ゆっくりと目を開ける。私の部屋ではない、けれども見慣れた天井が私を静かに見下ろしていた。
3.ここは孤独のないところ
随分と懐かしい夢を見たな。布団の中で伸びをして、枕元に置いていたスマホに触れる。画面の光に目を細めながら時刻を確認すると、午前四時を過ぎたところだった。メールや着信が入っていないことを確認し、再びスマホをオフにする。今日の任務は午後からの予定だから、まだ余裕で寝れる。私は目を閉じて、先程見た夢をもう一度頭の中で思い返した。
あの日、五条が私に約束をして、私がその約束を受け入れてからもうすぐ十年が経とうとしていた。結局、あの時どうして五条が私にキスをしたのか、その理由は今でも分からないままだ。私も聞くに聞けないまま、時間だけが過ぎてしまった。
そして五条は意外にも教職に就き、私はそのまま高専所属の呪術師になった。あの日の約束通り、五条はよっぽどのこと…遠方での任務や五条家の行事、上層部との揉めごとがない限り、基本的に私のそばにいてくれる。今私がいる場所も、五条の家だ。
「好きに使ってよ、寝室も二つ用意してあるし」
さらりと何でもないようにそう言ってこの家の鍵を渡され、私は頭の中で「愛人か?」と思いつつも、なぜか突っ込むことができずに受け取ってしまったのだ。最初は多少遠慮していたものの、今では私の家よりも高専へのアクセスが便利なこの家に週の半分近く泊まっている。五条曰く、掃除などの管理は外注ではなく五条家の人間にさせているとのことだが、今までに五条以外の人間とこの家で遭遇したことはない。
今のこの状況、傑が知ったら何て言うだろう。
そう考えたとき、遠慮がちにドアをノックする音が響いた。
「、寝てる?」
「起きてるよ」
起き上がってそう返事をすると、ドアが開いて家主がひょっこりと顔を出した。シャワーを浴びたのか、髪が少し濡れている。五条が後ろ手にドアを閉めると、再び部屋が薄暗くなった。
「今まで任務だったの?」
「まあね、ちょっと時間かかっちゃった」
「へえ、珍しい」
「件数が多かったからね」
そう言うと、五条はベッドに座る私の隣にぼすんっと倒れ込んだ。多少なりとも常識を身に付けた五条は、部屋に入る際はきちんとノックをするようになったが、疲れた時にこうやってベッドに倒れ込むところは学生時代から変わっていない。なんだかそれが少し微笑ましかった。
布団に顔を擦りつけながら、「いくら最強とは言え、一応僕も人間なんだけど」と愚痴を零す五条は、何だか少し眠そうだ。私はスマホを持ってベッドから降りた。
「五条、ここで寝る?寝るなら私、あっちの部屋行くけど」
「何で、いいじゃんもここで寝れば」
「一人でゆっくり寝た方が良いでしょ」
「別に平気」
器用に足で掛け布団を引き寄せながら、立っている私の手首をしっかりと掴む五条。これはもう何を言っても離さないだろう。私は小さくため息をついて、再び布団の中に潜り込んだ。
二人で寝ても十分余裕のあるこのベッドは、どうやら特注らしくすごく寝心地が良い。五条に背中を向けて横になると、当たり前のように私のお腹に手を回される。男女が一つのベッドでこんなに密着していると言うのにそういう雰囲気は全く生まれないし、特に恥じらいも感じない。頭上から規則正しい寝息が聞こえてきて、私はもう一度、今のこの状況を傑が知ったら何て言うだろうかと想像した。
するとそのとき、手の中にあるスマホが小さく震えた。寝ている五条に光が届かないよう、俯いて下の方でスマホを確認する。伊地知から、今日の任務内容の変更についてのメールが届いていた。
「…メール?」
「うわっびっくりした、寝てなかったの?」
「誰から?」
「伊地知、今日の午後からの任務についてのメール」
内容を確認しながら、「伊地知もこんな時間まで大変だよね」と呟くと、五条が唸りながら顔を寄せてスマホの画面を覗き込んできた。息が擽ったくて、思わず身を捩る。
「伊地知さあ、チョコレートの話メールに書いてない?」
「チョコレート?書いてないけど…何それ」
メールの最後まで読んでも、チョコレートの『チ』の字も出てこない。
「新宿のさ、京王だったか小田急だったか忘れたけど、百貨店の催事場で今チョコレートの祭典やってるらしくて」
「うん」
「海外の有名パティシエたちのチョコレートがたっくさん販売されてるわけよ」
「…うん」
「期間が終わるまでに行けそうにないから、一通り買い占めてきてって伊地知に頼んでたんだけど」
「…あのねえ」
呆れ果てた私の大きなため息に、五条は説教が始まることを察知したのか「何も言ってないならいいや、おやすみ」と言って強制的に会話を終了させてしまった。仮に伊地知に業務以外の雑用をさせるなと注意したところで、おそらく五条のことだから唇を尖らせて「僕が百貨店に行く時間もないくらい任務を詰め込む方が悪い」と開き直るだろう。
今度、いつも五条の無茶振りに振り回されている伊地知に何か奢ってあげよう。そう考えながら、再び聞こえてきた寝息に私も目を閉じた。ふかふかの布団とお腹にある五条の手の温もりが気持ち良くて、すぐ眠れそうだ。
かつて、五条と私はただのクラスメイトだった。じゃあ今の関係に名前をつけるなら、一体どんな名前がふさわしいのだろう。そして健全なようでどこか異常なこの関係を、居心地が良いと思う私はおかしいのだろうか。
「…ありがと、五条」
私の後ろですやすやと眠る五条に、囁き声でそう呟いた。あの日、私を孤独からすくいあげてくれて、ありがとう。
「どういたしまして?」
そんな返事が聞こえて、私は目を開ける。
「…なんで寝ないの」
「がスマホいじったりぶつぶつ呟いたりするから」
「それはそれは、すみませんね」
「何、死ぬの?」
五条はそう言うと指をこしょこしょと動かして私のお腹を擽り出したので、軽く足で五条の脛を蹴る。脛を蹴られた本人は「足癖わる~いこわ~い」と言って長い脚で私の脚を動かないように絡めとった。しっかりとホールドされ身動きがとれなくなった私は、諦めて話を続ける。
「死なないよ、何いきなり」
「何の前触れもなくお礼なんて言われたらさ、死亡フラグかな?って思うでしょ」
「別に…感謝の言葉はちゃんと口に出さないとなって思っただけだよ」
「ふーん」
五条が欠伸を一つしたので、いい加減寝るように促す。私が「おやすみ」と言うと、五条は軽く返事をして今度こそ眠りの中に沈んでいった。
すっかり抱き枕と化してしまった私は、背中からじわじわ伝わってくる体温や脚の重さを感じつつ、五条は変わったな、と思った。いや、『変わらざるを得なかった』というべきか。それに比べて、私はどうだろう。
自分自身、不格好な大人になってしまったなと思う。でも、いくら不格好でも大人は大人なのだ。もうあの時のように幼くないし、いつまでも過去にしがみついているわけにはいかないことも分かっている。私はともかく、五条には未来があるのだ。
──居心地が良いからといって、ずっとこのままってわけにはいかないよね。
今度は口に出さずに頭の中でそう呟いて、再び目を閉じる。どろりと眠りに落ちていく途中、頭の片隅で私は思った。
強くて優しい五条のために私ができることは、おそらくひとつだけ。五条を私から解放することだ。
(2022.3.27)