「サラダなんて珍しいですね」

 白熱した会議のせいでいつもより遅めの昼休みをとっていたときのことだ。急にそんな言葉をかけられて顔を上げれば、うどんを乗せたトレーを持つ後輩の伊地知がそばに立っていた。いつも日替わりなのにと微笑みながら私の斜め前の席に座る伊地知を、草食動物のように野菜を咀嚼しながらじっと見守る。私と伊地知が働くこの会社は老舗の食品メーカーで、自社製品のドレッシング類がすべて無料の社員食堂はサラダだけでも豊富な種類が用意されていた。
 しかし彼の言う通り、普段日替わり定食を頼む私がなぜ今日はサラダを食べているのか。それは単純に、自分よりずっと肌のきれいな男性に出会ってしまったことによる焦りからだ。
 最近私の身に起きた、現実とは思えない夢のような出来事。考えれば考えるほど気が重くなるけれど、伊地知になら話してもいいかもしれない。そう思い立った私は、男性にしては上品にうどんを食べ進める伊地知に向かって「実はさ」と話を切り出した。その嘘みたいな本当の話が進むにつれて、伊地知の顔がみるみる青ざめていく。

「えっ、それで本当に明日、食事に行くんですか?」

 頷くと、伊地知の箸からうどんがつるん、と滑り落ちた。
 あの日の夜から毎日、五条さんから連絡が届いている。最初はすぐにブロックしてしまおうと思っていたけれど、そもそも家がバレているのだ。ブロックなんてしようものなら、また突撃お宅訪問されるに決まっている。それだけは避けたくて毎日当たり障りのない返信をしていたけれど、昨日とうとう2人で会う約束をするまでに至ったのだ。

「あ、でも昼間にお茶するだけだよ? さすがに夜に食事はちょっと、あれだし」
「いや昼でも問題だと思うんですが……家とか名前とか、全部知られてたんですよね?」

 伊地知の言葉に、そうなんだよね、と小さく返事をする。これについては勇気を出して五条さんに詳細を尋ねてみたけれど、彼からの返事は『普通に調べた』という一言だけだった。普通にとは? そもそもなぜ私を調べたのか? そういう肝心なことは何1つ分かっていない。
 サラダを食べ終えて頬杖をつく私に、伊地知は深いため息を吐いた。

「嫌ですよ、週明けさんの切断された遺体がスーツケースの中から出てきたりしたら」
「勝手にバラバラにしないでくれる?」

 顔を歪めてそう言えば、伊地知は返事の代わりにうどんをずずず、と啜った。
 とは言え、あっさりナンパ男を潰してしまった場面を見ているせいか、伊地知の抱く懸念に対して『絶対ない』とは言いきれない自分がいる。実際に何度か「殺られるかも」と思ったし。でも──。

「悪い人、ではなさそうなんだよねえ……」

 どんな不安や恐怖も、あの五条さんの笑顔に塗り潰されてしまうのだ。会ったことはないはずなのにどこか不思議な感じがするのは、よくよく考えると今うどんを食べながら私の話に耳を傾ける伊地知に対しても同じだったかもしれない。

「なんかさ、見た目が人間離れしてる人なんだけど」
「見た目が人間離れ……?」

 頭上に疑問符を浮かべる伊地知に、少しだけ悩んで『五条悟』という名前を伝える。あの見た目だし、ひょっとしたら私が知らないだけで著名な人なのかもしれないと思ったからだ。
 うどんを食べ終えた伊地知は、水を飲みながら首を傾げた。

「聞いたことのない名前ですけど、どう書くんですか?」
「漢数字の五、条件の条、りっしんべんに五に口」

 伊地知と私を挟むテーブルに指で字を書きながらそう説明する。書き終えて伊地知に目を向けると、彼は片手にコップを持ったまま眉を顰めていた。

「どした?」
「いや……ちょっと、胃痛が」

 伊地知はそう言うと、首からさげている社員証の裏側に挟んでいた胃薬を取り出し、封を開け残っていたコップの水で一気に飲み干した。胃薬の扱い方、飲み方がプロのそれである。
 『五条悟』という名前を、もう一度テーブルに指を滑らせて先程よりも丁寧に書いてみた。やはりいくら書いてみても馴染みのない名前であることは変わらない。

「でも……本当に気を付けてくださいね。マスコミに被害者の女性はどういう方でしたかって聞かれたら何て答えればいいんですか、私」
「勝手にバラバラにしないでくれる?」

