悪い子のパレード
仕事柄、直感というものを大事にしていた。あの場所は調べておいた方がいいかもしれない、と感じた場所は調べると必ず何かがいたし、コイツ怪しいな、と思った彼氏は、大体よその女と浮気していた。
何かがおかしい。そんな自分の直感を信じることは、呪術師である私の信条とも、一つの癖とも言えた。
そして、四週間ぶりの休暇を満喫し、今日からまた死なない程度に頑張るぞ〜と張り切って出勤した私が真っ先に思ったことはそれだった。
何かが、おかしい。
「さんと一緒に仕事できたことは私の誇りです」
高専に着いて一番に会った若い補助監督の女の子は、私を見るなり悲しそうに、でもどこかスッキリした顔でそう言った。
「まさかお前がなあ。ま、元気でやれよ」
次に会った同期の術師は、哀れなものを見るかのような目を向けてそう言うと、私の肩を軽く叩いて去って行った。
廊下に残された私は、一人首を傾げた。
何なんだ、一体。私の知らないところで私の余命でも宣告されたのだろうか。いやそれだと同期の「元気でやれよ」という言葉は辻褄が合わないし、何より私は心も身体もすこぶる元気だ。
みんなして(と言っても二人だけだが)私が昨日美容院で十センチ以上短くしてきた髪には一切触れず、そうまるで、別れの挨拶みたいな。
「こんなとこで突っ立って何してんのよ」
正面から声がして顔を上げる。そこには、歌姫さんが不思議そうな顔をして立っていた。
しかしそれは一瞬のことで、すぐいつもの表情に戻った彼女が深くため息を落とす。それに気づいた私は、慌てて口を開いた。今までと一緒に仕事ができて楽しかったわ、的な言葉が、彼女からも出てくる気配を感じたのだ。
「見てくださいよ、髪。思い切って短くしたんですよ。ここまで切るつもりはなかったんですけど、意外と似合ってません?」
「ああ……髪ね、それがなりの覚悟ってことね」
「いや別にそんな、髪切ることに何の思いもかけてないですけど」
「とりあえず行くわよ、呼ばれてんでしょ」
「誰に?」
来た道を戻ろうとした歌姫さんがピタリと立ち止まり、振り返る。その顔は、廊下のど真ん中で突っ立っている私を見つけたときより驚いているように見えた。
恐る恐る、私は尋ねた。
「やっぱり、何かありました?」
「……連絡、来てないの?」
「休み中は来てないですね。てかやだ怖いんですけど……あ、もしかして最近、烏丸駅付近で発生しているっていう例の厄介な呪霊の件ですか?」
「あの件はもう解決したわよ」
「え? いつの間に?」
「東京校に異動になったのよ」
「え? 歌姫さんが?」
「アンタよ」
え!? と、驚いた私の声が反響する。無駄に長い廊下の奥にまで届いたであろうその叫びは、余韻を残し、やがて消えた。
いやいやいや、と頭を抱える私に、歌姫さんは困ったように腕を組み、再びため息を吐いた。
異動。なるほど。さっき会った二人はそのことを知っていたからあんなことを。と、すぐさま合点がいったものの、だからと言って納得なんてできるはずがない。私は歌姫さんに詰め寄った。
「異動なんて前例がないですよね? たまのたまの、たま〜にヘルプで東京行ったりしますけど。今回もそれですか?」
「そうじゃなくてガッツリ異動。来週からは東京校の術師になるってこと」
「そんなビッグニュースをサラッといきなり言われても〜……しかも今のマンションの更新、先月終わったばっかなんですけど〜……それに東京には……」
「とにかく学長のとこ行くわよ」
私の話を最後まで聞かずに歩き出してしまった歌姫さんの後に仕方なく続く。
どうやら私を呼んでいるのは楽巌寺学長らしい。異動の話ならまあそうなるだろうが、それすら今初めて知った。ウチの連絡系統、どうなってんの。
