船内プロポーズ



 ワイヤレスイヤホンから流れてくる音楽。その奥からゴウンゴウンと鈍いモーター音が聞こえる。丸く切り取られた窓の向こうに広がる大きな海を見下ろしながら、読みかけの文庫本を閉じた。
 フィールドワークを終え、私は帰りの飛行船の中にいた。あと三十分もすれば私の住む国の空港に到着するが、空港から自宅まではまだまだ距離がある。帰宅は深夜になりそうだな、と考えたとき、誰かがすぐ隣に座る気配を感じた。
 平日ということもあってか乗客はそう多くなく、座席も空いている。乗船して早々に、趣味の悪いブレスレットをつけた変な男から一緒に酒でも飲まないかと誘われ、そういった誘いを受けるのも、なるべく穏便に済むよう断るのもどちらも面倒で対策としてイヤホンをしていたのだが。視線を上げて隣を見る。そこに座っていた人物に驚かなかったのは、現地でカルトくんに会ったときから何となくこうなることを予想していたからかもしれない。
 無視してしまおうか。一瞬だけそう考えたが、普通の男たちとは何もかも違うこの男が無視されたくらいで大人しく引き下がるようには到底思えなかった。イヤホンを外し、ケースにしまいながらわざとらしく当てつけのようにため息を吐く。

「何か用?」
「カルトと食事に行ったんだって?」

 足を組み、私の顔を覗き込むようにしてイルミはそう言った。質問に対する答えどころか、逆に質問を返してくるのもまあ予想通りである。
 それにしても、やはりコイツに話がいってしまったか。舌打ちしたいのを堪えて、私はたまたまカルトくんに会って自分から食事に誘ったのだ、と説明する。本当は偶然などではなく、彼が私を尾行していたことは隠しておいた。もしそれでカルトくんがイルミから怒られるようなことがあったら気分が悪いし、何よりカルトくんの尾行に気付かなかったことを自らバラしたくなかったからだ。
 イルミはふむ、と納得しているようだったが、少しばかり不満そうに目を細めた。

「オレに挨拶しないで帰るなんて失礼じゃない?」
「どこが失礼に値するのか分かんない」

 一か月ぶりに会うイルミは相変わらずのようだった。相変わらず、何を考えているのか分からない。
 互いに暫し見つめ合ったあと、私は膝の上に置いていた文庫本を開いて視線を落とした。飛行船の中で読み切ってしまおうと思って空港で買った本は、まだ三分の一程度が未読のままである。

「もう一度聞くけど、何か用?」

 自分でも声が苛立っているのが分かった。そして意外なことにそれを読み取ったらしいイルミが「なんで怒ってるの?」と言う。首を傾げたせいで彼の長い黒髪がさらりと肩から落ちた。
 そういえば初めて、いや二度目に会ったときも同じようなことを聞かれたっけ。相手が怒っていることには気付くのに、その理由をわざわざ本人に、しかも自分は関係していないと思って聞いてくるところは無神経の極みだ。イルミのこういうところにも腹が立つわけだが、ヒソカ曰く彼は超一流の殺し屋らしいし、図々しさというか、ある程度のふてぶてしさがないとやっていけないのかもしれない。
 船の上で騙されたこと、そのあと毒を盛られたこと。全部、まだ怒っているし許してもいない。しかしそれをイルミに伝えたところで彼が反省するわけじゃない。そう分かっているからこそ、イルミに対する怒りが収まらないのかもしれない。
 何も返事をせず文庫本の文字を目で追う私に、しばらくしてイルミは「ああ」と何か思いついたような声を上げた。

「この間、に内緒で見合いしたから?」
「……は?」
「どうしてもって言われて会っただけで、断ったんだからいいでしょ」

 オレもそういう年齢になっちゃったから、仕方ないんだよ。弟たちはまだ幼いし、第一オレ長男だし。と、まるで言い訳でもするかのようにぺらぺらと屈託なく話すイルミに思わず目を向ける。

