駅の出口がいっぱいあってどこから出ればいいか迷う。さっきコンビニを通り過ぎたと思ったら、またすぐ違うコンビニがある。そして何より、人が多すぎる――。
 夜を明るく照らす二十四時間営業のディスカウントストア。その前にたむろす未成年らしき女の子たちを横目に、生まれて初めての東京に抱いた感想を頭の中で並べながら歩いていく。
 イメージしていた通りだ。東京はたくさんの人で溢れているのに、みんな自分以外の人間にはさほど興味がなさそうだった。そのことに、今日までずっとド田舎で隣近所に見張られているような生活を送ってきた私の心の中は、寂しさや不安よりも新鮮な解放感でいっぱいになっていた。
 だからこそ、私はびっくりしたのだ。夜の公園で一人怪しくうろうろする私に声をかける人間がいたことに。

「なあ、さっきから同じトコぐるぐる歩き回ってるみたいだけど、何か探し物?」
「あ、大丈夫で……」

 びっくりして、振り向いて、さらにびっくりした。優しく穏やかな声色からは想像できない、真っ黒な服を着て真っ黒な目出し帽をかぶった人物が背後に立ち、こちらを見下ろしていたからだ。
 いやいや。東京、恐ろしすぎるだろ。

「ご」
「ん?」
「強盗……」
 
 ひく、と口元を引き攣らせて一歩後ずさる私に、その人は少し間を置いて「あ!!」と声を上げた。静まり返った誰もいない公園にこだまするほどの声量に心臓がどくりと大きく音を立てる。

「やっべ、忘れてた!」
「お金、今二千円しかなくてですね……」
「違う違う! フツーの、一般人です!」

 そんな慌てた声とともに目出し帽の下から現れたのは茶髪の若い男だった。恐らく年齢は私と同じか、少し上くらいだろう。
 ショルダーバッグの中の財布に触れたまま、一重でまっすぐな、何かを訴えているような瞳と見つめ合う。
 普通、と言われても。強盗以外で目出し帽をかぶる人なんて、いるわけなくない? それともあれか。東京では、案外普通のファッションとして浸透しているのだろうか。
 見た目はやんちゃしてそうな感じではあるが、狼狽している様子は悪い人には見えない。しかし素顔を見せてもらったからと言って警戒を解くはずもなく、そんな私に彼は気まずそうに目線を泳がせて前髪をくしゃりと掻きあげた。額の上を走る傷跡に、一瞬だけ目を奪われる。
 無反応を貫く私に、しばらくして男性はスっと右手を上げて公園の出口の方を指差した。

「あっち、まっすぐ行けば交番あるから。落とし物なら届いてるかもよ」
「やっぱり、お巡りのいる場所とかは把握しておくものなんですか……」
「だから! ちげーって!」
「……とにかく、ご親切にどうも。でも多分届いてないので大丈夫です。ありがとうございます」
「何探してんの?」
 
 話を終わらせたつもりなのに、意外にも食い下がってくる。質問を無視する度胸はなく、仕方なく私が「御守りです」と呟くと、彼も「御守り?」と言って不思議そうに首を傾げた。つい先程まで気まずそうに狼狽えていたことが嘘のように、その顔は夜に一人で御守りを探す女に興味津々といった感じである。
 私の実家は、ド田舎にあるとは言えそれなりに名の知れた神社だ。探している御守りは、男手一つで私を育ててくれた父が上京する娘を案じて持たせてくれたものだった。

『東京にはいろんな奴がいる。その中で誰か一人でいいから、信頼できる人間を見つけろ。そうすりゃ何とかなる』
 
 駅のホームで電車を待つ私にそう言ったあと、今にも泣きそうな赤い目をカッと見開いて「でも男はマジで駄目!」と叫んでいた父の顔が頭をよぎる。
 神社の娘と言っても、私はそこまで信心深い方ではない。それでもさすがにもらった御守りをもらったその日に落とすと言うのは、父に申し訳なさすぎる。だから夜になっても宿泊先のホテルに戻らず、こうして昼間に立ち寄った場所を探している、というわけだ。私は一つ、ため息を零した。

「スマホとか、財布とか。そういうのならまだしも、道に落ちてる御守りをわざわざ拾って交番に届ける人っていないと思うので」
「まー、それは確かに。ちなみに御守りってよくある普通のやつ? 何色?」
「普通の、白の……」

