毎年、夏の終わりには必ず後悔をしていた。海で泳ぎたかった、夏祭りに行きたかった、花火をしたかった、できれば彼氏をつくって二人で。今まではそんな後悔のあとに必ず「来年こそは」と思っていたけれど、今年の夏も去年の私に託された希望は叶えられないまま終わることになりそうだ。


「私は決めたよ」
「夏油くんはさ、後悔とかしないの?」
「しない……かな、ここに来る前からとんかつの気分だったから」


 頭の中に浮かんでいた夏の風景のど真ん中に、熱々のとんかつがぽん、と現れる。窓の外に広がる海から視線を前に戻すと、ファミレスのメニューをじっと見下ろす夏油くんの姿が目に入った。しかしすぐに彼は顔を上げて、私の表情に「あれ」と首を傾げる。


「何を食べるかって話じゃなかったかな」
「いや……私はこの若鶏のグリルにしよっと」


 そう呟くと、夏油くんはすぐにテーブルの隅に置かれていた呼び出しボタンを押した。早朝からの任務を終え、補助監督が迎えに来るまで近くのファミレスでご飯でも食べないか、という私の提案に二つ返事で了承してくれた夏油くんは、恐らく私以上にお腹をすかせていたのだと思う。まだランチの時間には少しだけ早く、客の少ない静かな店内に響いたチャイムの音は異様に大きく聞こえた。
 注文を済ませ店員さんが去ったあとも、メニューを広げたままデザートのページを眺める私を見て夏油くんがくすりと笑う。そんな彼を私は軽く睨みつけた。


「……どうせ『太るよ』とか言うんでしょ?」
「言わないよ、いっぱい食べる子好きだしいいと思う……というか」


 もしお腹に余裕があったら、あとでマンゴーのパフェを頼もう。でも定番のチョコバナナパフェも捨てがたいな。二つの選択肢で迷っていた私に、夏油くんは「さっきの話だけど」と少しだけ声を落とす。


「もしかして、後悔してる? 呪術師になったこと」


 いつも夜蛾先生が面談の最後に必ずする質問を、どうして夏油くんが今するのだろう。一瞬だけそう思ったあと、すぐに私の「後悔とかしないの?」という質問から話が続いているのだと気付いた私はふるふると首を横に振った。すぐにほっとした表情を見せた夏油くんは、「よかった」と笑みを浮かべる。


「よかった?」
が呪術師をやめたら、寂しいなと思ってね」


 初めてだった。同級生の男の子に『君がいなくなったら寂しい』的なことを言われるのは。別に呪術師をやめるつもりも毛頭なかったので、どういう気持ちで夏油くんの言葉を受け止めていいのか分からない。返事に困ってとりあえずメニューを元の場所に戻しながら夏油くんを見れば、彼は頬杖をついてにこにこ微笑んでいた。
 高専に入学して半年。今日のように夏油くんと二人で任務に当たるのはよくよく考えれば初めてのことで、慣れない時間に少しだけ緊張している自分がいた。別に苦手というわけではないけれど、夏油くんは他の同級生二人に比べると感情が読みづらく、何を考えているか分からないところがある。恐らく同じ男子でも、今目の前に座っているのが五条くんだったら緊張なんてしないだろう。
 足を少し前に伸ばせば、つま先が夏油くんの長い足にぶつかる。ごめん、と謝って引っ込めると、夏油くんは「伸ばしてくれても構わないよ」とさらりと言ってのけた。


「……夏油くんってさ」
「ん?」
「なんか、すごく落ち着いてるよね。同い年とは思えないっていうか、大人っていうか」
「そうかな、年相応だと思うけど」


 少なからず、今までのクラスメイトたちの中に一人称が『私』だった男子はいなかったと思う。そう言おうとしたけれど、組んだ両手の上に顎を乗せてどこか嬉しそうに笑う夏油くんを見ていたら何も言えなくなってしまった。
 はあ、とため息を零せば思ったよりも大きな声が出て、私は軽く咳払いをする。
 

