結論、寿司は美味だった。

ある程度予想はしていたが、銀座にある五条の行きつけの寿司店はミシュランの三つ星を何年も連続で獲得しているような、かなりの高級店だった。高専を卒業して本格的に呪術師の道を歩み始めたとき、学長に一度だけ別の寿司店へ連れて行ってもらったことがある。そこはお品書きに『時価』としか書かれておらず値段が分からないと一人でびくびくしていたが、今回の店はそもそもお品書きすらなかった。五条曰く、その日最もおいしい素材を使用して握っているため、メニューはおまかせコースしかないらしい。

本当ならば、今頃は新宿の価格が良心的なお店で賑やかに食事と会話を楽しんでいたはずなのに。頭の片隅にそんな考えが浮かんだが、最初に出てきたまこがれいの握りを食べた瞬間、全て綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。


「おいしい…」


ぼそりとそう呟くと、五条は嬉しそうに笑った。「毎日でも食べられるよね」と言う姿からは先程高専で感じた恐ろしさなど微塵も感じられず、普段通りの彼の姿にそっと胸を撫でおろす。その後、程よいスピードで提供された握り20貫を容易く平らげて私たちは店を出た。ちなみにさすが有名店、食後に出されたお茶もめちゃくちゃおいしかった。

帰りのタクシーの中で、ふと五条の受け持ちの生徒3人の顔を思い浮かべた。伏黒くんは、小さい頃からよく知っている。釘崎さんは、女の呪術師同士たまに会話を交わす程度。虎杖くんは、今日変な誤解をされてしまった…。というか彼ら3人は10代なんだから、あんなおいしいものを食べるにはまだ早いのではないか。そう考えたものの、『呪術師の食事は毎回が最後の晩餐のようなものだ』と、以前任務で一緒になった呪術師のおじさんが言っていた。彼はその数か月後に身体が真っ二つになり治療も間に合わず死んでしまったらしいが、彼の最後の晩餐は何だったんだろう。

──と、そんなどうでもいいことを考えていなければ耐えられないほど自分の身体がおかしいことに気付いたのは、あと10分ほどで高専に到着するだろうという頃だった。

ばくばくとうるさく鳴り続ける心臓を落ち着かせるために、静かに深呼吸を繰り返す。軽く眩暈もするし、五条につけられた痕を隠すために着ているハイネックが暑苦しい。前髪を直すふりをして額に触れると、そこにはうっすらと汗が滲み始めていた。熱があるような気がするが、いつも風邪の引き始めに感じる寒気は特段感じない。私の様子に気付いた五条が「」と私の名を呼ぶ。


「大丈夫?」
「大丈夫、ちょっとごめん、窓開ける」


そう告げて少しだけ窓を開けると、夜の暗闇からひんやりとした涼しい風が車内に入り込んできて私は目を閉じた。幾分か気分が楽になった気はするものの、相変わらず身体中が燃えてしまいそうなくらいの熱を持っている。そんな私の隣で、五条は「それにしても本当においしかったよねえ」と、うっとりとした様子で先程食べた寿司の話を始めた。お酒は1滴も飲んでいない、寿司だって出されたものをそのまま食べた、多分日頃の疲れが急に出てきただけ──。頭の中で呪文のようにそう唱えながらもう少し大きく窓を開けようとしたとき、五条がくすりと笑う声が聞こえた。


、お茶も残さずおいしそうに飲んでたもんね」


その言葉に振り返ると、まるで猫のように薄暗い車内で五条の2つの六眼だけが光って見えた。どこかぼんやりとした頭で、必死に1時間程前のできごとを回想する。いつ、どうやって。


「なにか、入れた?」
「さあ?」


五条は右手で緩む口許を隠しながら首を傾げている。

──甘かった。普段通りの五条になんて、戻っていなかったんだ。

そう気付いたとき、狭い車内で長い脚を窮屈そうに折り曲げている五条がそっと私の太ももに触れて優しく撫で上げた。こそばゆいような、じくじくと溶けていくような。服の上から軽く触られただけなのに、そんな変な感覚が走るのをしっかり感じ取ってしまった私は思わず「ひっ」と裏返った声を上げる。その悲鳴は、轟音を上げながらタクシーを追い越して行った交通違反のバイクによってかき消されたが、すぐ隣に座る五条の耳にはしっかり届いていたようで、彼は面白おかしそうにくつくつと笑っていた。

