「さんってさあ、ちょっと頭固くない?」
突然聞こえてきた自分の名前に、先程まで恐ろしく重たかった瞼が一瞬で軽くなった。
いけない。トイレで寝るとこだった。
息を潜めたまま、親指と人差し指で目頭をぎゅっと強く押え、まだ覚醒しきっていない頭で目の前にあるくすんだ白色の扉を見つめる。
声から察するに、私のことを「ちょっと頭固くない?」と言い放ったのは毎日一緒に仕事をしている後輩の補助監督で、これまた気配から察するに彼女は誰かと電話で話している最中らしい。
私は彼女のことが、少しだけ苦手だ。
「昨日のさあ、京都から応援に来る術師のスケジュールの件とか。あれじゃあ伊地知さんに負担いきすぎじゃん。同期とは言え、もっと気遣いとかさ……もはや女としてどうなの、みたいな」
これは、あれか。悪口ってやつか。
よく漫画なんかではこういうとき、堂々と扉を開けて相手と対峙する主人公がいたりする。でも私にそんな度胸、あるわけがなく。
蛇口から水が出る音が十秒ほどで止まる。膝の上で作った拳に自然と力が入る。
「ま、悪い人じゃないんだけどね」
そんな一言と笑い声を最後に残し、彼女は去って行った。
軽い足音が完全に聞こえなくなったところで、私はようやくトイレットペーパーを回した。からからから、という音を聞きながら、ぼうっとしていた頭がすっかり冴えていることに気が付いた。
確かに、下着を下ろしたままうつらうつらするのは、もはや女としてどうなの、みたいな。
立ち上がってストッキングをぐいっと上げると、太ももの辺りにぷつっと穴が空いてまっすぐな線が生まれた。黙ってそのざらついた線を指でなぞったあと、蓋をして隠すように黒いスーツのズボンを上げる。
冷たい水で手を洗いながら鏡を見る。目の前には、先程ここで私の話をしていた彼女とは違い、一度も染めたことのない髪を適当に後ろでまとめ疲れ切った表情を浮かべる私がいた。昨日乾かさずに寝てしまったせいで、髪はいつにも増して乱れている。
「悪い人じゃないんだけど、か」
それって、実は何のフォローにもなってないんだけどね。
はあ。ため息を落とせば惨めな自分が浮き彫りになった気がして、胃の奥が鈍く痛んだ。
事務室に戻って席に着くと、目の前の席に座っていた例の彼女が書類の山の向こうからひょこっと顔を出す。一瞬ぎくりとしたが、悟られないようにこりと微笑んでみせた。真正面から目を合わせる気分にはなれなくて、恐らく先程から身につけていたのであろう彼女の耳元のハンズフリーイヤホンを見つめる。
「さん。五条さんから報告書預かってます」
「ああ、ありがとう。五条さん、来たんだ」
「さんいなくて不満そうでしたよ」
彼女から手渡された書類の右下に美しい字で記された『五条悟』という名前に視線を落とす。そういえば五条さん、最近会ってないな。
視線を感じて目線だけを上げると、彼女がじっと私を見つめていたのでなんだか変な汗が額に滲んだ。
「どうかした?」
「なんか今日、髪軋んでません?」
「あ、ああ……昨日乾かす前に寝落ちしちゃったから、それでかな」
「えっ!」
二人しかいない静かな事務室に彼女の驚きの声が響く。その声にぎょっとした私は五条さんからの報告書を片手に目を見開いて彼女と見つめ合う。
しばらくして、彼女はどこか感心したように、いや呆れたようにこう言った。
「さんぽいですね、乾かさずに寝落ちって」
ディスられている、って、ああいうときに使う言葉なのかな。若者言葉、分からないけど。
「……え、ねえ。聞いてる?」
ふっと手元のタブレットに影が落ちてきてハッとする。顔を上げると、今日の担当術師が首を傾けて私を見下ろしていた。
五条さんほどではないが、上背のある彼がすぐ目の前に立つとなんだか圧のようなものを感じて、思わず口角が引き攣る。
「失礼しました。今、車回してき、」
「今日さあ、俺ってもう終わりだよね」
がっしりと、強い力で掴まれた手首が視界の隅に映る。引き攣ったままの口角がうまく上がってくれない。
『こういう人』だと分かっていたのに油断した。嫌な予感がする。
