「はい、一級術師が負傷され…いえ、完了しています…はい、よろしくお願いします」
5.ぼけた境界が愛しくて苦しい
伊地知は通話を終えると、ダッシュボードに取り付けた車載ホルダーにスマホを固定し、後部座席に座る私を振り返る。心なしか慌てているように見える彼は、眼鏡を押し上げて口早に話し出した。
「家入さんに高専で待機していただくよう手配したので、今から戻ります…さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫、ごめんね伊地知」
「いえ…では急ぎましょう」
車が動き出し、私は座席に身を沈め窓から見える外の景色を眺める。そして、ひたすら自己嫌悪に陥っていた。
場所は東京郊外。近年、住みやすいという理由でファミリー層に人気急上昇中のこの街に存在する、『自殺者が後を絶たない』という曰く付きの踏切。しかし、被害者たちの死因は自殺ではなく踏切内に現れる呪霊の仕業だったことが一昨日判明し、その呪霊討伐が今日の任務だった。
そして今回の任務は場所が場所であるため、鉄道会社に協力を仰ぎ一定時間電車の運行を止めてもらった上で実施した。つまり、タイムリミットがある任務。もともと時間に追われるのが苦手な私は、呪霊自体は大したことなかったのだが焦りが出て少々手こずってしまった。挙句の果てに、線路に躓いて転び左手首を負傷。そしてその場に落ちていた硝子の破片がこめかみを掠り負傷。後者についてはそこまで傷は深くなかったのだが、皮膚が薄い箇所だったため患部から思いのほか出血してしまった。
戻ってきた私がダラダラと血を流している姿を見て、真っ青になった伊地知が悲鳴を上げたのは言うまでもない。
「…さん?」
伊地知に呼ばれ目を開ける。いつの間にか目を閉じていたらしい。視線だけ前方へ動かすと、バックミラーに不安そうな伊地知の顔が映っていた。
「ほ、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だって…対呪霊ならまだしも転んで負傷だなんて、歳かなあ」
「歳って…五条さんと同い年じゃないですか」
「歳は同じだけど五条と一緒にしないでほしい…っていうか怪我のこと、五条には知られたくないな…」
そんなことを呟いてみれば、私を指さして大爆笑する五条の姿が頭に浮かんだ。それは伊地知も同じようで、複雑そうな表情を浮かべている。今回の件は、何としても隠し通したい。
「それにしても伊地知に送迎してもらうこと最近なかったから、何だか新鮮」
「確かに、そう言われるとそうですね」
少し眠りたかったが、眠ってしまうと伊地知がさらに心配しそうな気がしたので、何でもない会話を続ける。伊地知は苦笑いしながら続けた。
「五条さんが出張中なので、普段よりも少し気が楽です」
「あ、五条に言っちゃお」
「え!?」
「冗談だよ」
ようやく伊地知が自然な笑みを浮かべたので、内心ほっとする。もう出血は止まったようで、こめかみに当てていたハンカチは赤黒く染まって固まり始めていた。
五条は明日まで京都校に出張の予定だ。そういえば、任務前に「お土産何がいい?」とメールが入っていたっけ。返事をしていなかったことに気付いてスマホを取り出したとき、車内に着信音が響き渡る。私のスマホの画面は真っ暗なまま。顔を上げると、伊地知のスマホの画面に『五条悟』と表示されている。「噂をすれば」と笑えば、伊地知の喉がごくりと鳴った。
「出ていいよ?何なら一旦停車してもいいし」
「い、いえ…あとで折り返します」
「そう?」
しかし、いくら待ってみても一向に電話は鳴り止まない。諦めたのか、深呼吸を何度か繰り返した伊地知は「失礼します」と私に一言断って応答を押した。スピーカーに切り替えると、スマホから五条の声が流れ出す。
