「五条から電話あったぞ」


治してもらった左手を握ったり開いたり回したりしながら感覚を確かめていた私に、硝子はそう言って珈琲を差し出した。


6.ひとりとひとり


「…五条から?電話?」
「『ちゃんと治せよ』ってさ」


珈琲を受け取りながら尋ねると、硝子は椅子に腰掛けてそう答えた。そして失笑しながら「誰に言ってんだよって感じ」と呟く。恐らく、五条は私と伊地知への電話を終えたあと、そのまま硝子にも連絡したのだろう。私も薄く笑い、淹れてもらった珈琲に口をつけた。苦味が口の中に広がり、ぼんやりとしていた頭が徐々に覚醒していく。

負傷した左手首及びこめかみ、そして自分では気付かなかった小さい傷も、硝子の反転術式ですべて完治した。相変わらず気怠そうな彼女は目の下にくっきりとした隈を拵えていて、自らの油断で怪我をしてしまったことが心苦しくなる。


「夜遅くにごめんね、おかげで助かった」
「全然いいよ」
「ありがとう」
「で?」
「ん?」


彼女の「で?」が何に対しての言葉なのか分からず、私と硝子の間に沈黙が流れる。しばらくして、硝子は珈琲を飲みながら持っていたボールペンの先を私に向けた。


「お前ら相変わらず距離感バグってるけど、付き合ってんの?」


そう尋ねる硝子に私は一瞬静止して、すぐに首を横に振る。そして小さく吹き出した。目の前に座る硝子と、先日私と五条の掛け合いにドン引きしていた後輩の姿が重なって、笑わずにはいられなかったのだ。


「この前、七海にも似たようなこと言われた」
「まあ、誰だってそう思うだろうな」
「あと…私が五条に甘いって」
「甘いな」


私の言葉に淀みなく頷く硝子。やっぱり周りからはそう見えているのか。七海に説明したように、硝子にも「そうではなく、五条が私に甘いのだ」と言ったところで、きっと納得はしてもらえないだろう。

私と五条の距離感がおかしい──硝子の言葉を借りて言うと『バグってる』──のは、私たちの間にある約束のせいだ。そして、五条はその約束を守ってくれた。もう十分すぎるほどに。

マグカップの中で揺れる珈琲の真っ黒な表面を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「…さすがにさ、もう五条のことを解放しようと思って」
「はあ?」


素っ頓狂な返事に顔を上げれば、硝子は意味が分からないと言いたげな表情を浮かべていて、私は黙って微笑んだ。自分の心の中だけで決めていたことを、理解していないとはいえ友人の前で口に出して言うことで、ようやく覚悟が決まったような気がする。

硝子はそんな私の表情から何かを読み取ったのか、髪の毛先を指にくるくると巻き付けながら「解放ねえ…」と、独り言のように呟いた。


「よく分かんないけど」
「うん」
「ま、今のままじゃ彼氏もできないだろうし、が決めたことなら良いんじゃない」


硝子はそう言うと、立ち上がり両手を上に伸ばして背伸びをした。『彼氏』という自分には縁のないワードに不思議な気持ちになる。そして硝子は肩をポキポキ鳴らしながら、「そろそろ帰ろっかな」と言って自身のマグカップを手に持った。


は?」
「これ飲み終わったら帰る」
「伊地知に送らせな、まだいるはずだから」
「ん、本当ありがと」


硝子は「飲み終わったら適当に置いといて」と私の持つマグカップを指差しながら言うと、ひらりと手を振って部屋を出ていった。静かになった部屋で、私が珈琲を啜る音だけが響く。

呪術師として生きていく以上、恋人を作る、ましてや結婚することなんてないと思っている。そもそもいつ死ぬか分からない女を恋人や人生の伴侶に選ぶ男なんていないだろう。仮に同業者の男であってもだ。

