誤解×2



「疲れた……」

 凝り固まった身体を伸ばそうと両腕を上げて背伸びをすれば、背骨がポキポキと鳴る。疲れているのは事実だが外で朝を迎えるのは久しぶりのことで、澄んだ空気と目にしみる朝日が新鮮で心地よくもあった。
 自宅から鉄道や飛行船を駆使して丸一日。決まった時期、決まった場所、決まった時間帯にしか咲かない花があると聞き、それを採取するために私は久々のフィールドワークに出ていた。場所はともかく開花時間が夜中から明け方にかけてということもあり、鬱蒼とした暗い森の中で小さな花の群生を探すのにはまあまあ苦労した。
 街のある方角へ森を進むと、少し開けた場所に出た。そこで腰を下ろし、標本にするために摘んだ青く小さな花を丁寧に新聞と野冊に挟む。生態を調査する分は土ごと瓶に入れて、それらを大きな黒のアウトドアリュックに詰め込んだ。ここでできることはこれにて全て完了である。
 ここから徒歩とバスで四十分ほどのビジネスホテルは明朝チェックアウト予定。とりあえず、戻ってシャワーを浴びて布団で眠りたい。でもその前に、あれだ。
 と、そこまで考えたとき。何かの気配を感じ取った私は近くの木に飛び乗った。地面に置いたままだったリュックを磁力で引き寄せ、息を潜める。
 姿は見えない。でも確かに、何かいる。

「そこにいるの、誰」
 
 はっきりと声を上げてそう尋ねると、新鮮な朝の空気が僅かに揺らいだ気がした。しばらくして森の奥、茂みが音を立てて揺れる。そして現れた意外な人物に私はおや、と呟いた。

「君、イルミの。たしか、カルトくん?」

 あの夜に出会った着物姿の男の子のことを、そう簡単には忘れていなかった。
 ボートに乗っていたときと同じ姿を見せた彼は、木の枝の上にいる私を見上げて返事の代わりにくりくりとした瞳を瞬かせた。殺意は向けられていない。そう感じて、私はリュックを背負い彼の目の前に飛び下りる。

「どうしたの、こんなところで。散歩?」

 散歩なんかで来る場所でないことは十分理解していたが、少なからずこちらを警戒しているようだったので笑ってそう尋ねる。

「仕事が終わって、貴方が森に入っていくのを見かけたから……」
「え、ついてきたの? 夜中から?」

 私の質問にカルトくんはこくりと頷いた後、私をまっすぐ見据えてこう言った。ずっと見てた、と。
 気付かなかった。そのことに悔しさを感じつつ純粋に感心もしていた。イルミの弟ということは彼も殺し屋なのだろうか。仕事が終わって、と話していたし。というか普通に会話できる子なんだな。いろんな考えが頭の中を巡る。

「何か、私に話でもあるの?」

 そう聞くと、彼は扇子を口に当てて黙り込んでしまった。カルトくんと会うのは二度目、彼が私に何か用があるようには思えない。目の前でお兄さんの胸ぐらを掴んでしまったことを、まだ怒っているのだろうか。
 正直言うと、イルミの弟である彼とは関わりたくない。しかもまだ子どもである彼には何の罪もない。
 どうしたものか、と腕を組み悩んでいたら、私の腹がぎゅるるると大きな音を立てた。カルトくんが僅かに目を見開く。私はあることを思い立って「そうだ」と人差し指を立てた。

「少し時間ある?」
「……え」
「ちょっとさ、付き合ってよ」


「とんこつの麺かため、ニンニク少なめネギ多め、あー、あと半熟塩ゆで卵トッピングで」
「はいっ!」

 カウンターの向こうに立っていた若い店員が元気よく返事をする。カルトくんは? と隣に目を向ければ、彼はきょろきょろと店内を見回していてどうも落ち着かない様子だった。とりあえず自分と同じものでいいか尋ねればおずおずと頷いたので、店員に向かって「を、二つ」とピースしてみせる。店員は先程と同じく、元気に返事をして厨房へ引っ込んでいった。

「付き合わせてごめんね。もう森に入るときにはラーメンの口になっててさあ……てかラーメンって知ってる? 最近どこの国でも専門店増えてきたけどおいしいんだよ」

 話しながら、目の前に重ねてあるコップを二つ出してセルフサービスの水を注ぐ。一つをカルトくんの前に置き、もう一つはぐいっと一気に飲み干した。
 二十四時間営業のラーメン店は、早朝ということもあり客は私たち二人だけしかいなかった。壁には読めても誰だか分からない有名人のサインや、ビールジョッキを片手に微笑むすでに引退した女優のポスターが貼られていて、お世辞にも綺麗とは言えない店内のカウンターに座る着物姿のカルトくんは、なんというか非常に浮いている。

