どうしよう、私、英語喋れないんだけど。

 世間一般で言うところの『いい家柄の子』である私が親の反対を押し切ってバイト先に決めたのは、これまた親の反対を押し切って進学を決めた高校から徒歩三分の場所にある小さなケーキ屋だった。
 東京のケーキ屋、と聞くとお洒落なイメージが湧いてきがちだが、地元に根付いたこの店で売られているケーキはどれもどこか懐かしい味がするものばかりで、有名店という訳でもネットで高評価を得ている店という訳でもなかった。お客さんだって、近所に住んでる人や私と同じ高校に通う生徒がほとんどである。
 そんな至って普通のケーキ屋に、突然めちゃくちゃイケメンで背の高い外国人のお兄さんが現れたら、誰だって狼狽えるだろう。

 そんな私の気も知らず、お兄さんは長身を屈めてショーケースに並ぶケーキ一つひとつを真剣に眺めている。…やばい、どの角度から見ても顔が良すぎる。というか普通に「いらっしゃいませ」って言っちゃったけど、多分伝わってないよね? どうしよう、急にペラペラ英語喋られても対応できない。こんなことなら、もっと真面目に英語の授業受けとくんだった…。

 お兄さんのありとあらゆる光を集めたような瞳が私を捕える。ショーケースの中のケーキを指さされ、私はごくり、と喉を鳴らした。


「ね、この中に期間限定のケーキってある?」


 この瞬間、私の心配は杞憂に終わったのだった。


「僕、初めて来るお店では期間限定の商品を買うって決めてるんだよね。定番ももちろん買うけどさ、定番のケーキが美味しくて『よし、あの店のケーキ全制覇しよ!』と思って次行ったときに、期間限定のケーキがなくなってたらちょっとショックじゃん?」


 お兄さんは自然に違和感なく日本語を使いこなしていて、私は彼が選んだケーキたちを箱詰めしながら「そ、そうですね?」と曖昧に返事をした。日本語なのに話が全然頭に入ってこない、つまり美味しくなかったら二度と来ないからなってこと?
 ケーキの箱を袋に入れ、会計を済ませる。お兄さんに商品を渡すと「お姉さん、バイトさん?」と質問が飛んできた。


「そ、そうです」
「学生?」
「はい、高校生です…」
「わっか〜い」
「お兄さんは……が、外国の方ですか?」
「純日本人だよ〜」


 いや、純ではないでしょう…。戸惑いの表情を浮かべる私を気にすることなく、お兄さんはショーケースの上に手を置いてゆっくりと私に顔を寄せた。急に真正面からじいっと見つめられて全身が強張る。


「名前はサトル、覚えておいてね?」


 あまりにも美しすぎる微笑みに、私はこくこくと頷くことしかできなかった。
 この初めての出会いから三日後、サトルさんは再びケーキ屋に現れる。


「やっほ〜、美味しかったからまた来ちゃった」
「あ、サトル…さん」
「ちゃんと覚えていてくれたんだね」


 嬉しそうにそう言われたものだから、私は思わずふふ、と笑みを零した。覚えておいてって言ったのはサトルさんの方だし、何よりこんな人、忘れる方が難しいに決まっている。
 サトルさんはぐるりと店内を見渡したあと「ここイートインスペースもあるんだね、気付かなかったな」と呟いた。

 そこまで広くもない店内の窓際にカウンター形式で設置されているイートインスペースには、普段は近所のおばちゃんたちや学校帰りの生徒たちが寄り集まることがほとんどだった。そんな場所にサトルさんがただ座っているだけで、店の雰囲気が一変する。
 サトルさんがケーキと一緒に注文したミルクティーを運びながら、私はぼんやりと思いを巡らせた。何歳くらいで、一体何をしている人なんだろう。モデル? 芸能人? それともホスト?


