八月に入り、本格的な夏を迎えた。朝のニュースに出ていたお天気キャスターによると、今日の東京の最高気温は三十五度を超えるらしい。車内の冷房を一番強くしたところで、後部座席のドアが開いた。


「お疲れ様です、伏黒くん」
「…お疲れ様です」
「暑かったでしょう、タオルと冷たいお茶買っといたんで、どうぞ」


助手席に用意していたその二つを差し出すと、伏黒くんは「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べて素直に受け取った。

繁忙期は過ぎたものの、まだまだ忙しいこの時期。通常ならば一年生三人揃って任務に当たることがほとんどだが、今日伏黒くんには単独で任務に当たってもらっていた。虎杖くん・釘崎さん両名は、五条さんの引率で別の現場へ向かっている。

ちらりとバックミラー越しに伏黒くんに目を向けると、彼はタオルを首に当てたままぼんやりと窓から流れる景色を眺めていた。今日の案件はそんなに重いものではなかったはずだが、やはりこの暑さで体力を奪われるのか、どこか疲れきっているようにも見える。──青春真っ盛りの年頃なのに、毎日任務や訓練ばっかりでちょっと可哀想だよなあ。


「伏黒くん、お休みの日はちゃんと息抜きできてますか?」


そう声をかければ、伏黒くんはきょとんとした顔をこちらへ向けた。


「まあ…でも最近は虎杖と一緒に釘崎の買い物に付き合わされることが多いですけど」
「仲良いんですね!」
「迷惑ですよ、普通に」


ため息を吐きながらそうぼやく伏黒くんに、私はウィンカーを出しながら笑った。釘崎さんは確かに少々強引なところがあるが、本気で断ろうと思えばできるはずだ。結局のところ、付き合ってあげる伏黒くんは優しい子なのだと思う。目の前の赤信号に従い、車を停止させる。


「私は高専時代、忙しくてあまり遊べなかったんですよね〜」
「…確かさんって、高専出て大学に編入されたんでしたっけ」
「はい!でも大学ではそれまで遊べなかった分を取り戻すように、友達や恋人と遊んでばかりいた気がします」
「え?」


驚いたような声が聞こえて、もう一度バックミラーに視線を向ける。そこに映っていた彼は口を軽く開けたまま、先程よりもさらにきょとんとした顔をして私を見つめていた。


さん、恋人いたんですか?」
「え、あ、はい、でも大学時代ですよ?今はいないですけど…」
「…それ、五条先生は──」


伏黒くんの言葉を遮るように後ろの車からクラクションを鳴らされ、信号が青に変わっていることに気付く。慌てて車を発進させたあとに話の続きを促したものの、伏黒くんは「やっぱり何でもないです」と言って口を閉ざしてしまった。会話が途切れ、車内に冷房の音とエンジン音が響き渡る。

──五条さんが、どうしたんだろう。

急に出てきた高専時代の先輩の名前に疑問を、そしてあの伏黒くんがあんなに驚くだなんて、私に恋人がいたことが余程信じられないのだろうか…という複雑な気持ちを抱きながら、私は黙ってアクセルを踏み続けた。

高専に到着後、報告書作成のためすり合わせを行いながら二人で廊下を歩いていたら、先にある一年生の教室のドアががらりと開いた。私たちよりも早く戻っていたらしい虎杖くんがひょっこりと顔を覗かせ、こちらに気付いて「おっ」と声を上げる。


「伏黒とさん!グッドタイミング!」
「…何だよ、グッドタイミングって」
「五条先生がさ、アイス奢ってくれたんだよ!」


嬉しそうに目を細め、声を弾ませてそう話す虎杖くんは、「ほらほら」と急かすように私と伏黒くんの手を引く。教室に入ると、そこにはカップアイスを食べている釘崎さん、そしてビニール袋を片手にこちらに気付きにっこりと微笑む五条さんの姿があった。


「二人ともお疲れ〜!問題なかった?」
「お疲れ様です。伏黒くんのおかげでスムーズに終わりました」
「やるじゃん、恵〜」


五条さんに頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でられ、不機嫌そうな伏黒くんがその手を払う。そして勧められるまま虎杖くんと伏黒くんが袋の中からアイスを選んだあと、五条さんはその袋の口を広げたまま私の目の前に立った。


「残り二つだけど、好きなの選びなよ」
「ありがとうございます!五条さんはどちらがいいですか?」
「僕はどっちでもオッケー」


袋の中を覗くと、チョコレート味とコーヒー味の棒アイスが二つ。迷った私は、とりあえず五条さんが好きそうなチョコレート味のアイスを残し、コーヒー味のアイスを手に取った。「ありがとうございます」と伝えれば、五条さんは嬉しそうに微笑んだ。

建物が古く冷房が設置されていない教室は、外よりは涼しいもののとてもじゃないが過ごしやすいとは言えない。さらに、開けている窓から飛び込んでくる蝉の鳴き声が茹だるような暑さを助長する。一口アイスを齧れば、ひんやりとした冷たさで幾分か暑さが和らいでいく気がした。自席に着いて雑談しながらアイスを食べる一年生三人を眺めていると、普段あまり訪れることのない教室にいるせいか、少しだけ学生の頃を思い出す。

ふと隣に目を向ければ、私と同じように壁に寄り掛かり、大きな口を開けてアイスに齧りつこうとしていた五条さんがこちらに顔を向けた。目元、暑くないのかな。


「そんなに見られてると恥ずかしくて食べれないなあ」
「す、すみません…」
「ま、にならいくらでも見られてていいんだけど」
「あの、暑くないのかなと思って」


いつもの五条さんの軽口になんとなく恥ずかしくなり、アイスを持っていない方の手で自分の目を指さす。すると五条さんはアイスに齧りつき、口をもごもごさせながら「慣れてるからね」と笑った。そこで、アイスを食べ終えたらしい釘崎さんの大きなため息が教室内に響き渡り、全員の視線が彼女に集中する。