一歩一歩進むにつれて、驚きや衝撃がじわりじわりと怒りや焦りに変わっていく。
冷静に考えてみても普通じゃない。異動って。しかも来週って。そもそもなぜ、どういう事情で私に白羽の矢が立ったのだろう。たしかに私は末っ子で独身だから、継がなきゃいけない家も守らなきゃいけない家族もいない、自由な人間ではあるが。
それとなく理由を歌姫さんに尋ねれば、彼女は顔を歪めて一言、「特権乱用よ」と言うだけだった。
▼
のぞみに揺られて東京駅へやって来た私を出迎えたのは、東京校の補助監督・伊地知くんだった。
スーツ姿で背筋を伸ばし、わざわざ改札口で待っていてくれた彼は、三連休の中日で賑わう人の流れの中から私を見つけるなり、深々と頭を下げた。
「この度は、ご……お疲れさまです」
「今、ご愁傷さまですって言おうとしたよね」
私のツッコミに伊地知くんの肩がびく、と跳ねる。
彼とはこうして直接顔を合わせたことはほとんどないものの、京都校・東京校のハブ的な役割を担うことも多い伊地知くんの名前はよく聞くし、何気に接点は多い。たしか、歳もそんなに離れていなかったはずだ。
しかし、まさか任務でもない私の足に、わざわざ有能な伊地知くんを寄越すとは思ってもみなかった。一人でタクシー使って寄り道しながら高専まで行って、あとから交通費を請求してやろうと思っていたのに。
一応、私の異動理由は『東京校の人手不足』と聞いている。しかし、やはりそれは本当の理由ではないらしい。
「ひょっとして、私が逃げないように迎えに行けって言われたのかな。五条悟に」
場を和ませようとして半分冗談で言った一言に、伊地知くんはポケットから取り出したハンカチでだらだらと流れる汗を拭ったあと、消え入りそうな声で「すみません……」と呟いた。
私はひたすら謝罪の言葉を述べる伊地知くんを眺めながら、白髪の幼なじみを思い浮かべ、憂鬱な気分に襲われ始めていた。
五条悟と私は同い年、かつ一応幼なじみという関係である。いや、正確には『元』幼なじみだ。お互い東京と京都の高専に入学して以降、交流はなく、大人になった今も歌姫さんのように気さくに話せる関係性ではない。五条家ほどではないが我が家もそれなりに名の通った家柄だったので、小さい頃から顔を合わせる機会が多かっただけだ。
両親からは、とにかく『五条家および五条悟の機嫌を損ねるな』と口酸っぱく言われていたので、私は仕方なく彼の遊び相手になっていた。だから、なかなか終わらない地獄の鬼ごっこ(制限時間内に五条悟を捕まえられなかったり、逆に捕まってしまえば罰として五条悟本気のデコピンをくらう)だったり、彼が何か面倒事をサボるときの理由に私の名を勝手に使われたり、夏の暑い日に持って行った水筒の中身を全部捨てられて生きた蝉を詰められても、文句一つ言わずに付き合っていた。
つまり五条悟は、きれいな顔をしていながら、やることがえげつない男なのだ。それに対し、誰一人咎めたり、止めることができる大人がいなかった。その結果が『これ』だ。
「少し休憩入れましょうか」
バックミラー越しにこちらを一瞥した伊地知くんにそう尋ねられ、私は大丈夫と首を横に振った。思っていたほど渋滞もないし、この様子なら東京高専に着くのはそんなに遅くならないだろう。
ぼんやりと窓の外の景色を眺めていたら、ふと高専入学前に行われた五条悟の元服のことが頭をよぎった。気だるそうに歩く、五条悟の人形のような横顔。どこを見ているのか分からない眼差し。そんな彼を、離れた場所からぼんやりと見つめる私。
五条悟が、どういう理由で高専、しかもわざわざ東京の方へ入学する選択をしたのか、私には分からない。もうその頃には、私にとって五条悟は雲の上の存在で、二人きりで鬼ごっこをすることも、水筒に蝉を詰められることもなくなっていたのだから。
▼
ぱん!