あとで絶対ぶん殴ってやる…。何を盛られたかは分からないが、そう思えるくらいだからきっと大丈夫。そう思っていた、のに。

筵山の麗に到着してすぐ、五条はタクシーを停めた。高専までは少し距離のある場所で下りることになったため、私たちは長い坂道を上っていかなければならない。しかしもう五条に対して異を唱える余裕もなかった私は、しばらくはふらふらと何とか意識を保ちながら歩いていたものの、すぐにその場にしゃがみこんだ。視界の端で、五条の靴が砂利を踏む。


「あれ、もう限界?」
「…先、行って」
「さすがにこんな暗い山の中に置いていけないでしょ」


ふうふうと呼吸を早く繰り返す私とは違って、五条は呑気に「ちょっと入れすぎちゃったかなあ、容量は守ったつもりなんだけど…が敏感すぎるだけ?」と言って笑っている。次第にしゃがんでいることすら辛くなった私はそのまま座り込み、彼のつま先をぼうっと見つめた。なんだか目の前が揺れている気がする。頭もくらくらするし、任務で大怪我を負ったとき、大量に出血しているときの感じとどこか似ている。じゃり、という靴音がして、肩が跳ねた。


「どうして、こんなことするの…」
「どうしてかな、なんか無性に腹立つんだよね」
「…なに、に」
「僕の知らないところで僕の知らないやつらと楽しそうに笑っているを想像しただけで、腸が煮えくり返りそう」


五条はそう言うと、あろうことか靴先で座り込んでいる私の身体を軽く蹴り始めた。ふらりと上半身が揺れて、私は地面に両手をついて倒れないよう何とか身体を支える。痛くはないが、突如沸き起こった屈辱感から強く唇を噛み締めた。


「そして、そんな僕の気持ちなんて全く気にしていない様子のお前にもね」


五条に『お前』と呼ばれたのは久しぶりで、今自分が置かれている状況に全く頭がついていっていないのに、なぜか私は高専に入学したときの記憶を思い返していた。もう10年以上前、五条と初めて顔を合わせた日、初めての会話。


『オイお前、名前は?』
『初対面で人のことをお前って呼ぶやつには教えたくない』



私は指を曲げて砂利を握りしめながら、地面に向かって言葉を吐き出す。もう今は長身の五条を見上げることすらできない。


「…ひょっとして、…私のこと、好きなの?」
「このどす黒い感情を恋愛感情と呼んでいいのであればそうかもねえ、実際に今僕、にめちゃくちゃ欲情してるし」


この男、どんだけ鬼畜なんだよ。頭の中でそう悪態をついたところで、五条は付け加えるように「何ならここで今すぐにの服引き剥がしてめちゃくちゃにしてやりたいくらい」と言った。その暴力的な言葉に、寒くもないのに全身がぶるりと震える。同時に、身体の中に並んでいる臓器のずっと奥の方からじわじわと何かが沸き上がってくる感じがする。自分の身体なのに、自分の身体じゃないみたいだ。

五条が私の目の前にしゃがみ込み、少し乱暴に私の顎を掴んで持ち上げた。タクシーを下りて初めて視線が重なる。いつの間にサングラスを外したのか、普段なら真っ先に『綺麗』だと思う澄み切った青い目も、今はただ月明りの下でぎらぎらと、野生動物のように鋭く輝いていた。五条に触れられている箇所が、酷く熱い。今すぐ目を逸らしたいのに、逸らすことができない。


「もう付き合ってるでいいよね、多分悠仁もそう思ってるだろうし」
「い、いやだ」
「なんで?」
「怖い、から…今の五条、怖いよ」


今にも泣き出してしまいそうな声でそう言うと、五条は驚いたように目を丸くして「こんなに優しくしてるのに?」と呟いた。ばかじゃないの、と思ったが、五条の様子から見ると本気でそう思っているようだ。

ぶん殴ってやる。そう思っていたはずなのに、五条に頬を撫でられただけで頭が真っ白になり何も考えられなくなってしまう。今日私は、五条の望みどおり合コンには行かなかった。それなのに、酷いことをするのか。しどろもどろになりながらそう尋ねると、五条はゆっくりと目を細めた。しかしその瞳は、あっという間に私の視界から消えていく。


「酷いことなんてしてないし、これからもしないよ、うんと可愛がってあげるだけ」


再び全身がぞくりと震え、同時に首筋につけられた痕が疼き出すのを感じる。五条が私に何を飲ませたのか、何となく予想がついたときにはもう全てが手遅れだった。

暗い山の中で、2人きり。無遠慮に捩じ込まれる舌にただ身を任せることしかできない私を、いつまでも月が照らし続けていた。


(2022.06.18)