
「今すぐ病院行け。耳鼻咽喉科な」
いつからだったか、詳しい時期は覚えてないんだけど、右耳が聞こえづらいんだよね。なんか水が入ってるっていうか、ざわざわした耳鳴りもするし。例えるなら、そうだな。ずっと海の中を漂っているみたいな、そんな感じ。
以前なら絶対にしないような凡ミスで任務中に傷を負った私の治療にあたっていた硝子が、その言葉を聞いて分かりやすく表情を曇らせる。そして血で赤く染まったガーゼを片しながら、はっきりと、いつもより大きな声で言ったのだ。病院へ行け、と。
病院、って。しかも耳鼻咽喉科、って。
てっきりいつもみたいに疲れが溜まってるんじゃないのか、と言われると予想していた私は、急に出てきたワードにただただ戸惑うしかなかった。
へら、と曖昧に笑う私をよそに硝子は立ち上がり、デスクに置いてあった自身のスマホを手に取って話を続ける。
「知り合いの病院紹介してやるから。すぐ診てもらえるよう手配しとく」
「あー、でも、このあと定例の報告会とかいろいろ……」
「ああ、聞こえなかったか」
カタ、と再度スマホをデスクに伏せた硝子が、コツコツとヒールを鳴らす。そして私の真正面に立つと、ずい、と座っている私に顔を寄せた。
同い年の彼女はとても整った顔立ちをしているが、私以上に不規則な生活を送っているからだろうか、気だるい瞳の下にはくっきりとした隈が浮いていて少しだけ肌も荒れているように見えた。とりあえず、何か言葉を並べてみようとしたものの、しっかり気圧されてしまっている私が彼女の瞳に映る。
硝子は私の左耳に唇を寄せて、言った。
「私は『今すぐ』って言った」
そこからは早かった。
心配してくれたのか、はたまた私が本当に病院を受診するか怪しんだのか。硝子が手配してくれた補助監督の車に押し込まれ、彼女が紹介してくれた病院へと向かい受診した結果、めまいなどの他の症状や耳の内部に異常もないことから『突発性難聴』と診断された。
硝子の知り合いだという若い男性医師がパソコンに向かったまま、原因は明確になっていないこと、症状の進行によっては別の診断名がつく場合もあることを説明する。きっと普段より大きな声で話してくれているのだろうが、そんな彼の話を水の中にいる気分で聞きながら、私は遮るように「あの」と声を上げた。
「どれくらいで完治します? 仕事に支障を来すので、なるべく早く治したいんですけど……」
だって、普通に考えたらそうだ。今みたく耳が聞こえづらいままだと、仕事に支障を来すどころか最悪死んでしまうわけだし。
診察室で医師と二人きり。今の声量がちょうどいいのかも分からないまま私はそう尋ねた。そこでようやく医師がこちらへ顔を向ける。
早期に治療を始めることで聴力の回復が期待されるが、治療が遅れると聴力が固定されて治らないこともある。
硝子と目の前でそう話す医師、二人の表情が頭の中でぴたりと重なる。
彼、彼女の真剣な様子から自分の病状が早期ではないことを感じ取った私は、返事をすることができないまま膝の上に作った拳を強く握りしめた。そんな状況なのに、医師の後ろにある窓から差し込む陽の光が妙に綺麗で、少しだけ見惚れた。
頼んでいないのに渡された診断書を持って高専に戻ると、ちょうど定例の報告会が終わったところだったらしい。学長、硝子、伊地知くんの三人がとぼとぼと帰校した私を出迎えてくれて、どうやら硝子から事の詳細を聞いていたらしい学長は私から診断書を奪うと中を開くこともなく一言、「しばらく休め」と言った。
