突然聞こえたガラスの割れる音に、私は携帯の画面から顔を上げた。『本当にありがとうご』まで入力したところで、続きを促すようにカーソルがちかちかと点滅する。
 田舎の端っこでひっそりと営業していた、チェーン店の古びたファミレス。平日だからなのかそれともこれが通常なのか、昼間だと言うのに客は親子連れが一組と中年の男性が二人いるだけでがらんとしている。店の前にある無駄に広い駐車場は、強い太陽の光を浴びてゆらゆらと陽炎が立っていた。
 そんな穏やかで平和な空間を壊すかのような音に、恐らく全員が同じ方向へと目を向ける。そしてそこにいた思いがけない人物の姿に、私は鼻から吸った空気を口から盛大に吐き出した。

「気をつけろよ、クソガキ」

 両方のポケットに手を突っ込んで偉そうにそう言い放った同級生の足元を見れば、五歳くらいの男の子が尻もちをついて彼のことを見上げていた。男の子のすぐそばには割れたガラスのコップが落ちている。
 すみません、と謝りながら母親が、大丈夫ですか、と心配しながら店員が男の子へと駆け寄る。そんな彼女たちや男の子には目もくれず、真っ黒なサングラスの隙間から水色の瞳を覗かせた五条は長い足で男の子を跨ぐと、何事もなかったかのように唖然としている私の元へスタスタとやって来た。

「よ、もう飯頼んだ?」
「最低すぎるだろアンタ……」
「は? 何がだよ」

 ボックス席に座る私の目の前に五条は遠慮することなく腰を下ろす。そっと顔を出して先程男の子がいた場所を見ると、そこに親子の姿はなく店員が割れたコップを片付け終えて立ち去ろうとしているところだった。
 二度目のため息を零し、メニューをテーブルに広げて品定めしている五条を睨みつける。

「あのさ、ああいうときは普通男の子に『大丈夫?』って声かけるでしょ」
「なんで俺が。ぶつかってきたのはあのクソガキの方だっつの」
「そうだとしても、だよ。てかクソガキは五条の方でしょ。五条家は一体どういう教育してんのよ」
「とりあえず肉にしよっかな~」

 まったく話を聞こうとしない五条につい声を荒らげそうになり、何とか口を閉ざしてぐっと堪える。明らかにこの辺の人間じゃない、しかも平日昼間の高校生ってだけで目立つのに、そこに先程の五条の態度である。騒ぎは起こしたくない。ちゃんと情操教育してくれよ、と会ったこともない五条家の人たちを恨みたくなった。
 そもそも別件の任務に赴いていた五条がなぜここにいるのか。そう尋ねようとしたそのときだった。

「おや、悟?」

 お手洗いから戻ってきた傑が五条を見て驚いたように目を見開く。五条は得意気にピースサインを作って「来~ちゃった」と笑った。来るな。帰れ。今すぐに。

「現地でと飯食って帰るってメール来たからさ。俺もまだ食ってなかったし、ちょうどいいやと思って」
「だとしても、よく場所が分かったね」
「ここ、クッソ田舎じゃん。そんで飯食うとこっつったら他にねえだろ」

 確かにね、と傑は納得したあと、五条と不満そうな顔を浮かべている私を見比べて、私の隣に座った。その拍子に僅かに肩がぶつかり、傑が「すまない」と言う。その謝罪に慌ててぶんぶんと首を振れば、テーブルの下で五条の足が私の靴を蹴った。

「……オイ傑、なんでそっちに座るんだよ」
「男同士、隣り合って座ってたら気色悪いだろう。それに悟の隣は狭い。何頼むか決まったかい」

 傑は五条の注文を聞くと、テーブルの隅に置いてある呼び出しボタンを押してやって来た店員へ追加の注文を伝える。
 子どもじゃないのだから、注文くらい本人にさせればいい。少し肩がぶつかったくらいで謝らなくたっていい。
 けれど私は傑の優しくて気が利くところと、彼の温かな雰囲気がたまらなく好きだった。
 開いたままで画面が真っ暗になっている携帯のボタンを押すと、入力途中だったメール画面が現れる。気がつかなかったが新着メールも一件届いているようで、少し迷った私は『本当にありがとうご』を消して『なぜか五条が来てしまいました』と打ち込んで送信したあと、届いているメールを開いた。