「このあと食事行こうよ、せっかくだしさ。お酒いける?」
「あ……その、まだ仕事が」
「いいじゃん、一晩くらい」
いや、一晩って。
迫りくる顔に思わず腰が引けて持っていたタブレットが手から滑り落ちる。幸い芝生の柔らかな場所だったので嫌な音はしなかったものの、慌てて拾おうと身を屈めたときに腰から尻にかけて何かが滑っていった。
それは、手だった。私のものより、ずっと大きな。
「やめてください!」
周りを歩いていた平和の象徴である鳩たちが一気に飛び立って行く。今日の現場である緑豊かな自然公園は終日閉園しているため、辺りに私たち以外の人はいない。そんな静かで長閑な公園内に、私の声はよく響き渡った。
どっどっどっ、と、心臓の音が頭の中で聞こえる。そのリズムに合わせ、私の手首を掴んだままの彼の表情がみるみる歪んでいく。
「……可愛くねえなあ」
しらけたわ、という一言とともに、私の手首は解放された。じわじわと、手首から全身へ熱が広がっていく。じわじわと、周りの景色が狭まっていく。
「アンタ、どうせ大した術式も能力もないから裏方やってんだろ? それなら術師が気持ち良く仕事できるよう、ちゃんとやれよな」
別に新人ってわけでもなく、何か仕事で大きなミスを犯したわけでもない。後輩の彼女も術師の彼も、元からああいう人たちで今日になっていきなり態度が変わったわけでもない。
なのにこんなにも気分が落ちているのは、きっと生理前だからだ。そうに決まっているし、そうでなければ困る。
休憩室の大きなソファに沈み込んだ私の手の中でスマホがぶぶ、と震えた。『移転のお知らせ』というタイトルのメールはいつも通っている美容院から届いたものだった。
「最後に髪切ったの、いつだったっけ……」
そう呟きながら、後ろで束ねた髪の毛先を目の前に持ってくる。乾燥してまとまりのない髪は、なんだか私そのもののようだった。
こんな髪、ばっさり切ってしまおうか。思い切って派手な色に染めてみたりして。
メールを閉じて、そのままブラウザを開き検索バーに『転職』と入力する。ヒットした転職サイトの一番目を開くと、『半年以内に転職したい』『今は転職を考えていない』と二つの選択肢が表示された。
仮に私が今からこの年齢で転職するとして、職歴は一体どうやって書けばいいんだろう。主に呪霊を祓う方々のサポートをやってましたって言って採用される?
テーブルに置いていたコンビニのパンの袋を開けて一口齧る。いつも好きで食べているものなのに、なんだか味気ない気がする。
頭も固い、女としてもやばい、際立った能力もなければこの環境から抜け出す勇気もない。苛立ち、怒り、悲しみ、不安。そんな負の感情が一気に流れ込んで来て、そのまま押し潰されそうだ。
どっどっどっ。今日はやけに、心臓の音が耳障りだ。ぐらりと脳が揺れた気がして、私は目を閉じた。
ああ、なんか、だいぶまずい。ちょっと、いやかなり、落ちそ、う。
「エッ、転職すんの?」
泥沼にはまり沈んでいく私の頭上からそんな声が聞こえて、ゆっくりと顔を上げる。
天井からぶら下がる古い照明のせいで逆光になっていたが、彼が指を引っ掛けたアイマスクから覗く水色の瞳はいろんな光を跳ね返しているかのように煌めいていた。
「五条さん、お疲れ様です……」
「転職?」
「これは、なんか間違えて広告押しちゃって」
「なんだーだよねーびっくりしたー」
私の嘘をあっさりと信じた五条さんは、すべての語尾を伸ばしたあと炭酸のペットボトルと何やらコンビニスイーツの入った袋をテーブルに置いて、ぼすん、と勢いよくソファに腰を下ろした。その衝撃で、同じソファに座る私の身体も上下に揺れる。
休憩室は共用スペースではあるが、この妙に質の良いソファは五条さんが自費で購入したと聞く。大事な休憩の邪魔をするわけにはいかないと、重い身体を起こし立ち上がった私を五条さんが引き止める。
「まだ仕事残ってんの?」
「いや、今日はもう上がりですけど……」
「じゃあちょっと喋ろうよ。久々じゃん、会うの」
今日せっかく事務室行ったのにいなかったし。