急に破裂音が鳴り、隣にいた伊地知くんが「ヒッ」と小さく悲鳴を上げる。
山道を登り、久しぶりに訪れた東京高専内の一室に案内された私は、ただ瞬きを繰り返しながら、目の前を舞う色とりどりの紙吹雪を見つめた。そのうち長い紙テープが何枚か私の頭に乗り、伊地知くんが狼狽えながら私とクラッカーを手に満面の笑みを浮かべている五条悟を交互に見やる。
「東京高専へようこそ~!」
他人にどう思われているかなど、この男はきっと気にしないだろう。陽気に盛り上げようとしている五条悟は、明らかに一人だけこの空間で浮いていた。
以前、京都で一瞬だけ見かけたときの彼は上下黒の任務服を着て、しかも目には黒のアイマスクという異様な格好をしていた。しかし今日は休日なのか、Tシャツ姿にジーンズ、黒いサングラスという何ともラフな格好をしている。
私は無言で髪に引っかかっている紙吹雪を指でつまんで、そのまま床に落とした。
「え〜……このたび、京都高専から異動してきましたです……」
「なに、その固いあいさつ」
使い終わったクラッカーをぽいと投げた五条悟は、部屋の奥にあったソファにぼすん、と勢いよく座った。
固いあいさつも何も、こうして彼と言葉を交わすのは子どものとき以来なのだ。しかも本来、私程度の術師が気軽に話していい相手でもない。そもそも異動してきて一番にあいさつする相手は、普通学長だろう。
微妙な空気を察してか、伊地知くんは「お茶でも持ってきますね!」と言って逃げてしまった。逃げるべきときは逃げる。今日からこれも私の信条にしよう。
「明日から頑張りますのでよろしくお願いします〜では〜」
「座りなよ」
逃げられなかった。
顎でくい、と自身の目の前を示す五条悟に、私はなんだよも〜と思いながらドアノブに触れた手を下ろし、大人しく彼の目の前にあるソファに座った。京都校は和室が多いので、なんだか高専でソファに座るというのは新鮮である。
「で、率直に今どんな気持ち?」
五条悟は膝の上に両肘を乗せ、さらに両手で顎を支えながらそう尋ねた。
彼がどういう答えを求めているのか分からない。私は少し考えて答えた。
「なんで急に異動? って感じですね……」
「そうなるよね〜、まあ僕がを異動させたんだけどね〜。てかなんで敬語?」
笑いながらそう話す五条悟に、私は大して驚かなかった。
歌姫さんの口から『特権乱用』という言葉が出たときに、東京駅に迎えに来てくれた伊地知くんを見たときに、そして彼の反応を見たときに予想はしていた。この異動には五条悟が絡んでいると。子どものときのように気安く下の名前で呼び捨てにされたのは、少し意外だったが。
それにしても、どうやら未だにこの男のやることを止められる人間は存在しないらしい。
黙り込み、必死に目を合わせないようにしている私を見て、五条悟は軽く笑った。
「まあ敬語は置いといて……『あなたの顔なんか二度と見たくない』だったっけ?」
私はぎくりとして、少しだけ視線を上げた。五条悟の光も通さないような真っ黒なサングラスを見やって、すぐに目を逸らす。
「その顔も見たくない相手とこれから一緒に働かなきゃいけないって……可哀想だね」
あなたの顔なんか二度と見たくない。
それは私が幼い頃、五条悟に対してつい口にした言葉だ。
五条家、家の面々が揃った場での私の突然の発言に、五条家は皆びっくりしたように目を丸くし、家はまるで死でも悟ったのかと思うくらい顔面蒼白になった。しかし、大人たちの顔は今でもよく覚えているが、そのときの五条悟の顔だけはあまりよく覚えていない。その頃には、私はもう彼の顔を見るのが嫌になっていたのだ。
だが、それがきっかけとなり私と五条悟の縁はあっさり切れた。あんなに機嫌を損ねるなと言っていた両親も、これ以上の私の不躾な発言や態度を恐れ、私を五条家から遠ざけた。
だが、ようやく分かった気がする。
五条悟が私を東京高専へ異動させた理由。それは、仕返しだ。幼い頃の私の発言に対する仕返し。呪術界で一番大切に扱われるべき人間への無礼な態度に対する、仕返し。その証拠に、五条悟は私のことを「可哀想」と言いつつ、とても嬉しそうに、幸せそうに笑っている。
どうして今更? という疑問もあった。私の発言が許せなかったのなら、もっと早く仕返しすればよかっただろうに。
何かがおかしい。
なぜか今、その直感が働く。
「その……すみませんでした」
なんだか急に恐ろしくなってきた私は——今までの苦労がすべて水の泡になりそうな気がした私は——すぐに、謝罪の言葉を口にした。