 美人で優しくて仕事ができる人でした、でよろしく。冗談めかしてそう言ったあと笑ってみせたけれど、伊地知の険しい表情は最後まで崩すことができなかった。

* * *

 本当にいた。いや、いて当たり前なんだけど。
 五条さんとの約束の土曜15時。駅の改札を出てすぐ、前を歩いていた男女2人組の「え、あの人ヤバ」という声で顔を上げると、待ち合わせに指定された駅前のオブジェのそばに五条さんの姿があった。陽の光に照らされる五条さんを見るのは初めてで、というかそもそも会うのが2度目なわけだから、どうも変な感じがしてそわそわする。スマホで時間を潰したりするわけでもなく真っすぐ前を見据えて姿勢よく立っている五条さんは、まるで彫刻のようだ。私、本当にあの人と今からお茶するの? なんか紙袋持ってるけど、拳銃とか入ってない?
 ゆっくり五条さんに歩み寄れば、彼はすぐに私に気付いて右手を上げた。



 眩しい。いろんな意味で。五条さんが私の名前を呼んだことにより、周囲にいた人たちの視線もこちらに向けられる。どこからか舌打ちのような音も聞こえた気がした。気のせいであってほしい。
 いたたまれない気持ちで五条さんの前に立ち、ぺこりと頭を下げた。

「す、すみません、お待たせしましたかね」
「いやそんなに。人多いから見つけられないかと思ったけど」
「五条さんほど見つけやすい人、いないですよ」

 そう言うと、五条さんはこれまた眩しい顔で笑った。

 五条さんに連れられて入った店は小さな純喫茶で、店内は薄暗く少しだけひんやりとしていた。道中、いくつかテラス席のあるおしゃれなカフェもあったけれど、五条さんに薦めても彼は「見られすぎてウザいから」と首を横に振るだけだった。確かに、ああいう若い子が多いオープンなお店に五条さんが入店したら大変な騒ぎになるかもしれない。五条さんの横を歩くだけで突き刺さってくる視線に萎縮しっぱなしだった私は、素直に彼の選択に従った。

「昼食べたんだっけ?」

 案内された奥の座席で私の正面に座った五条さんは、メニュー表を開きながらそう尋ねた。実を言うと緊張しすぎて朝から何も食べていない。テーブルに置かれたメニュー表に視線を落としたまま、私は黙って頷いた。

「プリンとかあるよ、うまそう」
「あ、本当だ……」
「僕はコーヒーとプリンと、あとこのホットケーキにしよ」

 甘いもの、食べなさそうなのに。そんな驚きから顔を上げると、五条さんは「は?」と首を傾げた。飲み物だけにするつもりだったけれど、五条さんが食べている間、1人でごくごくと飲み続けるわけにもいかない。私は大してメニューを見ることなく「私もコーヒーとプリンにします」と早口で呟いた。
 給仕の女性に注文を伝えてすぐ、五条さんはやれやれ、と小さく息を吐いた。

「そんなに警戒しなくてもいいじゃん」
「いや、」

 普通するでしょう。私がそう言い返す前に五条さんは「ま、仕方ないか」と零し、両手を顔の横でひらひらと振ってみせた。

「別にとって食おうとしてるわけじゃないから、少しは気楽にしてよ」

 気楽にしてよと言われて気楽にできるわけもなく、私はちらりと辺りを見渡した。店内は静かだけれど、私たち以外にも何組か客が入っているようだ。いざと言うときは大声を出せばいい。そう思ってすぐ、いざと言うときに大声は出ないんだった、と先日五条さんと初めて会った日のことを思い出して肩を落とした。
 五条さんは、とてもおしゃべりだった。彼の隣に置いてある紙袋の中には実は高い壺が入っていて、いつ「この壺のおかげで僕の人生は成功したんだ」と言い出すかハラハラしていたけれど、そんな話は全く出てこなかった。最近食べたものの話、観た映画の話、ゲトウさんという友人の話。そんな他愛もない話に内心ほっとしつつも、逆にそれが少し不気味でもある。
 水を飲んで「あの」と言えば、それまでずっと喋り続けていた五条さんは嬉しそうな顔で「なあに?」と笑った。

「この間、『普通に調べた』って言ってましたけど……そもそも、どうして私のことを調べたんでしょうか」

 言ってやったぞ! そんな気持ちで五条さんの青い瞳を見つめる。今日絶対に聞こうと思っていたことを聞けた達成感からか、少しだけ肩の力が抜けるのが分かった。
 私の質問に、腕を組み天井を見上げた五条さんがううん、と短く唸る。そんなに悩むほどの質問でもない。何かを隠したいのだろうか。口を尖らせて思案顔をしていた五条さんは、ややあって私に視線を戻し、さらりと一言「内緒」と言った。

