ふと目を開けると、広がっていたのは薄っすらと暗い闇。ぼんやりとした頭を押さえて目線だけを動かせば、見慣れた壁時計が目に入りすぐに自分の家であることに気が付いた。
どうやらソファで眠っていたようだが、まずどうやって家に戻って来たか覚えていない。天井を見つめながら、ばらばらに散った記憶を手繰り寄せてまとめようとする。確か私は、船に――。
たった一度の瞬きの間、急にぬっと人の顔が現れて一瞬だけ呼吸が止まった。目を見開けば、顔や首に何かがさらりと流れてくる。長い髪の毛だった。
「ひっ!」
ぎょっとして飛び起きれば、私の頭突きからひょいっと逃れたイルミが「あ、起きた」と大して驚いてもいない様子で呟いた。その姿に、長い夢から覚めたように頭がはっきりとした私は膝を抱えてソファの隅に縮こまった。
「なんでここにアンタがいるの」
「なんでって、オレが運んだから」
イルミはそう言うと、片手に持っていたコップを私に差し出した。コップはいつも私が使っているもので、その中では透明な液体がゆらゆらと揺れている。疑いの眼差しを向ける私に、イルミは一言「水」と言った。
まさかこんな人間らしいことができるとは思っていなかったので、戸惑いから突っぱねることができず大人しく受け取った。すぐに喉が渇いていることに気付き、そっとコップへ口をつける。彼の言う通り、ただの水だった。
「どうやって入ったの? まさか窓から?」
「いや、カードキー入ってたから」
そう答えるイルミは、床に放り投げられていたクラッチバッグを指さす。
「あのままオレの実家に連れて帰ってもよかったんだけどさ。何の根回しもなく連れてったら多分、母さんに殺されそうだから」
「もういいから黙って……」
少しは寝たものの身体が鉛のように重いことに変わりはなく、がんがんと鈍く痛む額を押さえて私はひらひらと手を振った。イルミの物騒な話を聞く気には到底なれないし、何より彼の姿を視界に入れたくない。私はつい数時間前、この男に騙されたのだ。
「とりあえず、もう帰ってくれるかな」
「せっかく送ってあげたのにお礼の言葉もないの?」
「元はと言えばアンタのせいで、しょ……」
ぱ、と顔を上げてすぐ、イルミの手元に目がいく。そこにいつもの針がないことはよかったのだが、代わりにもっと物騒なものが握られていたものだから、私は自分が今どういう状況だったかもすっかり忘れて能力を発動した。いや、しようとした。
「ん?」
持っていた果物ナイフが僅かに後ろへくいっと引っ張られていることに気付き、イルミは首を傾げる。しかしすぐに理解したのか「ああ」と言って、ナイフに働いている力を振り切るようにしてその切っ先を私へ向けた。銀鼠の刃が月明かりで鈍く輝く。
「便利だと思ってたけど燃費悪すぎ。しばらくはまともに能力使えないんでしょ?」
丸腰も同然だね、とのイルミの言葉に嫌な汗が流れる。殺気はない。でも殺し屋なのだから、あっても隠すくらいのことはできるだろう。
少しの沈黙のあと、何も答えない私に向けていたナイフを下ろしたイルミは背を向けてキッチンへと向かった。
「りんご食べる?」
「……えっ」
「食べるよね」
「いや」
いらないけど、と私が断る前にカゴに入っていたりんごを手に取ったイルミは、そのまま器用に皮を剥き始めた。赤い皮が彼の手から薄い膜のように伸びていくのを何とも言えない気分で見つめる。
しゃりしゃりという音だけが聞こえる中、私は時計へ目を向けた。夜中の三時。船でイルミと会ったのがたしか二十時頃だったから、そこから一悶着あって家に戻って来たにしても時間が経ちすぎている。
私が目覚めるのを、イルミはこの部屋で待ち続けていたのか。そう考えた瞬間、ぞわ、と背筋に冷たいものが走った。
ひょっとして、寝ている間にどこか針で刺されていたりして――。
私はりんごを剥き続けるイルミを無視し、寝室に飛び込んだ。

「特別痛いところはないけど……」
電気をつけて鏡の前に立つと、そこには疲れきった女がいた。家を出るときにしっかり整えた髪は海風を浴びたせいかぐしゃぐしゃで、顔も化粧が崩れなかなか酷いものだった。