そう言いながら口を尖らせる五条さんは、いつからこんなにお喋り好きになったのだろう。
学生の頃の私たちは学年も違ったし特別に親しいわけではなかったが、五条さんが教師、私が補助監督になってからは、何かとこうして二人きりで何でもない話をすることが多くなった。
じゃあせめて、まだ不自然にうるさい心臓が落ち着くまでは。そう思い、再び五条さんの隣に座る。
「いやー最近やばいよね。まだ繁忙期でもないのにさ。京都から応援回してもらう話、どうなった?」
「来月で確定しましたよ」
「あ、そう。補助は誰がつくの?」
「担当は伊地知くんです。男性の補助監督を希望とのことだったので……その分しばらくは伊地知くんが抱えてる業務を私に振るつもりです」
普通に、いつも通り喋れていることに少しだけ驚いた。それでも、なかなか心臓の方は落ち着いてくれない。
「そっか。いろいろと気遣ってくれてんだね」
そう言いながら、五条さんはチョコロールケーキの入った袋を開けた。バリッと音を立てて袋が開いた瞬間、自分の両目からぼろぼろと大量の涙が溢れ出した。
「あ」
「ん?」
涙ぐむのではなく急に大粒の涙を零す私を見て、五条さんの手がピタリと止まる。さらけ出された彼の両目が二、三度瞬きをする。エッ、と再び五条さんがぎょっとするのを察して、私は慌てて彼の視線から逃れるように両手で顔を覆い隠した。
どうして、よりにもよってこのタイミングで。
「すみません! あの、今日は情緒がやばくて」
「え、マジで? 僕抱き締めてあげようか?」
「いえあのそれは大丈夫です」
「あ、そう……」
五条さんが立ち上がる気配を感じて、スーツのポケットからハンカチを引っ張り出す。
「使いなよ」
五条さんはそう言って、壁際に置いてある棚からティッシュボックスを取ってきてくれた。顔を上げると、珍しく困ったような顔をしている五条さんと視線が重なる。学生の頃から知る五条さんの見たことがない表情に申し訳なくなった私は、すみませんと頭を下げてティッシュボックスを受け取った。
先程よりも静かに腰を下ろす五条さんと私たち二人を包む空気。込み上げてくる気まずさ。一度崩壊した涙腺はそんなに簡単に元に戻るはずもなく、私はティッシュを次々と消費していく。
「……ほんと、すみません」
「別に謝らなくていいけど。何かあったの?」
「いえ、何かあったわけじゃ……ちょっと、今日は、疲れちゃって」
「ふうん?」
ちらりと五条さんに目をやると、彼は太ももに肘をつき、手の上に顎を乗せて私のことを見つめていた。目が合うと、五条さんはふと表情を柔らかく緩ませる。
高専時代の先輩かつ呪術界のトップに君臨する人の目の前で、ずびずび泣く私。女としてどうなのって以前に、一社会人としてどうなの。そう思うと、情けなくてまた目頭が熱くなる。
「……うまく立ち回れない自分が嫌になって」
「うんうん」
「おしり触られるくらい、大したことでもないのに」
「……ん? おしり?」
「しかもいい歳して職場で泣いて、五条さんに迷惑かけるし」
「ちょっと待っておしりって何、臀部のこと?」
「もう、全然だめです。私」
一度吐き出すと、止まらない。
しばらくして、五条さんはぐちぐち零す私の背中を優しくぽんぽんと叩き始めた。
今日、私の尻を撫でていったのと同じ、男の人の大きな手。それなのに、五条さんの手の平はものすごく安心する。
そのおかげなのか、泣いて自分の感情を吐露したおかげなのか、幾分か気持ちが凪いでようやく涙が止まった。ずず、と鼻をすする私の顔を五条さんが覗き込む。
「少しは落ち着いた?」
「大丈夫です……すみません……」
「泣き顔、久しぶりに見たよ。あれじゃない? 学生時代、僕がの背中に死にかけのセミ入れたとき以来じゃない?」
そういえばそんなこと、あったな。
遠い昔、夏の終わり。たしかあの時も今日みたく自分のふがいなさに落ち込んでいて、それを見兼ねた五条さんが私の背にセミをひょいと入れたのだ。信じがたいが、嫌がらせでも何でもなく、落ち込む私を慰め元気づけるために。たまたま一緒にいた家入さんとセミを取ってくれた七海さんからめちゃくちゃに怒られていたっけ、五条さん。
