船上でのパーティーは中盤に差し掛かり、盛況を見せていた。
 賑やかな会場から抜け出し、誰もいない船首部分のデッキで海風を浴びる。少し肌寒く感じるが、広く澄んだ夜空とようやく一人になれた解放感が心地よくて私は深いため息を落とした。

「あー、早く帰りたーい……」

 ぽつりとそう零しながら無意識に手に持っていたクラッチバッグを開けるものの、今日は煙草を忘れていたことに気付いて思わず舌打ちをした。苛立ちを誤魔化すために、家に帰ったら真っ先にシャワーを浴びて、お酒を飲みながらずっと読めていなかった本を読んで、などと帰宅後にやりたいことを並べていき、意識を逸らしていく。
 そもそも私はこういう人が大勢集まる場が得意ではない。むしろ苦手な方だ。いろんな場所へ赴き、いろんな植物を探し、大学で一人研究をする。そんなことを毎日繰り返している私がこんな華やかな場所に来たところで、気の利いた会話一つすることもできない。できるのは、面白くもないジョークやセクハラ発言を飛ばすお偉いさんに愛想笑いすることだけだ。
 柵に両腕を乗せ、遠くで浮かんでいるように見えるビル群の明かりをぼんやりと眺める。夜景は美しいが、今この船が進む真っ黒な海はすべてを飲み込んでしまいそうで少しだけ恐ろしかった。
 この辺りの海にはどんな生物がいるのだろう。そんな好奇心に駆られて柵から上半身を乗り出し、船体が波を切って進む様を見ていたとき。

「そんなに身を乗り出してたら落ちるよ」
 
 真後ろから声が聞こえ、驚いて振り向くとそこにはイルミが立っていた。

「びっ……くりした……」
 
 幽霊かと思った。至近距離で私を見下ろすイルミの能面のような顔を見つめながらそう呟く。いつの間に背後をとられていたのだろう。海に気を取られていたとは言え、気配に全く気付かなかった。
 どうしてこんなところに、この男がいるのか。真っ先にそう尋ねようと思ったがあまりにも距離が近く、ばくばくとうるさく鳴る胸を押さえながら無言で柵に沿って横へとずれる。イルミと距離をとり、私は気を取り直すようにふう、と息を吐いた。

「誰かと思ったら、嫌がらせが得意な殺し屋さんじゃない」
「嫌がらせ? そんなのした覚えないんだけど」
「いや、オリーブの鉢あんなに送ってきてさ……あれ、すっごい大変だったんだからね」

 何回電話してもメールしても出ないし。腕を組んでそう指摘すると、首を傾げていたイルミは合点がいったのか、人差し指を立てて「ああ」と言った。

「あれ、だったんだ。知らない番号だったから無視しちゃったよ」

 相変わらず飄々とした様子でそうのたまうイルミに、せっかく消えかけていた苛立ちが一瞬で復活する。殺し屋というのは、みんなこんな風に相手を苛立たせることが得意なのだろうか。
 本日二度目の舌打ちを飛ばしてふい、と顔を背けたとき、イルミが私のすぐそばまで詰め寄り「何、その恰好」と目を眇めた。

「え、パーティーだから正装してるだけですが」
「ふうん」
「ふうん、って……お世辞でもいいから似合うとか言ったら? ヒソカは言ってくれたよ」
「オレ、お世辞とか言わないから」

 怒りを通り越して呆れ果てた私は、「あっそ」と短く言い、イルミの横を通り過ぎて会場へと向かった。直接会ったら言ってやりたいことが山程あったはずなのに、なんだかどうでもよくなってしまったのだ。所詮私が何を言ったところで、この男が反省する、ましてや謝ることなんてないだろう。
 しかし、途中であることに気が付いた私は足を止めた。
 最初は、イルミも何らかの繋がりがあってこのパーティーに招待されているのだと思った。実際、今日ここに来ているハンターは私以外にもたくさんいるし、恐らくではあるが裏稼業の人間も幾人かは来ているだろう。しかし、イルミの服装は公の場にふさわしい恰好とは言えなかった。初めて会ったときと同じ、胸元や肩に針を刺した独特のファッションである。
 なんだか、嫌な予感がする――。くるりと振り返り、先程までもう見たくないと思っていたイルミの顔へ視線を向ける。彼は相変わらず真っ黒な瞳でこちらを見つめ返していた。

「あのさ、なんで今日ここにいるわけ」
「仕事」

 もう終わったけど、と話すイルミの姿に頭痛がして思わず頭を抱えた。嫌な予感が秒で的中してしまった。彼の言う「仕事」が「もう終わった」ということは、つまり「この船の上で誰かが死んだ」ということだ。
 会場の方へ意識を向けてみるものの、何かが起きて慌ただしくなった様子は感じられない。船内全体の様子も相変わらずだ。
 一体いつ、どうやって、誰を殺したというのか。本人にそう尋ねてみようと顔を上げたとき、イルミが暗い海へと視線を移す。つられて同じ方向を見れば、遠くの方からこちらに向かってやってくる一隻のボートが見えた。
 こんな遅い時間にわざわざこんな沖までやってくるということは、この辺りに旅行で来ている一般人というわけではないだろう。
 ボートのエンジンがけたたましい音を立てて、海面を大きく波立たせる。私たちの乗る船のそばにやってきたボートを警戒しながら見下ろせば、そこには海に似つかわしくない黒いスーツ姿の男と、着物姿の女の子、二人の姿があった。そのうち男の方が、イルミの姿を見つけて「イルミ様、お待たせしました」と声を張り上げる。
 やはり、イルミの仲間だったのか――。ふとイルミに顔を向ければ、彼は自分を呼んだ男には目もくれず、私に向かって「オレ行くけど」と言った。

