「あ、あの、先生…手が…」
「手? 手ってこれ?」
「わ、」


 夕暮れ時。どこかほっとするような橙色の陽が射し込む教室、机の上に置かれた英語の教科書とノート。
 いつもの光景、いつもの場所なのにいつもと違うのは、隣に座っている五条先生になぜかスカートの中をまさぐられている、ということだ。
 一番苦手な英語を、たまたま手が空いていた先生に教えてもらってたんだっけ。虎杖くんたちは、どうしていないんだっけ。私、今日は任務入ってないんだっけ。
 頭の中で自分が置かれている状況をひとつずつ整理していたら、私の膝をくるくると撫で回していた先生の手がゆっくりと上がってきて、太腿の上を滑り出したので全身が震えた。タイツ越しでも擽ったい上に、先生の手の動きに合わせてスカートがもぞもぞと動くさまを見ていられない。


「せ、先生ってば!」


 先程より強めに、そして咎めるように声を上げてスカートの上から先生の手を押さえつける。これ以上動かないよう強めに押さえたものの、ずっとこのままでいるわけにもいかない。





 名前を呼ばれて顔を上げれば、想像していたよりもすぐそばに先生の端正な顔があって、心臓が止まるかと思った。
 私の抵抗なんて何の意味もないかのように、先生の手が私の内腿に到達する。ひ、と口から変な声が漏れて慌てて両手で口元を押さえたせいで、自由になった先生の手がさらに動き出した。


「も、先生これ以上は、本当に」
「本当に?」
「だ、だめです…こんなとこ、誰かに見られたら」


 喋りながら、頭がくらくらするのを感じる。ぎゅ、と強く目を閉じれば、先生がくつくつ笑いながら「誰にも見られてなかったらいいんだ?」と言うのが聞こえた。
 そういう意味じゃ、なくて。いつもの私なら軽い調子で『先生サイテー!』とか言えるはずなのに、お腹の下の辺りがじんじんと熱くなってきて思い通りに言葉が出てこない。


、可愛いね」
「せんせ…」
「何も分かんなくなるくらい、気持ちよくしてあげるから」


 先生がいつもより低い声でそう囁くのが聞こえたとき、先生の指先が一番触れられたくないところを掠めて先程よりも大きく身体が跳ねた。

 遠いところから聞こえてくる振動音に意識を引っ張られ、ゆっくりと目を開ける。目の前には先生の顔…ではなく自分の腕、そしてすぐそばには小刻みに震えているスマホ。耳障りな音を消すためにスマホをタップするのと、大変な夢を見てしまったことに気付いたのはほぼ同時だった。


「あぁあ〜…」


 私は枕を抱き締めて、そのまま顔を埋めた。なんで、あんな夢…。
 百歩譲って、いやらしい夢を見るのはまだいいとしよう。でも相手が、まさかの知り合いでしかも担任教師だなんて…。目を閉じていると微笑を浮かべる先生の姿が現れるので、私は目を開けて再び大きなため息をついた。
 大丈夫、今までも何度か変な夢を見た記憶はあるけれど、大体数日もしたら曖昧になり詳しい内容なんて思い出せなくなっていった。だから、今回もきっと――。
 頭の中でそう自分に言い聞かせてみたものの、なんだか身体の中心が熱い。念のため確認をしたらそこはしっかりと濡れていて、少しだけ泣きたくなった。




「心ここにあらず」
「えっ?」


 都内のとある廃ビルでの任務中、急に背後からそんな言葉が飛んできて慌てて振り返る。すると、いつにも増して険しい表情を浮かべている七海さんが思っていた以上に近くにいたので、思わず一歩後ずさった。
 そんな私の行動に、七海さんは「私が近付いたことも気付かなかったでしょう」と叱るように呟いた。


「すみません…」
「今日はもう済んだので良いですが、呪霊を前にしてそんな調子だとあっという間に死んでしまいますよ」
「はい…」


 …ごもっともすぎる。何も言えない私を横目に、窓から帳が上がったことを確認した七海さんは早足で出口に向かって歩き出した。置いていかれないよう、小走りで七海さんを追いかける。


「…まあ、貴方ぐらいの年頃は悩みも多いでしょうが」
「ナナミンさんも学生時代は悩み多かったんですか?」


 私に目を向けることなく、前だけを見て歩き続ける七海さんの背中にそう問いかけると、呆れたような視線を投げられた。


「…さあ、覚えていません。そして『ン』は余計です」
「…あの、実は私、」
「相談に乗るつもりはありません」
「ご、五条先生にスカートの中を触られて…あ、ゆっ!」


 ──夢の話なんですけど。
 最後まで言い切る前に七海さんが急に立ち止まったため、反応できなかった私は七海さんの広い背中に顔面から激突した。
 いてて、と呟いて顔を上げると、恐ろしいほど顔を顰めて目を見開いた七海さんと視線がぶつかり、私は再び後ずさりすることになる。


「どこで」


 あまりの迫力と地を這うような声に、思わず背筋がピンと伸びる。きちんとした説明も忘れ、蚊の鳴くような声で「教室で…?」と答えれば、七海さんは眉間を指で押さえながら静かに、そして深くため息をつき、小さく「クソが」と吐き捨てた。
 くるりと振り返り、再び歩き出した七海さんの背中を再度追いかける。


「あの、でも夢の…」
「警察へ行きましょう」
「け!?」
「被害にあったときの状況を事細かに話さなければならないかと思いますが…女性の警察官が対応してくれるはずです。新田さんに付き添ってもらいましょう」


