「猪野くん?どうしたの?」
今月の予定をタブレットで確認しながら歩いていたら、書類を持ったまま険しい顔を浮かべている猪野くんと遭遇した。不思議に思って声をかけると、暗い顔をしていた猪野くんは私を見るなり顔を輝かせ、勢いよく頭を下げてこう言ったのだ。
「サン、お願いがあるんすけど!」
8.溢れる独占欲
「本っ当に、ありがとうございます!」
「いいよ、あれくらい」
猪野くんがお礼にと奢ってくれた紅茶を受け取りながら、私は笑って首を振った。
猪野くんの『お願い』とは、任務報告書の添削だった。私が声をかけたとき、猪野くんはちょうど任務報告書の再提出をくらった直後だったようだ。話を聞くと、猪野くんは普段からあまり丁寧に報告書を記入するタイプではなかったようで、今回から厳しくチェックされることになったらしい。そして「どこをどう書き直せば良いか分からない」と困り果てていたときに私が現れたというわけだ。
テーブルを挟み、猪野くんと向かい合わせに座る。猪野くんはお茶を一気に飲み干すと、「マジで助かりました」と満面の笑みを見せた。
「前、補助監督の人から『サンと七海サンの提出する報告書が一番分かりやすい』って聞いたことあります」
「そうなの?」
「はい!俺、事務作業苦手なんですけど…こういうところからしっかりして、七海サンに認めてもらわないと!」
そう意気込む彼が微笑ましくて、どこか新人のようなフレッシュさを感じた。猪野くんは、呪術師にしては珍しい根明な人間だと思う。人懐っこい性格のため年上には可愛がられるし、かと言って年下に対し驕ることなく接する彼は非常に好感が持てる。猪野くんが崇拝している七海も、ああ見えて実は猪野くんのことを可愛がっていた。
「相変わらず七海のこと尊敬してるんだね」
「もちろん!サンは、尊敬している人とかいないんですか?」
「えっ?」
思いもよらない質問に、私は間抜けな声を上げた。猪野くんのキラキラと輝く瞳を見つめ返す。
「呪術師みたいな体張って戦う仕事してたら、この人憧れるな~みたいな人と出会うことないですか?」
「そうだね…尊敬する人か…」
あまり考えたことがなかったので、一瞬思考が停止する。しかし、その後すぐに頭に思い浮かんだのは、自他ともに認める『最強』の男の顔だった。
「…五条、かな」
「えっ!?」
「え?」
猪野くんの反応に驚くと、猪野くんは私以上に驚いて目を丸くしている。しかし彼はすぐにハッとして、首と両手を同時にぶんぶんと振った。
「スミマセン!ちょっと驚いただけで」
「そんなに驚く?」
「いやあ…確かに五条サンは最強ですけど、尊敬できるかって聞かれるとちょっと微妙というか…」
少し言いにくそうに、でもしっかりと自分の意見を述べる様子に思わず苦笑いしていたら、猪野くんは「これ、悪口じゃないっすからね!?」と分かりやすく慌てた。
「七海サンも、信頼はしてるけど尊敬はしないって言ってたし…」
「ああ…」
七海が実際にそう言っているところを易々と想像できる。
「五条は…ほら、ああいう性格だから嫌いな人は嫌いかもしれないけど」
「お、俺別に嫌いだなんて言ってないですよ?」
「分かってるよ…何だろうなあ、うまく言えないけど、ああ見えて努力家だしさ」
猪野くんはなかなか理解できないようだったが、五条は私の知る人物の中で一番の努力家だと思っている。高専に入学して知り合った頃からずっと、彼は自らの可能性に挑戦することをやめず、とにかく『呪術』という行為、そして信念を突き詰めてきた。生まれたときから特別で、小さい頃から最強と言われていたのにも関わらず。
五条が最強なのは、生まれ持った能力だけが理由ではない。
「…サンって」
「うん?」
「五条サンのこと、好きなんですね」
「…は」