記憶とともに、セミが服の中で最後の大暴れを繰り広げる感覚が一瞬だけ蘇って背筋がぞわりとする。しかし相変わらず五条さんの手が優しく私の背中を摩ってくれているので、その感覚もすぐに霧散していった。
吸って、吐いて、を繰り返す。大丈夫、落ち着いた、明日からまた頑張れる。それだけを頭の中で唱え続ける。大丈夫、明日からまた、頑張れる。
涙が止まりようやくはっきりしてきた視界に何かがにゅっと入り込んできた。それが五条さんの手と腕であることに気付いた瞬間、ぐい、と頭を抱き寄せられる。
「ごめんね、慰め方って僕これくらいしか分かんないから」
急だったので声も出せないまま全身が硬直した。
落ち込んでいる人間の背中にセミを入れるよりはずっとまともな慰め方のように思うが、それでもやはり急すぎる。慰め方が両極端すぎやしないか。
とくん、とくん、と、しっかりとした鼓動が聞こえる。自分のものではない、五条さんの心臓の音。
ティッシュを持ったまま固まる私の髪を、五条さんは優しく撫でた。
「詳しくは聞かないけどさ。よく言うじゃん、落ちたらあとは上がるだけだって。それには全然だめなんかじゃないって」
「あ、う、すみません」
「謝ってばっかだね」
「……あ、ありがとうございます」
「ん」
いつもより近い五条さんは、なんだかいい匂いがした。
その匂いを吸って吐いたところで、ふと自分のことが気になり始める。今日は外出で汗もかいたし、高専に戻ってからは何となく一人になりたくて書庫の整理とかしてたし、今の私って汗臭い上に埃臭いのでは?
だんだん顔が熱くなってきて、「あの、もう」と離れようとしたとき、五条さんの指先が私の頬に触れたので驚いて彼の顔を凝視した。
「」
「え、エッ、あの、五条さん」
「……ほっぺにティシュついてる」
五条さんが指の先で摘んだティッシュの残骸。涙を拭いたときに千切れて残ったもので、至近距離で私を見つめる五条さんに反射的に後ろへ身を引いた。が、つん、と髪が引っ張られ思わず「痛っ」と声を上げる。
見れば、私の髪の毛先が五条さんの袖口のボタンに引っかかっていた。毛先より少し上の方を持って引っ張ろうとする私を、五条さんが慌てて制止する。
「待って待って、乱暴にしたら髪が切れるよ」
「いいです、引っ張っちゃってください。どうせばっさり切るんで」
「えー勿体ない。僕、長い髪の、好きなんだけどな」
こんなときに好きとか言わないでほしい……。
私なんかを真剣に慰めてくれている五条さんによこしまな考えを抱かぬよう、視線を落として手の中で丸まったティッシュを一心に見つめる。
どっどっどっ。先程までとは違う理由で、再び心臓が早く動き始める。ボタンに絡まった毛先を丁寧に解こうとする五条さんの手が、時折頬に触れる。その度に、胸の奥を何かが掠めていく。
まずいな。落ちそう。先程とは、違う意味で。いや、いくらなんでもだめだろ、それは。
時間にしたら三分程度の短い時間が、とてつもなく長く感じた。とれたよ、という言葉とともに五条さんの手が私から離れていく。私はすぐに立ち上がった。
「あり、ありがとうございました。もう大丈夫ですので、も、戻ります」
「あれ、仕事終わったんじゃなかったっけ」
「用事を思い出したので」
「そう。元気出た?」
「すこぶる元気です!」
ふは、と五条さんが息を吐いて笑う。かあっと顔が火照る感覚。やはり今日はだめな日だ。
ぎくしゃくとドアの方へと向かう私の背に、五条さんから「一つだけ教えてほしいんだけど」という言葉が飛んでくる。
振り返ると、五条さんはソファの背もたれに両腕を預け、にこりと満面の笑みを浮かべていた。
「のおしり触ったのって、誰?」
詳しく聞かないんじゃなかったのか。
そう思いながら五条さんを見つめ返す。笑っているのになんだか恐ろしくて、少しだけぞくりとしたのは内緒である。
「飛ばされましたねえ」
