「お前マジかよ、信じらんねぇ」


顔を歪めて吐き捨てるようにそう言い放った五条先輩の目の前で、私は身を縮ませて着替えの入ったバッグを胸にぎゅう、と抱き締めた。お風呂から上がったばかりで乾かしていない髪の毛から、ぽたりと水が滴り落ちる。


「また貼りかえる時、手伝ってあげるよ」


夏油先輩はその言葉通り、初めて湿布を貼ってくれたあの日からほぼ毎日私の湿布の貼りかえを手伝ってくれていた。一応、自分で貼りかえることもできる、こんなことで先輩の手を煩わせるわけにはいかない、とやんわり断ったのだが、「はそんなこと気にしなくていいよ」とやんわり一蹴されてしまい、それからずるずると今日まで続いている。ご厚意でやってもらっているわけなので、『ずるずる』という表現は夏油先輩に失礼かもしれないが。

普段は寮の談話室で貼りかえてもらっていたが、今日は夏油先輩から部屋に来て欲しいとメールが来たため、入浴を終えた私は足早に夏油先輩の部屋へと向かった。その途中で今から任務へ行くという五条先輩と遭遇し、冒頭の台詞を吐かれたというわけだ。


お前さあ、その格好で傑の部屋行くのかよ」
「ね、寝巻きじゃ失礼ですかね、やっぱり…」
「ちげぇよ…あのなあ、傑は男だぞ?」
「それは知ってます、間違っても女性には見えませんし」
「…アホくさ」


五条先輩は面倒くさそうにそう呟いたあと、私にずいっと顔を寄せた。…国宝級のご尊顔を私のすっぴん顔に近付けないでもらいたい。そう思いながら身構えると、五条先輩はにやりと意地悪そうに笑った。


「お前、そのうち食われるぞ、傑に」


──夏油先輩は、呪霊だけでなく人間も取り込むことができるのだろうか。私のそんな疑問を他所に、五条先輩は「忠告はしたからな」と言ってひらりと手を振ると、その場をあとにした。彼の背中が廊下を曲がって見えなくなったあと、突如訪れた寒気にぶるりと身震いした私は夏油先輩の部屋へと急いだ。

こんこん、と目の前の扉をノックをする。一拍置いて、私と同様お風呂上がりなのか髪を下ろした夏油先輩が顔を覗かせた。


「やあ、遅かったね」
「すみません、途中で五条先輩に捕まって」
「悟に?あ、入りなよ」


ドアが大きく開いて、中に入るよう促される。夏油先輩の部屋に入るのは初めてで、少し緊張しながら小声で「おじゃまします」と呟き頭を下げた。

七海は頑なに部屋に入れてくれないが、灰原の部屋には何度か入ったことがある。同じ男性の部屋で間取りも私や灰原の部屋と同じはずなのに、先輩の部屋は物が少なくきちんと整理整頓されていて、なおかつ黒を基調としているせいかお洒落で広く感じた。

バッグを抱いたままドアの前で立ち尽くす私を見て、先輩は目を細めて微笑んだ。


「適当に座ってよ」
「あ…ありがとうございます」


ベッドの隣に置いてあるローテーブルのそばに座り、バッグの中をごそごそと探って替えの湿布を取り出す。いつも通り、慣れた手つきで湿布を貼りかえた先輩は、俯いている私の濡れて束になっている髪をそっと指で摘んだ。


「髪、乾かさないのかい?」
「あとで乾かせばいいやと思って…お待たせするのも申し訳ないですし」
「そういえば」


先輩は私の髪から手を離すと、湿布が貼ってある私のうなじを指でとん、と突いた。その瞬間、背筋がぞくぞくと震える。無意識に、初めて湿布を貼ってもらったときのぬるりとした生温かい感覚を身体が思い出していた。振り返ると、先輩は最初と変わらずにこにこと微笑んでいる。