はっとして、ふるふると首を横に振る。
「でも、まったく聞こえないわけじゃないので」
「よくまとまった休みが欲しいとぼやいていただろう」
「それはまあ、そうですけど」
「それとも死にたいか?」
そう言われて押し黙ることしかできない私の肩を叩き、学長は去って行った。確かに休みがない、休みが欲しいといろんな場面で愚痴ってはいたけれど、これは違うだろう。
ざわざわとした耳鳴り。今までは一過性のものだろうと思いあまり気にしないようにしていたが、いざ病気だ休めと言われるとそれも最早難しい。頭を抱えたくなったところで再び誰かに肩を叩かれ、顔を上げると硝子の人差し指がぷに、と私の頬に刺さる。む、として睨めば硝子と伊地知くんがやんわりと微笑んだ。
「ま、深く考えずにしばらくゆっくりしたら。治らなかったらそのときはそのときじゃん」
「さん、働きすぎでしたからね。一旦休んで治療に専念してください」
二人のその言葉に、私は今まで我慢していたため息を盛大に吐き出した。
恩師と数少ない同期、後輩にそう諭されたら、従わないわけにはいかないだろう。無理して働き続けたところで逆に迷惑をかけるだけだし。それに、私だって無駄死にしたいわけではないのだから。
「でも」
二人の声が重なる。見れば硝子は呆れたように口角を上げていて、伊地知くんは眉を下げて私のことを見つめている。対照的にも見てとれる二人の様子に、思わず「え?」と首を傾げる。
聞こえていないと思ったのだろう。二人はゆっくりはっきりと、まったく同じことを言った。
「五条(さん)には連絡しておけよ(しておいてくださいね)」
長期出張中である白髪頭の同期が脳内でいぇ~いとピースをする。なんで急に五条が出てくるんだ。ただ瞬きをするだけで何も答えない私に、伊地知くんが汗を流しながら念押しするように「絶対に! お願いしますよ!」と叫んだ。
▼
「ねえ、水族館行かない?」
「は?」
高専を卒業後、本格的に術師として働き出して間もない頃だった。解消されることのない人手不足、祓っても祓っても湧いて出る呪霊、授業がなくなったぶん実質倍以上になった任務量。それらに早くも疲弊し始めていた私に、自分で買ってきた出張土産の饅頭をもぐもぐと咀嚼しながら五条はそう言った。
いつから置いてあるか分からない年季の入った事務室のソファに身体を深く沈ませていた私は、小さく「すいぞくかん」と呟いたあと、目線だけを動かして五条を見た。
「……いつ?」
「今から」
五条は饅頭の包み紙をくしゃりと潰してごみ箱に放ると、その手でぽかんと呆けている私の手を取った。そのまま勢いよく引っ張り上げられ、沈んでいたソファから自然と立ち上がる。それまで身体を包み込んでいたものがなくなって、心もとない気持ちで私は穏やかに微笑む五条を見上げた。
「なんで今、水族館?」
「え? このあとなんか予定あった?」
「ないけど……」
「行けるときに行っとかないとさ〜、僕らろくに休みないじゃん」
それは確かにそうなんだけど。だからってなぜ急に水族館。
真っ黒なサングラスを額まで上げて瞳をさらけ出した五条は、私の手を握ったまま、私が一番知りたい部分について説明することなく「レッツゴ〜」と歌うように言って事務室を飛び出した。
学生の頃、何度も歩いた古い廊下をずんずんと進む。思い返せば、深夜に寝ている私を叩き起して「ラーメン食いに行こう」と言ったり、スイーツバイキングを満喫したあとに「すき焼き食いに行こう」と言ったり、昔から五条はこちらが「なんで今?」と思うようなことを言い出す男だった。だから水族館は、まあ意味は分からないが、半分びっくり半分しっくりといった感じである。