後輩の彼女がしみじみとそう呟く。昨日休んでいた間に溜まったメールを捌きながら「飛ばされたねえ」と返事をする。
先日、私の尻を撫でた例の術師は他の女性補助監督や女性術師へのセクハラが明るみとなり減給処分となった。かつ、今後は呪詛師の対応や離島など遠方での呪具の回収といった単独業務がメインとなるらしく、理由が理由なだけに高専職員の間では「飛ばされた」「左遷」「島流し」などと揶揄されている。
「いい気味ですよね~。でもなんで急に決まったんですかね? 今に始まったことじゃないのに」
「さ、さあ……」
思い当たる節がありすぎて言葉を濁す。頭の中に浮かんだ五条さんが、無邪気にピースサインをした。
「まあ、これに懲りて真面目に頑張ってほしいよね」
「さんが、なるべく私や他の女性補助監督の担当にならないよう手を回してくれてたって聞きました。ありがとうございます」
パソコンから顔を上げると、まっすぐこちらを見つめる瞳と視線がぶつかる。
「……どういたしまして?」
驚いたままそう言うと、彼女はニッと口角を上げて笑った。
この子、正直なだけで悪い子じゃないんだよな。そう考えてすぐ、トイレで彼女が話していたことを思い出す。
悪い人じゃない。
実は何のフォローにもなっていないことを私も彼女に対して思っている。
「てかさん、髪型変えました?」
「昨日久しぶりに美容院行ってトリートメントしてもらったよ。髪質改善みたいなやつ」
「男ですね?」
「は?」
「ラブなやつですね?」
わくわく、きらきらと顔を輝かせる彼女に「何言ってるの」と呆れてため息を吐いた瞬間、背後のドアががらりと大きな音を立てて開いた。振り向くと、頭がぶつからないよう少し背を丸めた五条さんがドアをくぐりながら、私を見て「あ、いたいた」と微笑む。
ひらりと紙を宙に泳がせながら私の元までやってきた五条さんに、何となく気恥ずかしい気持ちで頭を下げる。
「お疲れ様です」
「二人ともお疲れ。これ、昨日の経緯報告書。さすがに山一つ吹き飛ばしちゃったから、学長に詰められる前に一応書いた」
「あ、聞きました……その件で伊地知さん、終日外出してます」
報告書を私に渡した五条さんは、その手を下ろすことなく私の髪をするりと撫でた。
先日よりも滑らかになり、結んでいない髪。五条さんはそれをそっと摘んで、さらさらと落とす。
「僕のために、髪切らないでくれたんだ?」
ゆっくり顔を近付け意味深な笑みを浮かべる五条さんに、あの日感じた熱がゆっくりと蘇ってくる。
別にそういうわけじゃ、と否定する私の頭に手を置いた五条さんは、楽しげに、そしてからかうように私の耳に口を寄せ囁いた。
「になら、いつでも僕の胸貸してあげるから」
「ご、五条さん」
「だから泣きたくなったら、必ず僕のところにおいで」
形のいい唇が耳たぶに触れたような気がして、背筋がぞくりと震えた。返事なんてできないまま、ひらひらと手を振って去って行く五条さんの広くてたくましい背中を見送る。
なんだかもう分からない。五条さんってあんな人だった?
一部始終を目の当たりにしていた後輩の彼女は、五条さんが事務室のドアをぴしゃりと閉めると同時に興奮した様子で叫んだ。
「ラブなやつじゃないですか!」
「ちっ、違うよ!」
「は~、やっぱり。前から怪しいと思ってたんですよ。私の目に狂いはなかった」
「違うってば! もう……仕事するよ」
そう言って、気を取り直すように深く息を吐く。にまにまと笑う彼女を無視し、報告書を机の上に置く。気が付かぬ間に力強く握ってしまっていたようで、書類の両端にくしゃりと皺が寄っていた。その皺を手の平で伸ばしながら、相変わらず綺麗な字で書かれた五条さんの名前を見つめる。
「……そんなんじゃ、ないよ」
「え? 何か言いました?」
私の呟きを拾った彼女に、曖昧に笑って首を振る。今までと違ってさらりと揺れる髪がくすぐったかった。
これは決してラブなんかではない。なのに、この間より世界が違って見えるのはどうしてだろう。
頭の中がすっきりしていてなんだか軽いのは、美容院のおかげか、それとも。
(2024.05.03)