「悟に、何か言われた?」
「えっと…そのうち食われるぞ、って」
「食われる?」
「はい…私が、夏油先輩に」


そう答えたあと、思い切って「夏油先輩は呪霊だけじゃなくて、人間も取りこむことができるんですか?」と尋ねたら、先輩は一瞬だけ目を丸くして、すぐに声を上げて笑い出した。普段あまり聞くことのない先輩の笑い声に、どんどん顔が熱くなっていく。


「さすがに人間は無理かな」
「そ…そうですよね」
「…悟の言った『食われる』がどういうことか、教えてあげようか」
「え?」


ぱっと顔を上げると、隣に座っていた先輩が体育座りをしていた私の足首を掴んだ。掴むと言うよりも弱く優しい力でただ握っているだけなのに、足首だからだろうか、瞬時に「もう逃げられない」と感じる。そしてそのまま、先輩の手がゆっくりと私の脛、膝、太ももの上を滑っていく。突然のできごとに、思わずテーブルの縁をぎゅ、と掴んだ。先輩に触れられた箇所がどんどん熱を帯びていくのを感じながら絞り出した声は、裏返っていてとても情けないものだった。


「あの、先輩、」
は少し、無用心すぎるかな」


囁くようにそう言った先輩の瞳にまっすぐ見据えられたとき、まるで蛇みたいだ、と思った。睨まれているわけではないのに、先輩に見つめられると身体が動かなくなってしまう。そしてゆっくりゆっくり時間をかけて、いずれは丸呑みされてしまうような、そんな予感がする。

いつの間にか、私の顔から数センチも離れていない場所に先輩の顔がある。動けない私は、ただ呼吸を繰り返しながら先輩を見つめ返すことしかできない。



「は、い」
「…食べてもいいかい?」


食べる、食われるの意味を理解できないまま、何とか必死に首を横にぶんぶんと振れば、先輩は軽く微笑んで「残念」と呟き私から離れていった。太ももに置かれていた手もすんなりと離れていき、私はばくばくと激しく動く心臓の辺りで震える拳を強く握りしめた。そんな私の様子を見て、先輩はくつくつと喉の奥で笑う。からかわれた、だけだろうか?


「驚かせちゃったかな、すまないね」
「あ、いえ…」
「好きな子は食べたくなっちゃうんだ」
「好きな、子」
「好きな子」


好きな子、好きな子、好きな子…。頭の中で何度も先輩の言葉を繰り返す。僅かに口元を緩めながら私の反応を窺っている様子の先輩に、「それは…後輩として好きってことですよね」と確認を取る。


「さあ、どうだろうね」
「…さっきから先輩、私のことからかってますか?」
「さあ?」


何だろう、暖簾に腕押しってこういうことを言うのかな。頭の中は「好きな子」という単語で埋め尽くされていて、相変わらず心臓はうるさいまま。あまりにもうるさいから、先輩に聞こえているかもしれない。会話が途切れ、何となく気まずくなった私は置いていたバッグを手に取り、「じゃあ」と呟いて立ち上がった。


「あの、ありがとうございます、いつも…」
「どういたしまして」


私から少し遅れて立ち上がった先輩は、身長の低い私の顔を覗き込むように身を屈めた。そして再度、私の髪を撫でる。先輩の一挙一動で、どんどん自分がおかしくなっていくような気がする。


「明日」
「あ、あした…?」
「私に食べられる覚悟ができたら、またおいで」


耳元で囁かれたその言葉と先輩の吐息に、ぶわっと全身が燃え上がるような感覚を覚える。食べられる覚悟?そんなの、どうやってすればいいの。先程寒気を感じたはずの身体が、今は驚くほど火照っている。


「夏油さんのこと、どうにかしてください」


ふと、いつかの七海の言葉が頭をよぎる。──無理だよ七海。「どうにかする」なんて、先輩より一枚も二枚も三枚も上手にならないとできるはずがない。そんな人、いる?

こくりと頷いた私に満足気に笑う先輩を見て、胸がきゅう、と締まる気がした。本当に食べられてしまうかもしれないのに、どうして不安ではなく期待を抱いている自分がいるのか、不思議で仕方なかった。


(2022.05.07)