『お疲れ様です。さんごめん、引き止めたんだけど五条くんがそっち行っちゃうかもしれない』
 
 それは今日、五条を担当しているはずの補助監督から届いたものだった。
 補助監督の一部の女性陣は、私の傑に対する想いを知っていて日々何かと協力してくれている。そんな中、今日は珍しく傑と二人きりの任務だったので、みんなが気を利かせてくれて二人きりで昼食をとる予定だったのだ。
 短いバイブ音が鳴り、私たちの担当の補助監督へ送ったメールの返信が届く。内容は一言、『どうして五条くんが!?』。こっちが知りたいです。
 返信を諦めて、ちらりと隣に座る傑を盗み見る。私にとっては邪魔者でも、彼にとっては大事な親友。私と二人でいるときよりも明らかに砕けた表情を見せる傑に、私は密かに肩を落とした。

、大丈夫かい?」
「えっ!」

 急にそう声をかけられて顔を上げると、すぐ近くに私の顔を覗き込む傑の顔があり二重にびっくりする。私は慌てて携帯を閉じた。

「な、何が?」
「急に静かになったから……さっきの任務で疲れたかな」
「ううん、ちょっと考え事……今日の任務は傑と一緒だったからすっごいやりやすかったよ!」
「私もが後ろを守ってくれたから集中できたよ、ありがとう」
「え、ふふ。こちらこそありが」

 がつん、と再び目の前に座る五条から靴を蹴られる。見れば彼は頬杖をついてつまらなさそうにそっぽを向いたまま「傑に迷惑かけてんじゃねーよ」と言った。さっきは足が長いから当たってしまうのだと思ったが、絶対にわざとだ。
 迷惑なんてかけてないし、と言い返す前に、傑が窘めるように五条の名前を呼ぶ。私はこっそり五条の足を蹴り返した。
 
「そういえば来月半ば、学生全員まとまった休みもらえるんだって」

 出張先のホテルがボロい上に手のひらサイズの蜘蛛が出て最悪だったとか、最近人気のグラビアアイドルがテレビに出てたけど動いてるとあんまり可愛くないだとか、夜蛾先生のプライベートが謎だから尾行してみたけどすぐバレたとか、来年入学予定の後輩がすでに二人いるだとか。注文したカルボナーラをフォークでくるくる巻きながら、そういう他愛のない話の合間に今日ずっとしようと心に決めていた話を差し込む。
 すでに日替わり定食を食べ終えていた傑と、遅れて運ばれてきたミックスグリルを頬張る五条、二人の視線が私へ向けられる。

「ちょっと遅いけど夏休みもらえるみたいで……と言っても、一週間もないと思うんだけど」
「へえ、そうなんだ。まあ入学してから私たちみんな授業や任務、訓練で休みもほとんどなかったしね」
「それで、その、傑さえよければどこか行かない? ふ、」
「あ、じゃー俺映画がいい」

 長いウインナーを咀嚼し終えた五条がフォークを天井に向けて意見するのを聞きながら、私は心底うんざりした。焦ってしまった自分と空気を読めない邪魔者に、である。とはいえ、五条は私が傑に想いを寄せていることは知らない。だから今のこの状況で傑だけを誘うだなんて、無理だと分かっていたはずなのに。高専ではほとんど二人きりになるチャンスがない上に、補助監督のみんなから頑張れと送り出されて少々勇み足になっていたようだ。
 二人で、という一番言いたかった言葉を、丸めた麺とともに喉の奥へ押し込む。傑は腕を組んでソファの背もたれに背中を預け、「映画ねえ」と呟いた。

「悟は何が見たいんだい?」
「チャイルド・プレイ チャッキーの種」

 冗談でしょ……。なんでよりにもよって狂気に満ちた人形のスラッシャー映画見なきゃなんないの……。
 食べるスピードががくんと落ちた私をよそに、傑がふっと目を細める。

