どんなに長く濃い時間を共に過ごした相手でも、いなくなるときは一瞬で実に呆気ないものだ。そのことを、僕は誰よりも理解している。


11.容易く手放すなんて


俯いてすうすうと小さな寝息を立て始めたの顔を覗き込むと、一筋の涙が赤く染まった頬の上を滑り落ちていた。少し迷った僕は、先程繋いでいた手を勢い良く振り払われた記憶に邪魔されつつ、彼女を起こさないようにその涙を親指で拭う。涙の跡が滲んでいくのを見て、が泣いているところを見るのはあの日以来だ、と一人静かに思いを馳せた。

あの日。若さと勢いに任せて、にキスをしてしまった日。窓際で涙を流し、弱々しい夕日の光を浴びながら不器用に笑うは、その夕日と同じように弱々しく今にも消えてしまいそうだと思った。そのときの僕がどんな気持ちだったか、どれだけ不安になったか、にはきっと分からないだろう。

傑だけじゃなく、まで僕の前からいなくなってしまう。一瞬で、呆気なく。咄嗟にそう思った僕は、もう居ても立っても居られなくなった。

──どんな手を使ってでも、彼女を捕まえて僕の目の届く場所に置いておかなければ。そんな歪んだ感情を抱いた。


「五条もさ、これからどんどん強くなって、一人で遠くへ行ってしまうよね」


違うよ。それは僕の台詞だ。

元々彼女に想いを寄せていた僕は、この言葉をきっかけにを絶対に離さないと心に決めた。

一緒にご飯を食べて、一緒に出掛けて、一緒の布団で眠って、一緒に大人になった。さすがに長い時間を共に過ごしていれば、本能や感情に押し負けて理性が飛んでしまいそうになったことは数えきれないほどある。でも彼女を、そして築き上げたこの関係を壊さないために、その一線だけは越えないように必死で踏みとどまってきた。

でももし、百歩譲ってが僕から離れていく日が来ても、それはそれで良いだろうと思ったことはある。それでも最後には、必ず僕のところに戻ってくる自信があったから。だけど実際にが他の男と楽しそうに話している姿を見たら、そんな根拠のない自信なんて崩れ落ちてしまった。情けないほど、簡単に。

最近、が何かを思って、少しずつ僕と距離を置こうとしていることには随分前から気付いている。僕の家に泊まる回数も明らかに減ったし、誘っても前のように応じず何かと理由をつけて断ることが多くなった。ひょっとして男かと思いの周りを探ったけれど、それは僕の杞憂だったらしい。だから今、が僕から離れていかないよう柄にもなく必死になっている。その結果、ついさっき初めての喧嘩をしてしまったわけなんだけど。

──結局のところ、最強であるはずの僕もただの男だったってわけだ。ただの普通の、自分勝手でわがままな男。


「お、いた」


ぼんやりとした声にふと顔を上げると、ベンチに座った僕とを見下ろすように硝子が立っていた。何も言わずに黙って見上げている僕に、硝子は小さな黒いバッグを差し出す。


「忘れ物、の荷物」
「…硝子、こういうのに参加するタイプだったっけ?」


バッグを受け取りながら素朴な疑問を投げかければ、硝子は眉を寄せてため息をついた。


「歌姫先輩からタダ酒飲ませてやるって言われたから」
「ふーん」
「ちなみに、も先輩に誘われて仕方なく参加しただけだぞ」


硝子は眠っているを指さしてそう言った。そんなこと、言われなくても分かっている。硝子のように酒が好きなわけでもなく、大人数のにぎやかな場をあまり好まないが、自ら積極的にこんな飲み会に参加するわけがない。そこまで考えたところで、先程に対し『なぜ合コンに参加しているのか』と責めるような口調で問い詰めたことを思い出し、頭を抱えたくなった。これについては、さすがに僕が大人気なかったと思う。しかし、と楽しそうに話していた男の姿を思い出すとどうしても苛立ちを抑えられない。


