宝くじで一等が当たったら術師を辞める。
 その話をしたときの私は慣れないお酒で酔っ払っていて、それを聞いた私の可愛い後輩その一は「一等なんて所詮はした金じゃん」と一蹴し、後輩その二は「夢があっていいですね」と優しく笑い、後輩その三は「当たったら週五でご飯奢ってくださいよ」と寄生しようとした。
 一等が当たったら。
 彼らはそれを「まとまったお金を手に入れたら」という意味に捉えたようだが、それは違う。
 例えば今年のサマージャンボの一等は二億円。はした金だなんて口が裂けても言えないが、自分の今の年収やこの先続く人生のことを考えるとそこまで高くはない金額である。
 つまり何が言いたいかと言うと、私が重要視しているのはお金ではなく当選する確率なわけで。

「一千万分の一を引き当てちゃったらさあ……そんな奇跡が起きちゃったら、さすがに私、死ぬと思うの。だから辞める」

 運の尽きを見極めることも大事なんだよ。と、缶酎ハイを片手に先輩風を吹かす私に、後輩その一の五条は顔を歪めて「くっだらねえ」と吐き捨てた。
 確かに、くだらないことだ。私のような小娘よりこの世界の真髄を知る五条のその言葉には、恐らく弱者に対するものと思われる若干の苛立ちが滲んでいて、彼は不満たっぷりな表情を浮かべたまま私が出張先の北海道で買ってきたチョコチップスを次々に口へ運んでいた。
 そして今、私の目の前に立っている五条は、そのときと全く同じ顔をしている。

「見合いするってマジ?」

 長期の海外出張から帰国後、高専には寄らずに自宅へ戻りシャワーを浴び終えたところでインターホンが鳴った。久しぶりの日本と我が家にどこか地に足のつかない感覚で玄関まで歩き、ドアを開けるとそこにはずぶ濡れの五条がいて、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする私に向かって彼は開口一番にそう言った。
 五条の背後に広がる黒い空と生ぬるい空気、におい。そこで初めて雨が降っていたことを知る。

「……なんで濡れてんの?」

 私の第一声はまずそれだった。今までに一度だって雨に降られた五条を見たことがなかったから。
 任務続きだったのか、私の倍くらい疲労の色を濃くした五条は質問の意図にしばらくしてから気付いたようで、視線を下げて一言「忘れてた」と言った。彼の真っ白な前髪から、見上げる私の頬にぽたりと水滴が落ちる。
 無下限を忘れていた。あの五条悟が。驚きでしかない。

「ヤバいじゃん。とりあえず、タオル出すから入りな」

 そう言って部屋に招き入れると、五条は何も言わず素直に従った。
 三つ歳下の五条は初めて会ったときから先輩である私を敬うことはせず、私が高専を卒業した今も顔を合わせるたびに何かと突っかかってくる存在である。だからそんな彼がしおらしくしているのは、何だか見てはいけないものを見ているような、そんな気分で落ち着かない。
 とは言え、なぜそうなっているのか理由を聞いてやるほどの余裕は私にはなかった。帰国・帰宅して早々にシャワーを浴びて、まだ一息つけていないのだ。とにかく疲れているから早く休みたい。まあ、一応彼は私の可愛い後輩なので、無下に追い返すことはしないが。
 洗面所からバスタオルを取って戻ると、五条は玄関ではなくリビングにいた。二メートル近くの男が立っていると、それだけで一気に部屋が狭くなったように感じる。恐る恐る様子がおかしい彼の視線を辿ると、その先にはローテーブルに置いたままになっていた宝くじがあった。

「何これ」
「サマージャンボ」
「まだこんなん買ってんのかよ」
「別にいいでしょ」

 九月も後半、出国前に買った宝くじはすでに当選番号が発表されているはずだが、まだ結果は確認できていない。
 ずぶ濡れだと思った五条は、よく見ると下半身はほとんど濡れていないようだった。そのことに安堵し、バスタオルを彼の顔にぼすんと押しつける。上の着替えはたしか、以前に五条たち三人が遊びに来たときに夏油が忘れていったTシャツが一枚あったはずだ。さすがにパンツやズボンまではないので、よかった。
 
