「高専の教職員はみんな彼女のことを可愛がってるから……案外認めるかもしれないね」
「でもただでさえ全員不在がちなのに、誰が面倒見んのって感じじゃん」
「まあね。悟はどう思う?」

 携帯の待ち受けを最近お気に入りのグラビアアイドルに変更したところで、硝子と話していた傑に話を振られて俺は顔を上げた。黙ったままの俺をしばらくじっと見つめていた傑がやがて呆れたように嘆息を漏らす。携帯の画面の向こう側から、水着姿の巨乳美女がまったく話を聞いていなかった俺に優しく微笑みかけている。
 どう思う? って。何がだよ。

「聞いてなかったのかい」
「まあ。んで、何の話?」
が――」

 傑がそう言うと同時に教室のドアががらりと開き、その場にいた全員の視線がそちらへ向く。そこには後輩のが立っていて、はドアに手をかけたまま恨めしそうな顔で「先輩方……」と呟いた。

「今、私の話をしていましたね……?」

 してねえよ、と返事をしようとしたところで、傑がつい先程彼女の名を口にしたことに気付く。硝子が半笑いで「やっぱダメだったんだ」と言うと、は分かりやすく肩を落として頷いた。
 まっっったく状況が読めない。ずっとこの場にいた俺よりも、今来たばかりのの方が話に入れている。コイツら、さっきから一体何の話してんだ?
 口を開きかけてすぐ、落ち込んだ様子でとぼとぼと教室に入ってきたの足にまとわりつく毛玉に気付き、俺は思わず「はあ?」と声を上げた。

「猫ぉ?」

* * *

 一般家庭出身のは、同じく1個下の学年である七海や灰原たちより少し遅れて高専に入学してきた後輩だ。入学のきっかけは高専側のスカウトだったと聞いているが、詳しい経緯は知らない。術師の卵にしては勘が鈍く、方向音痴でよく高専内でも迷子になっている。呪術や呪霊について一般人よりも少し知識があるだけ、際立った才能があるわけではないドジで人懐っこい平凡な女。俺が今まで積み重ねてきたに対する印象は、まあそんなところである。

「お前さぁ、毎度毎度任務に出るたびに猫拾ってきてね?」

 傑は単独任務、硝子はヤガセンに呼ばれ負傷した術師の治療に行った。2人と1匹になった教室で机に頬杖をついて呆れたようにそう指摘すれば、硝子の席に座っていたは膝の上に乗せた黒色の子猫を撫で回しながら口を尖らせた。

「毎度は拾ってないです、2度目です!」
「なんで拾うんだよ」
「だって呪霊に食べられそうになってたから……」

 別に猫の1匹や2匹、呪霊に食われたっていいだろ。そう言おうとしたが、目の前で猫と遊ぶの嬉しそうな横顔に俺は言おうとした言葉を丸ごと飲み込んだ。以前拾ってきたときに同じようなことを言ったら、本人だけでなく傑や硝子、さらには七海や灰原からも非難を浴びたからだ。
 ちなみに話を聞けば、任務で猫を拾い帰校してすぐ「寮で飼いたい」と担任に直談判したらしいが、ダメだと一蹴されたらしい。学生とはいえ出張もある身、寮だけでなく校内がすっからかんになる日もある以上、人の世話が必要な生き物なんて飼えるわけがない。至極真っ当な判断だ。

「夜蛾先生のお知り合いで飼ってもいいって人がいるそうで、今日の夕方には先生に引き渡します」
「ふーん」
「でも、私が飼いたかったなあ……」
「そんなに猫が飼いたいなら、死んじまう前にさっさと術師なんてやめればいいだろ。お前、向いてねえし」