「どうしてアンタが見合いして、私が怒るのよ」
「だって、オレのこと好きなんだろ?」

 絶句した。そして頭の中でイルミの言葉をリピートしたあと、私は「は!?」と大声を上げて仰け反った。幸い私たちの周りに人は少なかったが、通りかかった年配の夫婦らしい男女がぎょっとした様子でこちらを一瞥して去っていく。文庫本で口元を隠しドン引きしている私に対し、イルミはあっけらかんとした様子で「カルトから聞いた」と言った。
 昨日のことなのでよく覚えている。私はカルトくんに、イルミのことが好きだなんて一言も言っていない。結婚も絶対にないと伝えたはずである。
 そこまで考えて、カルトくんにイルミのことが嫌いなのかと聞かれ曖昧な返事をしたことを思い出した。嫌いではない。気遣ってそんな返事をしたが、きっとそのことをイルミに話したのだろう。
 カルトくんの誤解を解くために言ったことが、また新たな誤解を生み出している。私がじりじりと壁に身体を寄せるのを見て、イルミは何も言わずにただぱちぱちと瞬きをした。
 しかし、私の言葉をそのままカルトくんがイルミに伝えたとして、なぜ『嫌いではない=好き』になるのだろう。この世には『嫌い』『好き』よりも、その二つの間に存在するものの方が多いと言うのに。そもそも、イルミのことはどちらかと言えば『嫌い』な方だ。

「ごめん、別にイルミのことは好きじゃない。そう言ったらカルトくんが傷付くかもと思って嫌いじゃないって言ったけど、どっちかって言うと嫌い……」

 はっきり言わないと分からないだろう。そう思って正直にそう伝えると、イルミは少し考え込んで、ややあって顔を上げた。

「嫌いってことは、つまりオレのことが特別ってことだね」

 ポジティブすぎて怖い。そして何より、話が通じない相手に分かってもらおうとするのはなかなかしんどいものがある。

「ねえ……どうして私に付きまとうの?」

 私は文庫本を再び膝の上に置いて目頭を強く押さえたまま、この際だと思いずっと気になっていたことを尋ねた。
 ヒソカがしょっちゅう私の元へやってくる理由はまだ分かる。彼は優しく紳士的な男を装っているが私のことを殺したがっているところは一貫しているし、能力の性質も似ているから余計にちゃんと戦ってみたいのだと思う。しかしイルミの目的は全く読めなかった。私なんかに構ったところで彼には何のメリットもないはずだが、そう考えているのは自分だけなのだろうか。気付いていないだけで、イルミもヒソカと同じように私を殺したいのだろうか。

「私は強くないよ。本気のイルミと戦ったら普通に殺られると思うし、つまんないと思う」
「何、急に。それはそうでしょ」

 自分で言うのは良いが、いざ肯定されるとそれはそれで腹が立つ。黙って立ち上がれば、瞬時にイルミが私の手首を掴んだ。男の殺し屋とは思えない細く美しい手だが、軽く掴まれただけで分かる。逃げられない。
 睨む私を気にする様子もなく、「カルトがさ」と彼は弟の名前を口にする。

のこと、いいと思うって言ったんだよ」
「いい、って?」
「オレの結婚相手に」

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。昨日、カルトくんの誤解が解けたと思って呑気にホテルへ帰り眠った自分を引っぱたきたい。変な気遣いなんてせずに「貴方の兄のことは嫌いだ」と正直に言うべきだった。

「なんでこんなことに……」
「だからさ、オレたち結婚しない?」
「は?」

 心からの「は?」が口から零れ落ちる。イルミは私の手首を握って拘束したまま、こちらを見上げて「相性良いと思うし」などとわけの分からないことを言う。
 
「いや……良くないよね。ってか最悪でしょ」

 驚きよりも呆れの方が勝り、私はふいとイルミから顔を逸らしながらそう言った。何を言い出すかと思えば馬鹿なことを。そもそも今の時代の結婚というのは、ある程度好ましく思う相手とするのが基本であって――。
 そこまで考えて、私はふと思い出した。イルミが自分のことを「抱ける」と言ったあの夜のことを。イルミが私に執着する、目的。
 まさかそんなはずは、と思うのに、一度頭に浮かんでしまった推測を放っておくことはできなかった。ただの自惚れかもしれない。この男がそんな感情を持ち合わせているはずがない――。
 そっとイルミを見れば彼は眉一つ動かさず、仮にもプロポーズをした男とは思えないほど涼しい顔をしている。

