時間が止まってしまったような気がした。


2.傷心を塗り潰す


「お疲れ様でした」


補助監督、そして任務に同行してくれた術師の方に挨拶をして車を降りると、涼しい風が吹いて私の身体を撫でていった。

いつも通り任務を終えて高専に戻ったとき、時刻は午後五時を回っていた。夕暮れの中を歩きながら、何となくこのまま寮に戻りたくないと思った私は校舎の方へ向かう。よく、『呪術界は万年人手不足』と言われている。そのためか、校内を歩いていても誰にも会わないまま教室へとたどり着いてしまった。静かにドアを開けて中へ入る。四つあった机は、いつの間にか三つだけになっていた。

自分の席に座り、ポケットから携帯を取り出す。アドレス帳から傑の画面を開き、ぼんやりと彼の名前を眺めた。


『傑、どうしたの?』


送信ボックスに残った、傑あての最後のメール。待てど暮らせど、返信は来なかった。

傑がいなくなって、もうひと月が経つ。あれから必然的に五条は任務が増えたようで、一度も顔を合わせていないし連絡も取っていない。硝子とはたまにメールのやりとりをしているが、彼女は彼女で重宝される術式の持ち主であるため忙しそうだ。私は相変わらず三級のままで、ただひたすらに振られる任務をこなす毎日。少し前までは四人そろってこの教室で笑いあっていたというのに、こんなにもあっさりとばらばらになってしまうものなのか。そう考えると、何とも言えない脱力感に襲われた。

携帯を閉じて、椅子に凭れかかる。ふと窓の外の夕焼け空に目を向けた。綺麗なオレンジ色のはずなのに、あれからなんだか景色がすべて灰色に見える気がする。

そのとき、教室のドアががらりと大きな音を立て開き、びくりと肩が跳ねる。振り返ると、そこには五条が立っていた。


「…びびった」
「久しぶり…だね」


五条は「ん」と軽く返事すると、少し迷うような仕草を見せたが黙って私の隣の席に座った。久しぶりに会う五条は、特に普段と変わりないように見えた。


「任務終わり?」
「あー、もう少ししたらあと一件行くけど」
「一日二件はきついね」
「三件目な」


五条はため息を零し、机に頬杖をついた。一日に三件も任務をこなす。きっと五条悟じゃなければできないことだろう。いつも、五条と何を話していたか分からなくなり思い返してみる。普段の五条ならすぐ何かを見つけては私を揶揄ったりしていたが、それがない今、私と五条の間にはただただ沈黙が流れるだけだった。

あの後、五条と硝子は新宿で傑に会ったと聞いた。そして五条は傑を追わなかった、とも。そのときのことを聞いてみたい気もしたが、何となくそれは憚られる。気まずくて何気なく机の中に手を入れてみると、入れっぱなしの教科書とともに以前傑から借りたノートのコピーが出てきた。思いがけず目にした彼の字に、一瞬だけ呼吸を忘れてしまう。

これは、まずいかも。鼻の奥がツンとして、だんだん目の前の景色が滲んでいく。泣いたらだめだ。一番辛いはずの五条が泣いていないのに、私が泣くのは間違っている。そう思うのに、意志に反して次々と涙が頬を伝っていく。我慢できずに鼻をすすると、五条がこちらに視線を向けたのが分かった。


「…
「何か、できなかったのかな」


両手に力をこめる。綺麗に並んだ傑の字がくしゃりと歪み、その上に涙がぽたぽたと落ちた。


「私、傑のこと何も分かってなかった」


毎日ふとした瞬間に、四人で花火をした夜のことを思い出す。あのとき、傑は私が言った来年の話に何と答えようとしたのだろう。あれから何度考えてみても、その答えは出てこない。