「なんか、前までは『今年はできなかったことを来年こそはやるぞ』って思ってたんだけどさ」
「うん」
「高専に入ってから、そう思えなくなったんだよね」


 水を一口飲めば思っていたよりもおいしくて、自分が想像以上に喉が渇いていることに気が付いた。夏油くんは水には手をつけず、先程とは打って変わって真剣な面持ちで私を見つめている。
 夏油くんって、こんなに表情がころころ変わるタイプだったかな。そんな疑問が浮かんだと同時に、夏油くんはゆっくりと口を開いた。

 
「それは、来年生きているか分からないから?」
「それもある……けど、多分毎日必死だからだと思う」


 そう言って、私はもう一度窓の外に視線を向けた。
 同じ時代に生まれたことすら奇跡とも言える強者たちを三人も同級生に持ってしまったら、自分の実力がいかほどのものであっても自信なんてものは簡単に消え去ってしまう。入学当初は、特別だったはずの自分が本当に特別な人たちの中に入るとただの凡人にしか思えなくて、それなりに落ち込んだりもした。しかしずっと下を向いている暇もないほど忙しい毎日が続いているせいで、もう今ではある意味吹っ切れて呪術師をやれている。


「ほら、私みんなに比べると弱いしさ……まだ」
「ふ」
「あ、笑ったな」


 今度はわざと、つま先で夏油くんの靴を蹴った。

 
「いや……『まだ』っていいね、呪術師として生きていく覚悟と希望が含まれていて」
「五条くんに言われたんだよね、伸びしろはあるって。だからたくさん食べて、たくさん寝ろって」
「後半は多分適当に言ってるだけだね」


 二人で笑いあったあと、しばらく五条くんに対する文句をつらつらと披露しあっていたら、私たちのもとに注文していた料理が運ばれてきた。ふわ、と漂う湯気と香りに自分の胃が小さく悲鳴を上げる。
 そういえば二人での任務も初めてだったけれど、こうやって二人きりでご飯を食べるのも初めてだ。一口が大きいな、これだけで足りるのかな。夏油くんがとんかつを吸い込むように平らげていく様子を眺めながら、そんなことを考える。しかしすぐにじっと見つめていたことがばれてしまい、少し焦った私は意味もなく「夏油くんは」と彼の名前を呼んだ。


「うん?」
「あ、えーと、夏油くんは呪術師になったこと後悔してる? やめたいと思う?」
「後悔してないし、やめたいとも思わないよ」
「そう、よかった……あ、私も夏油くんがいなくなったら寂しいよ」


 先程の夏油くんの言葉を真似てそう言えば、言われた本人は一瞬だけ驚いたように目を丸くしたあと、少しだけ困ったように「ありがとう」と笑った。
 てっきり今までみたいに嬉しそうな顔を見せてくれると思ったのに。夏油くんの反応に僅かに首を傾げたけれど、どれだけ考えてもどういう意味の表情なのかはさっぱり分からなかったし、やっぱり夏油くんって分かりづらいな、と思った私は目の前の料理に集中することにした。


 

「ところで」
「ん?」
「『今年はできなかったことを来年こそはやるぞ』って思えなくなった、って言ってたけど」


 私たちが店を出た頃にはもうお昼を回っていて、結局食後のデザートにマンゴーのパフェを頼み満腹になった私に対し、夏油くんはそう切り出した。駐車場の隅で、ファミレスの壁に寄り掛かりながら隣に立つ夏油くんを見上げる。


は今年の夏、やりたかったけどできなかったことってあるの?」
「そりゃあ、いろいろあるよ。海で泳ぎたかったし、お祭りにも行きたかったし、あとは彼……」
「かれ?」
「……カレー食べたかった」
「メニューにあったけど」
「違うよ、キャンプとかに行ってだよ」