足先、ふくらはぎ、太腿。黒いドレスの裾を捲り、前屈みになってじっくりと肌に手を滑らせていく。オーラを全身へ行き渡らせてしまえばすぐに分かるのかもしれないが、今はそれも叶わない。そもそも痛みがないということは、針など刺されていないのだろうか。
ただの杞憂かもしれない。そう思いつつも、両手首から肩にかけて確認するため背中のファスナーを下ろし、袖を脱いだそのときだった。
「何してるの」
顔を上げると、正面の鏡にイルミが映っていた。彼の片手には水色の皿が乗っており、さらにその上には均等に切り分けられたりんごが乗っている。
私は腰まで脱いでしまったドレスを胸元にかき集めて、鏡越しにイルミを睨みつけた。
「着替えるから出て行ってくれる?」
「……ああ、なんだそういうこと」
イルミは納得したようだったが、なぜか部屋を出ていくことなく皿を棚の上に置くと、指先で壁の電気スイッチに触れた。パチン、という音と同時に再び辺りが暗闇に包まれ、内心動揺する。
なんだそういうこと、というのは、私が着替えることに対しての言葉じゃなかったのか。電気の明るさに慣れていた目は突然の暗闇にすぐには適応できず、私は何も見えない中でイルミから距離をとるためにそっと壁の方へ逃げた。
しかし、それがよくなかった。
「イル……いった!」
ぬ、と白い手が伸びてきたのが見えて、その次の瞬間には肩をものすごい力で掴まれていた。どすんと音を立てて背中が背後にあった壁に押しつけられる。は? と口には出さなかったものの頭に疑問が広がって、すぐ目の前に暗くても分かるほどの白い顔が現れたものだから私はうっと顔を歪めた。
「な……何」
「気を失った振りしてオレを家まで誘うなんて、なかなかやるね」
「は?」
「抱いてほしいなら素直にそう言いなよ」
「は!?」
ダイテホシイナラスナオニソウイイナヨ!?
思わず大声が出た。この男は頭がおかしくなってしまったのか、と思ってすぐ、いや頭は最初からおかしかったかもしれないと思い直して私はぎゅっと胸の前でドレスを抱き締めた。
イルミの発言に衝撃を受けている間に徐々に目が暗闇に慣れていった。私の肩を押していたはずのイルミの手はいつの間にか二の腕を掴んでいて、さらに彼はもう片方の腕を壁についておりいよいよ私は逃げられなくなっていた。
「あの……何を勘違いしてるのか知らないけど、私はただ着替えようとしてただけだから」
身体に埋められたかもしれない針を探していた、とは本人の前では言いづらく、私はそう説明した。
「抱いてほしいとかそういう気持ちは一切ないので。第一アンタなんてお断りだし、アンタだって私を抱くだなんて無理でしょ」
「……抱けるけど?」
「え?」
壁についていた腕を離したイルミは、そっと私の首、鎖骨に手を這わせた。思いのほか熱を持った手のひらが肌に触れたことに肩が跳ね上がる。
「オレは普通に抱けるけど」
しん、と静まり返った空間で、私の喉がごくりと鳴った。ひょっとしたら結構まずいかもしれない、この状況。
二人きり、暗闇、部屋の隅に鎮座するベッド、イルミからの突然の「抱ける」発言、能力を使えない私。これで相手がハンターでも殺し屋でもないただの一般人ならばどうとでも対処できたはずだが、如何せん相手が悪い。
いや、でもふざけているだけかもしれない。船の上で騙されたことだし、と思いながら「冗談でしょ……」と呟けば、私の二の腕を掴んでいるイルミの手の力が一層強まった。どうやらふざけているわけではないようだ。
先程イルミにナイフを向けられたときとは比べ物にならないほどの緊張が走る。もう針のことなど頭の片隅にもなかった。
そこでようやく私はイルミの目を見た。カーテンの隙間から入る月明かりを捉え、僅かに光の宿った瞳には欲情などが滲んでいるようには到底見えず、私は不思議な気持ちで彼の瞳を見つめ返す。私を騙し、家まで送り届け、さらには抱けると言うこの男の目的は一体何なのだろう。何も言わないイルミは意外にも私の返事を待っているのか、幸いにも強引に事を進めようとはしなかった。
「えーと、とりあえず落ち着いてくれると助かる」
「オレが? 落ち着くのはの方でしょ」
「あ、そう。じゃあ一旦この手を離して」
「なんで? 今から抱くのに離す必要なくない?」