途中ですれ違った何名かの補助監督たちが手を繋いで歩く私たちを見て、驚いたように「どちらへ?」と尋ねる。それに対する五条の答えを聞いて、全員が最初の私と同じ反応を示した。
「私、クラゲが見たいな〜」
「クラゲもいるし、の好きなチンアナゴもいるよ」
「別にチンアナゴ好きでも嫌いでもないんだけど」
長い石段を下りながらそう言えば、振り返った五条がふ、と笑う。前を歩いていた五条はちょうど私と目線の高さが同じだった。
大人になっても無邪気に笑うんだよなあ、五条って。
綺麗で、そしてあどけない微笑みに思わず頬が緩む。なんとなく、ほんの少しだけ学生の頃に戻れた気がして、張り詰めていた緊張が解けたような気がした。
「チンアナゴかわいい……癒し効果あるわコレ……」
サンゴ礁ゾーンの中心に置かれた横長の水槽にへばりつき、巣穴からにょきにょきと顔を出して揺れる小さな生物を眺める。チンアナゴ、と一言で言っても、背びれの長いものやオレンジと白の縞模様のもの、黒いまだら模様のものなど姿かたちは様々だ。
高専から電車とバスで移動すること二時間弱。決して近くはない都会の水族館は平日の夕方、かつ閉館間近ということもあり、客の数は少ない。上下黒の服を身に纏った大人(しかも片方は白髪・碧眼・超特大)がウロウロしていたら子どもたちが怯えるのでは、と不安に思っていたので、空いていて良かったと心からほっとした。
別の水槽を見ていた五条が、いつまでも動こうとしない私のそばにやってきて同じようにチンアナゴの水槽へ顔を寄せる。
「、見て見て。こっちの二匹喧嘩してる」
「ウケる、仲悪すぎ」
「ちなみに顔を近付けるのはチンアナゴの求愛行動なんだって」
「五条、なんでそんな詳しいの」
そう言って顔を横へ向けると、すぐそばに五条の横顔があってぎょっとした。ゆっくりとこちらを見た五条は、私と違い至近距離に大して驚きもせず、水槽の隣を指さした。見れば、そこにはチンアナゴの生態について書かれた簡素なプレートが掲げてある。
「なんだ……五条が実はチンアナゴ博士なのかと思った」
「さすがの僕も海洋生物についてはそこまで詳しくないよ。でも羨ましいよね」
「何が?」
「人間みたいに優しくしたり食事やデートに誘ったりしなくても、顔を寄せるだけで相手の気を引けるの」
そう言って、五条は水槽を覗くために曲げていた背を伸ばした。
五条の顔面なら、チンアナゴ同様に顔を寄せるだけで十分相手の気を引けると思うけど。
そう言おうとして、『羨ましい』ということは五条には気を引きたいと思う相手がいるのかもしれないなと思い、私はぎゅっと唇を結んだ。数少ない同級生同士、しかも異性である五条とそういう恋愛に結びつきそうな話をしたことがなかったからだ。
いやでも、そういう相手がいたっておかしくないよね。もう子どもじゃないんだし、五条は家のこととかいろいろあるだろうし。
返答に困っている私を横目に五条は壁の方を指さした。そこには『クラゲエリア』と書いてあるプレートが掲げられていた。
「クラゲってさ、見てて楽しい? うじゃうじゃ漂ってるだけでなんか気持ち悪くない?」
まるで深海のような通路を抜けて辿り着いた部屋は、先程いたサンゴ礁ゾーンよりも空気がひやりとしていた。横幅が広く、ゆるく湾曲している大きな水槽の中では、半透明のミズクラゲたちがゆったりと浮遊している。