「…そんなん、考えるだけ無駄だろ、もう」


顔をあげて、隣に座る五条を見つめる。彼はもう頬杖はついておらず、サングラスのせいでいまいち感情が読めないがまっすぐと私を見据えているようだった。


「これは傑一人の問題だ、俺たちにできることはもうねえんだよ」
「…うん」


冷たい言葉だと思った。そして、その冷たい言葉で私を救おうとしているのだと思った。私は頷いて、袖で涙を拭う。


「ごめん、泣いて」
「…別に」
「なんか、死ぬときは一人だって…ちゃんと覚悟はできてるんだけど」


私が立ち上がると、五条は黙って座ったまま私を見上げた。窓に近寄って外の景色を眺める。夏も終わり日が短くなったせいか、外はうっすらと暗くなり始めていた。教室に差し込む夕日の光も弱々しいものになってきている。


「生きている今、すごく一人だなって感じる」


傑だけじゃない。みんな、いつかは私の周りからいなくなる。今までのように『ずっと一緒』だなんて絵空事ばかり語っていられない。それをこんなに早く、こんな形で実感するなんて。

私は自嘲するような薄笑いを浮かべて、五条の方を振り向いた。相変わらず目は見えないけれど、驚いたような顔をしているのが感じ取れる。今までに見たことのない五条の様子に、なぜか心臓がどきりとした。


「五条もさ、これからどんどん強くなって、一人で遠くへ行ってしまうよね」


五条ならきっと、何にでもなれるしどこへでも行ける。うまく笑えなくなり、涙腺がばかになっているせいでまたぽろぽろと涙が零れ落ちた。

五条が突然立ち上がり、そのせいで椅子が大きな音を立てて倒れる。あまりにもマイナス思考な発言ばかりする私に怒ったのだろうか。もう一度、小さく「ごめん」と謝り私は俯いた。足元に、流した涙の跡が残る。

五条は返事をせず、大股で私のそばまでやってきた。そして、あっという間に抱きすくめられてしまった。

突然の出来事に、全身が硬直する。ひょろりとしているくせに私を抱き締める力は強くて、少しだけ息苦しさを感じた。もしかして、慰めようとしてくれているのだろうか。でも、五条ってこんなことする人だった?いろんな思いが頭の中を駆け巡り、なかなか言葉を発することができない。あまりの驚きに涙も引っ込んでしまい、私はすぐ目の前にある五条の胸から一定のリズムで聞こえてくる心音に意識を集中させた。



「…はい」


突如頭の上から名前を呼ばれ、平静を装ってみたものの声が震えてしまった。それには触れず、五条は続ける。


「俺は強いし、これからもっと強くなる」
「うん」
「でも、どこにも行かない」
「……」
「ずっとそばにいる、約束する」


思いがけない彼の言葉に揶揄われているのかと疑った私は、戸惑いつつも顔をあげた。「なーんて言うとでも思ったか?」「甘ったれんじゃねーよ」「ぐだぐだ悩む暇があんなら、祓って祓って祓いまくってさっさと昇級してみろ」なんて、いつものような素っ気ない言葉を吐かれると思ったが、そこには真剣な表情を浮かべる五条がいるだけだった。

何と答えるのが正解か分からず、私はただ黙って彼を見つめる。五条が私を抱きしめる力を少し緩め、片手でサングラスを外した。

すべてが灰色に見えていた景色の中で、五条の透き通った瞳だけが確かな美しさを放っていた。久しぶりに見たその瞳に目を奪われていたら、瞬きを一つした瞬間に何も見えなくなった。そしてそれと同時に、唇に柔らかいものが触れる。

ただくっついて離れていっただけの、数秒にも満たない行為。五条の顔が離れ、何が起きたか理解した瞬間に身体の内から一気に熱くなるのを感じた。そして、もう一度私は五条の腕の中に閉じ込められる。先程とは打って変わって、少しだけ速くなった五条の心臓の音。私の音も、五条に伝わっているかもしれない。


「ご、じょう」


小さく、またもや震える声で名前を呼ぶ。何でいつもみたいに揶揄わないの。どうして今、キスしたの。その理由を問う前に、五条は再び「約束する」と短く呟いた。

約束。信じて、甘えて、受け入れていいのだろうか。

頭も胸もいっぱいで何も言えなくなってしまった私は、五条の背中に手を回すことしかできなかった。


(2022.03.23)