「お姉さん、髪の毛」

 華金特有の少しだけ浮わついた空気を肌で感じながら、繁忙期による残業続きで疲れた身体を引きずるようにして帰路についていたときのことだ。もう一度「お姉さん」と聞こえたところで、ああ私に話しかけているのか、と気付き顔を上げた。ぼうっとしている間に、いつの間にか隣に立っていた男が少しだけ身を屈めて私の前髪あたりをじいっと見つめている。髪の毛が、なんだ。というか、誰だ。
 私が口を開くより先に、男はにかっと屈託のない笑みを見せた。

「きれいだね! っていうか、すごい美人さん!」

 ぱ、と信号の色が赤から青に変わり、目の前の横断歩道が僅かに照らされたところで気が付いた。ナンパかよ。
 そりゃあ一応年頃の女なので、美容に気を遣ってはいるものの別に私は美人なわけでも、特別に髪がきれいなわけでもない。きっと『この程度なら俺でもいける』と判断したのだろう、ぺらぺらと一方的に話し続ける男からふい、と顔を逸らすと、私は一歩踏み出した。こういうのは少しでも良い顔をするとしつこくつきまとわれる。どうせこちらが気のない素振りを見せると、すぐに手のひらを返したように調子乗んなブス、とかなんとか言ってくるに決まっている。
 横断歩道を渡り終えて、駅までの道を急いだ。いつもより遠く感じるのは慣れないパンプスのせいか、ねえねえねえねえとしつこく食い下がるナンパ男のせいか。恐らく両方だろう。
 しつこい! 頭の中の苛立ちゲージが満タンになりそう叫びそうになったとき、横を歩くナンパ男とは別のところから「ねえ!」と一際大きな声が聞こえ、びくりとした私は思わず足を止めた。

「僕の方が髪きれいなんだけどー?」

 で、でか……。
 振り返ってその声の主の姿を確認した瞬間、田舎から上京して初めて東京スカイツリーを見たときと同じ感想が頭に浮かんだ。そしてすぐに、ひょっとして仲間? と思いナンパ男を横目で見たが、彼も私と同じことを思っているのか口を開けて間抜け面で声の主を見上げていて少しだけだがほっとした。
 もう一度、新たな登場人物となった男の頭からつま先までをじろっと眺める。身長もさることながら、髪も顔も並大抵のものではない。どっちも白い、そして目が碧い。『透明感』という言葉がこんなに似合う男はそうそういないのではないか。ナンパ男同様知らない男であることに変わりはないのに、なぜだか目を逸らすことができない。しばらく経ってから、自分が男に見惚れていることに気が付いてハッとした。

「ほら見て、これ地毛だよ」

 自身の白い髪を指で摘み、ほらほら、と私とナンパ男へ歩み寄る男。口調は軽いが身に着けたスーツや靴は一目見ただけで高級品であることが分かるし、1人だけ纏う空気が異質というか只者ではないというか。とにかく急に現れたたった1人の男の雰囲気に、私だけでなくあれほどめげずに私に声をかけ続けていたナンパ男でさえも呑み込まれている。
 なんだか、ややこしくなりそうだ。そんな予感を抱きながら、今日このパンプスを選んだ自分を少しだけ恨んだ。今朝のニュースでやっていた12星座占いでは1位だったはずなのに、1日が終わる直前でどうしてこうなった。疲れのせいか日々のストレスのせいか、痛み始めたこめかみを指で強く押さえる。
 そういえば、占いでは何て言ってたっけ。たかが占い、思い出したところでどうにかなる状況ではないが、そんなことを考えて現実逃避している自分がいる。

「誰だよ、お前」

 白髪男が私たちのすぐ目の前に立ち、改めてその長身ぶりに目を見張っていたらナンパ男が少し震えた声でそう言った。私からすれば「いやお前もな」という感じなのだが、隙あらば逃げたいと考えていた私はとりあえず静観を決め込んだ。
 きょとん。そんな表情を浮かべた白髪男は、ナンパ男を見つめ瞬きを繰り返したあと声を上げて破顔した。そして自身の髪から手を離し、ちらりと私を一瞥する。やはり、どの角度から見てもきれいな瞳だ。そんなきれいな瞳が私を捉えたことに、緊張して肩に力が入るのが分かった。
 白髪男は視線を戻すと、何の遠慮もなく僅かに怯えたナンパ男の肩にがっしりと腕を回した。短い悲鳴を上げてよろめくナンパ男に対し、白髪男は笑いながら体重をかけ「お兄さんさあ」と呟く。