 そう言って、何となくから目を逸らして窓の外を眺める。実を言うと今の発言も2度目であり、これまた傑たちから厳しく非難を浴びた言葉でもあった。
 でも俺は何も間違ったことは言っていない。別に俺でなくても、誰が見たっては明らかに術師には向いていなかった。彼女は術師の家系ではないのだから、俺のような『責任』も『義務』もない。一般人としてここではない高校に通い、大学を出て就職して結婚して――そういう『普通』の生活を送るべき人間なのだ。そうすれば誰かの許可を得る必要もなく猫でも犬でも金魚でも好きに飼うことができるし、何より死が身近にない分、平和で自由な人生を歩むことができるのに。
 誰だよ、コイツのことスカウトしてきた奴は。顔も名前も知らない相手に向かって心の内でそう悪態ついていたら、横からの吹き出す声が聞こえて俺は彼女に視線を戻した。口元に手を当ててくすくすと笑うたびに、自分とは真逆の黒い髪が柔らかく揺れる。

「やめませんよ。やめちゃったら、五条先輩との接点がなくなっちゃうじゃないですか」

 不覚にも言葉に詰まる。ドジで人懐っこくて平凡で、こういうことを恥じらいもなくあっさり言ってのける女なんだよ、コイツは。
 返事はせずに、の手の中で丸くなっている子猫に視線を落とす。小さな身体の背中の部分が規則正しいリズムで上下している。どうやら眠ってしまったらしい。

「そういえば、五条先輩。この間の約束、覚えてます?」
「は? 約束?」

 ぱっと顔を上げて明るくそう聞いてきたの言葉に、俺はそう言って眉を顰めた。椅子に深く背を預けて足を組めば、古い木の板がぎしりと軋む音がする。
 たまたまだろうが、今日は話が見えないことが多い。しばらく考えてみてもの言う『約束』に覚えはなく、俺は腕を組んで首を傾げる。

「俺、お前となんか約束してたっけ」
「私のこと、名字じゃなくて下の名前で呼ぶって約束です」

 そう言われてやっと思い出した。先日、確か寮の食堂で朝食をとっている最中に急にやってきて、「じゃんけん勝負で私が勝ったら下の名前で呼んでください」と懇願されたことがあった。傑や硝子のことも下の名前で呼んでいるのだから、自分も同じように呼んでくれ、と。しかし。

「いや、結局俺に勝てなかっただろ」

 1回から始まり3回、5回、10回、15回、と回数を増やしていった勝負の行方は、すべてにおいて俺の圧勝だったはずだ。
 は顔を逸らすと小さく舌打ちを飛ばした。
 
「覚えてたか……」
「馬鹿にすんなよ」
「じゃあ、私が25歳になったら下の名前で呼んでください!」
「なんで25?」
「私の人生設計では、さすがにその頃には2級か準1級くらいにはなってるはずなんで! だから、そのご褒美に」

 何だそれ。そう呟いてはあ、と呆れの混じったため息を落とす俺に、はすべてお見通しだと言わんばかりの笑みを携えてピースサインを作ってみせる。

「術師をやめることもないですし、あと死にもしませんよ。私、逃げ足だけは速いので」
「そういう奴に限ってあっさり死ぬんだっつの」
「……そうだな。仮に死んで離ればなれになったとしても、生まれ変わって、また五条先輩に会いに来ます」

 生まれ変わって、また。
 俺が絶対に思いつかないようなことを言って、は静かに目を伏せて笑う。くだらない。生まれ変わりなんて非現実的なこと、起こりうるはずがない。もし100歩、いや1万歩譲ってそんなことがあったとしても、新しい命として世に出た瞬間にだった記憶など失うに決まっている。
 そんな否定的な意見ばかりが頭に浮かび、そのたびに脳がぐらぐらと大きく揺さぶられるような感覚に襲われる。生まれ変わって、また。のその言葉が頭の中で巡り続けている。
 何かがおかしい。それまで鮮明に見えていた景色に靄がかかる。サングラスを外し、目頭を強く押さえる。は俺の異変を目の当たりにしても、落ち着いた様子で話を続ける。

