「おっ、生きてた?」


東北・青森での任務を終えて高専に戻った頃には、もう辺りがうっすらと暗くなり始めていた。新青森駅から東京駅まで新幹線で約3時間、東京駅から高専までは車で約1時間半。移動でそれなりに体力を消耗していた私を出迎えたのは、テーブルの上に両足を乗せソファにだらしなく座った行儀の悪い五条だった。出張の荷物を五条の斜め前のソファの上に放り投げ、ため息をついて彼を睨みつける。


「普通、お疲れさまでしょ」
「オツカレサマー」
「てか何してんの、仕事しなよ」
「仕事してるよ、今日も任務こなして消費期限がとうに切れた上層部の相手してきたばっかだし」
「それはそれは、オツカレサマ」


五条の真似をして片言で心のこもっていない労いの言葉を返すが、本人は大してそれを気にする様子もなく「お土産は?リンゴ?」とこちらに両手を差し出してきた。とにかく座りたい私は「ない」と短く答え、彼の正面のソファに腰掛ける。五条は可愛いと思っているのだろうか、拗ねたように唇を尖らせた。


「いいも〜ん、からお土産もらえなくても、今日の夜はかわいい〜生徒たちとお寿司食べに行くし〜」


すっかり生徒たちから財布にされている五条を無視して鞄からタブレットを取り出し、帰りの新幹線の中で作成した任務報告書をメールで提出する。ちょうどいいタイミングで伊地知から電話がかかってきたので報告書を送った旨を簡潔に伝えると、五条が不思議そうに首を傾げた。通話を終えた私は、彼に一瞥を投げる。


「何、なんか急いでる?明日オフだったよね」
「中学時代の友達から連絡があって、今日の夜飲み会なんだよね…飲み会っていうか、合コン?」
「は?」
「3対3」
「はあ〜?」


急に語彙力を失う呪いにでもかかったかな。そう思いながらも、私は黙ったままスマホ画面に視線を落とし、友達への返信を入力していく。予定より早めに帰ってこれたし、シャワーを浴びる時間くらいはありそうだ。『なんとか間に合いそう』と入力したところで、ふっと影が落ちてきた。ゆっくりと顔を上げる。すると目の前に座っていたはずの五条が私のすぐ隣に立っていて、静かにこちらを見下ろしていた。恐ろしいことに、五条が動く音もしなければ何の気配も感じなかった。


「怖いんだけど…」
「合コンとか行っていいと思ってんの?」
「行く行かない、どちらにせよ五条の許可はいらないと思ってる」


理由は分からないが、五条は私が高専関係者以外の人間と交流を持つことをよしとしない。以前、中学の同窓会に参加したときのことだ。どこで聞きつけたのか、なぜか同窓会の日時・場所を把握していた五条は頼んでもいないのに私を迎えに来て、大勢の同級生たちの前で「遅かったじゃないかマイハニー」と身の毛がよだつようなことを抜かしていた。顔やスタイル『だけ』はよく、何もせず立っているだけで異彩を放つ五条に対して友達はきゃあきゃあと興奮していたが、中学時代スクールカースト上位だった女子たちの私を見る冷ややかな視線は未だに忘れられないし、結局そのあと無理矢理連れ帰られて二次会に参加できなかったことを私はずっと根に持っている。

このことを学長・七海・硝子の3人に話し各々に解決策を求めたところ、学長からは「お前ら仲いいな」とこちらの相談の意図を全く汲み取っていない答え、七海からは「もう諦めた方がいいのでは?」と解決策とは真逆の答え、そして硝子からは「アイツは昔から寂しがり屋だったからな」とまるで故人を懐かしむような答えが返ってきた。普段はとても頼もしいのにこういうときだけはポンコツと化す彼らに呆れつつ私が考え出した解決策は、『相手にしない』。恐らくだが、小さいころから呪術とは切っても切れない特殊な環境下で育ってきた五条からしたら、呪術とは関係のない一般人たちとの世界を持つ私が妬ましいのではないだろうか。『呪術に関わりのない世界』は、あの五条がこれから先絶対手に入れることができないものだから。最近の私は勝手にそう推測しており、そんな彼にこちらが気を遣って我慢するのもなんだかおかしい気がするので、『相手にしない』というのが結局のところ最善だと思っている。

