八月。高専の敷地内に群生している木々に留まった蝉の鳴き声が、茹だるような暑さを助長する。俺は持っていたコーラの空き缶を潰すと、そのまま自販機の隣に並んでいるゴミ箱に放り込んだ。そして、隣で無遠慮に煙草を吸いながら携帯をいじっている硝子に視線を送る。


と傑、まだ戻ってこねえのかよ」
「一時間前に終わったってメール来てたから、もうすぐじゃないの」


硝子はこちらを見ることなく、ぶっきらぼうにそう答えた。と傑は、朝から二人で任務へ出かけている。今から一応体術の授業なわけだが、これに関しては傑がいなければ話にならない。ただ何の意味もなく流れ去っていく時間に若干苛々しつつ、俺は再度硝子に話しかけた。


「硝子、なんか面白い話して」
「は?」


俺の言葉に、硝子はようやく顔を上げる。煙草を咥えたままじろりと俺を睨みつけたあと、一呼吸置いて白い煙を吐き出した。


「…この間の休みの日、と二人で買い物に行ったんだけど」
「それ、ちゃんと面白い?」
「最後まで聞けクズ、何買ったと思う?」


ただ面白い話を聞きたかっただけなのに、急にそんな質問が飛んできて俺は一瞬だけ呆気にとられた。休みの日にが何を買ったかだなんて、俺に分かるはずがない。硝子と同様サバサバしていていつも素っ気ないくせに、たまにころころと笑うの顔が頭に浮かんだ。性格に似合わず意外と可愛い持ち物が多いアイツのことだから、なんかそういう小物とか雑貨とか買ったんじゃねえの。そう答えようとした俺に向かって、硝子はにやりと口角を上げた。


「下着だよ、白いレースのめちゃくちゃ可愛いやつ」
「は?」
「誰に見せるんだろうな?それか今日着てたりして」


そう言って、俺から視線を外し楽しそうに煙草を吸い続ける硝子を、俺はぽかんと見つめる。下着って…そんなん分かるわけないだろう。あれか、性格の悪い硝子のことだから、俺がどんな反応を見せるか揶揄っているのか。じわじわと鳴き続ける蝉の声を聞きながら俺が「あのなあ」と物申したそのとき、ちょうど任務を終えたと傑が現れた。


「二人ともすまないね、待たせて」


軽く手をあげてそう言う傑の隣には、制服からいつも体術のときに着ているジャージに着替えたが無表情で立っていた。自然と、視線がの胸元へいく。いや別に、がそういう下着を買ったからって──。


「…五条、どうかした?」


にそう問われ、ハッとした俺は無意識に舌打ちを飛ばした。は怪訝そうな表情でベンチに座っている俺を見下ろす。そばにいた硝子が小さく吹き出すのが聞こえて、ばつが悪くなった俺は「何でもねーよ」と言い放つと、立ち上がり傑と肩を組んでグラウンドへと向かった。

女の下着なんて、当たり前だが知識もなければ大して興味もない。そもそも下着なんて、下着としての役割を果たしてくれれば別にどんなもんでも良いと思っている。そんな、誰彼構わず見せびらかすもんでもねえし。

いつだったか、灰原が持っていたグラビア誌の表紙に載っていたアイドルを思い出した。水着姿で胸の谷間を自慢するかのように腕を組み、世の男たちに向かってにっこりと白い歯を見せて微笑む女。結局下着って、水着と一緒だろ。俺はそう思うけど、女にとっては…にとっては違うのだろうか。


──「下着だよ、白いレースのめちゃくちゃ可愛いやつ」「誰に見せるんだろうな?それか今日着てたりして」


そのアイドルは、確か白い水着を着ていたような気がする。硝子の言った『白いレースのめちゃくちゃ可愛い下着』がどんなものかは全く分からないが、アイドルの次に頭の中に浮かんだのは、白い下着を身につけて柔らかく微笑むの姿だった。