「そのとき、もし五条先輩が別の誰かに生まれ変わっていたとしても、私は絶対に忘れないし絶対に見つけ出すと思います。だって、」

 五条先輩ほど見つけやすい人、きっといないですから。
 が穏やかに笑う。それを最後に、空間が歪に形を変えていく。

「悟はが死ぬことを恐れているんだろう」

 俺は教室ではなく、寮の廊下に立っていた。
 ほぼ毎日生活している場所なのに、古くてミシミシいう床や雨風で薄汚れた窓、すべてに懐かしさが込み上げてくる。
 顔を上げると、すぐ目の前にシャワーを浴びてきたばかりなのか濡れた髪をタオルで拭く傑の姿があった。
 これは、夢でも見ているのだろうか。先程まで制服を着ていたはずなのになぜか私服の半袖短パン姿に変わっている自分を見下ろしたあと、もう一度傑を見つめる。教室で話したときよりも少しだけやつれ、目の下にはうっすらとだが青紫色のクマが浮き出ている。傑はぼんやりしている俺から目を逸らし、片方の口角を上げた。

「……灰原が死んで、悟が今まで以上ににしつこく『術師をやめろ』と言うようになった理由は、彼女に適性がないから、だけじゃない。君は彼女の死が怖いんだ」

 首を横に振ろうとしたが、うまく身体が動かなかった。
 俺が他人の死を恐れるだなんて、あるはずがない。だって俺はずっと昔から、俺以外の人間はいつ死んだっておかしくないと思っているのだから。
 は平凡な女だ。俺たちとは違う。だからこんな血なまぐさい世界から抜け出して、普通の人生を歩んでいってほしい。それだけの話だ。
 そう言葉にはしていないはずなのに、傑は小さく息を吐いて笑った。疲れ切った表情には似合わない、穏やかな眼差しを俺に向けて。

「悟の言う『普通の人生を歩んでいってほしい』は、私には愛の言葉に聞こえるけどね。素直にならないと、いずれ後悔するよ」
 
 瞬きをする。傑の姿が消える。
 やはり自分は夢の中にいるらしい。しかも妙にリアルで、変な形に切り取られた夢だ。
 また最初と同じ教室に戻ってきたことに気付くより先に、不安そうに「五条先輩?」と呼びこちらを見上げると視線が重なった。

「……猫は?」
「え? 猫?」

 頭上に疑問符を浮かべて眉間に皺を寄せるは、先程よりも少しだけ大人びていて制服ではなく黒の任務服を着用していた。まっすぐ伸びていた黒髪は、軽くウェーブのかかった茶髪へと変化している。

「大丈夫ですか? 五条先輩がこんなにぼんやりしてるなんて、明日は槍の雨でも降るんじゃないですかね」
「失礼すぎない? ところで今、西暦何年だっけ」
「え、2015年ですけど……本当に大丈夫ですか?」

 背伸びしたがじっと僕の顔を見つめる。にこっと微笑んでみせれば、は分かりやすく照れたように顔を背けて後退りし、そしてごほんと咳払いをして「本題ですけど」と言った。

「昔した約束、覚えてます?」
が僕にじゃんけんで勝ったら、僕がのことを下の名前で呼ぶってやつ?」

 彼女は「昔した約束」と言うが、今の僕の感覚的には「つい先日した約束」である。忘れられていると考えていたらしいは僕の言葉に一瞬だけ目を輝かせたが、すぐにふるふると首を振った。

「それは最初の約束で……そのあと、私が25歳になったら下の名前で呼ぶって約束に変えたじゃないですか」
「ああ、そうだったね。確か25歳になる頃には1級術師になってるはず、とか言ってた」
「記憶を歪曲させないで……」

 2級か準1級です、と少し凹んだ様子で言うに思わずふっと笑みが零れる。彼女は高専を卒業してからも努力を怠らなかったが、術師の実力は才能がほぼ8割。結局が2級から上がることはなかったのだ。
 気を取り直したらしいが、再度僕を見上げてこう言った。