「朝からラーメンはきついかな。というか、まだ若いのに仕事だなんてえらいねえ」
「貴方は……」

 これくらいの年齢の子と接する機会があまりないため何を話せばいいか分からずにいたら、コップに注いだ水の表面をじっと見つめたままカルトくんが口を開いた。何を言われるのか、少しばかり緊張しながら「はい」と返事をする。

「貴方は、兄さんと結婚するの?」
「らっしゃいませー! 空いてる席どうぞー!」

 恐らく朝まで飲んでいたと思われる集団がやってきて店内は一気に賑やかになった。元気の良すぎる店員がテーブル席へ駆けていく中、私はカルトくんの綺麗な横顔をぼんやりと見つめる。
 今、兄さんと結婚とか聞こえた気がするが。

「……え? 一応聞くけど兄さんってイルミのことを言ってる?」

 そう尋ねれば、彼は黙ったままゆっくりと頷いた。
 何がどうしてそうなったのか――。水のおかわりを注ぎながら長いため息を吐く。そう誤解させてしまったとしたら、あのときしかない。カルトくんと初めて会ったとき。船からボートに飛び下りたとき。頼んだわけでもないのに私の身体を抱き留めた兄の姿に、もしやと考えてしまったのかもしれない。
 私はカルトくんへ身体を向けてしっかりと言った。

「ない、百パーセントない。天と地がひっくり返ってもない」
「……そうなの?」

 これまでずっと無表情だったカルトくんの顔が驚いたものに変わり、逆に私の方が驚いてしまう。自分の兄が私と結婚すると思っていて、そんなときにたまたま私の姿を見かけたから観察がてら朝まで見張っていたのか、この子は。
 私に弟や妹はいない。だから普通がどういうものなのか分からないが、どうやら真剣な眼差しで私を見つめる彼は相当兄想いの子らしい。
 なぜあんな男の弟がこんなにいい子なのだろう。そう思いながら、ううん、と私は唸った。

「カルトくんのお兄さんと私は……その、あまり仲が良くなくて」
「兄さんのこと、嫌いなの」
「えっと」

 食い気味に尋ねるカルトくんに思わずたじろぐ。さすがにこんな幼い弟に、お兄さんの悪口は言えない。注文したラーメンが運ばれてくればしれっと話題を変えることもできるのだが、まだ私たちの元に届く様子はない。

「嫌い、ってわけじゃ……ちょっと、私とは馬が合わないかなって気がしてるだけで。この前お兄さんの胸ぐら掴んじゃったのは、びっくりした勢いでというか、うん」

 だらだらと弁明する私からカルトくんは目を逸らさない。いい子だが、大きな瞳はイルミにそっくりでそれが余計に私をそわそわさせる。気が付けば私は「ちょっとお手洗いに」と言って席を立っていた。
 イルミに連絡しようか。トイレの中で携帯を開き「お宅の弟さんが」とまで入力して、いやいやと私は首を振り携帯を閉じた。イルミと、ついでにヒソカにブチ切れた日から約一か月。彼らとは会ってもいないし連絡も取っていない。ようやく穏やかな日常を取り戻しつつある今、こんなことでまた異端児どもと接点を持つのはごめんだ。
 戻ると、カウンターには注文したラーメンが並べられていた。ずっと食べたいと焦がれていたものの姿と結婚云々の話を切り上げられる安心感から、自然と顔が綻んでいく。

「食べよ! 奢るし、何なら替え玉もしていいからね!」

 またもや無言に戻ってしまったカルトくんにそう言った後、替え玉が分からないかなと一瞬考えたが気にせずスープを啜った。こってりとした油と塩味が胃に染みる。ずっと求めていた味だ。濃厚なスープが絡みついた太麺をずずずと勢いに任せて吸い込めば、疲れきった脳と空っぽだった胃が満たされていく気がして心からの「おいしい……」が出た。
 隣をちらりと見れば、カルトくんは相変わらずじっと私を見つめている。咀嚼しながら温かいうちに食べな、と言うと、彼は恐る恐るラーメンを啜り始めた。

「あー、満足……」

 食べた。替え玉も二回した。
 店を出てすっかり高くのぼった太陽の光を浴びながら、幸せな気持ちでそう呟く。頑張って働いた後のラーメン。このためだけに生きている気がしないでもない。

「……全部食べて、何ともないの」

 斜め後ろに立っていたカルトくんを振り返る。量が多かったのか味が好みではなかったのか、彼は半分も食べていなかった。

「全然。あれくらいぺろりだよ、胃強いし」

 ははは、とお腹を叩いて笑ってみせたが、カルトくんは眉を顰めるのみで笑わない。まるで珍妙な生き物でも見ているかのような眼差しになんだか恥ずかしくなって「家、近くなの?」と聞けば、彼は頷いた。
 そうか、近くなのか。なんとなく辺りを見渡せば、来たときは静かだった街も少しずつ人通りが多くなり、賑わいを見せ始めていた。そういえば、観光ガイドにここから汽車で二時間ほどのところに有名な暗殺一家のアジトがある山がある、と書いてあった気がする。もしかしたらもしかするのかもしれないが、深く聞く気にはならなかった。
 リュックを背負い直し「よし」と呟く。カルトくんの用事も終わったはずだし、これ以上彼と一緒にいる理由もない。