 自販機のすぐ前で話し込んでいた私たちだったが、いつの間に手に持っていたのか男性のスマホのライトが光り、辺りがさらに白く明るくなった。しゃがみこみ、すぐ近くにあったベンチの下をライトで照らし始めた男性の姿に驚いて「何してるんですか」と彼の頭上から声をかける。
 ぱっと顔を上げてこちらを見る男性の顔は、私よりもずっと驚いているように見える。

「何って、御守り探してるんだけど」
「え、頼んでませんよ、私」
「でもさあ二人で探した方が見つかる確率高いじゃん。夜も遅いし。それに、大事なものなんだろ?」

 言葉に詰まる私をよそに、男性は立ち上がると辺りをスマホで照らしながらぐるりと見渡し、「とりあえず一周してみっか」と笑った。
 中学高校のとき、学年に一人はこういう子いたな。カースト上位下位、分け隔てなく接することができる根明な男の子。それに加えて、この人はきっと困っている人を放っておけないタイプなのだろう。荷物をいっぱい持っているおばあちゃんがいたら、その荷物を全部持った上でおばあちゃんのことをおんぶしそうだ。
 そんなことを考えながら、きっと断ったところで無駄なのだろうと私は渋々頷いた。
 都会のビルに囲まれた公園は中央が芝生の広場になっていて、ブランコや滑り台などのカラフルな遊具がいくつか設置されている。広場の周りはぐるりと舗装された道で囲まれており、そんなに広い公園ではないので大人の足なら二十分もあれば一周することができる。
 昼間にふらふらと散歩したときは、まさかその日の夜に男性と二人で歩くことになるだなんて思ってもみなかった。足元から視線を上げて、私の斜め前を歩く男性を盗み見る。このことを父が知ったら、間違いなく発狂するだろうな。
 急にくるりと振り向いた男性と目が合って、私はぎょっとした。

「あ、やっぱまだ警戒してる感じ?」
「そりゃあ、まあ」

 まるでただのニット帽かのように彼の頭に乗っているのは、先程私の前に現れたときにすっぽりと顔を覆っていた目出し帽である。

「その、一緒に探してもらえるのはありがたいんですけど……なぜ目出し帽を?」
「だよなー、気になっちゃう感じだよなあ」

 うーん、と顎に手を当てて考える素振りを見せた男性は、しばらく悩んで首を傾げたあと、私を見て一言「仕事で必要、みたいな?」と言った。

「それはもう二百パーセント強盗ですよね」
「いやマジで法を犯すようなことはやってないから。お願いだからその目やめて……あ!!」

 いちいち、声がでかい。
 私が声を出すより先に私の背後へと走って行った男性は、屋外灯の下にしゃがみこんでがっかりしたように振り返り、「違った……」と呟いた。彼の手には白いペットボトルの蓋が握られている。
 二百パーセント強盗だとしても。やはりどう考えても、悪い人には思えない。

「一周して、見つからなければ諦めます」

 そう言うと、男性はニカッと笑い「じゃー絶対見つけようぜ!」と言った。きっと体育祭や文化祭などのイベントを全力で楽しむタイプの人だ。
 それから約二十分、最初に出会った自販機の前に戻るまで私たちはほとんど口を利くことなく、自分たちの足元に注意を向けながら歩き続けた。しかし、探し物の御守りが見つかることはなかった。
 私が昼間に訪れた場所はこの公園だけではない。なので『見つかればラッキー』くらいに思っていたので、そんなに落ち込むこともなかった。しかし、である。
 隣でがっくり肩を落とし、分かりやすく意気消沈している男性に私は苦笑いを浮かべる。

「ありがとうございました」
「いや……結局見つけらんなかったし」
「いえ、東京で目出し帽をかぶっている人は意外といい人なんだってことが知れて良かったです」
「まあ多分俺以外は悪いヤツなんだけど。てかこっちの人じゃないんだ?」
「就職で、今日上京したんです。明日から職場の寮に入る予定で、今日は近くのホテルに泊ま……」

 そこまで話して、私はハッとした。初対面の人に身の上をベラベラ話しすぎた。
 ごほん、と咳払いでごまかす私に対し、男性は「マジか。初日に災難だったな」と同情の眼差しを向けた。そんな彼の黒い目出し帽に、小さな葉っぱがついていることに気付く。公園のいたるところに植えられた木の下まで丁寧に探してくれたので、どこかで葉が落ちてきたのかもしれない。
 一歩、男性に歩み寄る。それまで初対面同士ということもありある程度の距離を保って歩いていたが、その距離が一気に詰められたことに男性は少しだけ驚いたようだった。手を伸ばし、指で葉をつまむ。そしてみるみる見開かれていく男性の目の前につまんだ葉を差し出した。