「あ」


傑の少し慌てたような声が耳に届いたその瞬間、頬に訪れた衝撃。傑の拳が見事に入ったことに気付いたのは、背中に触れるグラウンドの熱を感じたときだった。まるで俺をあざ笑うかのように煩く鳴き続ける蝉たち、目の前に堂々と広がる青い空。心配そうな、そしてどこか驚いた様子の傑の顔が俺の視界にそっと侵入していくる。


「珍しいな、悟」
「…うるせー」
「具合でも悪いのかい」
「別に」


傑に差し出された手を掴んで起き上がり、舌で口の中を確認するが特に切れてはいないようだ。首元に浮かぶ汗を手の甲で拭いながら視線を動かすと、少し離れたところに傑と同じように驚いていると、先程と変わらず楽しそうにほくそ笑む硝子の姿があった。硝子のヤツ…。そう思ったのは一瞬で、すぐにが着ていたジャージを脱いで半袖のTシャツ姿になっていることに気付く。


「…悟?」


傑が俺を呼ぶのを無視して、二人のいる方へずかずかと歩いていく。そしての正面に立ち彼女を見下ろすと、は少したじろいだ。俺は黙ったままが右手に持っていたジャージを奪い、彼女の体に押し付ける。


「え、何?」
「いつも日焼けがどうとか言ってるくせに、脱いでんじゃねえよ」
「…今日はさすがに暑くて、てか大丈夫?ほっぺ」


自身の頬を指でつんつんと突く。そんな彼女の両肩に隣に立っていた硝子が手を置いて、「せっかくだから、悟に組んでもらったら」と言った。体格的にも実力的にも、体術の授業でと組むことは滅多にないし、とてもじゃないが今はそんな気分ではない。硝子の提案を斥けようとしたとき、が「じゃあ、せっかくだからお願いしようかな」と言い持っていたジャージを硝子に預けてしまったので、俺は何も言えなくなった。


「…んじゃ、のタイミングで」


とんとん、とその場で軽くジャンプする。その後ろの方で硝子と傑が何やら喋っているのを気にしながらそう告げると、は頷いて俺の真正面から突っ込んできた。

スピードはまあまあ、でも――。軽く躱し、俺の背後に回ったの二の腕に手を伸ばすと、それに気付いたが身を低くして俺の脚に蹴りを入れる。が、そんなに簡単に食らうわけもなく、飛んで避けた俺の着地を狙おうとしていたの胸倉を掴もうとしたとき。ふと目に入ったの胸元が透けて何かが浮いているように見え、手が止まった。


「えっ」


今度は頬ではなく、顎にがつんと鈍い衝撃が訪れる。のつま先が俺の顎を蹴りあげたのだ。さすがに場所が場所だからか脳が揺れ、倒れはしなかったものの両脚に力を込めギリギリで乗り切った。

地面にすとん、と降りたが、慌てた様子で俺のそばに寄ってくる。


「ご、五条、ごめん」
「…大したことねえよ」
「…ねえ五条、ひょっとして」


ちかちかとする視界を元に戻すために何度か瞬きをしたあと、彼女に視線を向ける。すると白い腕が伸びてきて、俺の額にの手が触れた。暑いと言っていたわりには冷たい手に、思わず身体が跳ねる。


「熱中症?じゃないよね」
「ちげーよ、ちょっと…考え事してただけだっつの」
「そう…ふふ」


は俺の額に手を引っ付けたまま、嬉しそうに微笑んだ。先程頭の中で想像した、下着姿のと同じ表情に目を奪われる。


「たった一回だけど五条に一本入れられてラッキー、でも具合悪かったらちゃんと休みなよ」


視界の隅で、離れていた硝子と傑がこちらにやってくるのが見えた。笑っていたは、今度は不思議そうに目を丸くして、俺と俺に掴まれた手首を交互に見遣る。念のため悟られないように確認をするが、彼女の胸元は別に透けてもいなければ、何かが浮いていることもない。


「五条?」
お前、…誰に見せるつもりなんだよ」
「みせ…え?」


戸惑うの後ろで、俺の言葉を聞いたらしい硝子と傑が膝から崩れ落ち、腹を抱えて笑い出した。くそ、何が面白い話だよ。


(2022.04.23)