「おっ、今日はがついてくれるんだ!」
「ひっ!」


 車の清掃中、急に大声で名前を呼ばれ全身がびくりと跳ねる。少し震える指先で落としてしまったマイクロファイバーのクロスを摘み振り返ると、屈んでいる私の背後に一人の男性が立っていた。
 逆光で顔はよく見えないが、すぐに誰だか分かる。黒い服に黒い靴、そしてまたまた黒い帽子。そんな影みたいな恰好とは対照的に、恐らく太陽みたいな明るい笑顔を携えている人。


「い、猪野さん…!」


 名前を呼ぶと、彼がさらに笑みを深くするのが分かった。

 猪野さんは私より一歳上で、付き合いは高専時代にまで遡る。卒業してから猪野さんは呪術師、私は補助監督となり、まだ補助監督として場数を踏んでいない私は一級術師や五条さんのような特級術師の方の補助につくことはなく、学生や二級術師である猪野さんと組むことが多かった。任務に関わらず七海さんや五条さんとお話するのは緊張するので、その点は正直助かっている。


「では出発しますね」


 準備を終え、後部座席に猪野さんを乗せて車を発進させる。高専から今日の現場までは、車で約一時間程度。今は朝の八時だから、混んでいなければ九時前には到着するだろう。


『この間七海サンと飲みに行ったんだけどさ、あの人飲み方もスマートなんだよ』
『あの五条サン相手にあんな冷静な態度とれんの、マジで七海サンだけだからね』
『七海サンみたいにスーツが似合う男っていいよなあ…俺もスーツとか着ようかな…』



 ――おかしい。
 いつもならずっと七海さんの素晴らしさを熱弁する猪野さんが、今日は妙に大人しい。ちらりとバックミラー越しに視線を向けると、猪野さんはスマホを持って一人で百面相を繰り広げている。
 声をかけてみようか。そう思ったとき、突如顔を上げた猪野さんと視線がぶつかり、彼は驚いたように目を丸くした。


「すみません、静かだから元気ないのかなと思って…」
「あ、ごめん! ちょっと、あの、あれ…メール返しててさ」


 言葉を濁しながらそう説明する猪野さんに、私は心の中でなるほど、と納得した。
 
 彼女だな、絶対。

 頬が緩みそうになるのを堪えて「そうでしたか」と言葉を返しながら、私は猪野さんと初めて出会った日のことを思い返していた。

 高専に入学して間もない頃、広大な敷地内で迷っていた私に声をかけてくれたのが猪野さんだった。彼は「広すぎだよなあ、こんなん迷うなっつー方が無理だし」と笑いながら私の目的地まで道案内してくれたのだが、結局一緒に道に迷ってしまい、遅刻して担任に怒られる私を猪野さんが庇ってくれたことをよく覚えている。
 ちなみに道に迷う私を見つけたとき猪野さんは任務へ向かう直前だったらしく、結果的に待たせていた補助監督と付き添いの術師から怒られたらしい。後にそのことを知り慌てて謝罪する私に向かって、猪野さんはけらけらと笑いながら「んじゃ、今度ジュース一本奢ってくれたら許す」と言っていた。
 呪術師にしては珍しく根が明るい、いわゆる『根明』な人。学生時代に私が猪野さんに抱いた印象は、未だに変わっていない。


「窓が呪霊を確認したのが午前六時頃です。施設は本日改修工事という名目で休業しています」
「了解っと」
「情報によると、かなり気配を消すのがうまいようです。祓うよりも探索に時間がかかるかもしれません」


 予定通り午前九時には現場となる都内の百貨店に到着し、簡単に任務の概要を説明する。とんとん、とつま先で地面を蹴って中へ入っていく猪野さんの背中に向かって「帳降ろします。お気をつけて」と声をかけた。どろり、と空から黒い膜が静かに降りてくるのを確認して、現在時刻を記録する。


「…!」
「えっ?」


 突如名前を呼ばれて、慌ててタブレットから顔を上げた。少し離れた場所にいる猪野さんが、少し緊張した面持ちでこちらを見つめている。


「何か忘れものですか!?」
「いや…今度さあ!」


 とぷん。私と猪野さんとの間に帳が降りて、彼の声は聞こえなくなってしまった。今度って、何だ。




「飯行こ!」


 帳が上がったとき、猪野さんの第一声がそれだったので、電話中だった私は耳にスマホを当てたまま軽く首を傾げた。とりあえずそのまま伊地知さんに祓除が済んだ旨を報告し、時間を確認する。
 十二時二十分、いつの間にか正午を回っていたらしい。