「何か、聞きたいことでもあるの?」
「えっ」


 テーブルにミルクティーを置いた途端、そんな言葉が飛んできて私はぎくりとした。
 慌ててサトルさんに目を向けると、真っ黒なサングラスの隙間からあの瞳が覗いていてさらにどぎまぎする。まじまじと見つめすぎていただろうか。顔から火が出そうだと思いながら「すみません」と謝ると、サトルさんはケーキを一口食べて人差し指を天井に向かって突き立てた。私は目を瞬かせる。


「僕がこのお店に来る度に、何か一つだけ質問に答えてあげる」
「し…質問、ですか?」
「気になってるんでしょ? 僕が何者なのか」


 そう言って笑うサトルさんは「あ、これ一番かも」と、この店で三番目の人気商品であるサンマルクを食べて呟いた。注文するケーキの量からかなりの甘党であることが窺えるが、意外とほろ苦いケーキが好きなのかもしれない。
 サトルさんの視線が再び私に向けられる。質問って、今日からスタートなんだ。そう気付いて「じゃあ、あの」と小声で話し出した私に対し、サトルさんは小さく頷いた。


「どうして純日本人なのに、目が青いんですか?」
「特別だからだよ」


 …よく分からないな。
 私の顔を見て、サトルさんはけらけら笑いながら「変な顔」と言った。自覚はあったものの他人に言われるとなんだか悔しくて、「酷いです」と言えば「ごめんね」と困ったように眉を落とされた。許す。

 サトルさんは毎日店を訪れることはなかったが、大体二日から三日起き、どんなに期間が空いても一週間以内にはやってきて「今日はどのケーキにしようかな」と楽しそうに声を弾ませた。
 そしてゆっくり店内で過ごす日も慌ただしく帰って行く日も、必ず私に「さて、質問は?」と聞くことを忘れなかった。

 そうなると必然的に、私はサトルさんがどんな人なのか知っていくことになる。最初は少なからず警戒していたものの、徐々に私は心を開いていった。


 おいくつですか?
 ──君より10は上。え、意外だった?

 お仕事は何されてるんですか?
 ──教師だよ。…何その目、疑ってるね。

 英語の先生?
 ──ちがうよ、さては純日本人って言ったの信じてないでしょ。

 趣味はありますか?
 ──うーん、特にないな。僕なんでもできちゃうから。

 お休みの日は何してるんですか?
 ──最近は仕事かなあ…寂しい人生だよね、まったく。

 お休みの日の仕事って、部活とか?
 ──違うけど、生徒の課外授業に付き合ったりはするかな?

 この辺に住んでるんですか?
 ──家はちょっと遠いね。今度遊びに来る?

 どうやってこのお店を知ったんですか?
 ──前から気になってたんだよね。

 結婚していますか?
 ──してないよ、独身。


 ──『彼女はいますか?』
 次に会ったとき、この質問をしようかやめておこうか迷っていた頃だった。ぴたりと、サトルさんが来なくなったのは。

 そしてちょうどその頃、学校で『近所のケーキ屋に尋常じゃないほどの高身長イケメンが出入りしている』という噂が流れ始め、ケーキ屋に生徒が屯することが多くなった。実際に、喋ったことのない女の先輩から「ケーキ屋でバイトしてる子だよね?」と学校で呼び止められ、噂の真相を尋ねられたこともある。
 そりゃあ噂になって当然だろうと思いつつも、心のどこかで他の人たちにサトルさんのことを知られてしまうのは少し嫌だな、と思っている自分がいた。しかしそれは恋愛的な意味ではなく、強いて言うならば『インディーズ時代から応援していたバンドが、メジャーデビューした途端に売れに売れてファンが増えた』ときの少し切ない気持ちである。
 私の気持ちはどうであれ、結果的にサトルさんはケーキ屋に来なくなってしまったし、噂もあっという間に聞かなくなった。私も、私の周りも、いつも通りの日常を取り戻したのだ。


 ある日のバイト帰り。すっかり日も暮れて暗くなった道中、ぴたりと私は立ち止まり空を仰いだ。毎日通る道、その端にぽつんと立った一本の電灯に群がる小さな虫たち、そして。