「葉っぱ、ついてましたよ」
「びっ」
「び?」
「びびった~! お礼にちゅーでもされんのかと思った!」

 後頭部に手を当て、アハハと気の抜けた笑い声を上げる彼の目の前で葉を地面に落とす。
 そんなこと、するわけないじゃないか。そう思いつつも、男性の言う『お礼』という言葉に私はそれもそうか、と思った。確かに、いくらこちらからお願いしたわけではないとはいえ、初対面の私にここまで時間を使わせておいて何もお礼をしないというのは失礼だ。

「そのドン引きした顔やめてくんない」
「お礼、確かにしないとだめですよね」
「いや、マジでいいから。財布しまって。二千円大事にして」
「……猪野くん?」

 突然聞こえてきた知らない声に息を呑む。声のした方を振り返ると、少し離れた場所に眼鏡をかけたスーツ姿の男性がぽつんと佇んでいた。戸惑いつつも、こちらの状況を理解しようとしているように見える。

「うわ、伊地知サン! 待たせてすんません!」
「飲み物を買ってくると言われてなかなか戻って来られないので……何か問題でも?」

 そう話しながらつかつかとこちらへやってきた男性は、眼鏡を指で押し上げるとじっと私を見つめた。どうやらこの二人は知り合いで、状況的に眼鏡の男性のことを待たせてしまっていたらしい。

「すみません、私のなくし物を探すのを手伝ってもらってまして」
「俺が勝手に手伝っただけなんスけど」

 私たちの説明に、眼鏡の男性は安心したのかほっとしたように表情を緩ませた。

「そうでしたか。てっきり何かトラブルかと……なくし物は見つかりましたか」
「いえ」
「良ければ近くの交番までご案内しますが」

 その申し出に、私は首を横に振った。なくし物が御守りであることはいちいち説明しなかった。

「大丈夫です、諦めますので」
「そうですか」
「ええと、ありがとうございました。イノ、さん」

 眼鏡の男性に呼ばれていた名前で呼ぶと、隣に立っていた目出し帽の彼は愛嬌のある笑顔を浮かべて片手を上げた。

「見つけてあげらんなくてゴメン。新生活、頑張って!」

 二人と別れ、公園から大通りに出て振り返る。明るいところから見ると公園は薄暗く、中の様子は全く分からない。昼間とは打って変わってまるで別世界への入口のようで、短い夢でも見ていたかのように思えた。
 悪い人じゃない、というより、ただのめちゃくちゃ良い人だったな。
 夜とは思えないほどの明るさと賑やかさを全身に浴びながら、どこかふわふわした気持ちで一歩ずつ歩いていく。
 ホテルに戻ったら、御守りをなくしてしまったことを父に謝ろう。でも親切な男の人が一緒に探してくれたってことは、黙っておこうかな。

「驚きました。自販機の前で先程の女性が財布を出しているように見えたので。てっきり私は猪野くんがカツアゲしてるのかと」
「ンなことするわけないじゃないですか」
「それにしても、あの方……」
「へ?」
「……いえ、何でもありません」

 公園で彼らがそんな会話を交わしていたことを、ホテルまでの道のりを歩いていた私は知る由もない。

*

「実家、九州だっけ?」
「あ、はい。南の方で神社やってます」
「あーやっぱりそういう家系なわけねー」

 ずずず、と音を立ててバニラシェイクを吸いながら歩く黒くて大きな背中。脚の長さに差がありすぎるせいで、ずんずんと先へ進む彼の歩調に合わせるのはなかなか一苦労である。
 早歩きで追いながら、目の前を歩く彼の真っ白な髪が後ろへ靡く様子を見つめる。

「まさか、到着して早々有名人に会うとは思いもしませんでした」
「え、僕って九州でも有名人なの?」

 歩くスピードを落とすことなく振り返った彼の目は、黒い目隠しで覆われているせいでどこに視線を送っているのか分からない。噂によると、宝石よりも美しい瞳なんだとか。見てみたいような、逆に見てみたくないような。
 こくりと頷くと、彼はニッと口角を上げて「参ったな~モテモテじゃん、僕」と言う。
 五条悟。御三家である五条家の当主で、数少ない特級術師。そんなお堅い肩書きを持つ彼には、会う前からずっと畏敬の念を抱いていたのだが。何というか、想像してたより軽薄そうな感じだな。