「そうですね、猪野さんお昼何が食べたいですか?」
「週末の夜とか二人で…魚好きだっけ?」


 同時に喋りだしてしまったため、私は「え?」と聞き返した。


「お昼、お魚の気分ですか?」


 唯一聞こえた『魚』という単語をもとにそう問いかければ、猪野さんは何度か目を瞬かせて、すぐにふは、と息を吐いて笑った。そんな彼の姿に、私は再び首を傾げる。


「いや、何でもないわ、昼行こ、昼」
「? はい」


 少しだけ疑問を抱きつつも、私は車へと向かう猪野さんの背中を追った。




 空いていた駐車場の近くにあったラーメン屋に入ると、平日だからか狭い店内はサラリーマン風の男性たちでいっぱいで、私と猪野さんはカウンターへ通され二人並んで座った。注文を終えてセルフサービスの水を注いでいたら、何となく店内の客たちからの視線をひしひしと感じる。全身黒ずくめの服・上下黒のパンツスーツを着た若い男女二人組は、どういう関係に見えるのだろう。
 少なくとも、恋人同士には見えないだろうな――。そんなことを考えながら水を口に含めば、隣に座る猪野さんが「ってさあ」とコップを片手に話し始めた。
 顔を横に向けると、肩がとん、と軽く当たった。普段滅多に横並びで座ることもないため、少しだけ緊張する。


「はい?」
「休みの日、何してんの? てか休みあんの?」


 帽子を脱いでいる猪野さんの額の傷に一瞬だけ目を奪われたあと、私は笑いながら「ありますよ」と返した。


「とは言え、急に人手不足で呼び出されることもあるので…休みの日もなるべく連絡取れるようにしといて、あまり遠くには出かけないようにしてます」
「うへえ、その辺は呪術師と変わらねーんだ」
「なので、うーん…休みは家で映画見てることが多いですかね」
「映画、好きなの?」
「好きです」


 そう答えると、猪野さんは少しだけ戸惑ったような表情を浮かべ、顔を逸らして「ふーん」と相槌を打った。
 聞いてきたわりには、あまり興味なさそうだな。内心口を尖らせたところで、さらに猪野さんが同じトーンで「やっぱ最初のデートは昼に映画かなあ…」と言うのが聞こえ、私ははっとした。彼女さんと、まだデートしたことないんだ…。
 驚いたものの、すぐに『それもそうか』と納得した。二級術師の案件は一級や特級よりも多く、猪野さんはここ三週間ほど毎日任務に駆り出されている。そんな状況で、ゆっくり彼女とデートなんてできる訳がない。
 仕事中でも彼女のことを想う猪野さんと、顔も名前も知らない猪野さんの彼女に同情していたら、目の前に注文していたラーメンがどん、と置かれた。器の中から上がる白い湯気と香りに、一気に食欲が刺激される。


「うまそ〜! ほい、箸」
「あ、ありがとうございます」


 二人で「いただきます」と手を合わせ、麺を啜る。太麺に豚骨のスープがよく絡んで、噛めば噛むほど空腹が満たされていくような気がした。汗をかきながらはふはふと麺を啜り続ける猪野さんの姿に、なんだか笑みが零れる。


「猪野さん、映画なら渋谷がおすすめですよ」
「ん? ひぶや?」


 もぐもぐと咀嚼を繰り返す猪野さんに、私はスープを一口飲んで頷く。


「ヒカリエもIKEAもあるし…まあ新宿もIKEAあるんですけど、渋谷のTOHOからの方が近いですし」
「いへあ?」
「IKEA、楽しいですよ」


 経験はないけれど、恋人同士で行くIKEAは絶対楽しいはずだ。
 とある映画で主人公たちがIKEAデートしていたことを思い出しながらそう力説すれば、ごくりと麺を飲み込んだ猪野さんは麺が伸びるから早く食えよと、少し困ったように笑った。