そこまで考えて、ふと五条のことを思った。詳しいことは分からないが、御三家の人間にとって結婚は責務ではないだろうか。正直、五条も結婚するのに若すぎる年齢ではない。いずれは五条家の跡継ぎを産むために誰かを選ぶだろうし、もしかしたら幼い頃からそういう相手が決まっているのかもしれない。私が何も知らない、知らされていないだけで。


「…にが」


珈琲を一気に飲み干すと、少しだけ胸が痛んだ。ブラックも飲めないことはないが、無性に甘ったるい珈琲が飲みたいと思った。


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「ただいま~」


翌日、結局昼過ぎの新幹線で戻ることになった五条から「お土産買ったから待ってて」と念押しの連絡があったため、私は少し迷って五条の家で彼を出迎えた。


「おかえり、お疲れさま」
「本当疲れた、人多いしさ」


玄関で靴を脱ぎながらそう愚痴を零す五条は、オフだからか言葉とは裏腹にどこか嬉しそうだ。私にお土産を渡した彼は、「着替えてくる」と言って自室へと消えていった。受け取った袋の中を覗くと、私が頼んだ抹茶とチーズのロールケーキが入っていて、自然と頬が緩んだ。

キッチンで皿を二つ取り出し、ロールケーキを切り分ける。上の方にある戸棚を開けながら飲み物はどうしようかと考えていたとき、着替え終わった五条が私の背後に立ち、私が取ろうとしていたマグカップ二つを片手に取った。


「僕がやるよ、何がいい?」
「あ、じゃあ…カフェオレ、甘いや…つ」


振り返って見上げれば、五条がマグカップを持たない方の手で私の頬に触れる。するりと指が滑ったかと思ったら、そのまま頬を摘まれ引っ張られた。


「…なにすんの」
「いや?ちゃんと治してもらったんだね、よく伸びるし」
「硝子に治してもらったんだから当然でしょ、てかそこは怪我してません」


非難の目を向ければ、五条は綺麗な目を細めてけらけらと笑う。そして私の頬から手を離すと、今度は頭の上に手を置いて「カフェオレ、甘いやつね」と言い離れていった。

二人でテーブルに向かい合って座り、ロールケーキに舌鼓を打つ。「やっぱり久しぶりに食べるとおいしい」と唸れば、五条はどこか満足そうに笑った。


「そういえばさ、五条って彼女とか許嫁?とかいないの?」


私がそう切り出すと、五条は口を開けたまま瞬きせずに私を見つめる。久しぶりにこんな驚いた顔を見たな、と思っていたら、五条はロールケーキを口に運びこう答えた。


「いるように見えるんなら僕はとんだ暇人だね、こんなに長い時間と一緒にいるのに」
「そっ…か」
「どうして?」
「昨日…硝子と、彼氏とかそういう話になって」


正確には「今のままじゃ彼氏もできない」と言われただけでなので、そういう話になったというのは正しくない。聞いたのは、五条にそういった相手がいるのか単純に私が気になったからだ。その答えを聞けたからもうこの話を続ける必要はないのだが、五条が「彼氏?ほしいの?」と食い下がる。


「別にほしいとは思わないかな、こういう仕事だし」
「ふーん」
「いつ死ぬか分からない女なんて、普通に考えて嫌でしょ」
「そう思ってるのはだけかもよ?」


その言葉に私は首を傾げる。私だけとは、一体どういう意味だろう。いつの間にかロールケーキを食べ終えた五条は、微笑を浮かべながら頬杖をついた。


「彼氏、いいじゃん」
「だから」
「例えば…僕」
「え」
「より強い男とか」


楽しそうに話す五条を、私はぽかんと見つめる。冷静に考えれば、五条より強い男なんているわけない。いつもの私ならそう指摘できたはずなのに、なぜだか今日はロールケーキを前に黙り込むことしかできない。

そんな私を気にすることなく、五条は「僕もうちょっと食べよ~」と言って、私に買ってきたはずのお土産に手をつけるのだった。


(2022.4.10)