「じゃあ私はこれで。気を付けて帰ってね」

 片手を上げてそう言えば、カルトくんはぺこりと軽く頭を下げた。やはりいい子だ。
 彼に背を向けてしばらく歩いたところで、あることに気付いた私は「あ!」と声を上げ振り返った。

「私と会ったこと、お兄さんに、は――」

 そこにもうカルトくんの姿はなく、サラリーマンらしき男性が急に立ち止まった私に怪訝そうな顔をするだけだった。時間にして数秒ほどの間にいなくなってしまうとは、さすがとしか言いようがない。
 私と会ったことはできればイルミには内緒にしてほしかったが、まあいいか。別に変なことをしたわけでも言ったわけでもないし。
 何はともあれ誤解が解けてよかった――。満腹による眠気から欠伸を零しながら、私は再びホテルに向かって歩き始めた。


「お前、今まで何してたの」

 帰宅したカルトを一番に出迎えたのはイルミだった。腕を組み、廊下の壁に背を預けそう尋ねる彼はどこからどう見ても不機嫌そのものである。でもそれは今に始まったことではなく、最近のイルミは常に機嫌が悪いため若い執事たちが怯えていることをカルトは知っていた。

「……ごめんなさい」
「母さん怒ってるよ。どこで油売ってたの?」

 すぐ終わる仕事だっただろ。そう言ってゆらりと歩み寄ってくる兄に、カルトは黙り込んだ。
 普段仕事以外のことで会話を交わすことのない兄。そんな彼に、仕事以外で起こったことをどう話せばいいかカルトには分からず、素直に報告する以外の術はなかった。

「仕事はすぐに終わった……けど、その後あの人に会ってた」
「あの人?」
「兄さんと一緒に、船にいた」

 そういえば名前は何だったか。思い出せずにいるカルトの説明に、イルミの眉がぴくりと動く。
 ひょっとして、? と彼女の名を口にしたイルミの声は最近の彼にしては珍しく穏やかなものだったが、それでも機嫌が悪いことに変わりはない。そうだ、そんな名前だったと思いながらカルトはこくこくと頷いた。

「一緒に食事に行って……あの人の食事に毒を混ぜたけど、ピンピンしてた」
「アイツ、毒に強いみたいだからね」

 視線を外しどこか遠くを見つめながらそう話すイルミを、カルトは不思議な気持ちで見つめた。
 百パーセントない。あの人はそう言っていたが、兄さんはあの人を家族にしたいと思っている。ボートの上で珍しく人と戯れるイルミを見て、カルトはそう直感していた。だから、彼女のことを試してみたのだ。ゾルディック家の人間としてやっていけるかどうかを。
 結果、カルトはについて「ゾルディック家ではやっていけない」と判断した。毒耐性は置いておいて、尾行に全く気付かない。船で顔を合わせたときとは違い今日は薄汚れていて、その上ガサツそうで品性の欠片もない。とてもじゃないが、優れた能力者であるようには到底思えない。夫婦というものを自身の両親でしか知らないカルトには、イルミの隣に妻として立っているが全く想像できなかった。でも。
 カルトの脳裏に、頬に土がついていることにも気付かずに笑うの姿が過る。

「……兄さん」

 呼べば、イルミはゆっくりとカルトを見下ろした。

「僕は、あの人、いいと思う」

 二人の間に沈黙が流れる。ゾルディック家ではやっていけない。そんな自身の判断とは真逆の思いに、カルト本人も少なからず困惑していた。
 イルミは弟の言葉に大して驚きもせず、不思議そうに頭を傾ける。

「別にお前がどう思っていても、そんなの関係ないんだけど。が何か言ったの?」
「兄さんのこと、嫌いじゃないって」
「……ふうん」

 カルトの言葉に、イルミは踵を返し廊下の奥へと歩き始めた。母さんにはオレからうまく説明しておく、と告げたイルミは、角を曲がる直前にくるりと振り返る。

「お前、早く風呂入れば。なんか油みたいな、変なにおいがする」

 イルミが立ち去った後、カルトはその場で鼻に着物の袖を近付けてくんとにおいを嗅いだ。確かにイルミの言う通り、あの店独特の不思議なにおいがする。

「らあめん、おいしかったな……」

 油が浮いたスープ、その中に沈んだ麺。それを我慢できないと言わんばかりにあっという間に平らげていくの横顔。それらを思い返しながら、カルトは宙に向かってふう、と息を吐いた。



(2023.12.28)