「夏油さんのこと、どうにかしてください」


突然、何の前触れもなく投げかけられた言葉に、私は持っていたおにぎりに向かって口をあんぐり開けたまま視線だけを上げた。私の席の前に立つ無表情なクラスメイトの眉間には、入学当初、私が「七海くんって男の人にモテそうだよね、マッチョな男の人に」と言った時と同じくらいの深い皺が刻まれている。とまあ、そんなことはどうでもよくて。


「えっと、夏油先輩がどうかした?」
「気付いてるんでしょう」
「…ごめん、全然分かんない」


そう言うと七海はさらに険しい顔をして、呆れたようにため息をついた。私の隣にいた灰原が「夏油さんがどうかした?」とひょっこり顔を出す。しかし七海はそれには答えず、「気付いていないなら良いです」とだけ言うと、自分の席に戻ってしまった。そんな七海にいつも通り灰原が絡んでいるのを眺めながら、おにぎりに食らいつく。おにぎりはツナマヨ派だ。

休み時間も終わり、座学を受けながらぼんやりと夏油先輩のことを考える。夏油先輩は、私たちの一つ上の先輩。でもたった一つしか歳が離れていないとは思えないほど、すごく大人で(いつも夏油先輩の隣にいる相棒が子どもすぎるからそう見えるのかもしれないけれど)どこか達観しているようにも見える人。灰原ほどではないけれど、私も夏油先輩のことを同じ呪術師として尊敬しているし、あんな人になりたいと多少なりとも思っている。

「夏油さんのこと、どうにかしてください」「気付いてるんでしょう」「気付いていないなら良いです」──七海の言葉を頭の中で順番に繰り返してみても、さっぱり何のことか分からない。夏油先輩について、何か気付かなきゃいけないことがあるのかな。

元々私は、同時に複数のことをこなすのも考えるのも苦手なタイプだった。何か考えごとをしていたら、どこか別のところが疎かになるのはよくあることで…。


「痛いよ〜…灰原のばか」
「ごめん、まさかあんなに見事に入るとは思ってなかったからさ!」


その結果、体術の時間に灰原からの手刀を思い切り首の後ろに食らい、一瞬だけ意識が飛んでしまった。灰原は、謝ってはいるものの全然悪いと思っていないようで、「、今日ぼうっとしてるね」と笑っている。まあ実際、訓練なんだから怪我する方が悪いし、謝ってほしいわけではないんだけど、笑われるのはちょっとだけ腹が立つ。お互い自販機の近くにある長椅子に座り、私は俯いて髪をかき分け、灰原に首の後ろを見てもらっていた。「痛そう、痣になってる」と笑う灰原。私が口を開く前に、七海が湿布を持って戻ってきた。


「何枚かもらってきました、冷湿布です」
「七海ありがとう〜愛してる〜」
「気持ち悪いのでやめてください」
「見えなくてうまく貼れないから、どっちか貼ってくれると助かるんだけど…」
「じゃあ僕が貼るよ!」


髪を巻き込んでしまわないよう、もう一度左右に分けて前に持っていき、少しでも貼りやすいようにと下を向く。灰原が湿布を手に取り透明のフィルムを剥がした時、「どうしたんだい?」というクラスメイト以外の声が聞こえて、反射的に顔を上げた。


「夏油さん!お疲れ様です!」


ピシッと礼儀正しく姿勢を正した灰原の手から湿布が落ち、床にべたりと貼り付いた。「湿布が…」という私の短い呟きは、ガコン!と自販機が何かを吐き出した音に掻き消される。

夏油先輩はペットボトルの蓋を開けながら、私たち三人の様子を眺める。私が鎖骨あたりで、髪の毛を二つ結びのように両手で持ったまま「お疲れ様です」と挨拶すると、夏油先輩は私に視線を向けて首を傾げた。


「怪我?」
「あ、ちょっと…灰原の手刀がもろに入っちゃって」
「見せて」


私たちから少し離れたところに立っていたはずの夏油先輩は、たった二歩進んだだけで私のすぐ傍へやってきた。恐るべし、脚の長さ…。大人しく、先程クラスメイト二人の前でそうしたように、俯いてうなじを晒し出す。それを覗き込んだ夏油先輩は、「ああ、本当だ」と小さく呟いた。