 七海さんは立ち止まらない。外に出て太陽の眩しさに目を細めていたら、少し離れたところに停められた車のそばで大きく手を振る新田さんの姿が見えた。


「待っ、ナナミンさん」
「私は学長に報告後、伊地知くんと家入さんの協力を仰いで五条さんを警察に──」
「ゆ、夢! 夢の中の話です、すみません!」


 このときの七海さんの顔を、私は一生忘れないだろう。


「──そんなわけでいろいろ考えちゃって、なんだか先生に会うのが気まずくて…」
「……」
「ちなみに夢占いをしてみたんですけど、異性に触られる夢は恋愛に対する欲求が高まっている暗示らしくて…あと、おじさんに触られる夢は恋愛運が急上昇している暗示だそうです」
「……」
「足を触られる夢は、積極的にアプローチしてくる男性が現れる予兆なんですって」


 黙っているのも気まずいので、『おじさん』という言葉にだけ僅かに反応を示した七海さんの横顔にひたすら話しかけてみる。


「恋愛に対する欲求が高まってるときに積極的にアプローチしてくる男性が現れたら、すぐにコロッといっちゃいそうです…」


 しかし案の定、眉間に皺を寄せて黙りこくった七海さんから何か答えが返ってくるはずもなく、運転中の新田さんがわくわくした様子で「恋愛相談スか?」と問いかけてきただけだった。




「お、二人ともお疲れ〜!」
「ごっ!」


 高専に到着してすぐだった。突如現れた五条先生をきちんと呼ぶことも直視することもできなかった私は、視線を泳がせながら「お、お疲れさまです…」と囁くように挨拶をし七海さんの背中に隠れた。すぐに頭上から面倒くさそうな大きいため息が聞こえたが、私は私で先生と顔を合わせる心の準備ができておらず、それを気にしている余裕はなかった。
 先生は七海さんの正面から、背後に身を隠す私を不思議そうに覗き込む。


、なんか失敗でもした? 怒らないから言いなよ」
「い、いえ」
「…任務は滞りなく終了してますので」
「ふーん? よく分かんないけど」


 すっ、と伸びてきた先生の大きな手が私の額に触れる。硬直している私の前髪を先生の指がかき分け、少しだけ固い掌がぴとり、と額にはりついた。


「熱でもあんの?」
「っあ、」


 その瞬間、思い出してしまった。夢の中で触られたときのことを。
 変な声を上げてしまった私のことを、大人二人が黙って見下ろしている。私は顔が熱くなるのを感じながら額に当てられた先生の手を持ち上げて離すと、私と先生の間に挟まれている七海さんの肩にそっと置いた。
 しん、とした空気に耐え切れず、その場で本日三度目の後ずさりを披露する。


「あの…今日日直なので失礼します! 報告書、あとでちゃんと出します!」


 捨て台詞のようにそう吐き捨てると、私はダッシュでその場を立ち去った。
 一刻も早く忘れたい。今まで見てきた変な夢の数々と同じように、早く記憶が曖昧になってほしい。
 そう願いつつも頭の中では繰り返し夢の内容を思い返していて、もうこうなったらこの夢を忘れさせてくれるような積極的にアプローチしてくる男性の出現を待つしかない、と走りながら思った。




「うち、日直なんてシステムあったっけ?」
「少なくとも私の学生時代はありませんでしたが」
「ひょっとして、呪霊の攻撃」
「くらってません。いい加減手を離してください」


 そう言うと五条さんは子どものように唇を尖らせ、渋々と私の肩から手を離した。
 すでにこの場から立ち去った彼女の顔を思い浮かべながら、あまり気乗りはしないものの大人は子どもを守る存在でなければならない、と自分を律する。


「…少し、距離感を考えた方がいいのでは?」
「ん?」
「気安く額に触れたり…一応、彼女は生徒でしょう」
「まあそうだけど、僕の未来のお嫁さんでもあるよ」
「は?」


 口角を上げたままの五条さんの顔をまじまじと見つめながら、もう一度呟く。


「は?」
「いや〜相変わらず可愛いよね。さっきのの顔、七海見た? もし見てたら忘れてくれる?」
「…先程から意味が分かりませんが」
「どうせいつかは生徒じゃなくなるんだからさ。そのときは僕のお嫁さんにしちゃおっかな〜と思ってるんだけど」


 さも当然、といった調子で楽しそうにペラペラとさんのことを話し続ける五条さんを目の前に、そういえばこの人は学生の頃から欲しいものは何でも手に入れないと気に入らないタイプの傲慢な人間であったことを思い出し、軽い目眩を覚えた。
 まあそれでも、生徒である以上手を出すつもりはなさそうなのでそこは成長と言うべきか。そう思ったとき、さんの走り去って行った方向を見つめながらぽつりと呟いた五条さんの言葉を私は聞き逃さなかった。


「まあでも、今のうちに積極的にアプローチしとかないとな」


 再び私の肩に手を置き「横からかっ攫われないようにね」と笑う五条さんに顔を顰める。こちらには全くその気はないというのに、牽制されているようで気分が悪い。
 反論しようと口を開いたとき、頭の中に聞き流したはずの彼女の言葉が蘇る。高専までの帰り道、車内で子どもらしく夢占いについて語るさんの言葉。


『積極的にアプローチしてくる男性が現れたら、すぐにコロッといっちゃいそうです…』


 …一周まわってお似合いの二人なのでは? そう思ったものの、声に出して言うのは憚られる。私はひとつ、ため息を吐いた。
 彼女からしたら、私たちは『おじさん』に分類されるらしい。そう告げると、五条さんは酷い冷たいそんなことないとキャンキャン喚きながらデカい図体で私の背中に飛びついてきた。クソが。
 

(2022.07.20)