「ああ。悟好きだよね、あれ」
「公開されたばっかだし、来月半ばならまだやってんだろ。硝子も誘おうぜ」
「でもはホラー映画苦手じゃなかった?」
「まあ、好んでは見ないかな……」
「怖いなら私が隣に座るから、安心しなよ」

 ごくん、と飲み込んですぐ、私は傑を見た。入学当初から変わらない傑の優しい眼差しに胸がぎゅっと締めつけられる。
 好き。大好き。本当に好き。正直ホラー映画なんて怖くも何ともないけれど、傑が隣に座ってくれるのなら怖いフリなんて朝飯前だ。
 ふにゃ、と顔の筋肉が弛むのを堪えきれずにいたら、五条の足が今までで一番強く私を蹴った。しかも今回は靴ではなく脛を攻撃され、びりびりと痺れるような痛みが身体を駆け上がっていく。
 さすがに我慢の限界を迎えた私は、知らんぷりしている五条の足を思い切り踏みつけた。ぎろりと五条の碧眼が私を睨む。

「あれ、でも五条、実家に帰らなきゃって言ってなかった? その長期休みの間に京都帰ったら?」
「は? そんなこと俺一言も言ってねえし、てか実家なんて年末に帰れば十分だろ」
「でも五条は特級だし、長期休み中も任務入っちゃうかもしれないよねえ……」
「それなら傑だって同じじゃね?」
「あとさ、映画は一人で見るのが好きだって言ってたよね。お金持ちのお坊ちゃまなんだし、映画館貸切にして一人で見たらどう?」

 互いの足を蹴ったり踏みつけたり、最初は軽いものだったその攻防が次第にエスカレートしていく。最終的にテーブルの上の皿がガチャガチャと音を立て始め、呆れ顔の傑に「やめな、二人とも」と言われるまでそれは続いた。
 あと五分で迎えが来る、というタイミングで店の外へ出ると、夏の熱された空気が身体にまとわりついて思わず顔を歪めた。ここは盆地だからか、山の上にある高専で暮らしている身からするとじめっとしていて余計に蒸し暑く感じる。

「……え? まさか五条も一緒に帰るわけ?」

 着信が入り離れた場所で電話し始めた傑に背を向けて、制服を脱ぎワイシャツ姿になった五条を見上げてそう尋ねる。
 五条はシャツのボタンを一つ外し、怪訝そうに眉をひそめた。

「同じとこに帰るんだから、当然だろ」
「ここまで飛んで来たんでしょ? 飛んで帰れば?」
「やだよ、だりいもん」
「じゃあアンタが助手席ね。私と傑が後ろ」
が助手席、俺と傑が後ろ」
「やだ」
「……じゃ、傑が助手席で俺とが後ろ。それか後ろに三人」
「もっとやだ」

 チッと舌打ちをする五条に、舌打ちしたいのはこっちの方だ馬鹿、と頭の中で悪態をつく。
 もういっそ傑のことが好きだからうまくいくよう協力してほしい、と打ち明けてみようか。車に乗るときもできれば二人で隣に座りたいし、今度の休みの日も二人で出かけたいのだ、と。
 そんな考えが頭に浮かんだが、私はそれを一瞬で打ち消した。恐らく私並に傑のことが大好きな五条のことだ。絶対に協力なんて得られるはずないし、むしろ今まで以上に邪魔ばかりする意地悪な姑と化すに決まっている。
 諦めて駐車場の車止めに腰を下ろしたとき、店のドアが開いて出てきた子どもと目が合った。店内で五条にぶつかった男の子だ。
 恐竜柄の帽子をかぶった男の子は、母親と手を繋いで歩きながら五条をちらりと見たあと、もう一度私をじっと見つめた。さっきはうちの馬鹿がごめんね。そんな思いを込めて手を振ってみれば、彼も恥ずかしそうにひらひらと手を振り返してくれた。
 子どもって可愛いよなあ。陽炎の中を歩いていく親子の後ろ姿を眺めながら、ぼんやりと自分の将来に思いを馳せる。呪術師という特殊な職業の私でも、いつかは結婚して子どもを産むのだろうか、と。
 子どもの右手を握って歩く私。そして子どもの左手を握って歩く、傑。そうなるためにはつまり、私と傑がそういう関係になって、そういうことをしないといけないわけで――。