五条悟は軽く首を傾げた。
「何が?」
「子どもの頃、失礼なことを言ってしまって……それに今でも怒ってて、私を異動させたんですよね」
五条悟は意外と執念深いところがあるのだ。そう思いながら彼の返事を待てば、五条悟は真顔に戻って「違うけど?」と言った。違うのかよ。
前のめりになっていた五条悟は、ソファの背もたれに悠々と背中を預けた。
「僕さあ、子どもの頃学校とか行ってなかったから、友達いなかったし遊び方も分かんなくて。だから、の嫌がることいっぱいしちゃったと思うんだよね」
「そんなことは、まあ……はい」
「だから、悪いことしたなって自覚があったから、今まで全部見逃してやってたんだよ」
今まで全部見逃してやってた。その言葉に妙な違和感を覚えたとき、目の前に座っていた五条悟が立ち上がる気配を感じた。
私は先程からずっと、顔を上げることができなかった。
足音が聞こえて、彼の大きな足が視界に入ってくる。額に嫌な汗が滲む。ふっと大きな影が私を覆い、ソファが大きく沈む。すぐに、五条悟が私の隣に移動してきたのだと分かった。
「しょっちゅう合コンに参加したり、いろんな男とデートしたり、そういうのを見逃してやってたってこと。でもさあ、もういいでしょ。十分遊んだだろうし、もう無理して遊ぶ必要もない」
「あ、あの、言っている意味が……」
「新しい髪型、似合ってるよ。前のもよかったけど。あと、マンションの更新手数料は僕が払ってあげる。いくらだった?」
私は勢いよく立ち上がると、そのまま小走りで一つしかないドアまで向かった。
しかし、冷たく鈍い光を放つドアノブは、私がどんなに押し下げても動かなかった。何度力を込めても、びくともしない。扉が開かない。外から鍵がかけられている。慌てた様子でお茶を取りに行った伊地知くんの顔が浮かんだそのとき、真後ろに人の気配を感じた。
そっと、五条悟の手がドアに触れる。逃げ道を塞ぐよう、背後から伸ばされた腕を見て私は思わず息を呑んだ。
「冥さんから聞いたよ」
ゆっくりと振り返る。
五条悟はいつの間にかサングラスを外していた。彼の澄んだ水色の瞳が私をじっと見つめている。
途端に息が苦しくなった。ずっと見たくなかった、いや、いっそ忘れてしまいたかった彼の素顔を見たのは、子どものころ以来だった。
五条悟は私にゆっくりと顔を寄せて、そして言った。
「って……本当は僕の顔めちゃくちゃ好きなんだって?」
「あああああああ~……」
私は両手で顔を押さえて、そのままドアを背にずるずるとその場に座り込んだ。
じわじわと、内側から滲み出すように熱が顔中に広がっていく。
冥さんの裏切り者! ちゃんとお金払ったのに!
私は先日、たまたま京都に来ていた冥さんと一緒に飲みに行った際につい、五条悟の顔がたまらなく好きだと口走ってしまったこと、そしてそれについての口止め料としてそこそこ高いお金を支払ったことを思い出しながら、心の中でそう叫んだ。
五条悟が、長い足を折り畳んで私の目の前に屈む。そして彼は混乱している私の手首を掴むと、無理やり私の顔を覗き込んだ。その美しい顔を見てしまうと、もう駄目だった。今すぐ泣き出してしまいたくなった。
白状しよう。すべて五条悟の言う通りである。
私は五条悟の顔が好きで好きで、とにかく好きでたまらなかった。だから辛い鬼ごっこにもめげずに付き合ったし、本気のデコピンだって許せたし、蝉だらけの水筒も大事に家へ持って帰った。
でもだからと言って、天下の五条悟とどうにかなりたいとか、そんなおこがましい考えは抱かなかった。私にとって五条悟は仰ぎ見るべき存在で、どうにかなりたいと考えることすら恐れ多いのだ。つまり、推しは遠くから眺めているくらいがちょうどいい、ということだ。
だから、私は彼から離れた。よこしまな欲望が生まれてしまう前に『あなたの顔なんか見たくない』と言った。いずれ私の想いがバレて彼に嫌悪されるより、そっちの方がずっとマシだと——。
「顔、真っ赤じゃん。かーわい」
五条悟が、にやりとほくそ笑む。面白がってからかっているのだろうか。というか、顔が近い、近すぎる。そしてやはり、美しすぎる。
彼から物理的に離れれば、そのうちいつか別の誰かを好きになると思っていた。そのために合コンにもたくさん参加したし、適当に馬の合う彼氏だって作った。
だから正直、東京に異動になると聞いたときも、もう大丈夫だと思っていた。また五条悟と直接顔を合わせることになっても、平常心でいられると。
でも、甘かったようだ。
