「さんは、五条さんに甘いですよね」
4.いびつであるために
毎年、夏は水難事故の増加にともない呪霊も多く発生する。ちょうど明日の任務地である関東でも有名な海水浴場について調べていたとき、目の前に座っていた後輩が淡々とそう呟いた。タブレットとにらめっこしていた私は、その言葉に顔を上げる。しかし、そう話しかけてきた本人──七海は書類に目を落としたままだった。
「私が、五条に甘い?」
「ええ」
「五条に甘いのは学長でしょ?」
「それも否めませんが、さんも十分甘いです」
自分では五条に甘いつもりは毛頭ないため、七海の発言に私は「はあ」とも「へえ」とも何とも言えない素っ頓狂な返事をすることしかできなかった。七海が五条と私の何を見てそう思ったのか少し気になったが、いつも冷静沈着で表情を変えることの少ない七海を笑わせてみたくなった私は、タブレットを膝の上に置いて七海の顔を下から覗き込む。にやにやと笑う私に気付いた七海は、ぴくりと眉を寄せた。
「ひょっとして七海、やきもち?私も七海に甘い方が良い?」
「いえ、結構です」
「…あ、そう」
私の試みは呆気なく失敗に終わり、ピシャリと心のシャッターを閉められてしまった。高専時代の七海ならもうちょっと可愛げがあって、「何変なこと言ってるんですか」とか何とか言って突っ込みを入れてくれただろうに。私と違い一般社会で社会人経験のある七海は、呪術界から離れている間にさらに冷たくなってしまった気がする。私は唇を尖らせてソファに凭れかかり、七海の最初の発言を頭の中で繰り返した。
私が五条に甘いんじゃない。むしろ──。
「逆だよ」
「はい?」
「私が五条に甘いんじゃなくて、五条が私に甘いの」
そう言ったものの、七海はどこか腑に落ちないものを感じているようだった。
「す、傑のことがあったときから、五条は私に気を遣ってくれてるんだよ」
傑の名前を人前で、しかも声に出したのは久しぶりで、一瞬「傑って、すぐるっていう名前だったっけ?」とおかしな錯覚に陥る。しかし変に緊張している私に七海は気付いていないようで、すぐに書類を捲りながら小さく息を吐いた。それと同時に七海の背後のドアが開き、何やら紙袋を持った五条が片手を上げて現れる。
「まあ貴方たち仲良かったですしね、異常なくらい」
「い、異常…」
「おっつかれ~、七海~誰が異常だって?」
いきなり五条に肩を組まれた七海は、少し苛立ちを見せながらも「別に貴方のことを言ったわけではありません」と冷静に対応する。そんな七海の頬を指で突きながら「相変わらず冷たいな~このこのっ」と絡む五条。そんな二人を目の前にして私は小さく笑った。
「五条、おかえり」
「ただいま~、お土産買ってきたよ」
東京都外で任務だったという五条はそう言うと私の隣に座り、袋から箱を取り出してテーブルの上に置いた。箱の中には個包装されたイチゴ味のクランチチョコが敷き詰められており、五条は早速一つ開けて口に放り込んだ。
「イチゴ…あ、栃木だったっけ?」
「そ、七海も食べなよ」
「いえ、遠慮しておきます」
「んもう、釣れないんだから!はい、」
「えっ」
わざわざご丁寧に、五条は袋からクランチチョコを取り出し、それを私の口元に差し出した。俗に言う『あーん』というやつだ。
戸惑った私は、ちらりと七海に視線を向ける。つい先程「五条に甘い」と言われたこともあり、何となく七海の前で五条との距離の近さを感じ取られるのは気が引けたが、七海はこちらの方を全く気にしていないようだ。五条がクランチチョコで私の唇を突いてきたので、私は大人しく口を開けた。
「…おいしい」
「でしょ?、イチゴ好きだもんね」
次々と袋を開けて菓子を自分の胃袋におさめていく五条を眺めながら、私は小さく頷いた。やっぱり私が五条に甘いのではなく、五条が私に甘いのだ。
膝の上に置いていたタブレットに触れると、再び画面に先程まで調べていた海水浴場のページが映し出された。それに気付いた五条が「海?」とタブレットを覗き込む。
「明日ここの呪霊討伐なんだよね、遊泳時間が夕方の五時までだからそれ以降になるけど」
「ふーん、あー海見たら魚食べたくなってきた、今日寿司行かない?今日も僕ん家泊まるよね?」
この五条の言葉に画面をタップしていた私の手が止まる。同時に、一瞬だけだが七海の書類を捲る手が止まったことを私は見逃さなかった。私たち二人の微妙な動揺に気付くことなく、五条はソファに深く腰掛け足を組み、スマホを弄っている。
さすがに今の五条の発言はいろいろと誤解を招くだろう。それに、これから五条を解放しなきゃいけないと決意した以上、今までの距離感も考え直さなければならない。
「今日は、自分の家に帰ろうかな」
「何で?」
即座に聞き返してきた五条に目を向けると、スマホから目を離して隣に座る私を見つめていた。正確に言うと、包帯を巻いているので本当にこちらを見ているかは定かではない。それでも、驚いている様子でも怒っている様子でもなく、ただ単純に『なぜか分からない』という表情をしているように感じた。自分の家に帰ると言っただけでこんな反応が返ってくるのは初めてで、言葉に詰まる。
「…んーほら、明日は夕方以降の任務だから、午前中に家の掃除とかしたいし」
「掃除、ねえ」
再びスマホに視線を戻し、指先で画面を叩く五条。納得したのかしていないのかよく分からない返事に困惑しつつ、私はタブレットをオフにする。この微妙な雰囲気の中七海には申し訳ないが、このあと硝子のところに顔を出す約束があったため立ち上がろうとしたそのとき、黙っていた五条が口を開いた。
「っていうか、今度の四月マンションの更新じゃない?」
「そう…だね、言われてみれば」
「いい加減、引っ越してくれば?前も言ったけど」
「…前も言ったっけ?」
「言ったよ、第一の家より僕の家の方が高専へのアクセスも良いし、あっち帰ってこっち帰って~ってのも面倒じゃない?」
「うーん…」
「それに僕の家ならさ、わざわざ掃除する必要もないし」
「う、うーん…」
今までにない五条の圧力に、七海がどういう顔をしているか窺っている余裕がない。歯切れの悪い私に、五条は「ま、考えといてよ」と行って立ち上がると、私の目の前に自身のスマホを突き付けた。画面に表示されていたのは、五条がよく行く寿司屋の予約画面。
「予約するから、今日の六時に階段前集合」
「あ、うん」
「よろしく~、あ、お土産全部食べちゃっていいから」
五条はようやくにこりと笑ってひらりと手を振ると、一人で部屋を出て行った。静まり返った部屋のテーブルの上に置かれたままのお土産は、もう二つしか残っていない。
ため息をついて書類を置いた七海に、私は先手を打った。
「何か言いたいことがあるならどうぞ」
「…五条さんとお付き合いされていたんですか?そうとは知らず余計なことを言いました、すみません」
「…ってない」
「え?」
「付き合ってないんだよね、これが」
「……」
ふざけて「てへっ」と笑ってみれば、七海はふう、と呆れたように息を吐いて指で眼鏡を押し上げた。そして、
「…やはりさんは甘いですね、五条さんに」
そんな言葉が飛んできて、私は苦笑いを返すことしかできなかった。
(2022.03.30)