「そう、さよなら」

 簡単に別れの挨拶を述べて、今度こそ会場に戻ろうとイルミに背を向けた。イルミの言葉が本当なら、きっとこれからパーティーどころではなくなるのだろう。これ以上彼と一緒にいて、もしこの場面を誰かに見られたとしたら関係ない私まで変な疑いをかけられてしまう。とばっちりを食らうのはごめんだ。
 そんな思いから自然と早歩きになっていた私だったが、イルミの言葉でぴたりと止まる。

「ところで、もうすぐこの船沈むけどどうする?」
「……え?」

 振り向けば、イルミは長い髪を靡かせながら相変わらず読めない表情をこちらに向けている。私たちの乗ったクルーズ船の進む音、ボートのエンジン音、激しい波と風の音、会場から漏れる喧騒。様々な音が、一瞬だけ止んだ気がした。

「……どういう意味?」
「言葉通りの意味」

 イルミはそう答えると、再び先程と変わらない声の調子で同じ台詞を吐いた。もうすぐこの船沈むけどどうする? と。

「なんで沈むの!?」
「助ける義理はないけどさー、どうしてもって言うなら乗せてやってもいいよ」
「答えになってない!」

 私の叫びも虚しく、イルミは「死にたいなら止めないけど」と言って軽い身のこなしで柵を乗り越えると、そのままボートへと飛び下りた。
 沈むって、沈没ってこと? こんな大きな船が? イルミの言葉が頭の中を駆け巡り、少し前まで確かに肌寒さを感じていたはずなのに、背中を嫌な汗が伝う。イルミが冗談を言っているようには到底思えず、再び柵から身を乗り出した私は飛び下りてしまったイルミの姿を目で追う。彼がハンドルを操作するスーツ姿の男に何かを告げると、ボートが少しずつ動き始めた。
 もし本当にこの船が沈むのだとしたら。そのときは、なんとか頑張って脱出すればいい。最悪、岸まで泳ぐことだってできるはず――。
 ゆっくりと顔を上げる。あんなに美しいと思った夜景が、酷く遠い。

「イ、イルミ様、ボートが……」

 スーツ姿の男の慌てた声が私のいるところまで聞こえてくる。進みたい方向とは逆、私の乗るクルーズ船に徐々に引き寄せられていくボート。その船底では、水飛沫だけが悲しくばしゃばしゃと上がり続けている。
 その原因に気付いたらしいイルミが、「」と私の名を呼んだ。

「これ小型とは言え千キロ以上あるんだけど、そこそこ重量があるものも対象にできるんだね」

 がこん、とボートがクルーズ船の船体に軽く衝突する。些か感心したようにそう話しながら身体を揺らしたイルミを無視し、ごくりと喉を鳴らした。柵に置いた手の力が、自然と強まる。少しの間を置いて、私は口を開いた。

「ま、待ってよ」
「何?」
「し……沈むなら、乗せてほしいんだけど」
「よく聞こえない」

 絶対聞こえてるくせに!
 わざとらしく耳に手を翳して見上げているイルミを罵りたい気持ちを抑え、私は深呼吸をしたあと大きな声で叫んだ。

「私も! 乗せてって言ってるの!」
「いいよ」

 拍子抜けするほどあっさりと了承したイルミは、「じゃ、飛んで」と自身の乗るボートを指さした。
 動きやすいよう、膝下で揺れていたドレスの裾を太腿の辺りで縛る。クラッチバッグを小脇に抱え、脱いだヒールを左手に持って私は柵の上に飛び乗った。足裏からストッキング越しに金属の冷たさが伝わってきて、ぶるりと身体が震える。黙ってこちらの様子を見守るイルミを睨んだあと、私はボートに向かって飛んだ。のだが――。

「ちょっ……!」

 イルミと着物姿の女の子、その二人の間に着地するつもりで飛び下りたというのに、なぜかイルミが私の予想着地点に移動する。しかもその場でこちらに向かって軽く両手を広げ、飛んだ私を抱きとめようとしているものだから、慌てて大声を上げた。

「どいて!」

 落ちる瞬間、海の匂いが一層強くなった気がした。来る衝撃に備えてぎゅっと目を閉じれば、すぐに別の匂いに包まれる。どいてと言ったのにどいてくれなかったイルミの胸に飛び込んでしまったのだ。
 一体何を考えているんだ、この男は。私を抱きかかえるイルミに向かって、私は非難の声を上げた。