「それ、こっちのセリフだから。てか誰に気安く話しかけてるわけ?」

 先程までの、まるで楽しい悪戯を企んでいる子どものような声とは打って変わってぞっとするような声。反射的に肩にかけていたバッグを抱き締めるように持ち、そうっと2人から距離を置く。息を潜め、駅までの動線を頭に思い浮かべながらよし、と覚悟を決めたとき、肩に腕を回されていたナンパ男の様子がおかしいことに気付いた私は小さな悲鳴を上げた。

「ちょ、ちょっと……」

 慌てて、それでいて恐る恐るそう呼びかける。しかし白髪男は私に視線を移すと、のんびりとした様子で「ん?」と頭を傾けただけだった。
 ぎりぎりぎり、と音が聞こえる気がする。初めは肩に回されていた白髪男の腕が、いつの間にかナンパ男の首へと移動してそのままぎゅうぎゅうと締め付けていたのだ。声を出せずにもがき苦しむナンパ男の手が彼の腕を引き剥がそうとするものの、それは叶わず時間だけが過ぎていく。
 え、え、と小さく呟きながらおろおろと辺りを見渡すが、酔っぱらい数人がげらげらと笑いながら通り過ぎて行くのみで異変に気付く人はいない。それもそうだろう、私のように間近で正面から見ているならまだしも、彼らを後ろから見れば華金らしくただじゃれあっている男2人にしか見えない。とにかく大声で助けを求めなければ。そう思うけれど、こういうときこそ大声は出ないものらしい。
 でもさすがにまずいでしょ、これ。意を決して「さすがに」まで口にしたところで、必死に抵抗していたナンパ男の手がだらり、と垂れ下がった。え?

「え……え、ちょっ、ま、」
「あれ? 死んだ?」

 ぐったりと脱力しているナンパ男の顔を、白髪男が覗き込む。目の前がちかちかしてきて、それまでずっとうるさく鳴っていた心臓が、どっどっどっとさらに激しく動き出した。身体中から嫌な汗が吹き出す。どうしよう、どうしよう、どうしよう。
 面倒くさいなあ、と呆れたように吐き捨てた白髪男がナンパ男の腕をとって担いだところで、私は飛び跳ねるようにしてパンプスを地面に履き捨てると、ひったくるようにそれを掴んで駅方面へダッシュした。すぐに白髪男の「はあ?」という驚いた声が背中に突き刺さる。

「おい!」
「わっ、私っ、関係ないんでえ!」

 走りながら、大声でそう叫ぶ。とにかく怖かったのだ。頼むから追いかけて来ないで、と頭の中で拝みながら駅までの道を全速力で走る。ストッキングを履いているとはいえほぼ素足、コンクリートの道を走るのはなかなか痛い。

「おい、」

 先程よりも遠いところで白髪男の声がする。後ろを振り返って距離を測る余裕はないが、どうやら追いかけては来ていないようだ。
 地下鉄の入り口に飛び込む瞬間、もう一度だけ白髪男の声が聞こえた。

!」

* * *

 駆け込み乗車はお止めください。
 抑揚のない声によるアナウンスが流れ、車内にいた乗客たちがちらりと私を見ては気まずそうに視線を外していく。でもそれは仕方のないことだ。髪は乱れ両手にパンプスを持ち、ぜえぜえと息を切らした女が慌てて電車に乗りこんできたら私だって同じ反応をするだろう。電車が動き出し、私は空いた座席を見つけてよろよろと倒れ込むようにして腰を下ろした。
 なんだか、一気に疲労が。じんじんと痺れて痛む足をパンプスに履き入れ、はあぁあ、となるべく周りに聞こえないように息を吐いた。自宅の最寄り駅までは乗り換えもなく、乗車時間は10分ほど。その短い時間の中で、ぐるぐるといろんなことを考えた。目を閉じれば先程の光景が浮かんできて、ぐ、と胃から何か込み上げてくるものを感じる。逃げちゃったのは、まずかったかな。でも実際に私、あの2人と何の関係もないし。でも警察くらいは呼ぶべきだった? てか本当に死んじゃってないよね。てか、っていうか。