友達に返信してすぐ、五条が「じゃあ僕も行く」と言ってのけたので、呆れ果てた私は再び顔を上げた。


「行って、女の子たち骨抜きにして男どもの鼻を明かしてあげる」
「は?」
「それか、の代わりに女装した伊地知に行かせよ」
「はあ〜?」


今度は私が語彙力を失う番だった。「意味わかんない」と呟いてソファから立ち上がろうとしたものの、立ちはだかっている五条が膝で私の身体をぐいぐいと押して邪魔をするため思うようにいかない。


「大体さあ、合コンなんか行ってどうすんの?彼氏欲しいの?」
「まあ、気の合う人が見つかればいいな、くらいには思ってるけど」
「…みたいな、男の前でつんけんしているような子には無理だよ」
「失礼すぎない?私だって可愛こぶろうと思えばできるし」


全く信用していない様子の五条に腹が立ち、私は彼の身体を押し退けて無理矢理立ち上がった。別に男の前でつんけんしているつもりはないし、五条が知らないだけで私だってやればできんのよ。しかしいくら口で言っても仕方がないと思った私は、目の前に立つ五条の袖を軽く掴み、ゆっくりと彼を見上げた。


『…今度は2人きりで出掛けたいな…だめ?』


これは先日たまたま見た恋愛ドラマに出ていた、ヒロインのライバル的存在の美女の台詞である。ちなみに「だめ?」の部分で首を傾げる仕草もきちんと真似してみた。同性から見たらただただあざといだけで苛立つような行為も、きっと男からしてみたらたまらないのだろう。五条の一文字に結ばれた口の端がぴくり、と動いたところで私は彼の袖から手を離し、腰に手を当ててにやりと笑ってみせた。


「どうよ、完璧でしょ」


得意気にそう言い放ってみたものの、五条は拍子抜けするほど無反応だった。とりあえず時間も時間なので、「じゃ、お先に」と簡単に別れの挨拶を述べて動かなくなってしまった五条の横をすり抜けようとした、そのとき。


「んぐっ!」


いきなり五条が私の腹に手を回し、力強く私を自身の身体に引き寄せた。胃を圧迫され、驚きのあまり変な悲鳴を上げてしまう。


「五条!何、す」


見上げれば、五条の整った顔が近付いてくる。思わず目を見開いて言葉に詰まっていたら、そのまま五条は顔を僅かにずらして私の首筋に唇を寄せた。ふにゃ、という柔らかい感触に驚いて咄嗟に五条の腕を掴む。と同時に五条の口が開いて、強く歯を立てられた。ぐっ、と歯が肉に食い込むと同時に走った激痛と一切躊躇いを感じられないその行為に、私は再度悲鳴を上げる。


「いっ…たいいい!」
「あれ、痛かった?…あ、歯型ついてる」
「ふ、ふざけんな!人の首狙うとか完全に殺しにかかってるでしょ!」
「ええ〜、じゃあ優しくすればいい?」
「そういう問題、じゃっ」


少しでも五条の身体を引き離そうと彼の腕や胸、腹を押し返すがびくともしない。抵抗虚しく、五条は再び私の首筋に甘噛みし始めた。がぶがぶと軽く歯を立てたり、はむはむと唇だけで挟んでみたり、まるで味見でもしているかのように。緊張と戸惑い、軽い恐怖で全身が強ばり、制止を求めるよう少し震える声で彼の名前を呼んだとき、ごほん、という乾いた咳払いが聞こえて2人同時に振り向く。そこには腕を組んで呆れ返った顔をしている硝子と、困惑した表情を浮かべた高専の生徒が1人立っていた。あの子、確か宿儺の…。