「危ないでしょ! 何考えてんの!」
「震えてたし、怖いのかなと思って。受け止めてあげただけ」
「一応私もハンターなんですが!」
さ、意外と重いね」
「んなっ……おろせ!」

 夜の海の上で、エンジン音や波の音に負けない私の喚き声が響き渡る。珍しく口角を僅かに上げているイルミに解放され、ボートの上に下り立った私がドレスの裾を元に戻していたら「兄さん」という声が聞こえた。
 兄さん――? 不思議に思い顔を上げると、着物姿の女の子がイルミに何かを話しかけていた。私はイルミのことを勝手に一人っ子だと思っていたが、妹がいたのか。無意識に見つめてしまっていたらしく、こちらを振り向いた女の子と視線がぶつかる。同時に、スーツ姿の男が困惑したようにイルミの名前を呼んだ。

「イルミ様、その御方は……?」
「お前が気にすることじゃない。出して」

 なんとも冷たい返答に男は反論することなく、素直にイルミの指示に従いボートを動かし始めた。
 一体どういうメンバーなんだ、これは。少しだけ居心地の悪さを感じながらヒールを履けば、イルミはスーツ姿の男のことを執事、そして着物姿の女の子のことを弟のカルトだと説明した。執事はとにかく『弟』という言葉に驚いた私は、着物姿の女の子――もとい、男の子へ視線を向ける。扇子を口元に当てていた小柄な彼は私を上から下までじろりと観察したあと、会釈する私を無視してふい、と顔を逸らしてしまった。思わず口元が引き攣る。兄弟揃って第一印象が最悪である。
 無事に動き出したボートは徐々にクルーズ船から離れていった。船がどんどん小さくなっていく様子に、複雑な思いが込み上げる。沈むと分かっていて一人だけ逃げてしまったことへの罪悪感。他の、イルミの仕事とは無関係の人たちは脱出できるだろうか、という不安――。
 すっかり疲れてしまった私は、ドレスの裾を手繰り寄せてその場に座り込んだ。対象物に重量があるものを選ぶと、オーラの消費量も疲労も半端ないのだ。風で乱れる髪を片手で押さえながら一息ついていたら、船尾部分のへりに腰を下ろしたイルミがこちらを見つめていることに気が付いた。
 イルミとの付き合いは短い、と言うより会うのは今日で三回目だが、よくまっすぐ見つめてくる男だな、と思う。この世の闇を集めたような、人外っぽさを感じる黒い瞳に見つめられると、どうも気持ちが落ち着かなくなってしまう。私は未だに沈む様子のない、煌々としているクルーズ船へ視線を逸らした。ボートは順調に港へと近付いていく。私はイルミに届くよう、声を上げて尋ねた。

「ねえ、船、いつ沈むの?」
「沈まないよ」

 思わず絶句した。今、「沈まない」って言った――?
 勢いよく立ち上がれば、正面にいたイルミの弟が一瞬だけ驚いたように肩を震わせる。そんな彼を気にすることなく、私はかつかつとヒールを鳴らしイルミに歩み寄った。イルミの表情は、変わらない。

「騙したの?」
「まさか信じるとはね」

 イルミの胸倉を掴み、ぐい、と顔を引き寄せる。驚く様子も、戸惑う様子もない。背中に、恐らくイルミの弟のものだと思われる殺気が刺さるがそんなのどうでもいい。
 この、人に舐め腐った態度をとる男の顔を一発殴ってやる。そう思い、ぎり、と歯を食いしばったとき、イルミが無表情のままぽつりと「似合ってるよ」と呟いたので振り上げた拳が空中でぴたりと止まった。

「……は?」
「その格好、似合ってる」

 私は、イルミとヒソカは似ていると思っていた。二人とも、初対面にも関わらず一切遠慮せずに私を殺そうとしてきたし、『殺人鬼』と『殺し屋』なんて似たようなものだと思っていたからだ。
 けれど、それは間違いだった。ヒソカは、殺しが関わらない部分では意外と一般常識を持ち合わせているので、一緒にいて不快になることはそこまでない。でもイルミは違う。きっとこの男に、私が考える常識は通用しない。一緒にいると、不快でしかない。
 イルミの衝撃発言と疲労が限界突破したことが原因で、脚に力が入らなくなった。がくん、とその場に崩れ落ちたが、イルミがそんな私の身体を支えたため倒れることはなかった。
 こんなところで力尽きたくないのに――。なんとか耐えようとするものの、どんどん頭がぼんやりとしていく。

「この、嘘つき……」

 船が沈むというのも嘘。お世辞は言わないというのも嘘。似合ってるという言葉も、もちろん嘘。この男はきっと、嘘でできている。
 目を閉じてなんとか紡いだ言葉は、イルミには届かなかったようだ。彼は何も言わず、オーラが枯渇し動けなくなった私の身体を持ち上げて、荷物でも運ぶかのように肩に担いだ。もっとまともな持ち方があるだろう。そう思ったが、もう私に反論する力は残っていなかった。


海と嘘





(2023.11.02)