かんだが、それを奥底に押し戻し、不死川先生の教えに耳を傾けた。集中しないと。


「──こうすると、さらに因数分解出来るだろうがァ」
「あ、なるほど…つまり、こう?」
「正解」
「やった!ありがとうございます、不死川様!」


その瞬間、不死川先生が目を見開いたと同時に、外から聞こえていた野球部の掛け声や、吹奏楽部の演奏練習の音がぴたりと止んだ。私は恐る恐る自分の唇に触れる。不死川『様』って、なんだ。

しばらく沈黙が流れたが、気まずく感じた私は慌てて机の上の片付けを始めた。シャーペンや消しゴムを筆箱の中にしまい、少々乱雑に問題集やノートを重ねる。


「す、すみません、変な呼び方しちゃって」

「あの、教えていただいてありがとうございました、先生」
「…あァ」


先生は何か言いたげな顔をしていたが、そのまま立ち上がり椅子を戻した。

少し落ち着こうと、小さく深呼吸しながら机の上のものを鞄にしまう。その際、鞄の内ポケットに入れていた飴やチョコレートの存在に気付き、私は迷ってチョコレートを一つ取り出した。疲れた時に簡単に食べられるよう、いつも持ち歩いているお菓子だ。

私はチョコレートをのせた手のひらを、不死川先生の目の前に差し出した。


「これ良ければ…お礼です。ほら、来週はバレンタインですし、おはぎ味のチョコレートです」
「…何だこれ、こんなんあんのかァ」
「おもちっぽくて、本当におはぎ食べてる感じがして意外と美味しいんですよ。不死川先生、おはぎ好きですよね?だって──」


よく一緒に食べましたもんね。そんな言葉が口から飛び出しそうになり、私は再び固まった。不死川先生とおはぎなんて、食べたこと、あった?

黙って立ち尽くしている私に、不死川先生が手を伸ばす。てっきりチョコレートを受け取るのだろうと思ったが、不死川先生の手はチョコレートと一緒に私の手を包み込むようにして握った。いつも授業中に盗み見ていた無骨な手の感触に、思わず指がぴくりと動く。


「…


不死川先生と目が合って、名前を呼ばれた。下の名前で呼ばれるのは初めてのはずなのに、どこか懐かしい気がするのはどうしてだろう。じわじわと身体が熱を帯びていくのを感じ、私と不死川先生の熱でチョコレートが溶けてしまうのではないかと、見当違いな心配をした。

心臓の音は相変わらずうるさいままで、不死川先生に聞こえているかもしれない。そう思ったとき、教室のドアががらりと開いて、重なった二つの手がびくりと跳ねた。


「不死川、ここにいたのか!もうすぐ職員会議、が…」


そこに立っていたのは煉獄先生で、私と不死川先生の様子を見ていつもの笑みを顔に貼り付けたまま硬直してしまった。あ、と私が声を漏らすと、不死川先生は手の力を緩める。そして私の手からチョコレートを取り、そのままポケットに入れて軽く咳払いした。


「じゃあ貰っとくわァ、暗くなる前にさっさと帰れよ」
「はい…あ、煉獄先生も!」


私は鞄を肩にかけ煉獄先生の前まで行き、不死川先生に渡したチョコレートと同じものを差し出した。煉獄先生は少し戸惑った表情を浮かべていたが、「もうすぐバレンタインなので」と告げると、安心したように微笑んだ。


「なるほど、チョコレートを渡していたのか!」


煉獄先生はいつもの溌剌とした声で、ありがとうと丁寧にお礼を述べた。煉獄先生が生徒達から人気があるの、分かる気がする。

煉獄先生の背中を見送りながら、不死川先生に挨拶するために振り返ろうとしたとき、後ろからぽん、と頭を叩かれた。いや、撫でられた、と言った方が良い。見上げると、不死川先生が私の頭の上に手を置いて、こちらを見下ろしていた。


「せ、先生?」
、お前授業中ぼんやりしてんじゃねェぞ」
「すみません…」


不死川先生の指摘に一瞬焦ったが、先程下の名前で呼ばれたのは気のせいだったのかな、と考える。


「──お前は昔からやれば出来るヤツなんだからなァ」


ぱちぱちと瞬きを繰り返す私を、不死川先生は見下ろしたままだ。いつも、こんなに優しい目付きで私のことを見ていただろうか。


「昔から?」


不死川先生の言葉を反芻し、先程握られた手のひらにもう片方の手でそっと触れる。不死川先生は何も答えない。私の様子を伺うような、何かを促すような、そんな表情を浮かべている。

もうすぐ職員会議があるらしい先生を、ここで引き止めるわけにはいかない。それでも。


「先生」


私は口を開いた。『そんなばかみたいな話』と笑われるだろうか。



(2022.02.11)