「あ、見合いの話は本当だよ」

 寝室の奥にある押し入れからTシャツを引っ張り出しながら、リビングにいる五条に聞こえるように声を張り上げる。
 見合い。
 見合い、か。
 実家からその連絡が届いたのは出張先の空港に降り立ってすぐのことだったので、まだ詳しいことは何も知らない。もちろん、相手がどこの誰なのかも。『見合い』という言葉を口にしたのもこれが初めてで、自分事なのにどこか他人事のようでもある。
 へえ、と、自分から聞いてきたわりに気の抜けた返事が私の耳に届く。何だその反応。そう言いそうになるのを堪えてリビングに戻り、バスタオルで頭を拭く五条にTシャツを差し出した。水色の双眼が細められ、「誰の?」と訝しげに問われる。

「夏油のだよ。今、五条が着てるやつ洗って今度高専に届けてあげるから、逆にこれ着たあと洗って夏油に返しといて……よ」

 細かった目がぐわっと急に見開かれ、思わずぎょっとする。何もおかしなことは言っていないはずなのに、五条は怒りに満ち溢れた顔でじっと私を睨みつけた。
 訳が分からず、いつまで経ってもTシャツを受け取ろうとしない五条に顔を引き攣らせる。

「何、怖いんだけど」
「……何も知らねえの?」
「何が」
「マジで?」
「え? 夏油、死んだ?」

 咄嗟にそう尋ねると、五条はぎゅっと唇を結んで黙り込んだ。
 え、まさか。あの夏油が?
 ぞわ、と心がざわついてすぐ、ずっと私を見つめていた五条が目を伏せて「いや」と小声で言う。私は脱力した。

「何、もう。びっくりさせないでよ」
、携帯は? 向こうでも使えただろ」
「あ? あー、先週転んで真っ二つに割っちゃって。明日新しいの買いに行くよ」

 五条の手から僅かに湿ったバスタオルを奪い、ほらほらと急かして彼の着ていた服を脱がせる。そして夏油のTシャツを無理矢理握らせたあと、私は再び洗面所へ向かった。
 一体何なんだ、今日の五条は。
 ふう、と息を吐いて五条の服とバスタオルを洗濯かごの中に投げ入れる。出張先が辺鄙な場所だったので現地で気軽に着替えを買うことが出来ず、かごには日本から持って行った服や下着が山のように入っていた。その頂上に乗った五条の黒い服を見ながら首を傾げる。さっぱり分からん。
 次にリビングに戻ったとき、五条はちゃんと夏油のTシャツを着てローテーブルのそばに座り込んでいた。そのでかい背中に何て声をかけようかと考えてすぐ、彼が食べているものに気付いて私は「な!」と声を上げる。

「アンタ、それ……なんで勝手に……」
「これ、冷蔵庫に入ってたんだけど」

 そう言って、五条は小さなカップに入ったアイスの表面をスプーンで叩いた。それは冷凍庫にずっと眠っていたハーゲンダッツで、シャワーを終える頃にちょうどいい固さになっているよう、帰宅してすぐに冷蔵庫に入れていたものだった。
 五条はよく勝手に私の食べ物に手をつけることがある。それは私が寮暮らしをしていた頃から続いていて、なぜかこればっかりはやめろと言ってもやめてくれない。
 でも大抵そういうときは、五条のストレスが限界に達しそうなときなのである。
 そのことを知っているので怒る気にはなれず、私は彼の隣に腰を下ろし、頬杖をついて遠慮なくアイスを食べる五条を眺めた。小さくため息を零すと、五条はスプーンをくわえたまま私を見つめ返す。

「……あのさ」
「何よ」
「見合いやめるって言うまで、俺帰んないから」
「は?」
「ついでに、見合いやめなかったら家潰すから」

 そう言い切って、五条はスプーンで白いバニラアイスを掬い、ぱくりと口に入れた。
 でかい図体で子どものようなことを言う五条を呆れた眼差しで見つめる。『ついで』で自分の家が潰されたらたまったもんじゃない。恐らく冗談なのだろうが、もし両親がこの場にいたら彼らは顔を青くして二度と私に見合い話など持ってこないだろう。

「五条って、人が幸せになることを認めたくないタイプ?」
「あー、じゃあそういうことでいいよ」

 はは、と掠れた声で五条が笑う。いつものようなあっけらかんとした、恐れるものなど何もない最強の笑みには程遠く、どこか頼りない微笑。でもようやく彼が笑ったことに私は少しだけほっとして、聞くつもりのなかったことを聞いてやることにした。

