ゆっくりと目を開ける。私の部屋ではない、けれども見慣れた天井と見つめ合ったまま、頭の片隅で静かに思った。時間が戻れば良いのに、と。
12.甘く、とろけるような
リビングでは、五条がソファに座ってぼうっとテレビを見つめていた。そんな五条を同じようにぼうっと眺めていたら、私に気付いた五条がこちらを振り向いて笑った。
「おはよ、よく眠れた?頭痛くない?」
「おはよう…平気、大丈夫」
「だいぶ酔ってたみたいだったからさ、あ、シャワー浴びてきたら?」
「そ、そうする」
いつもと変わらない五条の様子に些か戸惑いつつも、私はその場を離れ着替えを用意し浴室へと向かった。
昨日は疲れが溜まっていたからかお酒が早く回ってしまい、気が付いたら眠ってしまっていたようだ。頭から熱いお湯を浴びながら、昨日のことを順番に思い返していく。飲み会に参加していたら五条が現れたこと、そのまま初めて喧嘩をしたこと、そして自分の気持ちの変化に気付いたこと。
シャワーを浴び終えて歯を磨きながら、鏡に映る自分をまじまじと見つめた。昔に比べると確実に年をとった私。それでもなぜか今日は、学生の頃の私が大人になった私を見つめ返しているように思える。
歯ブラシを元の場所に戻そうとして、手を止める。そしてそのまま、足元に置いてあるゴミ箱へ放り込んだ。
戻ると、五条はデリバリーしたらしいパンケーキを頬張っているところだった。相変わらずの甘党っぷりに思わず笑ってしまった私を見て、五条も微笑んだ。
「の分も頼んどいたよ」
「ありがとう、ねえ五条」
「ん?」
「これ、返す」
私がテーブルの上に置いたそれに、五条は黙って視線を向けた。
「私はもう大丈夫だから…今までずっと、たくさん甘えてごめん」
本当はもっとたくさん言いたいことがあった。『五条の家のことを考えると、もうこういう関係はやめた方が良い』『ずっと五条の優しさに甘えていただけだった』『五条には未来がある』。
──でも、私が本当に言いたいことは、『五条がそばにいてくれることが、優しくしてくれることが嬉しくて、なかなかこの決断をすることができなかった』ということだ。でもそれは言わない。言ったところで、きっと五条を困らせてしまうだけだから。
私の手から離れた、五条の家の鍵。五条はそれから視線を外すと、そのままパンケーキを食べ続けた。
「うま~、もあったかいうちに食べなよ、冷めたらまずくなる」
「…五条」
「ああ、なんだっけ、確かにはもう大丈夫だろうね」
五条はそう言ってフォークを置き、椅子から立ち上がった。そして「本当に甘えてるだけなら、一級になんかなってないだろ」と半笑いで呟くと、立ち尽くしている私の目の前まで進み、首を傾げた。
「で、だから?」
「え…だから?って…」
「僕がただの義務でのそばにいたとでも?大丈夫って言えば、僕が離れていくとでも思った?」
急に早口でそんなことを言われたので、面食らった私は何も言い返すことができずに黙り込んだ。混乱する頭で五条の言葉の意味を理解しようとするが、なかなかうまくいかない。五条は話を続ける。
「別に僕はのためにそばにいたわけじゃない、僕がのそばにいたかったからだよ」
「でも、五条」
「今更、離してなんかあげない」
傍から聞くと恐ろしい、一歩間違えると呪いにもなるような台詞。でもどこか泣きたくなるような優しさを孕んでいて、その言葉を嬉しいと思っている自分がいる。そのことを否定するかのように、私は五条から目を逸らすと先程頭の中に浮かんだ言葉を次々と吐き出した。
「五条の家のことを考えると、」
「僕の家関係なくない?これは僕との問題だろ」
「ずっと、私は五条に甘えてただけで」
「だから、甘えてるだけなら一級術師になんかなってないって」
「五条には未来があるでしょ」
「誰にでも未来はあるよ、ちなみに言っておくけど僕の未来にはもいるから」
自分の気持ちを否定するための言葉が、次々と否定されていく。何も言えなくなった私を見て五条は得意気に笑うと、私の手を握った。突如感じた五条の体温に、飲み会のときの記憶が蘇る。咄嗟に手を捻ったりして抵抗してみるものの、五条は離そうとしない。それどころか指を絡めとられて、あっという間に抵抗すらできなくなってしまった。次第に、触れ合った手だけでなく全身が火照っていく。
「い、今まで通りなんて、もう無理だよ」
「うん、それは僕もそう思う、だからさ」
「ま、待って、とりあえず手…お願いだから離して」