この水族館の目玉の一つでもあるらしい、青と黒と白で構成された世界。そんな神秘的な空間で、そう五条に問われ私はううん、と唸った。
「楽しいかって聞かれると、チンアナゴほどの楽しさはない、けど」
「けど?」
「単純に綺麗だし、あと……」
ざわざわ、こぽこぽ、と水の音が聞こえる。
あと――なんだろう。水族館なんて久しぶりに来たはずなのに、なんだかこの景色をつい最近見たような気がする。
既視感のようなものを感じながら、上へゆらゆら上っていく一匹のクラゲを目で追いかける。そしてそのクラゲが他と混ざりあって分からなくなったとき、私は「あ」と声を上げた。
「もう死ぬ、ってなったときに見えた景色と似てるんだ」
そう気づいた瞬間、一層頭の奥で水の音が強くなった気がした。
一瞬のことだった。
今からおよそ一年前に担当した単独任務。内容は都内の廃墟に溜まっている呪霊を祓うというありふれたもの。だから、油断も多少はあったかもしれない。祓除を終え、補助監督へ完了報告の連絡を入れてすぐ、事前調査時には現れなかった上級呪霊が出現。え、と思ったときにはすでに口から血をぼたぼたと垂らし、その場に膝をついていた。
身体のどこにも傷はなかった。やられたのは、内臓。動けない。呪力を練れない。ああこれ、まずいやつだ。
頭の中に浮かんだ「死」という身近で遠かった一文字。目の前がぐるんと大きく反転し、後ろへ倒れると同時に私は深い海の底へどぼんと沈んだ。
ざわざわ、こぽこぽ。そんな水の音しか聞こえない中で、無数の小さな白い靄がどんどん沈んでいく私の身体を撫でて上へ上へとのぼっていく。まるで魂みたいに、静かに、ゆったりと。
痛みや苦しみはなく、何かを後悔することもなければ走馬灯を見ることもなく。人は死んだら天国でも地獄でもなく、海に還るのかもしれない。そう思ってしまうほど幻想的な景色に包まれながら目を閉じて、次に目を開けたとき私は高専の医務室にいた。
私を迎えに来た補助監督が、その日たまたま現地に赴いていた硝子を車に乗せていなかったら、私は確実に死んでいただろう。
うん、そうだ、似てる。過去の記憶がじわりと身体の内部を蝕み始めたとき、ぬっと黒い影に覆われた。は、と我に返れば、隣で同じようにクラゲを眺めていた五条がなぜか水槽を遮るようにして私の真正面に立っている。
「何、見えないんだけど」
「綺麗なものが見たいなら、クラゲより僕の顔でしょ」
ほらほら、と言って五条は私にぐっと顔を寄せる。そのご尊顔に思わずたじろいだあと、私は呆れてため息をこぼした。いや、そりゃあ、五条の顔も負けず劣らず綺麗だけど。これってチンアナゴなら求愛行動になるんじゃないの。
太陽の下で見るときとは違い、暗く深く見える水色の瞳に、またもや「あ」と思う。
死にかけて助かった日の夜。当然帰宅は許されず、医務室に泊まることになった私の元へ任務を終えた五条が見舞いにやってきたわけだが、その際に言ったのだ。
「あのさあ、死んだら殺すから」
そのときと、まったく同じ目をしている。
見つめ合っていたら、閉館のお知らせのアナウンスが流れ始めた。私が喋り出すより先に、五条が私の手を取った。ぐい、と引っ張られ、みるみるうちにクラゲたちが遠のいていく。
来るときに通った深海の通路を進みながら、五条が何かを言う。退館を促すオルゴールの音楽のせいで聞き取れずに「え?」と聞き返せば、五条は立ち止まってくるりと振り返った。その目に先程感じた暗さはない。
「寿司、食べたくない?」
寿司?