「ねえ、何かあったの?」

 大方、夏油と喧嘩でもしたのだろう。そう思い、夏油の名前は伏せておいた。半ば無理矢理彼のTシャツを着せておいて、無用な気遣いかもしれないが。
 五条は私を一瞥したあと、口の中でアイスを溶かしながら「別に」と言った。その一言で済ませるには、今日の五条は様子がおかしすぎる。
 あっそ、と短く返事をすれば、五条は食べかけのアイスをテーブルに置いて、そのまま私の肩にこつんと額を乗せた。左肩がずっしりと重くなり、五条の真っ白な頭からは玄関を開けたときに嗅いだ雨のにおいがする。

「なかなか簡単にはいかねぇよなー」
「何が?」
「んー……人生?」
「その若さでそれに気付いたんなら上出来でしょ」

 空いていた手で濡れて束になった五条の髪を撫でつける。五条は私の肩口に顔を埋めたまま、「ねみい」と零すように言った。互いに口を閉じれば、雨が窓を叩く音だけが聞こえる。
 例え私がどんなに優しく尋ねても、五条が決して弱音を吐かない人間であること、そして何かあったとしても私の目の前に現れる頃にはすでに前を向き始めているということを私は知っている。
 仮にも先輩である私を敬わなくても、どんなに生意気で図々しく人の食べ物を奪おうとも、そういう線引きを彼はできる人間なのだ。
 結局その日、私は自分が日本を離れている間に夏油が起こしたことを知ることもなければ、楽しみに溶かしていたハーゲンダッツを一口だって食べることもなかった。
 ――というのが十一年前の話。



「ちゃんと先生やってるんだね」

 澄んだ青が溶け出して橙や紫へと変化していく夕空の下、グラウンドにいる生徒たちを少し離れた場所から見守る黒い背中にそう投げかける。五条は後ろで手を組んだまま振り返ると、にっと笑んで「おかえり」と言った。
 高専を卒業すると意外にも教職に就いた五条は、サングラスよりも白い包帯で目を隠すことが多くなった。そんな彼の変化に私はまだ追いつけておらず、相変わらず漫画のキャラクターみたいな風貌だな、と頭の中で思う。

「今回の出張は長かったねえ」
「まあ、万年人手不足だからね。仕方ないよ」

 五条の隣に立ち、彼と同じようにグラウンドで訓練に励む生徒たちを眺める。ここ最近高専に入学するのは素質のある子ばかりで、万年人手不足でも確実に後継は育ちつつある。
 かあ、とカラスの鳴く声が聞こえて空を仰げば、一羽の黒いカラスが悠々と遠くへ飛び去っていった。たった一羽でどこへ行くのだろうかと見送ったあと、何気なく五条へ視線を向ける。たった一人で、最強として不変を貫く後輩の眼差しは、包帯に隠されてはいるがきっと温かなものだろう。

「……ちょっと信じらんないな」
「ん? 何が?」
「五条が先生やってることが」
「そう? こう見えて一度決めたことは必ず実行するタイプだよ?」

 夕陽で淡い色を帯びた白髪が風で揺れるのを見つめたまま「そうだっけ?」と首を傾げる。
 私に見られていることに気付いた五条は、微笑んだままゆっくりこちらを見下ろした。

が見合いをやめなかったら本当に家潰してたしね」
「……ふ、そういやそんなこと言ってたな」

 昔の懐かしい話に思わず噴き出す。たった一度だけ私の元に舞い込んできた見合い話は、あのあとすぐに立ち消えとなった。理由は分からないが、そのことを五条に伝えると彼は「一族全員助かったな」とほくそ笑んでいて、潰すというのは冗談ではなかったのかと少しだけぞっとしたのを覚えている。でもそれももう、随分と昔の話だ。
 五条が懐かしい話をするものだから。あの日、様子のおかしい五条が家にやってきた雨の日のことが頭を過る。

「どうしてあの日、夏油のこと教えてくれなかったの?」

 穏やかで、それでいて少し強い風がグラウンドにいる生徒たちの笑い声を拾い、私たちの元へ届けてくれる。あんな風に笑っていた時期があったのだ。私にも、五条にも、夏油にも。
 呪術師にしては真面目で優しすぎた後輩は高専時代、自販機の前で小銭がないことに気付いて舌打ちする私にジュースを奢ってくれた。それが彼と私の初対面で、いかつい割に優男っぽいなと思っていたら、細い目をさらに細めて「後輩に奢ってもらう気分はどうですか?」とナチュラルに煽ってきたんだっけ。
 夏油の名前を口にしたのは久しぶりのことだった。それでも五条は表情を変えることなく、再びグラウンドへ視線を戻す。