「…大きくなってる」


 不規則にぶんぶんと飛び回る虫たちの隣に浮かぶ、静かな呪い。普通の人には見えない『呪霊』と呼ばれるそれをどうするべきか。
 少しだけ迷って、ゆっくり右手を伸ばしたときだった。アスファルトを踏む音が聞こえて、私は反射的に正面へ顔を戻す。


「あれ、もうお店閉まっちゃった?」
「…サトル、さん?」


 現れた人物の姿に、私は戸惑いつつも声をかけた。
 確かにそこに立っているのはサトルさんだが、いつもの風貌とは異なりサングラスではなくアイマスクで目元を隠していて、髪も上にあげている。見えているのだろうか、と思ったが、サトルさんはしっかりと私のいる場所を向いて「ごめんね、ちょっと出張が続いちゃってさ」と笑った。

 私が返事をしようとした瞬間、空中で静かに浮かんでいるだけだった呪霊が突如けたたましい金切り声を上げたので、全身がびくりと跳ねた。咄嗟に空を見上げる。呪霊は先程見たときよりも何倍もの大きさに膨らんでいて、身体中から無数の針のようなものが飛び出していた。
 今、呪霊の真下にはサトルさんがいる。私はさっと血の気が引いていくのを感じて、大声を上げた。


「あ、危な…!」
「ん?」


 呪霊がサトルさん目がけて飛びかかっていく。肩から鞄がずり落ち、慌てて彼に向かって両手を伸ばしたときだった。
 当たってしまう。そう思った呪霊が、サトルさんのすぐそばでぴたりと動きを止める。いや、動きを止めると言うより──。

 サトルさんは「あ、そっか」と何かに気付いたように呟いて、自身に近付けないまま暴れている呪霊を指差した。


「そりゃ、目視できてるよね」


 え、と間抜けな声を出した瞬間、サトルさんが指差していた呪霊が膨らみきった風船のように弾け飛び、残骸がぼたぼたと四方八方に散った。落ちたどす黒い肉片を何でもないもののように踏みつけながら、サトルさんは呆然と立ち尽くす私に歩み寄り、地面に落ちている私の鞄を拾う。
 電灯の灯りが逆光になっていて、サトルさんがどんな表情をしているのかよく分からない。
 黙って鞄を受け取ると、サトルさんは親指でぐい、とアイマスクを引き上げた。


「さあ、今日の質問は?」


 背筋がぞく、と震える。どうして、私の名前、知ってるの。
 少し前に迷っていた『彼女はいますか?』という質問なんてすっかり忘れてしまった私の口から出た声は、微かに震えていた。


「あなた、誰…」
「いい質問だね、悟だよ、五条悟」


 頭の中で『ゴジョウサトル』という単語が『五条悟』という私たちの世界で最も有名な人物の名前に変換されたとき、サトルさんはゆっくりと鞄を抱き締めている私の手に触れた。


「僕の許嫁候補である家の一人娘が、親の言うことも聞かず好き勝手してるって聞いて様子を見に行ってみたら、案外真面目な良い子だったからびっくりしたよ」
「い、許嫁なんて、聞いてない…」
「候補だからね、まあもう僕は君に決めたけど」


 する、と指が絡まった。そして、もう一生解けないのでは、と思ってしまうほど強く手を握られる。
 サトルさんは「さっき僕のこと、助けようとしてくれたでしょ? ああいうの初めてだったからどきっとしちゃった」とうっそりと笑った。その声は、ショーケースの前でケーキを選んでいるときの調子と全く変わらなかった。


「たくさん質問に答えてあげたから、今度はが僕の質問に答える番だよ」
「サトルさん、」
「僕と結婚、するよね?」


 ふと、初めて会った日のことを思い出す。


『名前はサトル、覚えておいてね?』


 どこか圧を含んだ言葉に、ただ黙って頷くことしかできなかった私。あのときと同じく美しい微笑みを携えているサトルさんを目の前に、私はただ──。


(2022.06.25)