感心したようにそう言う猪野くんを見つめながら、私はまたもや間抜けな声を出して彼に言われたことを頭の中で反芻する。しかし猪野くんが「俺も七海サン大大大好きです!!」と恥ずかしげもなく言ってのけたので、なんだか拍子抜けしてしまった。
──なんだ、好きってそういう意味…。
自分がほっとしていることに気付いたが、やけに自分の心臓の音が大きく耳に響いていた。
「まあサンたち同期ですもんね!それにしても、七海サンと高専時代被ってるの羨ましいな~」
「ふふ、七海は昔からあんな感じだったよ」
「写真とかないんですか?」
「スマホに変えたとき写真移行しなかったから…でもちょっと昔の七海の写真はあるかも」
「え!見たい!」
まるで尻尾をふっているかのように見える猪野くんの目の前で、スマホを取り出し写真フォルダを遡っていく。七海が呪術師として戻ってきたとき、記念にと言って五条が七海と無理矢理2ショットを撮った写真があるはずだ。
しばらくして、仏頂面の七海と嬉しそうにニコニコ笑いながら七海に引っ付く五条の写真が表示された。
「あった、これこれ」
猪野くんは立ち上がり、私の背後に回ってスマホを覗き込む。
「うわ~!七海サンちょっと若い~!」
「でも今と大して変わらなくない?」
「何言ってるんですか、全然違いますよ!」
「そうかな…」
「」
不意に名前を呼ばれ顔を上げる。いつからいたのか、入口近くの壁に寄りかかりこちらを見つめる五条の姿があった。猪野くんが「あ、お疲れ様です!」と元気よく挨拶する。
「うん、お疲れ、ちょっといい?」
「どうしたの?」
「ちょーっと大事な話」
口元に笑みを浮かべながら手招きする五条に首を傾げる。私はすぐ後ろにいた猪野くんを見上げた。
「じゃあ猪野くん、紅茶ありがと」
「こちらこそ!ありがとうございました!」
猪野くんに別れを告げて五条の元へ行くと、すっと手首を掴まれて部屋の外へ連れ出された。そして、そのまま私の手を引いて廊下をずんずん進んでいく。
「五条、大事な話って?」
「うん、ちょっと」
普段と違い多くを語ろうとしない五条を斜め後ろから見上げながら、何か問題でも起こったのだろうか、と徐々に不安な気持ちになる。そして、私の手首を掴む五条の手を見てあのときと同じだと思った。別の部屋で寝ると言う私に、「もここで寝れば」と言った夜。決して強くは掴んでいないのに、絶対に離してくれない手。
五条に連れられて入った応接室は空室で、やはり誰かに聞かれると困る話なのだろうかと心配になりつつ、私はどこか違和感を感じていた。
「…人に聞かれたら困る話?」
「ん?」
「大事な話って」
「ああ、この間京都に行ったときにさ、歌姫がに会いたいって言ってたよ」
五条はそう言ってにこりと笑った。そんな彼を私は黙って見つめる。
「今度東京に来るらしいから、会ってあげなよ」
「…それなら歌姫先輩から連絡あったよ、今度会おうって」
「あ、そうなんだ?」
「…えっ?大事な話ってそれ?」
緊張の糸が切れてそう聞き返しながら軽く笑ったそのとき、私の手首を掴んだままだった五条の手がするりと滑り、私の手のひらに触れた。そのまま指一本ずつを弄ぶように絡めてとっていく。
ふと、五条に手相を見てもらったときのことを思い出した。でも、そのときと全く違う五条の手つきに、なぜか背筋がぞくぞくとして声が出ない。『好き』だとか『尊敬』だとか、先程まで五条のことを考えて話していたはずなのに、今の五条は私の知らない人みたいで心臓が大きく跳ねる。
「あとひとつ」
そう呟いた五条を見上げて彼の表情を目にした瞬間、ようやく自分が抱いた違和感の正体が分かった気がした。
「僕、言ったよね」
「五条、手、」
「僕より強い男って」
するすると撫でるように触られていた手を、今度は強く握られる。
違和感の正体。五条は最初から、笑っているようで笑っていなかったのだ。
(2022.4.14)