「どうしようもなかったからね。起きてしまったことは事実としてそこにあるだけで、世の中変えられないことの方が多いし」
「つまりあのときは、私に話したところで無駄だから言わなかったってことか……」
「マイナスに捉えるじゃん。僕はただ、に頼りたくなかったんだよ」

 夏油がいなくなって、五条は少し物腰柔らかくなった。一人称が『俺』から『僕』に変わったから、余計にそう感じるのかもしれない。
 
「頼ってくれてもいいのにさ」

 生意気だった後輩のささやかな成長に一抹の寂しさを覚えながらそう呟く。
 頼れと言ったところで、五条はきっとこれからも私を頼らないし、一人で自分のいるべき場所に立ち続けるのだろう。その証拠に、五条は笑みを浮かべたまま何も言わない。
 私はぐんと空に向かって背伸びをし、盛大に息を吐いた。

「あーあ。私たち、歳とったねえ」
「そうだねえ」
「ケガの治りも遅くなった気がするし、お酒も簡単には酔えなくなったし」
「お肌のシミも増えたし?」
「ぶん殴るぞ」

 五条が声を上げて笑ったところで、グラウンドにいたパンダが私に気付いて大きくゆったりと手を振った。のんびりとした調子で土産の有無を尋ねるパンダだって、昔は背丈が私の膝にも及ばなかったというのに。時の流れとは恐ろしいものである。

「じゃあ、そろそろしようか。結婚」
 
 パンダに応えようと手を挙げたところで、五条がはっきりと、間違いなくそう言った。中途半端な位置で手を止めたまま五条の横顔を見上げる。

「……冗談?」
「ではないかな」
「じゃあ、の意味がよく分からない」
「お互い、いい歳でしょ」

 長い付き合いなので、五条が冗談ではなく本気で言っていることは感じ取れた。しかしあまりにもさらりと、まるで食事にでも誘うかのような調子で言われたものだから、胸が高鳴るだとかそういうのは全くなく。
 私は腕を組んでううん、と唸った。お互い、いい歳だから。いわゆる結婚適齢期だから結婚するのか?

「五条の相手は別に私でなくていいよね?」
「僕は誰かと添い遂げるならがいいってずっと思ってたんだけど」
「それは初耳だな……」
「それにさあ、こうでもしないとは僕のこと頼ってくんないじゃん。僕は頼るより頼られたいわけ」

 五条の淀みない言葉に、ふいに胸をつかれたような気がした。そういえば、誰かを頼ろうだとか、そういうことを考えなくなったのはいつからだろう。
 ぼんやりと五条の言葉を頭の中で繰り返す。添い遂げるならがいい。誰かと添い遂げるという考えが五条の中に存在しているだけでも驚きなのに、頼られたいってなんだ。五条は歳下で、私の後輩じゃないか。
 五条が一歩横に進んで、とん、と肘で私の頭を突く。自分が何を考えていたか分からなくなり、私は「はあ?」と間抜けな声を漏らす。
 しっかり線引きされていたはずなのに、その線を容易く越えられた気がする。
 こちらを見下ろし、五条は笑った。とても自信満々な様子で。

「ね、悪くない話だよ。僕の奥さんになってよ。宝くじ一等が当たるまで待ってたら、いつまでも術師なんて辞められないよ」

 宝くじで一等が当たったら術師を辞める。
 そう決めたのは、たった一人しかいなかった同期が右足だけになって戻ってきてすぐのことだった。
 怖くなった。
 呪術師なんて辞めてしまいたいと思った。
 それなのに自分より歳下の術師たちが奮闘するのを目の当たりにするたびに、辞めどきを自分で決められなくなった。だから、宝くじ一等当選=運の尽き=辞めどきとした。
 あの日、チョコチップスを食べながら「くっだらねえ」と吐き捨てた五条は、全部分かっていたのだ。
 お、イチャついてる。そんな冷やかす声が聞こえて目線だけをグラウンドの方へ動かすと、いつの間に休憩に入ったのかパンダたち一年生が集まってこちらへ視線を送っていた。
 五条から距離を取ろうと一歩後ろへ下がる。すぐに彼の手が私の手を掴み、それを阻む。