「え、ええ……?」
「あんま気にしなくていいよ、単にと仲良くなりたいだけ」
「そんなこと言われても」
と仲良くなって、伝えたいことがある」

 え、と私が小さく呟くと同時にコーヒーとプリンが私たちの元に運ばれてきて、五条さんは「うまそう!」と声を弾ませた。
 プリンはメニュー表に載っていた写真通り脚付きの銀食器に入っていて、小ぶりで可愛らしいものだった。シンプルな形に見惚れていたら、遅れてやってきたホットケーキが私と五条さんのちょうど真ん中に置かれる。そのふわりとした甘い香りに鼻孔をくすぐられた。
 待ちきれないといった様子で「とりあえず食べよ」と言った五条さんが、コーヒーに大量の砂糖とミルクを入れホットケーキについてきたシロップを全てかける様子をぼうっと眺める。早速プリンを頬張る五条さんは、顔が良すぎてまるでテレビのロケを目の前で見ているようだ。

「ひょっとして、結婚詐欺師とか……?」
「は?」
「『結婚する』とか言ってお金騙し取るやつ、あるじゃないですか」

 五条さん、顔がいいから。私のその言葉に、スプーンを口にくわえたまま目を丸くした五条さんはすぐに「そんな馬鹿なことするわけないじゃん」と言い、声を上げて笑った。静かだった店内に五条さんの笑い声が響き、どんどん顔が熱くなっていく。

「というか、と結婚するときは僕が全額出すし」

 くらり。五条さんの言葉に目の前が一瞬だけ遠くなる気がして、私は慌ててプリンを掬い口に入れた。甘くてもっちりとした食感と、少しほろ苦いカラメルソース。癖になるほどおいしいはずなのに、いまいち何を食べているのか分からない。一口、また一口と掬っては口の中へ放り込んでいく。
 同時に、不覚にもときめいてしまった自分を頭の中で叱責した。ときめくな、私。っていうか勝手に結婚する感じになってるじゃん。怖い怖い。
 五条さんはくつくつと笑いながら、ナイフとフォークを使ってホットケーキを切り分け始めた。手慣れた様子で4分割されたホットケーキを見つめていたら、「半分食べなよ」と言われたので私は顔を上げた。

「どうせ昼、食べてないんでしょ?」

 全部は食べ切れないから。そんな、恐らく嘘であろう台詞を吐いて、五条さんは切り分けたホットケーキを1つ口へと運ぶ。
 ときめくな、私。バターとシロップがどろどろに溶けて染み込んだホットケーキは恐ろしいほど甘くて、喉の奥が焼けてしまいそうだと思った。

* * *

「ああ、もうすぐ七夕だっけ」

 喫茶店を出て右に曲がったところにある広い商店街。その至るところに立ててある笹と短冊を見て、五条さんは思い出したようにそう呟いた。その言葉につられて見上げれば、赤や青、様々な色の短冊や七夕飾りが夕焼け空の下で穏やかに揺れている。2人で寄って短冊を見てみると、『彼氏ができますように』『早く結婚できますように』といった恋愛成就系の願い事が多く書かれているようだった。
 そういえば、この近くの神社では毎年7月初旬に七夕祭りが催されていたっけ。そのことを思い出し五条さんへ伝えれば、彼は「お祭りかあ」と何かを懐かしむように笑った。行ったことはないけれど、確か縁結びで有名な神社だったはずだ。恋愛に関する願い事が多いのは、恐らくそのせいだろう。中には織姫と彦星に見立てた祈願短冊も吊るされていて、私はそれを指差した。

「あれとか、短冊の形が織姫と彦星になってますよ」
「織姫と彦星ってさ」

 短冊から目を逸らして横を向けば、私が指差す方向を見つめる五条さんが少し屈んで顔を寄せていて、思わず心臓が跳ねた。髪と同じく白い睫毛。上向きで長いその睫毛に、目が吸い寄せられる。

「年に1度しか会えないっていうけど、互いに想い合っててちゃんと会える日が決まってるんだから恵まれてる方だよね」
「え……」

 急に、何を。五条さんの言葉の意味を考えている間に、短冊をじっと見つめていた瞳が私の姿を捉えた。宝石の中に、ぼんやりとした表情の私が映し出される。
 五条さんが見ている私は、本当に私なのかな。そんな、自分でもよく分からない疑問が頭に浮かぶ。ずっと心のどこかで、五条さんは誰か別の人を私に重ねているように感じているからかもしれない。

「せっかくだから、僕らも書こうよ」

 そう言って五条さんが指差した先には『ご自由にどうぞ』という簡素な看板が立ててあった。そのすぐそばには、束になった短冊が置いてある折り畳み式のテーブルが設置されている。躊躇う私の手首を、五条さんは何の迷いもなく引いた。
 短冊に願い事を書くこと自体、小学生の頃にクラスの七夕会で書いたのが最後だったかもしれない。子どもだった私は何を願ったのだろう。いざ願い事を考えてみるとなかなか出てこないものだ。なんとなく視線を彷徨わせて近くのドラッグストアが目に留まった瞬間、胃痛に悩む後輩のことを思い出して私は短冊に筆を走らせた。