「……何ニヤニヤしてんだよ、キッショ」
「うっ、うるさいな」

 いつの間にか私と同じように車止めに座り、こちらの顔を覗き込んでいた五条と目が合って咄嗟に顔を逸らす。確かに、今のはちょっと気持ち悪かったな、私。

「悟、。迎え来たよ」

 傑の声が聞こえて顔を上げると、見慣れた黒塗りの車が駐車場に入ってくるところだった。うん、と返事をして顔が赤くなっていないだろうかと心配しながら、立ち上がってスカートについた砂を両手で払う。
 でも、そんな未来があればいいな。
 心の内で密かにそう願いながら、傑の元へ駆け寄ろうとしたところで私は膝から崩れ落ちた。正面にいた傑の驚いた顔が下に消え、ぐるんと視界が回って一瞬だけ青空が見えたあと、背中に何かが当たってすぐに私を見下ろす五条の真っ黒なサングラスが見えた。
 膝カックンされた、と気づいた瞬間、サングラスを外した五条の口がゆっくりと弧を描き「バーカ」と呟く。かあっと一気に顔中が熱くなった。

「っ五条! 馬鹿、アホ! 死ね!」
「隙だらけ、マジだっせぇ~」

 五条に向かって拳を振り上げる私、へらへら笑いながらそれを避ける五条、呆れたように笑いながら私たちを見守る傑。
 そんな高専一年目、夏の終わり。




「大丈夫?」

 店内の空気が変わった、と思った。
 懐かしい声に目を向ければ、一人で転んでしまったらしい男の子の前に屈む五条がいた。昔とは違い真っ白な包帯で目を覆った五条は、転んだまま彼を見上げている男の子の両脇に手を入れて一瞬で立ち上がらせると、頭をぽんぽんと優しく叩いた。

「気をつけてね」

 男の子がこくりと頷いたのを確認して五条も立ち上がる。そして彼は店にいる客たちの注目を浴びたまま、まっすぐ歩いて窓際の席に座っていた私の真横に立った。

「や、久しぶり」
「変わったね、五条」
「そう? 僕は今も昔も変わらずナイスガイだけど」
「まあ、呼んでないのに来るところは変わってないか」

 ふ、と口元に笑みを浮かべた五条は椅子を引き、私の目の前に座る。随分前に呪術師を辞めてしまった私がこうした形で彼と顔を合わせるのは、久しぶりのことだ。

「その白い包帯、何? 似合ってない」
「よく言われる、変態みたいだって。だから次は黒のアイマスクにしようと思ってる」
「それはそれで変態っぽいな……」

 冷めてしまった苦いコーヒーを一口飲んで窓の外へ視線を移す。何も注文するつもりはないのか、五条がポケットに手を入れたままじっと私の横顔を見つめているのが分かった。
 季節は冬。しかも都会のど真ん中にあるファミレスから見える景色はあのときとはまったく違う。それでも、あの日を含めた学生時代の記憶はつい昨日のことのように容易く思い出すことができる。
 ファミレスからの帰り道、ジャンケンで負けた私が渋々助手席に座ったことも。四人で行った映画館で、私と傑の間に五条が座ったことも。そしてもちろん、傑が謀反を起こした日のことも。
 数人の女子高生たちが寒い寒いと騒ぎ立てながらファミレスの前を通り過ぎていく。ひと月前、隣の区を中心に起きた騒動の痕跡はまだあちらこちらに残ってはいるものの、徐々に街は日常を取り戻していた。ただ歩いているだけで楽しそうな彼女たちを見送って、持っていたカップをソーサーに置く。