「…灰原」
「何?七海」
「少し、こちらへ」
「え、何?」


私は俯いていたので声だけしか聞こえなかったが、七海と灰原が何やらこそこそ話し合いながらその場を離れていくのが分かった。──なんで?どこ行くの?そう思ったけれど、夏油先輩が私のうなじを見ながら「これは消えるまで時間かかるかもね」「痛くないかい?」といろいろ話しかけてくるので、二人を呼び戻すことができない。


「湿布、貼ってあげるよ」
「え、あ、すみません!忙しいのに…」
「大丈夫、ちょっと失礼」


そう言うと夏油先輩は私の隣に座り、ペットボトルを置いた。後ろに垂れていたらしい私の髪をすくった夏油先輩の指が、少しだけ私の肌に触れる。その指が想像以上に冷たくて、肩がびくりと跳ねた。

先程七海と灰原に見られていた時は何とも思わなかったのに、夏油先輩に見られていると考えると、少しだけ気まずくて恥ずかしい。それを誤魔化すように、私は俯いたまま喋り続けた。


「ふ、二人ともどこ行っちゃったんですかね?湿布貼ってもらおうと思ったのに」
「んー、七海は勘が鋭くて大人だからね」


…よく分からない答えが返ってきてしまった。夏油先輩の方を振り向こうとしたら、湿布からフィルムを剥がす音が聞こえたので、そのまま振り向かずに視線を落とす。


「…夏油先輩より大人ですか?七海は」
「そうだね、私より」
「ええ〜嘘だあ、夏油先輩が一番大人ですよ」
「…私は意外と子どもで、嫉妬深いんだよ」


覚えておいて。その言葉と同時に、うなじにひやりとした感覚が訪れ、湿布特有のにおいが鼻をつく。そしてそのまま夏油先輩の手がゆっくりと滑り、しっかりとそれは私の首に密着した。夏油先輩の両手がぽんっと私の肩に乗せられる。


「できたよ」
「あり」


がとうございます、と最後までお礼を言う前に、私の肩に置かれた夏油先輩の両手に力が込められる。そしてそれと同時に、湿布が貼られた箇所とは別のところに何かが触れて、すぐに生温いものがぬるりと滑った。驚いた私は「ひっ!?」と悲鳴をあげる。夏油先輩の手が私の肩から離れ慌てて振り向くと、先輩は顔の横に両手をあげて、少しだけ意地悪そうに微笑んでいた。先程のよく分からない感覚と夏油先輩の表情に、なぜか背中がぞくりと震える。


「い、今、舐め…」
「綺麗に貼れたよ、湿布」
「あ、え、っと、ありがとうございます…」
「また貼りかえる時、手伝ってあげるよ」


夏油先輩はそう言うと、置いていたペットボトルを手に立ち上がった。手を離すと、掴んでいた髪の毛がはらはらと落ちる。首の後ろに触れると、湿布が皺ひとつなく貼られているのが分かった。

夏油先輩があまりにもあっけらかんとしているので、今さっきのおかしな感覚は気のせいだったのかな、と思う。「」と夏油先輩に呼ばれて、はっと顔を上げた。


「もう怪我しないよう、頑張って」
「は、はい…」
「じゃあね」


夏油先輩がいなくなった長椅子は、なぜか先程より広く感じる。床に落ちて貼り付いたままの湿布を剥がしながら、自分の心臓がおかしいくらい早く動いていることに気付いた。もう一度、片手で貼られた湿布に触れていたら、徐々に大きくなる足音と話し声に気付く。どこかへ行っていた七海と灰原が戻ってきたようだ。


「あれ?、夏油先輩は?」
「あ、もう戻ってったよ…」
「えー!もっと話したかったのに…って言うか、顔赤いよ?」


灰原からの指摘に、何となく頬に触れる。そこは確かに熱を持っていて、ふと灰原の隣にいる七海に視線を移すと、彼はすべてを悟ったかのように顔を顰めて、こう言った。


「…早く、どうにかしてください」


今度は、何も言えなかった。


(2022.03.13)