白い肌。通った鼻筋。長い睫毛。そして、宝石のような瞳。昔よりもずっと大人びているくせに、面影だけは何ひとつ変わっていない。
もう私は立ち上がることも、彼から逃げることもできなかった。いや、逃げたいという気持ちがすでにもう薄れ始めている。生まれてはいけない欲望が芽を出し始めている。
駄目だ。これは、駄目だ。今日のこれまでの五条悟の様子から、仮に彼が私に対してそういう気持ちを持っていたとしても、私はそんなもの、まともに受け止められない。
手首を掴まれてどうすることもできない私は、ぎゅっと強く目を閉じた。
「……無理」
「何が?」
「五条悟の顔が良すぎる……京都に帰りたい……」
もう隠すことは無理だと悟った私は、素直にそう言った。
「なんでフルネーム? 京都には帰さないよ」
「どうして……」
「もう僕は、自分のやったことを反省して、のことを十分許してきたからだよ。今度はが自分のやったことを反省して、僕を許す番だ」
悪い子同士、仲良くやっていこうよ。これから、ずっと。
五条悟に耳元でそう囁かれ、そっと目を開ける。美しい微笑みが、目の前に飛び込んできた。
窓の外から夕陽が差し込んでいる。その眩しい光の中で、床に落ちたクラッカーの紙吹雪がきらきらと輝いている。その光景は、まるで何かのパレードが終わったあとのようだった。
悪い子。
私に散々意地悪をしてきた五条悟はともかく、自ら離れる選択をした私も悪い子だというのだろうか。
あなたの顔なんか二度と見たくない。そう伝えたときの、あまり覚えていなかったはずの五条悟の顔が、なぜか今になって記憶の底から蘇ってくる。
眉を寄せ、唇を噛み締め、何か言いたいことを必死で堪えている綺麗な顔。あれはひょっとして、私の言葉に傷ついている顔だったのだろうか。
もしそうなら私は、いつの間にか彼と一緒に悪い子だけが参加できるパレードの列の中に紛れ込んでいたのかもしれない。
いやでも、これから毎日この顔を見るくらいなら、呪霊に食べられた方がまだマシだ——。
そう思った直後だった。
「?」
ふっと身体から力が抜けた。視界がぐらりと傾く。
最後に見えたのは、驚いたように目を見開く五条悟の顔だった。
そんな驚いている顔さえ、憎らしくて、神々しくて、美しい。
それが、意識を失う直前の私の最後の思考だった。
▼
「……え、嘘。そんなに?」
ドアに背を預け、ぐったりと力を失ったの身体を支えながら、五条は目を瞬かせた。
それから彼はしばらくの間、彼女の顔をじっと見つめていた。彼女に触れるのも、こうして近い距離で顔を合わせるのも随分と久しぶりのことだ。何しろ彼女は、とにかく自分のことを嫌っていると思っていたから。
直近、冥さんから買い取った彼女の写真よりも短くなった髪。指先でゆっくり持ち上げると、耳まで真っ赤に染まっていた。込み上げてくる笑いと嬉しさを何とか押し込めて、そっと彼女の髪を戻す。
「面白い情報があるんだが……買う?」
先日、冥さんからそう持ちかけられたときは大して興味を持たなかったが、それがに関することだと聞き、五条は冥さんの言い値でその情報を買うことを即決した。そしてそれは、幼い頃に嫌われてしまったと思っていた自分の想い人の意外な真実で、五条はその日のうちに行動に移すことを決めたのである。
夜蛾学長への根回し、そしてなかなか了承しない楽巌寺学長に首を縦に振らせるため、京都高専の術師では対応が難しかった案件も何件か処理してやった。そしてようやく今日、この日を迎えることができたというわけである。
また少し、軽い意地悪をしてやろうと思っただけなのに、まさか気絶してしまうほどとは。というか、そんなに自分の顔が好きなら、大人しく自分だけに尻尾を振っていればよかったのに、と五条はため息を零す。
長い時間を無駄にしてしまったこと、そして少なからず、自分以外に彼女の『恋人』という肩書きを携えていた男がいることに苛立ちを覚える。
「馬鹿だね。僕も、お前も」
その言葉に返事はなかった。
五条は困ったように笑って、それから彼女の身体を軽々と抱き上げた。赤、黄、青——さまざまな色の紙片を踏みつけて、そっと彼女をソファへ下ろす。
五条は静かに、そして痛くないように彼女の額を指先で弾いた。長いこと続いていた鬼ごっこがようやく終わった、そんな気分だった。
「明日から頑張ってよね。いちいち気絶されちゃ、いつまで経っても先に進めないからさ」
五条はそう呟いて、彼女の傍らに座り、ずっと触れたかった頬を撫でた。
(2026.10.09)