「名前……」

 気のせいじゃなければ、逃げる私に向かって白髪男は確かに私の名前を呼んだ。、と、まるでずっと前から知っているように、とても自然に。幻聴だと思いたいが、その一言で片付けるには今もしっかりと耳に残っている。
 そこまで考えたところでぞくっ、と身体が震えて指先を握り締めた。今更気が付いたが、全身が小刻みに震えている。その後、自宅の最寄り駅への到着を知らせるアナウンスが流れても、ドアが開いて閉まっても、私は座ったまま立ち上がることができなかった。

 しかし、さすがにずっと乗っているわけにもいかない。なんとか次の駅で降りることができた私は、少し迷ったものの1駅分歩いて帰ることにした。少しは気持ちも落ち着いたし、足は痛かったけれどそんなに距離があるわけでもない。静まり返った隣駅周辺には仕事終わりに感じた華金の空気は流れておらず、私はとぼとぼと家路についた。

* * *

「おっそ、どこ寄り道してたの?」

 膝から崩れ落ちる、とまではいかなかったが、その声を聞いた瞬間、ぴし、と全身が硬直するのが分かった。
 私の住む3階建ての小さなアパートにエレベーターはない。2階にある自分の部屋へ向かうために、のろのろと階段を上がってすぐだった。部屋の前に、いたのだ。先程会った、先程必死で振り切ったはずの相手が。
 私は咄嗟にバッグを盾のようにして持ち、顔を隠しながら「なんで、なんで」と呟いた。ここ、私の家なんですけど。疲れすぎて幻でも見てる?

「逃げ足だけは今も速いんだね」

 何度か瞬きをしてみたが、幻ではないようだ。私の部屋のドアの前にしゃがんでいた白髪男はよいしょ、と言って立ち上がると、固まる私につかつかと大股で歩み寄った。彼の行動に、慌ててバッグの中を漁る。とりあえず、警察! しかし私がスマホを取り出すより先に、白髪男がスーツの内ポケットに手を入れたのが見えてこう思った。あ、殺られる……。

「ほい」
「へっ」

 白髪男が取り出したブツの正体に、私は間抜けな声を上げた。彼が私に差し出したのは、なんとびっくり私のスマホだったのだ。
 そんな、まさか。そう思いバッグの中を漁り続けるが、どんなに探してもスマホは見当たらない。息を呑み、目線だけを動かしてスマホと白髪男を交互に見遣る。落としたのだろうか。でも落とすような場面、あったっけ?
 いつまでも受け取らない私に痺れを切らしたのか、白髪男はわざとらしいため息を吐いた。

「いらない? せっかく届けてあげたのに」
「い、いります!」

 スマホを再度内ポケットに仕舞う素振りを見せた白髪男から、私は奪い取るようにしてスマホを受け取った。特に傷もついていなければ、画面が割れているようなこともない。とても落としたとは思えない。ちらりと視線を上げれば、こちらを見下ろす白髪男と目が合って心臓が跳ねた。

「あ、あのう……」
「ん?」
「さ、さっきの人」

 大丈夫でしたか。ずっと気がかりだったことを小声で尋ねれば、白髪男は「そっち先に聞く?」と顔を歪めた。

「普通さ、なんで家知ってんのかって方が気にならない?」
「そっそれはもちろんなんですけど……あと、名前も……」
「あ、聞こえてたのね、呼んだの」

 聞こえてたんなら止まってよ、と笑われて私は口を結んだ。いや、知らない男から急に大声で名前呼ばれたら、普通怖くて立ち止まれないでしょ。
 じり、と少しだけ後ずさる。白髪男が手を伸ばせば容易く私に届く、そんな距離でさっきみたいにうまく逃げられるはずがない。そして今は笑っているけれど、ナンパ男に対してそうだったようにいつ私に対しても態度が急変するか分からない。警戒心丸出しの私に向かって、白髪男はふ、と口元を緩めた。

「死んでないよ、首絞められて落ちただけ」
「あ……そ、そうですか、よかった」
「ちょうど近くにゴミ捨て場あったから、捨ててきた」

 悪びれる様子もなくそう言われ、思わず眉をひそめる。しかし死んでないのなら、まずはよかった。そう胸を撫で下ろす私に対し、白髪男は「まさか逆とはね」と呟いた。そのよく分からない言葉に、私は首を傾げる。『逆』とは、一体何の話だろうか。
 それにしても、名前だけじゃなく家まで知られていて「逃げ足だけは今も速い」と言われた。少しだけ、今抱いているものとは別物の不安が押し寄せてきて、白髪男の拗ねたような横顔をまじまじと見つめる。ひょっとして昔どこかで会って、私が忘れているのだろうか。