「硝子と…い、虎杖くん」
「あらら、見られちゃったねマイハニー」


こんなときでもふざけることを忘れない五条の足を力強く踏み付ける。しかし本人は痛くも痒くもない、と言わんばかりに私の腰を抱いたままにこにこと笑っていた。


「邪魔してすまん、虎杖が五条に用があるって」


そう言う硝子に肩をつつかれた虎杖くんは、微かに赤く染まった頬を指で掻きながら視線を彷徨わせた。


「あー、えっと先生、今日寿司連れてってもらう約束してたけどさ、伏黒も釘崎も俺も報告書溜まってて…その、寿司、別の日でもいいかな、って相談に来たんだけど…」


大人たち3人に囲まれて徐々に声を萎ませながらそう言った虎杖くんは、一間置いてちらりとこちらに視線を向けたあと「お取り込み中すんませんっ!」と叫び、自身の目の前でぱんっと両手を合わせた。…これはいろいろと、まずいのではないか。さっと血の気が引くのを感じながら、確実に誤解しているであろう若人に私が声をかけようと口を開いた瞬間、五条が「いいよ、気にしないで」と柔らかい声で言った。


「報告書は大事だからね、寿司なんていつでも連れ行ってあげるよ」
「あざす!んじゃ、失礼しまっす!」
「ちょ、待っ…」


慌てて声をかけるが、私の腰を抱いている五条の手にぐっと力が込められ身体がびくりと跳ねる。余程気まずかったのだろう、虎杖くんは五条の返事を聞くと、ものすごい速さで逃げるように走り去ってしまった。そんな彼の背中に向かって手を伸ばしたまま言葉を失っている私の顔を覗き込み、「邪魔が入ってがっかりした?」と楽しそうに囁く五条に殺意が芽生える。いつも報告書の未提出で伊地知たち補助監督を困らせている男が、『報告書は大事だからね』だと?


「あんた、ねえ…」
「ん〜、寿司キャンセルするの勿体ないし、2人で行っちゃおうか」
「誰が行くか!…硝子〜!」


視界の隅に立ち去っていく親友の姿が見えて、大声で助けを求める。立ち止まった彼女はこちらを振り向くと、私たち2人を指さしてこう言った。


「イチャつくなら生徒と私の見ていないところで頼む」


コツコツという子気味好いヒールの音がどんどん小さくなっていくのを聞きながら、私は唖然とした。そんな私の隣で五条はスマホを触りながら「時間は…変更しなくていっか、タクシー予約しとこっと」などと一人言のようにぶつぶつ呟いていて、私は再び五条の身体を両腕で押し返す。


「だから、行かないってば」
「言っておくけど、合コン行ったらもっと酷いことするよ」


この男は、つい先程虎杖くんに向かって優しく微笑んでいた男と同一人物なのだろうか。思わずそう疑ってしまうほど冷え切った声が上から降ってきて、私は顔全体が引き攣るのを感じた。五条を見上げれば口元は弧を描いているものの、隠れている彼の目は恐らくブチ切れているときと同じように瞳孔が開きかけているだろう。五条の言う『もっと酷いこと』が一体何なのか気になったが、知るのが怖くなった私はぐっと押し黙った。


「よかったね、僕と2人きりで出掛けられるよ?」
「さ、さっきのは、ドラマの台詞で」
は、僕の前でだけ可愛くしててよ」


理由を問う前に、目の前に近付いてきた五条のアイマスクの闇にどんどん自分が吸い込まれていくような気がする。五条は私の耳に唇を寄せると、息を吐くように先程と変わらず冷え切った声で言った。「やっぱり行けなくなったって、オトモダチに連絡して」と。

同窓会で五条を見た友達は、皆口を揃えて彼のことを『格好いい』『モデルみたい』と称賛していた。でもそれは本当の五条を知らないから言えることであって、『五条悟』という人間の本質を知っている私たちが彼に抱く印象は、大抵『普通じゃない』『一般常識が通用しない』エトセトラ。だから今、仮に私がもっともなことを言ったとしても、きっと五条は私を解放してくれないだろう。

ああ、私、間違えたかもしれない。馬鹿正直に合コンに行くと伝えたこと、五条の前で可愛こぶってみたこと、私に執着する五条に対して『相手にしない』と決めたこと、そして勝手に『五条はただ私を妬んでいるだけ』と甘く推測したこと、全部、何もかも。


『もう諦めた方がいいのでは?』


経済新聞を広げてこちらを見向きもせずそう言った七海の姿を思い出す。五条の身体を押し返していた両手の力を緩めポケットに入れていたスマホを取り出すと、それを見た五条は満足そうに口角を上げた。


(2022.06.18)