「夏らしいこと、全然できてないわね…」
「任務と授業と訓練で手一杯だもんな、俺ら」


苦笑いしながらそう答えた虎杖くんが、何か思いついたように私と五条さんに視線を向ける。


「先生たちは俺らぐらいのとき、夏楽しんでた?」
「んー、僕は君ら以上に任務が多かったからねえ」
「私は…大学時代は花火大会とか行った記憶がありますよ」
「なによさん、それって彼氏と?」
「まあ、はい」


釘崎さんの問いかけに、遠い昔を思い出しながら「あ、でも昔のですよ?」と一言付け加えれば、この話に全く興味なさそうだった伏黒くんがぎろりとこちらを睨んだので驚いた。──そういえば、帰りの車内でも私の恋人の話に敏感に反応していたっけ。そのことを思い出して伏黒くんに声をかけようとしたときだった。


「ふーん?」


相槌にしては大きい五条さんの声。違和感を感じて隣に立つ五条さんを見つめると、五条さんは先程とは打って変わって真剣な表情で前を見つめ、アイスの棒を咥えたまま「ちょっと自由にさせちゃってたからなあ…」と小声で呟いた。


「いいなー、僕もデートで花火大会とか行ってみたいなー」
「五条さんなら引く手数多でしょう」
「何も分かってないんだから、は」


五条さんの言葉の意味を考える前に、先程の釘崎さん同様大きなため息をついた伏黒くんが、ふいと視線を逸らし「オイ、お前ら」と残る二人に声をかける。


「報告書できてんのかよ」
「バカにするんじゃないわよ、とっくに書き上げてるっつーの」
「…出しに行くぞ、担当伊地知さんだろ」


がたん、と音を立てて椅子を後ろに引き立ち上がった伏黒くんを、虎杖くんと釘崎さんが驚いたような表情で見つめる。


「え、伏黒もついてくんの?」
「そんなに私たちと離れたくないわけ?アンタ意外と寂しんぼね」
「うるせえ、さっさと行くぞ」


食べたアイスのゴミをビニール袋に入れて、どこか面倒くさそうに急かす伏黒くんに二人は渋々といった様子で立ち上がった。


「報告書、私が伊地知さんに提出しておきましょうか?」


そう声をかけると、伏黒くんと視線がぶつかった。しかし伏黒くんはすぐに私の隣にいる五条さんに目を向け、呆れたように「…大丈夫です」と答えた。不思議に思って五条さんを見上げれば、彼は特に変わった様子もなくひらひらと三人に向かって手を振っている。

ばたばたと賑やかに教室を出て行った三人の足音や笑い声が遠くなり、蝉の声だけが耳に響いてくる。私ははっとして「五条さん」と声をかけた。


「すみません、食べるの遅くて…あ、ゴミ私が捨てておくので置いといてくだ」
が僕とデートしてくれたら嬉しいんだけどな」


話を遮られてそんなことを言われたので、一瞬だけ虚を突かれた私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。さっきのデートがどうとかの話、まだ続いてたんだ。私が笑いながら「またまた…」と躱すように返事をすれば、五条さんは私の手元を指さしてこう言った。


「アイス、溶けちゃうよ」
「あっ」


溶けたアイスが私の指にぽたりと垂れた瞬間、隣から大きな手がぬっと伸びてきて手首を掴まれた。そしてそのまま黒い影が落ちてくる。私の手首を掴んだ五条さんが私の指についてしまったアイスをぺろりと舐めたものだから、私は変な悲鳴を上げてしまった。


「五条さん!?」


慌てて名前を呼び手に力を入れてみても、五条さんは私の手首を離そうとしない。それどころか、そのまま五条さんの赤く僅かに冷たい舌がぬるりと指の上をなぞっていき、思わず全身がびくりと震えた。

蝉の鳴き声と同じくらい、自分の心臓の音が大きくなっていく。今までどうやって呼吸していたのか分からない。そう思ってしまうほど息が苦しい。少しずつ熱を帯びてきた五条さんの舌に、心も身体も溶けてしまいそうだ。しばらくして五条さんはアイスの溶けかけている部分を僅かに齧り、離れていった。至近距離で、五条さんの口角が上がる。


「コーヒー味にしては結構甘いね、これ」
「ご、五条さん…!」


再び上擦った声で少し咎めるように名前を呼べば、アイマスク越しに視線が交わるのを感じた。──どうしよう、顔、近い。今しがた感じた指の上で蠢く五条さんの舌や、すぐ目の前にある整った顔に、頭のてっぺんからつま先までがどんどん熱くなっていく。


「で、僕とデートしてくれるよね?」


やっぱり、まだまだその話は続いてたのか。頭の中でそう思いながらも胸が苦しくて返事ができない私は、自分の赤くなっているであろう顔を隠すかのようにこくこくと縦に頷いた。そんな余裕のない私とは違い、五条さんはまるで小さい子どものように無邪気に喜んでいる。


「今年の夏は楽しくなりそうだ」


ようやく顔を上げると、五条さんが再び「アイス、溶けちゃうよ」と言うものだから、私は即座にアイスに齧りついた。苦くて甘いコーヒー味が口の中に広がっていく。冷たさに眉を顰めれば、五条さんは一瞬だけ目を丸くしたあとけらけらと楽しそうに笑った。

──私の今年の夏は、一体どうなっちゃうんだろう。

満足そうに笑い続ける五条さん。そんな彼の背後にある窓の向こうでは、清々しいほどの青空が広がっていた。


(2022.06.03)
呪術夢企画「僕らの夏は色褪せない」提出作品