 硝子にすら明かしたことのない『彼氏をつくりたかった(つくりたい)』という願望を口にするのは気恥ずかしくてごまかしてみれば、夏油くんはさほど怪しむこともなく顎に手を当てて何かを考え始めた。
 不思議に思いつつも、携帯を開いて時間を確認する。ファミレスに来る前、夏油くんが自分から補助監督に連絡すると言っていたから恐らく迎えは呼んであるのだろうが、さすがに遅すぎるような気がする。ねえ、と私が声をかける前に、夏油くんが「」と私の名前を呼んだ。


のやりたかったこと、私が一つずつ付き合ってあげるよ」
「……え?」


 ぽかん、と口を開けた私に向かって夏油くんは微笑んだあと、右手に見える海を指さした。何も考えずに彼が指し示す方向に顔を向けると、小さな階段のようなものが見える。私はもう一度「え?」と声を上げた。


「とりあえず海、近くまで行こうか。泳ぐのはまた別の機会にするとして……あそこに下りる階段があるから行こう」
「ま、待って待って、そろそろ迎え来るでしょ?」
「来ないよ」
「なんで?」
「呼んでない」


 夏油くんの言葉に、私は先程よりも口を大きく開けたまま彼の顔をまじまじと見つめた。今日は朝早かったから、任務が終わったら帰ってすぐ寝ようと思っていたのに。
 どうして夏油くんが私のやりたかったことに付き合おうとしてくれるのか、なぜ任務が終わったのに迎えを呼んでいないのか、彼か何を考えているのかが全く分からない。
 私が再度「なんで?」と尋ねると、階段の方へ歩き出そうとしていた夏油くんはこう答えた。


「いっぱい食べる子が好きだから」


 ファミレスで聞いた言葉と同じ返答に、私たちは見つめ合った。九月とは言え昼間はまだ日差しが強く、紫外線を浴びている肌がじりじりと痛む。
 しばらくして夏油くんの言葉の意味にようやく気が付いたとき、私は慌てて目を伏せた。と同時に、突然夏油くんがその場にしゃがみ込んだので、心臓がどきりと跳ねる。
 恵まれた体格と服装、そして姿勢のせいでヤンキーに見えないこともない夏油くんのそばに、少しだけ悩んで私も屈んだ。そんな私を一瞥した夏油くんが早口で「やっぱり今のなしで」と告げる。
 「やっぱり今のなし」で実際に「なし」にできることなんて、ほとんどないと思うけど。頭の中でそう思いながら、私はごくりと唾を飲み込んだ。


「……ねえ、今のってさ」
「しつこいよ」
「まだ何も言ってないよ」


 私のツッコミに、夏油くんは「それもそうだね」と軽くく笑った。そんな彼の表情を目にした瞬間、心の奥底に今まで夏油くんに対して抱いたことのない感情が芽生え、それが少しずつ波のように揺れ始めた。多分だけど、どんどん顔が熱くなっていっているのは紫外線のせいだけではないと思う。


「……夏油くんってさ」
「なに」
「分かりづらいよね」
「……分かりやすいと思うけど」
「……そうかも」


 きっと夏油くんが分かりづらいんじゃなくて、私が夏油くんのことを分かろうとしていなかっただけなんだろうな。彼の気持ちに対して不思議と嫌な感じはせず、そのことに対して私は不思議と驚かなかった。
 私は片手に持っていた携帯と夏油くんの横顔を見比べたあと、スカートのポケットに携帯をしまった。今更早く帰ったところで、いつも通り眠れるはずがないだろう。
 照れているのか、私のことを見ようとしない夏油くんの顔を無理矢理覗き込んだ。


「海、行こ」


 顔の火照りとかこのこそばゆい気持ちとか、そういうものを全部振り払い少し震えた声で短く誘う。細い眼をさらに細め、今までに見たことないほどの優しい微笑みを浮かべた夏油くんの奥で、静かなさざなみの音が聞こえた。



(2022.09.16)