「別に」
「ええ~? 魚見てたら食べたくなってくるでしょ、普通」
「普通が分かんないけど、私は特にならない」
「とりあえずいつものとこ、行こ」
五条はそう言って、再び歩き始めた。
そういえば、今日は昼食を食べ損ねていたんだった。寿司の気分ではなかったが、そのことを思い出した途端に胃が小さくきゅる、と音を立てる。同時に、クラゲの水槽の前で固まっていた身体が少し軽くなっていることに気づいた。
深夜に寝ている私を叩き起して「ラーメン食いに行こう」と言ったときも、スイーツバイキングを満喫したあとに「すき焼き食いに行こう」と言ったときも、そして今も。いつどんなときでも、私の前を進む五条の手がずっと変わらないままでいてくれるから。だから、私も変わらないままでいられる。
五条の変わらなさに、私は確かに救われている。海の底から抜け出したあと、そうっと彼の手を握り返した。いつの間にか指先が冷えていたらしく、五条の手はとても温かかった。
▼
随分と、懐かしい夢を見た。
嗅ぎ慣れない畳の匂いを肺いっぱいに吸い込んだあと、私はむくりと身体を起こした。布団を敷いただけで家具が一つもない和室は、一人で寝るには十分な広さである。開けて網戸にしている窓では、丈が中途半端に足りないカーテンが風を受けて静かに揺れていた。
「……起きよ」
ざわざわと聞こえるのは相変わらず続いている耳鳴りと、本物の海の波の音だ。
呪術師を休職することが決まり、私が一番初めにやったこと。それは引越しである。
高専を卒業して一人暮らしを始めたとき、不規則でストレスも溜まる仕事だからせめて静かな環境で暮らしたいと考え、都心から離れた割と新しいマンションの一室を借りた。そんな私の望み通り周辺は住宅地ということもあってとても静かだったし、帰宅時間もばらばら、そもそも帰宅しないことも多かった私は同じマンションの住人と顔を合わせることも滅多になく、性に合った暮らしを送っていたと思う。
でも、その静けさがだめになった。何をしていても耳鳴りが気になるようになり、夜もテレビをつけていないと眠れなくなってしまった。
ずっと海の中を漂っているみたいな、そんな感じが続くなら。いっそ本物の海のそばに住んでしまおう。
我ながら随分と思い切ったことをしたと思う。即入居可のアパートを見つけて契約し、元の部屋は解約せずに必要最低限の荷物だけを新居へ送って引越しは完了した。身体は問題なくテキパキと動いたので、思い立ってしまえば全てがあっさりと済んだ。
冷たい水で顔を洗い、鏡に映る自分をまじまじと見つめる。毎日三食しっかり食べるようになったせいか、ここに越してきてわずか一週間で頬がふっくらしてきたような気がする。肝心の耳はまだ良くならないが、肌の調子も良いし、見た目だけなら以前よりもずっと健康になったようだ。
適当な服に着替えて簡単な朝食を済ませながら、昨日の昼間からずっと充電しっぱなしだったスマホを開く。すっかり鳴らなくなってしまったスマホにはメッセージが二通届いていた。
『では、諸々の書類は新住所の方に送付しますね』
『今度酒持って歌姫先輩と遊びに行く』
私の「引越しをした」という報告に対する伊地知くんと硝子からの返信である。それらに目を通したあと、私は五条とのトーク画面を開いた。一番下には私が休職することを決めた日に送った「しばらく仕事休むことにする」という簡単な一言。『既読』の文字はついていないし、それに対する返信も未だない。
「特級は忙しいよなあ……」
ぽつりと呟いた一言は、誰の耳に届くこともなく消えていく。寂しいわけではない。心配してほしいわけでもない。でも無性に五条の手の温かさが恋しい。あれ、これを寂しいと言うのではないか。
このまま家にいたらだめだ。出かけよう。
そう思い立ち、私は残っていたサンドイッチを平らげて処方されている薬を水で流し込んだあと、二日分の洗濯物を持って家を出た。
近所のコインランドリーまではアパートを出て右手にまっすぐ進んで五分ほど。そこを通り過ぎてさらに十分ほど歩けば海に出ることができる。コインランドリーで空いていた洗濯乾燥機に洗濯物を放り込んで回したあと、私は海に向かってのんびりと歩き始めた。時折通り過ぎる車の走行音や風が木々を揺らす音、登校中の小学生たちの笑い声。いろんな音が聞こえると安心する。
今年から海水浴場が閉鎖され、『遊泳禁止』の看板が掲げられた海に人の姿はない。穏やかに波を寄せる海を一望したあと、私は砂浜に腰を下ろし、抱えた膝に顎を乗せてため息を落とした。