「ちなみに答えは今から三十秒以内に、『はい』か『Yes』のどちらかでよろしく」
「一択じゃん」
「二十九、二十八」
「……術師を辞めるために五条と結婚するだなんて、それは五条を頼るんじゃなくて利用してる、だよね」
「どうでもいいよ。僕だっての術師を辞めたいって気持ちを利用してるから」
 
 待つのはお互いおしまいにしようよ、もう。
 そう話す五条の背後の空を二羽のカラスが飛んで行くのが見えた。先程見たものと同じ個体なのか、そうでないのかは分からない。

「一つ聞いてもいい?」
「二十、いいよ」
「断ったら家潰す、とか?」

 五条のカウントが止まる。私の質問に、五条はにんまりと笑みを深くした。せめて何か言え。
 ――というのが一年前の話。



「さっぱり分からん」

 夜と朝の間。まだ光のない暗い部屋。ベッドの上で横たわったままそうぽつりと零すと、背後から私の腹に回されていた手によって後ろへ抱き寄せられた。
 服の隙間から臍の辺りを撫でる手つきは優しく、私の頭に顎を乗せている五条が少し眠そうな声で「何が?」と呟く。私は彼の手の甲に自分の手を重ねた。

「五条がどのタイミングで私と添い遂げたいと思ったのか。私たちの歴史を振り返ったけどさっぱり分かんない」
「そうだな……が一方的に好意を寄せていた補助監督と組むときだけ制服のスカートを短くしていることに気付いたときかな」
「嘘つけ。てか何で知ってんの、恥ずかしいから口に出すな」

 くすくすと、頭上で五条の笑う声が聞こえる。若かりし頃の誰にもバレていないと思っていた行動が、よりにもよって一番バレてほしくなかった相手に知られていたとは。
 五条は一頻り笑ったあと、私の身体を優しく引っくり返した。正面から向き合うと、光がなくても五条の両目だけがほんの少しだけ明るく輝いて見える。

「いいじゃん、昔のことは」
「起きてしまったことは事実としてそこにあるだけだから?」
「よく覚えてんじゃん」
「五条って過去に執着しないの?」
「僕が執着するとしたらにだけだよ」

 なんちゃって、と、臭い台詞を誤魔化すように微笑んだあと、五条はぎゅうと私を抱き締めた。温かくて心地よくて、そして優しい。
 私は結局、五条と結婚した。この先何があっても一人で自分のいるべき場所に立ち続けるのだろうと思っていた男は、意外にも私と籍を入れることにこだわり続けた。そんな押しの強さに負けてしまったというのも正直あるが、特に断る理由がなかったのも結婚を決めた要因である。そしてこれまた意外なことに、多少の温度差はあるかもしれないが私は五条のことを愛しく思うようにもなった。
 兎にも角にも五条と結婚したおかげで家は潰されることなく、今もこの呪術界で生き残っている。そして私はと言うと、晴れて誰にも文句を言われない術師を辞める理由を手に入れたというのに、わりと最近までいつも通りの激務をこなしていた。

「ま、の好きにしていいけどさ」

 辞めどきを与えられたのに術師を辞めない私に、五条は腑に落ちないといった表情でそう言っていた。後から聞いた話だが、五条自身が私を早く辞めさせないと、宝くじ当選を待たずに勝手にどこかへ消えてしまいそうだと思っていたらしい。
 私は結局、宝くじの一等を引き当てることはなかった。一千万分の一の奇跡は起こらなかった。しかし、五条と同じ時代に生まれ、互いに互いと生きていくことを決めた、それもなかなかの奇跡ではないだろうか。
 どちらの確率が高いのか低いのかは分からないが、私はまだ生きている。そして。

「あ」

 五条がぱっと顔を上げる。睡魔に引きずられ朧げな意識の中で、私は次に続く言葉を待った。

「僕さ、名前十パターン考えたんだけど」
「気が早すぎだろ……私も十パターン考えた」
「じゃあその中から決めよ」
「うん」
「さすがにさ、産まれたら僕のこと下の名前で呼んでよね。も五条なんだから」

 そう話しながら、五条が再び私の腹を撫でる。
 そうだ。これもなかなかの、奇跡だ。
 およそ八か月後、私たちの血を分けた新しい命が誕生する予定なのだが、それはこれから先の未来の話である。

(2024.04.13)