「…なんで?」
「五条に手握られてると、頭おかしくなる…」
息をすべて吐き切るようにそう呟くと、なんとも情けない声が出てしまった。俯いて五条の反応を待つが、五条は何も言わないし手を離してもくれない。恐る恐る顔を上げると、そこにはなぜか険しい顔をして僅かに頬や耳を赤く染めている五条がいた。
「ご、五条」
「お前さあ、それ…あーもう、」
ふい、と、今度は五条が私から目を逸らす番だった。そしてそのまま小さい子どものように「じゃあ、離さない」と呟く彼を見て、私は息をのむ。
実を言うと、何度か考えてみたことがある。五条も、私と同じ気持ちだったら。そんな欲望と期待が、私の身体の中でふつふつと湧き上がってくる。五条の手を思い切って握り返すと、目の前に立つ彼の身体がぴくりと動いた。
「ず、ずっと聞きたかったことがあるんだけど」
「…いいよ、なに?」
「どうしてあのとき、私にキスしたの?」
ずっと聞けなかったこと。でも、ずっと聞きたかったこと。私の質問に少し驚いた表情を見せた五条は、一瞬で何かを企んでいるときの表情に変わった。そして繋いでいない方の手で私の頬を撫でると、そのまま私の唇を指でなぞる。
「教えてあげようか、こういうことだよ」
目を逸らさずに彼の瞳を見つめ返す。すべてが灰色に見えていたあの頃、唯一色を放っていた透き通る瞳。あのときと同じように目を奪われる。そしてまた、あのときと同じように唇が重なった。
二度目、慣れていない唇の感触に仰け反ろうとしたものの、後頭部に回された五条の手がそれを許さない。離れるかと思ったら角度を変えてまた重なり、酸素を求めて口を開けると、捩じ込むように侵入してきた五条の舌が逃げる私の舌を執拗に追いかけてくる。苦しくて空いている方の手で彼の肩を押してみるが、ざらり、ぬるりと絶え間なく動く五条の舌からはほのかに蜂蜜の味がして、その甘ったるさがさらに私を追いつめていく。
ようやく離れたかと思ったら、今度はぎゅう、と力強く抱きしめられた。朦朧とする頭で、確かあのときもこうやって抱きしめられたっけ、と考える。
「…今まで通りは無理だから、これからは違う形で僕のそばにいてよ」
耳元で、泣き出しそうな声でそう囁かれると、さすがにもう自分の気持ちを否定することも、もっともな言い訳を並べることもできなかった。小さく頷いて短く返事をすれば、五条の腕の力がさらに強まる。
「五条のことが、好き………かも」
「…あれ?今、かもって言った?」
「かもじゃない…です」
「…ま、僕はずっと好きだったんだけど」
「…責任、とってくれる?」
照れ隠しでそんな可愛げのない言葉を吐いた自分にうんざりしていたら、五条はくつくつと笑って、
「上等、っていうか最初からそのつもりだったし」
なんてことないようにそう言ってのけた。そして五条はゆっくり私を引き離すと、「僕もずっと聞きたかったことがあるんだよね」と言って身を屈め、自身の額を私の額に重ねた。
「なに?」
「は一体いつになったら僕のこと下の名前で呼んでくれるの?」
「…悟」
小さな声でそう呼べば、五条は「うん」と頷いて笑った。今までに見たことないくらい、嬉しそうな顔をして。
そしてしばらく何かを考えるような素振りを見せた五条は、再び唇を合わせてきた。その勢いを受け止め切れず、私の腰が背後にあったテーブルにぶつかる。触れるだけかと思えば舌で歯列をなぞったり、遊ぶように試すように、何度も何度も終わりなどないかのように繰り返す五条の肩を、私は必死に押し返した。
「ちょっ…と!五条!」
「悟、でしょ」
「さ、悟…パンケーキ、あったかいうちに食べないと」
「大丈夫、冷めてもおいしいよ」
ちょっとした悪戯に成功したときの子どものように、にやりと笑う五条。目が合って、二人で吹き出した。
「さっきと言ってること違うじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「…今まで我慢してた分、取り戻させてよ」
そんなことを言われたら、もう。
押し黙る私を見て、五条はやはり子どものように無邪気に笑った。
朝、なんとなく時間が戻れば良いのにと思った。でもどう頑張っても時間は戻らないし、いなくなった人が戻ることもない。それでも今、ようやく学生時代のあの頃から時間が動き出した気がする。五条から与えられる熱を受け止めながら、私は静かに目を閉じた。
(2022.04.25)