 帰りの車内も行きと同様とても静かで、またスマホを触っているのかと思って見れば、うつらうつらと船を漕ぐ猪野さんの姿が目に入った。頭ががくん、と前に落ちては慌てて目を開け、しばらくすると再び頭をぐらぐら揺らし始める猪野さんに私は笑いかける。


「寝てていいですよ、着いたら起こしますから」


 そう言うと、猪野さんは目頭を押さえて「や、大丈夫!」と大きな声を上げた。そして深く息を吐き、腕を組んできりっと前を見据える。


が仕事してんのに、俺だけ寝るのはなしでしょ」


 数分後、揺れる車内で窓ガラスに頭をゴツゴツぶつけながら熟睡している猪野さんに噴き出しそうになるのを堪えて、私はため息を吐いた。

 いいなあ、猪野さんの彼女。

 何となく、そう思った。確かに忙しくて時間もとれないし、ゆっくり会うことも、デートすることもままならないかもしれない。でもきっと、すごく大事にしてもらってるんだろうなあ。
 そこまで考えたところで、猪野さんがもぞもぞと動く気配を感じてそっと様子を確認する。起きるとまではいかなかった猪野さんが、ぽつりと寝言を漏らした。


…麺、伸びる…」


 ――いいなあ。
 もう一度そう思ったとき、少しだけ鼻の奥がつん、とするのを感じた。




 高専に到着後、後部座席で眠り続ける猪野さんの体を揺さぶり声をかけると彼は驚いたように飛び起きて、私の顔を見るなり「え? もう食い終わったの?」と言った。あの寝言といい、夢の中でも私とラーメンを食べていたのだろうか。
 車から下りて腕を空に向かって伸ばし、ぐん、と背伸びをする猪野さんの黒い背中をぼんやりと眺める。


「彼女さんとのデート、楽しんでくださいね」
、今度の休み映画行かない?」


 昼食前と同様、再び同時に喋りだしてしまったせいで猪野さんの言葉が聞き取れず「え?」と首を捻ると、目の前に立つ猪野さんが私よりも大きな声で「えっ!?」と叫び、私の両肩を掴んだ。


「え、ちょっ待っ、かの、デ、げほっ」
「だ、大丈夫ですか?」
「彼女サンとのデートって何!?」


 掴まれた両肩をぐい、と引き寄せられ、慌てて身体を後ろに仰け反らせる。今度は逆光でも何でもなく、焦ったように私を問い質す猪野さんの顔がすぐそばにあって、思わず息を呑んだ。


「え…あの、『最初のデートは昼に映画かな』って言ってたし」
「いや、それはさ」
「あと車の中で誰かと熱心に連絡取り合ってたみたいだったので、猪野さん彼女できたんだ、と思って」
「いや、それはさ〜…」


 私の両肩を離さないままがっくりと項垂れる猪野さんの額が今にも私の額とぶつかりそうで、何だかドキドキしてしまう。猪野さん、と小さく名前を呼べば、彼の一重の目が私を捉える。


「彼女は、いないから」
「そうでしたか」


 どうやら、勘違いだったようだ。
 そう気付いた途端、こんなにすぐ近くに猪野さんの顔があって緊張していたはずなのに、なぜか心の底から安心して、全身の力が抜けていくような気がした。


「よかった」
「まだ、だけど」


 またまた言葉が被ってしまい、今度は聞き返さずに笑ってみせれば、猪野さんがごくりと喉を鳴らした。
 そうだ、いつも二人同時に喋ってしまったとき、猪野さんは――。


「今、よかったって言った?」


 絶対に、私の言葉を聞き逃さないのだ。
 無意識のうちに呟いた自分の言葉に、どんどん顔が熱くなるのを感じる。
 照れ隠しに地獄耳とでも言ってやろうか。そう考えていたら、それまで真剣な顔つきだった猪野さんが晴れやかに顔を綻ばせて笑った。


、休みの日に二人で渋谷に映画行こ。そんでもって、その後IKEA行こ!」


 私が考えたデートプランに私を誘う猪野さんの顔が、こくりと頷いた私を見て太陽よりも眩しいものへと変わる。それを見て、自分の胸がきゅう、と締め付けられるのを感じた。




「七海サン、七海サーン! と今度映画行くことになりました! 二人で!」
「それは何より。しかし猪野くん、移動中とは言えさんの一挙一動を興奮して私にメールで実況するのはやめていただけますか」


(2022.07.06)