「私、来週でようやく25歳になります」

 ひく、と上げていた口角が引き攣る。そうだ。西暦を聞いた時点で気付くべきだった。2015年ということは、つまりは『そういうこと』だ。
 固まってしまった僕の反応をうかがうように、は僕の目の前で白い手のひらをひらひらと振った。お疲れなんじゃないですか、と尋ねるの手首を掴んだ瞬間、彼女は驚いたように目を丸くする。
 今すぐ、術師をやめろ。
 そう言葉にしようとするのに、うまく口が動かせなかった。先程と同じように脳がぐらぐらと揺れる。ダメだ、ここで彼女の手を離したらダメだ。夢の中で行動を起こしたところで変わることなど何もない。そう分かっているはずなのに。
 瞬きをする。驚いていたは、すぐに悲しげな笑みを浮かべた。

「ごめんなさい、五条先輩」

 そんな言葉が聞こえてすぐ、は消えた。僕が掴んでいた右手首だけを残して。
 何度も味わった、忘れられない深い絶望が僕を襲う。押し潰されないよう、呑み込まれないよう、静かにゆっくりと瞼を閉じる。

* * *

「……最っ悪な目覚めだわ」

 閉じていた瞼をゆっくりと開ける。そこには見慣れた寝室の天井があり、カーテンの隙間から差し込む月明かりのせいで灰色に輝いているように見える。吐き捨てた言葉は、誰の耳に届くこともなく一瞬で消えた。
 夢だ。でも夢じゃない。僕が今見たのは、僕の前世の記憶の欠片たちだ。この身体の魂のずっと奥の方にある、大事な記憶。
 結局、前世の僕がのことを下の名前で呼ぶ日はこなかった。彼女は25歳にならなかったのだ。2015年、25歳の誕生日を迎える直前に彼女は死んだ。24歳だったはいつも通り任務に向かい、そして右手首だけになって帰ってきたのだった。
 任務自体は難易度の低い2級案件で、問題なく完了していた。しかしどれだけ調べてみても彼女が死んだ理由は判明せず、唯一の手がかりはが任務終了後に担当の補助監督へ電話で告げた「呪物を拾った」という言葉だけ。それ以外については詳細不明だ。

「絶対に忘れない、って言ってたのにねぇ……」
 
 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを口に含み、スマホのLINEを開く。トーク画面の1番上にいる、猫のアイコン。それを眺めていたところでスマホが震え始めた。ただいまの時刻、深夜2時。こんな時間にいきなり電話をかけてくる奴なんて、1人しかいない。
 画面をタップして耳に当てれば、挨拶もなしにいきなり質問が飛んだ。見つけたのか、と。

「うんそう、見つけた。でもお前と一緒で最初は記憶なーし」

 話しながら広いリビングを突っ切って、昼間は太陽光をたっぷり取り込むことができる大きな窓の前に立つ。東京の夜景を一望できるこの場所から、が暮らす小さなアパートのある方角へ身体を向ける。

「あー、まあ最初はだいぶ怪しまれたけど。2回目はそれなりにうまくいったかな。そうだ、まさかの伊地知も見つけたわ」

 はは、と笑う自分の姿が埃1つない窓ガラスに映る。生まれ持った水色の瞳にそっと手を伸ばし、指でゆっくりとなぞる。
 僕にはもう六眼も術式もない。思い立ったときに一瞬で彼女の元へ飛んでいく術もない。僕は五条悟であり、五条悟ではない。けれど。

「今世では、のことを失いたくないんだよ。そのためにできることは何だってやる」

 前世で僕は伝えられなかった。術師をやめさせたかったのは、傑の言う通りの死が怖かったからだ、ということを。死ぬくらいなら自分の知らない場所で幸せになってくれた方がずっとマシだったということを。ドジで人懐っこくて平凡で、聞いている方が恥ずかしくなるような台詞をあっさり言ってのけるのことを、特別に大事に思っていたことを。
 だから、僕は彼女に前世の記憶を取り戻してもらいたいと思っていた。もちろんこれは自分のエゴでしかないし、ひょっとするとにとっては思い出したくもない最悪な記憶かもしれない。それでも、だ。僕は今も昔も、ずっとわがままな人間だから。

「お前が言ったんだよ。素直にならないといずれ後悔する、って」

 ってわけで協力してよ。ね。
 可愛くお願いしてみれば、電話の向こう側でそれはそれは深いため息が吐き出されるのが聞こえた。


(2024.11.02)