「ま、折れずに死なずに頑張ってよ。せっかくこっちに出てきたんだからさ」
「はあ」
「お、いたいた。おーい、伊地知」

 あれ、どこかで聞いたことある名前――。
 ふと顔を上げる。立ち止まった五条さんの背中からそろりと顔を出すように彼が声をかけた方を見れば、そこにはつい昨日会ったばかりのあの眼鏡の男性が、昨日と同じスーツ姿で立っていた。

「ホラ、今日から入る新人術師の子」

 頭上で五条さんがそう説明するのを聞きながらぽかんと口を開けている私を見て、彼の、伊地知さんの目も見開かれていく。そして。

「え、新人入るんスか!?」

 そんな明るく元気な声が聞こえて、伊地知さんの後ろから顔を出した人物に私は目を丸くした。五条さんと伊地知さん、二人を間に挟み、ばちんと視線がぶつかる。

「あ」

 声が、重なった。

*

「やはりそうでしたか」

 あとはよろしく、と鼻歌を歌いながら去っていった五条さんの姿が見えなくなってすぐ、伊地知さんがどこか納得したようにそう言ったので私は首を傾げた。

「やはり?」
「昨日お会いしたとき、どこかで見たことがある方だなと思いまして。少し前ですが、履歴書を拝見していたので」
「ああ、なるほど」
「まっさか術師だったとはな~。でも納得だわ、俺のこと強盗とか言いながらめちゃくちゃ落ち着いてたもんな」

 屈託なく話しながら、猪野さんは顔を寄せてまじまじと私のことを見つめる。何となく気恥ずかしさを感じて、私はふいと視線を逸らした。
 
「まあ、危なくなったらとりあえず股間蹴って逃げようと思ってたので」
「こっわ……」
「早速ですがさんには明日、等級を決めるための任務に出ていただきます。後程同行予定の術師の方を紹介しますね」

 そう言うと、伊地知さんは別件対応があるらしく猪野さんに私を寮へ案内するよう頼んで仕事へと戻って行った。よろしくお願いしますと頭を下げると、猪野さんは「了解!」と笑った。昨夜と同じ笑顔が、窓から差し込む太陽の光も相まってやけに眩しく感じた。
 まさかこんな偶然があるとは――。
 昨日と同じように斜め前を歩く猪野さんに続きながら、私は少しだけほっとしていた。東京は京都ほどではないが癖のある術師が多いと聞いていたし、これから一緒に仕事をしていく仲間とはなるべくうまくやっていきたかったから、猪野さんのように親切な人がいることは人見知りの私をかなり安心させてくれた。
 すっと後ろに下がった猪野さんが私の隣に並ぶ。頭の後ろで手を組みながら「それにしてもさあ」と呟く。

「なんで寮入んの? まあ職員でも寮住んでる人はいるけど、一人暮らしの方が楽じゃね?」
「一人暮らしは、ある程度お金を貯めてからにしようと思って……」

 本当は、父が半泣きで東京で一人暮らしは危ないからせめて寮にしてくれと懇願してきたので仕方なく寮にしたのだが、成人した女が父の言いなりになっていることが恥ずかしくて黙っておいた。実際、一人暮らしを始めるための資金がないのは事実だし。

「俺んちの隣の部屋、両方空いてるよ。事故物件で『出る』って噂もあったから、家賃格安」
「出るんですか?」
「もう祓ったけど」

 なるほど。そういう手もあるのか。
 思わず感心していると、猪野さんは私の顔を覗き込むようにして「どう?」と笑った。楽しそうな彼の瞳を軽く睨みつける。

「同じ職場の人が隣の部屋って、寮と変わらなくないですか?」
「んー、まあ確かに?」
「猪野さんだって嫌でしょう」
「俺は全然嫌じゃない、むしろ嬉しいかも」

 へら、と頬を緩ませた猪野さんに私は押し黙った。この人、昨日は根明な人だなと思ったけど、それに加えて相当なたらしなのかもしれない。
 彼のペースに呑まれないよう、少し歩調を早めて猪野さんの前に出る。「考えておきます」と受け流すと、後ろで猪野さんが「よっしゃ」と小さく喜ぶ声が聞こえた。