「いいなあ」
「え?」
「何も知らず、青臭くてまっすぐなままでいられたら、どれだけ良かっただろう」

 私も、そしてこの世を去った傑も。
 みんなで高専の術師になって、任務ばかりで休みがないと愚痴を言い合ったりして、たまに夜蛾先生に怒られたりして。そんな、もしかしたらあったかもしれないいくつかのこと。それらはすべて、私と傑が選択しなかった未来だ。

「ねえ、傑のやったことって全部無駄だったのかな」
「どうかな。僕は傑のやったことを認めるわけにはいかないからね、立場的に」
「それはそうね」
「でも、無駄と無意味は違うでしょ」
「……つまり、傑のやったことは無意味ではない、と」
「ま、アイツの遺志を継いでいろいろやってる呪詛師、まだ結構いるっぽいしね~」
「最強は一人で考えたり、背負わなきゃいけないことが多くて大変だね」
「そうだよ。だからこれ以上背負わせないでほしいんだけど」

 その言葉に、私は正面を向いて五条を見た。
 呆れているような、怒っているような、諦めているような、けれどすべてを受け入れているような。目元は見えないがそんな複雑な表情を浮かべている五条に、私は静かに目を伏せる。
 傑が死なずに今も生きていたら、きっとまだ立っていられたと思う。けれど傑はもういない。それに。

「ごめんね。でも、私みたいな呪詛師は再会したときに殺しておかないと。傑で懲りたでしょ」

 それに、これは誰にも話していないことだが、傑が死ぬ前にはっきりともう終わらせたいと思ったのだ。昨年末に京都、そして東京新宿で行われた百鬼夜行。そこで私が殺した高専側の人間たちの中に、ずっと私と傑の仲を応援してくれていた補助監督たちの死体が転がっているのを見つけたときに。
 五条は軽く舌打ちをし、はあ~と大きなため息を吐いた。そして足を組み、椅子をゆらゆらと動かしながら「確認するけど」と低い声で言う。

「考えが変わる確率は?」
「ゼロ。二人きりになれるとこ、行こうか。それともこのまま高専行く?」

 そう言って伝票に手を伸ばすと、私の指先が触れる前に五条がその丸められた紙を掴み取った。

「奢るよ。お金持ちのお坊ちゃまだから」

 驚いて、五条をぽかんと見つめる。そしてすぐに吹き出して笑った。一人でいろんなものを背負っているのに、過去にたった一度だけ私から言われた皮肉を覚えているところが五条らしかった。

「……何か言い残すこと、ある?」

 五条が立ち上がるのを待ちながらコーヒーの中に映る疲れ切った自分を眺めていたとき、そう問いかけられて私はゆっくり視線を上げた。

「五条、実は私のこと好きだったでしょ」
「そういうは傑のことしか見てなかったよね」
「あ、バレてた?」
「バレバレ。むしろバレてないって思ってたわけ?」
「うるさいな。でもこんなことになるんなら、傑にちゃんと好きだって伝えればよかった」
「え、言ってないの? 馬鹿じゃん」
「うるさいなー」

 はは、と笑う私に対して五条はまったく笑わない。それもそうだ。背負う方と背負わせる方、対等でいられるわけがない。

「馬鹿だよ、ホント。もアイツも、僕も」
 
 ふと、窓の外で何かが揺れた気がした。目を向けると曇天の空からはらはらと雪が落ちてきていて、道行く人たちが空を仰いでいる。そんな中、視線を感じて見てみれば一人の男の子がこちらをまっすぐ見つめていた。先程、店内で転び五条に起こされていた子だ。五条のことを見ていた彼は私の視線に気づくと、はにかんで手袋をはめた小さな手を振った。
 あの日。陽炎の中を歩いていく男の子。その小さな背中を眺めながら願った未来を、選ばなかった未来を思う。

「……の気持ちなんて無視して、無理矢理にでも自分のものにしておくんだったよ」

 男の子に振り返そうとした右手はぴくりとも動かない。笑おうとしたけれど、なぜだかうまく笑えない。そして珍しく小さな声でぽつりと呟いた五条の顔を見ることもできないまま、私は空から降りてくる雪をただひたすらに眺め続けている。


(2024.09.26)