「あのさ、間違ってたら申し訳ないんだけど……アンタって私のこと好きなの?」
「好きって、何?」
「ええと、特別ってこと」

 先程のイルミの言葉を借りてそう言うと、イルミはすぐに「それはない」と否定した。オレの特別はキルだけだから、と。キル? と聞き慣れない言葉に首を傾げれば、弟だと言う。
 否定されてがっかりしたということはないが、結局イルミが自分に付きまとう理由は謎に包まれたままで、私はどこか腑に落ちないまま「はあ」とぼんやりとした返事をした。
 会話が途切れてすぐ、イルミからのプロポーズ(と呼んでいいのか分からないが)を断っていないことに気付いて口を開こうとしたとき。イルミが掴んでいた私の手首を強く引いた。もはや掴まれていたことも忘れすっかり油断していた私は、座っているイルミの上にそのまま倒れ込んだ。鼻先に触れた指通りの良さそうなイルミの髪からは何だかいい匂いがして、彼の行動にぎょっとした私は慌てて顔を離し、思っていたよりも間近にあったイルミの顔に思わず息を呑んだ。ヒソカもそうだが、この男は顔の造形が整いすぎている。瞳と同じ色の睫毛が少し震えて、イルミの目がすぐそばにいる私を捉えた。

「何、見惚れてるの?」
「ばっかじゃないの」

 そう一蹴し、イルミが座る椅子の背凭れに手をついて身体を起こす。意外にもイルミはすんなり解放してくれて、私は床に落ちてしまった文庫本を拾いイルミを見下ろした。上目遣いでこちらを見上げる双眼は自信に満ち溢れていて、その黒い瞳には珍しく気圧されている自分が映っている。
 ちょうどそのとき、あと数分で着陸する旨のアナウンスが船内に流れ、私は気を取り直すようにふう、と小さく息を吐いた。

「私、誰とも結婚するつもりないから。興味もないし」
「そうなの? あ、でもオレも興味はないかな。結婚はオレにとってただの義務だから」
「それなら尚更私じゃなくたっていいでしょう。またお見合いでもして――」

 良いとこのお嬢様と結婚すれば。という私の言葉は、すぐそばの通路を駆けて行った乗組員らしい男たちの足音にかき消された。どこか普通でない慌ただしい様子で担架を運ぶ彼らの背中を何となく見つめていたら、目の前に座っているイルミが「見つかったかな」と呟く。

「何が」
「さっきオレが殺した男の死体」
「……仕事?」

 大して驚かなかったということは、このイルミという男に少なからず慣れてしまったようだ。知り合ってそんなに長い時間が経っているわけでもないのに。
 そのことに少し悲しくなりながら小声でそう尋ねると、イルミはとぼけた顔をして一言「違うけど」と言った。違うのかよ。
 さっきから人の調子が狂うことばかり言うイルミは、やれやれと立ち上がると疲れたとでも言いたげな様子で首をコキコキと鳴らした。オレだって仕事以外で殺しなんて面倒だし金にならないからしたくないんだけどさ。独り言のようにそうぶつぶつ話すイルミは、身構える私の肩にぽん、と軽く手を置くと耳元で「が悪いんだよ」と囁いた。その言葉の意味を理解できず、彼と目を合わせ眉を顰める。

「なんで私が悪いわけ?」
「乗船して早々変なヤツに絡まれるから」
 
 隙が多いよ、ハンターのくせに。イルミはそう言って、私の肩に置いた手を今度は私の頭の上に乗せて髪をくしゃりと撫でた。
 いつも見方によっては虚ろな表情を浮かべているイルミの口元が僅かに緩む。先程乗組員たちが駆けて行った方から男たちの慌てた声が聞こえてきて、その瞬間飛行船が今までで一番大きく揺れた。どうやらアナウンス通り、空港に到着したようだ。

「じゃ、オレは今から仕事に行くけど。またそのうち家に行くから、話の続きはまたそのときに」
「ああ、はい……」
 
 イルミの手がすっと私から離れていく。そして彼が席を離れたところで、いや何普通に返事をしているんだと我に返った私は慌てて振り返った。しかし長い通路の先には誰もおらず、先程よりも大きな男たちの声が響いているだけだ。

「兄弟揃って消えるの早すぎでしょ……」
 
 キリキリと痛み出したこめかみを押さえて私は再び椅子に腰を下ろした。話の続きって。一体あれ以上どんな続きがあるというのだろう。しばらくその場から動けずにいたら、担架を持った乗組員たちが黙って私のいる座席の横を通り過ぎて行った。
 どうかしている。好きでもない女に結婚話を持ちかけるイルミが。そして今、イルミがまた家にやって来たら面倒だな、としか考えていない私が。
 白い布が被せられた担架から覗く趣味の悪いブレスレットのはめられた手首を見送りながら、私は深い深いため息を零した。



(2024.02.27)