「というか、お前のせいで参加者のほとんどが怯えてお通夜状態なんだけど、今」
「僕、ただ顔出しただけだよね?」
「殺気出しながらな」
「…と話してたヤツも?」
「…あいつ、ただの補助監督で伊地知の後輩だぞ、しかも彼女持ち」


硝子は僕が何を思っているのか察したようで、「嫉妬、ダサッ」と吐き捨てるように呟いた。嫉妬して何が悪い。彼女持ちだろうが伊地知の後輩だろうが、男は男だ。そう言い返したかったが、さすがに何を言われるか容易く想像できたので黙っておいた。代わりに軽く睨みつけると、硝子は半分ふざけながら肩を竦める。


「お前、のことになるとガキに戻るよな…まあいつもガキだけど」
「悪かったね、ガキで」
「人目もはばからず堂々と喧嘩してて、まじウケる」
「…正直、も僕のこと意識してきてると思うんだけどさ~、硝子はどう思う?」
「自意識過剰」


一言、鼻で笑ってそう答えた硝子は、空いていたの隣に座った。そして彼女の寝顔をしばらく眺めた後、ぼんやりと空を見上げた。周りが明るいからか、雲はなく天気も良いのに大して星は見えない。しかし何年経っても夏の夜空を見上げると、僕の目にはあの日の安っぽい打ち上げ花火が見えた。僕と、硝子、そして傑。この四人で花火をした日のことを、今でもたまに思い出す。


「…は多分誰よりも頑張ってきたよ、昔はお世辞にも優秀とは言えなかっただろ」
「再試ばっかだったしね」


僕がそう呟いてすぐ、眠っているの頭がガクンと前に落ちる。まるで僕の言葉に頷くようなタイミングだったので、僕と硝子で静かに笑った。ゆっくり、そして優しく彼女の身体を引き寄せれば、は僕の肩に力なく凭れかかった。僕には触られたくないかもしれないが、どうか許してほしい。

が一級術師になるだなんて、正直僕だけでなく誰も想像していなかったことだと思う。準一級に認定されただけでも僕にとっては衝撃だったのに、彼女はその後の一級相当の任務も、一人で難なくクリアしてみせた。学生時代、ほぼ毎回テストで満点を取れず傑に泣きついていたに対し、『お前は呪術師に向いていない』と乱暴に言い放っていたことを思い出す。もうそんなこと、口が裂けても言えないな。

肩から伝わってくるの呼吸を感じていたら、硝子が「五条」と僕を呼んだので首を動かさずに返事をする。


「なに?」
「お前、のことどうする気なんだよ」


硝子は先日を治療した際に、彼女と交わした会話の内容を僕に話し出した。


「お前との関係に悩んでたぞ、よく分かんないけど『五条を解放する』とか言ってた」
「解放、ねえ…」


解放も何も、僕はに縛り付けられているつもりは毛頭ない。むしろ今までのと僕の関係は、僕が望んで成り立っていたものだ。

おっちょこちょいで少し抜けていて、それでいて真面目で努力家。自分の気持ちよりも周りの気持ちを優先する、呪術師にしては珍しい本当に優しい子。彼女が笑って過ごすためなら、僕はなんだってできるし、なんだってやる。でもきっとここまで拗れてしまったのなら、今まで通りの関係を続けていくのはもう難しいだろう。

どう転ぼうと、築き上げてきた関係を壊して踏み出す日が来たのかもしれない。と言っても、僕のやるべきことはひとつだけだ。


「そろそろ戻る、あんまり遅くなるとあれだし」


硝子はそう言って腰を上げる。そして再びを指さすと、まるで保護者のような目つきで僕に忠告するように呟いた。


「一応、年頃の女だぞ」


その言葉に僕は一瞬だけ呆気にとられたが、すぐに笑い返した。硝子の言わんとすることはよく分かる。だからこそ、自信満々にこう答えてやった。


「僕を誰だと思ってんの?そんなの、もうとっくに決めてるよ」


(2022.04.22)