学長の言う通り、仕事ばかりで忙しかった頃はまとまった休みが欲しいとよく愚痴を零していた。旅行代理店のパンフレットを眺めながら羨んだり、たまたま立ち寄った本屋で読む時間もないのに気になった本を十冊まとめて買ったりもしていた。
でもどうだろう。今の私は、いざ与えられた長い休みを持て余している。あれだけ切望していたのに。行きたかった旅行だって行けるし、読みたかった本だって好きなだけ読むことができるのに。
ざわざわと、耳の奥で鳴る音と目の前の海から流れてくる音。それらを聞きながら、あの日、そして夢の中で見たクラゲの水槽を思い浮かべて私はそうか、と一人納得した。
人は死んだら天国でも地獄でもなく、海に還るのかもしれない。だから、ずっと海の中にいるような気分でいる私は、もう半分死んでしまったようなものなのかもしれない。
潮の香りの中に懐かしい匂いが混ざる。聴力が衰えたぶん、他の五感の機能は以前よりも敏感になったように感じる。
「来るの早すぎでしょ」
今朝スマホを確認した時点で未読だったメッセージのことを思いながら、そう呟いて顔を上げる。私の背後に立っていた五条は、隣にやってきてスマホを操作しだしたかと思えばその画面を私に向けた。真っ白なメモ帳に小さく一言、「太った?」とある。
元気? と聞いてこないあたりが五条らしい、と思った。ただ口には出さずスマホに文面を表示させるあたり、私が仕事を休むことになった理由は聞いているようだ。新住所もそのときに、恐らく伊地知くんあたりから聞き出したのだろう。
左の方が聞き取れるから左側で喋ってほしいと言えば、五条は素直に私の左側に腰を下ろした。
「ずっと出張だったんでしょ。東北だっけ。ここまでどうやって来たの?」
「チャリで来た」
「嘘」
「いいとこじゃん、ここ。高専からは遠すぎるけど」
「元の家はまだ契約したままなんだけどね」
「あ、そうなんだ」
「でももう戻れないかも」
軽い気持ちで呟いた一言が一気に現実味を帯びて重くのしかかってくる。医者に出された薬を飲んでも良くもならなければ悪くもならない、中途半端なままでいる耳に軽く触れて私はまっすぐ海を見据えた。
戻れないかも。元の家にも、呪術師にも。
幼い頃から「変なおばけが見える」と言い続けていた私は当然のように周りから浮いた。みんな私を不気味がって近寄ろうとしなくなった。普通じゃない、おかしな子だと言った。私からすると見えることが普通なのに、見えない方がおかしいのに、だ。周りとうまく共生していくためには自分を偽るしかないのか、と考え始めた頃に学長に出会い、すべてが変わった。
つまり呪術師であることは、私が私らしく生きていくための手段だった。
もし、呪術師でいられなくなったら。私はこれから先、どうしていけばいいのだろう。
ずっと考えないように努めていた現実に、目の前の景色が滲み、歪んでいく。仮に学長たちの反対を押し切って無理して戻ったところで、きっと今までのような任務はこなせない。文字通り血を流しながら得た『一級術師』という肩書きだって、きっとなくなるだろう。
「太陽ってさ、――」
「え?」
それまで黙っていた五条の言葉が聞き取れなくて、ぱっと顔を横に向ける。その拍子に目の際に溜まっていた涙がほろりと頬に落ちた。
砂浜で見つけたのか、五条が掲げた指先には小さい薄桃色の貝殻があった。彼はそれを太陽の光に透かしながら、もう一度ゆっくり「太陽って」と言う。
「見え方は人それぞれ違うんだよね」
「……どういうこと」
「今僕らが見ている太陽は、見ている場所によっては朝日だったり夕日だったりするでしょ。色だって白く見えたり橙色に見えたりするのは、太陽以外のいろんな条件が変わるからなわけよ。太陽は一つしかなくて、みんな確かに同じものを見てるのに」
五条の言葉の意味を理解しようと必死に頭を働かせる。そのせいか、涙が次々溢れてくることはなかった。もう一度、間を置いて「どういうこと?」と尋ねれば、五条は私の手のひらをとって、貝殻を置いた。
「つまり、は一人だけど生き方は一つじゃないよねって話」
耳が聞こえなくたっての本質は何も変わんないでしょ。
瞬きをする。細かな砂のついた貝殻に視線を落としたあと、もう一度隣に座る五条を見た。
「……ひょっとして、慰めてくれてるの?」
「いや、口説いてるよ」
五条は当然のようにそう言ったあと、私に身体を寄せた。五条の肩が私の頭にこつんと当たる。
口説いてる。口説いてる? 聞き間違いか?