「お、お疲れさ」
『明日の帰りの新幹線の予約だけどさー、朝イチに変更してくれる?』
「いっ!?今からですか…?」
いきなり用件を告げる五条の言葉に自分のスマホで時刻を確認すると、もうすぐ二十二時になろうとしていた。長期休暇中である今、易々と新幹線の指定席は予約できないだろう。ハンドルを握ったまま分かりやすく狼狽えている伊地知に同情しつつ、とりあえず通話の邪魔にならないよう息を潜める。
『思ったより早く終わったし、京都のおじいちゃんが煩わしくて僕ストレスで死んじゃう~』
「は、はあ…今移動中なので、高専に戻り次第対応できるか確認します」
『あ、今外なんだ?今日誰の担当?』
「さんです、負傷されたので今急いで高専へ…あっ」
言ってしまった!と顔を青くする伊地知に、私は声を出さずに口の動きだけで「ばか!」と非難する。ついさっき、五条には知られたくないと言ったばかりなのに。
『──は?』
先程までの軽い口調から一転して低い声が聞こえた。たった一言、たった一音で車内の空気が凍りつく。するとすぐに通話は切れてしまい、伊地知が慌て出すと同時に今度は私のスマホが震えた。
「す、すみません、ついうっかり…」
「んも~…はい、もしもし」
観念してスマホを耳に押し当てると、すぐに『何してんの?』と少し咎めるような五条の声が聞こえた。
「ちょっと…油断しちゃって、でも大した怪我じゃないし、ちゃんと祓ったから」
怪我の原因が転倒であることは伏せて説明する。ちらちらと伊地知が心配そうにこちらの様子を窺っていた。
「硝子もいるし、大丈夫だよ」
『なら良いけど』
いつもの声色に戻った五条が、『僕のいないときに怪我しないでよ』と呟く。なんだかその言い方が子どもみたいで可愛くて、じゃあ五条がいるときなら怪我しても良いのかとか、別にどんなときでも怪我はしたくないんだけどなとかいろいろ思ったけれど、私は軽く笑って「分かった」と答えた。
「あと京都のお土産だけど、何でも嬉しいよ」
『そういうのが一番困るんだけどなー』
「…じゃあ前食べた、抹茶とチーズのロールケーキ」
『あれね、了解』
「それじゃ、」
『』
「うん?」
『明日なるべく早く帰るから、ちゃんと待ってて』
「…うん」
最近、あまり五条の家に泊まっていなかったことをふと思い出す。別に、五条の家で待っててと言われたわけではない。それでも、自然にではなく意図的に五条の家に泊まることを避けていたところだったので、何となく彼の言葉に胸が詰まるような感じがした。
通話を終えると、またすぐに伊地知のスマホが鳴る。もちろん、相手は五条だ。
「は、はい!」
『伊地知、明日の帰りの手配は僕が自分でやるから』
「はい、すぐに…え!?」
『だからお前はとりあえず、高専まで安全運転、最速でな』
その言葉を聞いて、負傷した左手首やこめかみだけでなくなぜだか胸が切なく痛んだ。再び外の景色に視線を移す。すでに高専の近くまで来ているようで、見覚えのある道を走っていた。
伊地知は息を吐いて、アクセルを少し強く踏んだ。車のスピードが上がる。
「五条さんは、本当にさんのことが大事なんですね」
そんな言葉が運転席から飛んできて、悩んだ私は「そんなんじゃないよ」と小さく呟いた。しかしその呟きはエンジン音にかき消され、伊地知には届かなかった。
私のことが大事とか、そんなんじゃない。心の中で再度伊地知の言葉を否定しながらも、先程電話越しに届いた五条の柔らかい言葉が心に染み込んで、傷付いた身体が解れていく気がした。
視界に入る薄暗い景色が少しだけ滲む。解放しなきゃと思うのに、五条の優しさがすごく嬉しくて心地良い。でもその嬉しさと同じくらい、そう思う自分が情けなくて苦しかった。
(2022.04.05)