「てか荷物そんだけ?」
「他の荷物は先に届いているはずなので、恐らく寮に運ばれているかと」
「そっか……って、ん!?」

 相変わらず急に大声を出す猪野さんに半ば呆れて振り返る。彼の目は私が背負っていた黒いリュックに向けられていた。一体何事だろうと一瞬だけ不思議に思ったが、すぐにその理由に気付いた私も「あっ」と小さく声を上げる。
 リュックにぶらさがり揺れる白い御守り。それはまさに、昨夜私たちが公園で探していたものである。

「見つかったんだ!」
「いえ、あの……実は……」

 吸い寄せられるように御守りを見ていた猪野さんは、歯切れの悪い私へ視線を向けて、二、三度瞬きをした。
 実を言うと、どこかに落としたと思っていた御守りはどこにも落としていなかったのだ。昨日ホテルに戻ったあと、シャワーを浴びてから父に電話をしようと思いリュックを開けたら内ポケットの中に御守りが入っていたものだから、私は驚くと同時に自分の記憶の曖昧さに呆れもした。
 そのことを真っ先に伝えなきゃいけなかったのに、猪野さんたちに再会したことによる驚きのせいで、すっかり忘れてしまっていた自分にさらに呆れる。
 私の説明を聞いて黙ったままこちらを見据える猪野さんに、だんだん気まずい気持ちが込み上げてくる。あんなに一生懸命探すのを手伝ってもらっておいて、実はホテルに置いたままでした、だなんて。さすがの猪野さんも怒るだろう。

「なので、その、本当にすみませんでした。一緒に探していただいたのに、こんな」
「マジ良かったじゃん!」

 いつの間にか項垂れていた私は、猪野さんの言葉に顔を上げる。
 
「え?」
「結構気になってたからさ~俺。見つかんなくて、落ち込んでんじゃないかなって」
「落ち込んでるって、私が?」
「他に誰がいんの。でも、あったんなら良かったわ」

 そう言って底抜けに明るい笑顔を見せる猪野さんの姿に、何だか胸の奥がぎゅっと強く締めつけられたような気がして私は眉をひそめた。そんな私に気付いて、猪野さんは私の眉間のしわを指差す。

「何、その険しい顔」
「いえ、別に……そうだ、改めてお礼をちゃんとしなきゃですね」
「いいよ、礼とか。結局俺は役に立ってないわけだし」
「お礼は、キスがいいんですか?」

 そう尋ねると、私と猪野さんの間に沈黙が流れた。そしてしばらくして、ぼんやりと宙を見つめていた猪野さんが目を見開いて「ばっ!!」と声を上げる。ばっ、とは、『ばか』の『ば』だろうか。
 猪野さんは額に手を当てて顔を背けるように横を向いた。耳たぶと頬がほんのり色付いていることに気付く。ひょっとしたら、昨日もこんな風に顔を赤くしていたのかもしれない。
 軽い冗談のつもりだったのだが、意外な反応を目の当たりにして締めつけられていた胸の奥が今度はこそばゆくなっていく。猪野さんは頭を抱えたまま盛大なため息を吐いた。

「女の子がさあ……そういうこと言っちゃだめでしょ」
「すみません、してほしいのかなと思って」
「うーん、それはまあ……されたら嬉しいけどさあ……」

 口ごもる猪野さんの顔を覗き込むようにして見上げる。目が合うと、猪野さんは少しバツが悪そうに目を細め唇を尖らせた。

「じゃあさ、下の名前教えてよ。それが礼ってことで」
「私の?」
「だから、他に誰がいんの」
です。
、ね」
「……こんなのがお礼でいいんですか」
「いいんですぅ~」

 拗ねた子どものような返答に、私は思わず噴き出して笑った。根明でたらしで、ほんの少しシャイ。猪野さんがどういう人間か、よく分かったような気がする。
 くすくすと笑い続ける私を見て猪野さんはさらに恥ずかしくなったのか、もっと顔を赤く染めて「普通に笑うんじゃん」と、よく分からないことを言う。

「顔、赤いですよ」
「あ~! 今日あっち~!」

 猪野さんはそう言うと、目出し帽を下ろし顔を隠してしまった。そんなことしたら、もっと暑いはずなのに。さらに笑う私に、猪野さんも笑う。ちゃんと笑ったのは、上京して初めてのことだった。
 誰か一人でいいから、信頼できる人間を。父の言葉を思い出す。
 私は運がいい。そんな人を、早速見つけてしまったかもしれない。
 でもその相手が男だということを知ったら、父はどんな顔をするだろうか。



(2024.07.26)