戸惑いつつ、私は貝殻を握り締めて身体を右側へ引いた。手の中で薄い貝殻の縁が刺さって、少しだけ痛い。
私が少し距離を取ったことに気づいて、五条はさらに顔を寄せた。傍から見れば、砂浜でいちゃついているカップルのように見えなくもない。平日の朝っぱらから。
咄嗟に私は壁を作るように五条との間で両手を上げた。
「ごめん、今、口説いてるって聞こえた気がするんだけど」
「そうだよ。からのメッセージ見て伊地知に鬼電してそのあと落ち込んでるだろうから口説き倒そうと思って高専に戻らず青森から直で飛んでくる男、どう思う?」
「冗談、てか顔、近い、そんな近くなくても聞こえる」
「相変わらず鈍感だな〜。僕がチンアナゴならこれで十分伝わったんだろうけど。ちなみに僕の求愛行動は『二人きりで外食に誘う』だよ」
耳鳴りが止んだ。正確に言うと、自分の心臓の音が胸ではなく頭の中で鳴り響いている感じがして、耳鳴りの存在を忘れた。これは初めてのことだった。
なんということだ、とパニックになりつつも五条の言おうとしていることは大体理解した。でも、それは果たしていつからなのか。昔の記憶を辿ってみても、五条からそういう対象で見られていると感じたことはなかったと思う。
実は貴方の手の温かさを恋しく思っていましたと話せば、五条はどんな顔をするだろう。そんな好奇心に駆られたが、さすがに口にする勇気は出なかった。
「伝わった?」
「つ、伝わった」
「オッケー、今のところはそれで十分かな」
さてと、と言って五条が立ち上がる。大きな骨ばった手が服についた細かい砂を払う。さらさらと空中を舞う粒子の向こうから五条の手が差し出される。
「海見てたら寿司食べたくなってきた。いつものとこ……はまだ開いてないから、久しぶりに回転寿司でも行かない? 今から行けばちょうど開店時間でしょ」
サングラスから白い包帯、そして黒いアイマスク。見た目も口調も、随分様変わりした。でも五条が私の本質は変わらないと言ってくれたのと同じで、五条だって、本質的なところは何も変わっていない。
変わらない、いつもの優しい手からゆっくりと視線を上げていく。にっと口角を上げてこちらを見下ろす五条がいた。
その手を掴もうとして、ぴたりと止まる。
「……でも私、今コインランドリーで洗濯してるから」
「何時頃終わるの? というかなんでコインランドリー?」
「新しい家に洗濯機置いてないもん」
「……下着とかどうしてんの」
「一緒に洗ってるけど?」
そう答えれば、五条はここに来て初めて顔を歪めた。はあ? という呆れた声がしっかりと私の耳に届く。
「別に高いやつじゃないし、一緒に洗っても平気だよ。すぐ買い換えるし」
「いやいや不用心でしょ。変な奴に盗られたらどうすんの?」
「だから高いやつじゃないからいいよ」
「そういう問題じゃなくてさあ、僕が嫌なの」
二人で水族館へ行った日、事務室のソファに沈んでいた私の手を勢いよく引っ張り上げたときと同じように、五条は私の手を引いた。
立ち上がった私は、五条と手を繋いだまま砂浜を歩く。
「僕だっての下着、まだ見たことないんだから!」
今日一番の大声でそんなことを言い放った五条に、私は思わずぷっと吹き出した。海に攫われて消えていった言葉があまりにもしょうもなくて笑いが止まらない。笑い続ける私を見て、五条も笑う。真上へと向かう太陽の光が降り注ぎ、砂浜を白く照らしている。
耳鳴りはまだ続いている。良くなるかもしれないし、良くならないかもしれない。抱えている問題は何一つ解決していない。
それでも、だ。ずっと漂っていた海の中から抜け出して、ようやく歩き出せたような。そんな気がした。
(2024.12.20)