「抱かない抱かない。そもそもアンタね、夜中のテンションに身を任せたら」
「ってさ、毒に強い?」
「大抵ろくなことに……は? 毒?」
なんとか穏便にこの状況から逃れようとしていたら、ぽーんと話がまったく訳の分からない方向へ飛んでしまったので、拍子抜けした私は間抜けな声を上げた。よく分からないままもう一度「毒?」と尋ねると、イルミも同じように「毒」と言う。
「え、そりゃあ、まあ……研究の一種で作ることもあるし、普通の人よりかは強い方……かな」
どうして今そんなことを聞くのか、と疑問に思いながらも真面目にそう答えた。植物メインの生物調査ハンターである以上、調査対象が有毒植物であればその毒性について詳細を記録しておく必要がある。作った毒は飲む、吸うといった口から体内に入れるものを始め、皮膚に塗布するもの、注射器を用いて注入するものなど多岐に渡るが、どれも基本は実験用の小動物を使い検証していた。しかし作る途中で誤って触れてしまったり、人体への影響を調べるために自分を実験台にすることもある。なのでそう答えたわけだが、なぜそんなことを聞くのかという疑問は解消されないままだ。
イルミはふむ、と納得したような顔をしたあと「だからか」と言った。
「だからか、って……」
水――。
突如、イルミに渡されて飲んだ水のことを思い出してどっと汗が噴き出した。
植物から生成する毒は大抵苦かったり渋かったりするので、口に含めば必ず気付くことができる。味はなくとも舌に触れるだけで激痛が走るものもある。でも自分が詳しい毒は、あくまで植物から作られたものだけ。テトロドトキシン、所謂フグの毒なんかは無味無臭と聞く。
「何、入れたの」
自分にしては珍しく声が震えていた。イルミは一度だけ瞬きをすると、人差し指を立てて自分の唇を押さえ、考える素振りを見せたあと「別に大した毒じゃないよ」と言った。
「ちょっとだけ身体を動かさなくする毒なんだけど。少量だし、ある程度毒に耐性あるなら効かないだろうね。つまんないな」
イルミの言葉を頭の中で整理しながら、下ろしていた手をゆっくり動かしてみる。特に痺れもなければ、動かしづらいということもない。イルミの話しぶりからするに遅効性の毒ではないようだし、死ぬことはないだろう。
しかし安心はできなかった。仮にその毒が私に効いていたら、この男は今頃――。
「ねえ」
返事をするのも嫌になった私はぎろりとイルミを睨みつけた。対してイルミ本人は、横目で別の場所へ意識を向けているようだった。
「盗み見はよくないな」
パチン。聞こえたのはイルミが部屋に入ってきたときと同じ、電気のスイッチの音だった。ようやく暗闇に慣れていたのに突然の白い光に耐えられず、私はぎゅっと目を閉じる。
「なーんだ、気付かれてたかあ」
部屋の入口にはヒソカがいた。歌うように「この近くで用事があって遊びに来たんだけど」と話すヒソカの服には血がついていて、すぐに誰かを殺してきたのだと理解した。
わくわくした様子で私とイルミを交互に見遣るヒソカ。目線だけで「イルミをどうにかしろ」と訴えてみるが、彼はにたりと笑みを深くするだけだ。
「面白いことになってるようだけど……ボクも混ぜてくれるのかな?」
ぴり、と空気が歪む。ヒソカからイルミへと視線を移せば、彼はうんざりした顔で垂れた前髪の間からヒソカを睨んでいた。
「ヒソカ、何の用?」
「え、イルミに用はないよ? ボクはに会いに来ただけ」
「こんな夜中に?」
ヒソカが身体を動かすたびに、鉄の匂いが鼻を突く。イルミからは徐々に殺気が滲み始めていて、そのどちらも本調子でない私にとっては不快でしかなかった。
二人は私のことなどそっちのけで会話を繰り広げている。プチン。電気がついたり消えたりするときと似た音が頭の中で聞こえた。しかし部屋は明るいままだ。
「そもそもイルミこそ、どうしてここにいるんだい」
「何、いたら悪いの」
「……け」
二人の視線が私に向けられる。これは毒のせいではないと思いたいが、すでに腸が煮えくり返り身体中が熱くなっていた私はすうっと大きく息を吸い、そして叫んだ。
「二人とも今すぐ出て行け!」
(2023.11.23)