「伊地知?」

 書き上げた短冊を括りつける場所を探していたら、盗み見したらしい五条さんが少し驚いたような声を上げた。『伊地知の胃痛が良くなりますように』。そう書いた自身の短冊を見て、私は軽く笑った。

「あ、会社の後輩です」
「後輩?」
「はい。しょっちゅう胃が痛くなるみたいで」
「ふうん……」

 私の短冊を食い入るように見ていた五条さんは、こちらに視線を戻すとにこりと笑って「僕も会ってみたいな、その伊地知クンに」と言った。苦笑いを零しながら、空いている場所に短冊を括りつけようとしてすぐに手を止める。伊地知『クン』って。なんで、伊地知が男って分かったんだろう。
 振り返れば、五条さんは私とは少し離れた場所に短冊をつけている最中だった。背の高い五条さんが手を伸ばして届く場所は空に近く、あまり短冊が吊るされていない。近付いて見上げたものの何と書いてあるかまでは見えず、聞いてみてもこれまた「内緒」と笑顔ではぐらかされるだけだった。

「じゃ、そろそろ行こうか」

 商店街を出てすぐ、そう言った五条さんを見上げる。五条さんは私ではなく少し遠くを見つめたまま片手を挙げていて、私が言葉を発するより先に黒いタクシーが1台停車した。
 そろそろ行こうかって、一体どこに。そう尋ねる暇もなくタクシーのドアが開く。そして五条さんに急かされ、わけも分からず乗車したあとで私はハッとした。

『……さんの切断された遺体がスーツケースの中から出てきたりしたら』

 なんとも最悪なタイミングで思い出した伊地知の言葉。切断、遺体、スーツケース。不穏な単語が頭の中を巡り、ぞく、と背筋が凍る。咄嗟に私は目を閉じて声を上げた。

「そっそ、それだけはご勘弁を!」
「え、何が?」

 五条さんのけろりとした声が聞こえて、恐る恐る目を開ける。すると、私とは違いタクシーには乗らず手を伸ばして運転手にお金を渡している五条さんがいて、彼はぽかんとする私に対し「疲れちゃった?」と笑みを浮かべた。それまでぐるぐると回り続けていた言葉たちが、ぽろぽろと落下していく。
 五条さんは運転手に私の住所を告げると、すぐにこちらを向いて「お釣りは適当に、好きにして」と言い後ろへ下がった。予想していなかった五条さんの言葉と行動に、思わず身を乗り出す。

「えっ、ご、五条さんは?」
「僕は僕で帰るよ。信用してない相手と長時間一緒にいるの、きついでしょ」

 そんなことは……正直あったので何も言えずに黙っていたら、す、と伸びてきた五条さんの手が私の頭に触れた。撫でるわけでもなく、ただ頭に乗っただけの大きな温かい手。その手は何度か私の頭をぽんぽんと優しく叩くと、少し名残惜しそうに離れていった。

「あ、あの」
「そうだ、これの家族にお土産」

 そう言って五条さんが差し出したのは、彼がずっと持っていた紙袋だった。「今日はありがと、また連絡するね」と微笑む五条さんから受け取った紙袋は、見た目とは裏腹にずっしりと重い。一体何が入っているのだろうか、と中身に気を取られている間に、ばたんという音を立ててドアが閉まった。
 窓に顔をくっつけて遠くなっていく五条さんの様子を窺う。五条さんは、見えなくなるまでその場から動かなかった。
 悪い人ではない。車の振動に揺られながら、どこかぼんやりとした頭で五条さんと過ごした数時間を振り返りそう結論付ける。悪い人ではない。でも結局、謎は深まるばかりだ。五条さんはどうして、私と仲良くなりたいんだろう。仲良くなって伝えたいことって、一体何なのだろう。
 しばらくして、私は膝の上に置いていた紙袋をそっと開けた。中に入っていたのは、拳銃でもなければ、人生を成功に導いてくれる壺でもなかった。

「素敵な彼氏さんですねえ」

 年配の運転手のどこか茶化すような言葉に、私は「いや……」と呟いた。大量の猫缶と猫用のおやつが入った紙袋を抱えたまま、細く長いため息を零す。
 心臓が痛い。こんな痛みも感情も何もかも初めてで、私はそれを打ち消すように強く目を閉じた。
 私のばか。ずっとときめくな、って、言ってるじゃん。


(2023.5.27/加筆修正2024.11.02)