「あの、どこかで会ったこと……何でもないですすみません」

 ぐわっ、とものすごい表情を向けられたので、慌てて目を逸らし両手を振った。この人、かろうじて悪人ではなさそうだけれど、なんか怖い。圧が。それにこんなきれいでスタイルのいい人、一度見たら忘れるはずがないだろう。そう考え、頭の中に浮かんだ『昔どこかで会って私が忘れている説』を否定した。
 特に話が広がることもなく、私と白髪男の間に変な沈黙が流れる。ナンパ男の安否は分かったのだから、次はなぜ私の家と名前を知っているのかを聞きたいところだが、なかなかその勇気が湧いてこない。そして白髪男が退いて帰ってくれなければ、私は家に入ることができない。
 やはり警察を召喚するべきか。手に持っているスマホをどう自然に操作しようか考え始めたとき、「あ」と白髪男が何かに気付いたような声を上げて私のスマホを指さしたものだから、ひゅっと喉が鳴った。お前の考えていることはすべてお見通しだ、的なやつだ、絶対。

「LINEの友達に追加しといたから」
「えっ?」

 誰を? そう尋ねる前に白髪男は自身のポケットからスマホを取り出すと、すいすいと画面を親指でなぞり始めた。間もなくして私のスマホがぽよん、と可愛らしい音を立てる。

「送った」
「えっ!」

 嘘でしょう、と思いながらLINEを開くと、確かに全く知らないアイコンと名前からスタンプが届いていた。
 五条悟。1番上に現れたアイコンの右隣にそう記されている。五条、五条……。記憶の引き出しを開けて回ってみるものの、友人にも親戚にも過去の恋人たちにも『五条悟』という人物は存在しない。とりあえずトーク画面を開くと、黒猫がこちらを指さし『すべてお見通しだ』と書いてあるスタンプが送られてきていて、さすがに膝から崩れ落ちるかと思った。

「なんでさ、パスコード1207なわけ?」
「えっ」

 予想外の質問に、私は画面から顔を上げた。先程からずっと『えっ』しか言えていない。そう思いつつ「何となくですけど……」と答えれば、白髪男──もとい五条さんは、あまり納得がいっていない様子でふうん、と返事をした。そうか、私のLINEを開いて友達追加したということは、そういうことか。
 家と名前だけじゃない、スマホのパスコードまで知られている。冷静に考えて相当やばい。やばいはずなのだが、頭が混乱しすぎて何をどうすればいいか分からない。
 じり、と私に迫る五条さんの影に覆われる。やはりここで死ぬかもしれない。

「とりあえず今度2人で飯行こ。何食べたい?」
「ええと、あの」
「仕事、いつも今日みたいに遅いわけ? 土日の方がいい?」
「ま、待ってください、え? これってナンパですか? スカウト?」

 耐えかねてそう聞くと、五条さんは少し悩む素振りを見せたあと「いや違うけど」と真顔で答えた。違うのかよ。違うなら何なの、これ。
 俯いて頭を抱える私に向かって、五条さんが「さあ」と私の名を呼んだ。最初に五条さんから名前を呼ばれたときは不気味だったのに、2回目の今は不気味だとも怖いとも思わなかった。ややあって顔を上げる。

「LINEのアイコン、猫?」

 スマホ画面を指差す五条さんからの質問に、私はこくりと頷いた。私のLINEのアイコン。五条さんの後ろにある私の部屋で、今もずっと私の帰りを待ち続けている大事な家族。

「ケガして動けなくなってたところを拾ったんです」

 そう答えると、五条さんはきれいな目を丸くして私を見つめ「また拾ったのかよ」と笑った。彼の言う『また』の意味はやはり分からないが、あまりにも美しすぎる笑顔を目の当たりにした私は驚いて言葉を失った。
 運命の出会いがあるかもしれません。
 なぜこのタイミングなのか分からない。五条さんの笑った顔を見た瞬間、頭に蘇ってきたのは今朝の12星座占いのこと。1位は確か、そんなことが書いてあったっけ。


(2023.4.21/加筆修正2024.11.02)