苛立ち、呆れ、そしてほんの少しの冀望。そんな理由からヒソカが攻撃した試験官は首から血を噴き出しながらその場に倒れたが、同じようにトランプで攻撃を仕掛けた女の試験官は傷一つ負うことなくまっすぐヒソカを見据えていた。
どよめく受験者たち。激高し、呻き声を上げながらヒソカに向かって失格だと叫ぶ試験官。それらをすべて無視し、ヒソカはゆっくりと視線を下ろしていく。可愛らしい顔をめちゃくちゃにしてあげよう。そう思い投げたはずのトランプは、彼女の足元に刺さっている。
「失格だそうよ」
ヒソカが脳内で状況を整理している間、床に刺さったトランプを引き抜いた女はそう言ってヒソカの元へ歩み寄った。笑顔のジョーカーと、無表情の女。それらを見比べたあと、ヒソカはトランプを受け取り、にたりと笑った。
「それは残念」
ひゅ、と腕が宙を切る音が鳴る。人差し指と中指で挟んだトランプをヒソカが女に向かって振りかざした瞬間、ぐんっと後ろへ引き寄せられる力を感じてヒソカは動きを止めた。
何かに押さえつけられている――。ヒソカは不思議に思いながらも上げた右手を振り下ろそうと試みたが、それは叶わなかった。しばらくして、背後にあった壁に背中と腕が吸い寄せられる。
ヒソカは笑みを携えたまま、目の前の女を見つめた。意志の強そうな瞳、肩まで伸びた美しい髪。恐らく自分と同い年くらいだろう。そう推察するヒソカに向かって、女は「次はないから」と冷ややかに言った。
これは随分と面白いオモチャを見つけたかもしれない。ヒソカはそれまで自分を蝕んでいた退屈が徐々に別のものへと変わるのを感じた。ぞくぞくと、身体の内側から湧き上がる欲望。基本的に他人に興味のないヒソカが、今回の試験の中で初めて他人に興味を持った瞬間だった。
「オーケー、今年は諦めるよ」
そう話すヒソカに疑いの眼差しを向けていた女だったが、しばらくするとふい、と顔を逸らしヒソカに背を向けた。それと同時に、ヒソカの身体を押さえつけていた謎の力も消える。
「不合格者以外は試験を再開します」
関係者たちに処置を施されている試験官の元へ戻りながら女はそう言った。周りの受験者たちが静かに、そしてヒソカを避けるようにして動き出す中、ヒソカは「ねえ」と女の背中に向かって声をかける。
「合格したら、ボクと遊んでくれないかい」
「やだ、面倒くさい」
ヒソカの誘いに迷うことなくそう答えた女は、振り返るとヒソカに向かってべえ、と赤い舌を出して見せた。同い年くらいかと思ったが、やや幼さを感じる女の行動にヒソカは喉の奥をくつくつと鳴らして笑う。
殺したいけど、今じゃないかな――。
遠くなっていく女の背中を、ヒソカは壁に寄りかかったままじっとりと見送る。
これがヒソカとの、初めての出会いだった。
広いエントランスを抜けてエレベーターに乗る。とある日の夜、目当てのマンションを訪れたヒソカが辿り着いた部屋のインターホンを鳴らすと「……どちらさま?」と訝しげに問うの声が聞こえた。
「合格したから、遊んでもらおうと思ってね」
ヒソカがそう告げたあと、次に聞こえたのは盛大なため息。少し待てばドアが僅かに開き、睨むような目つきのが顔を覗かせた。一年前のハンター試験のときとは違い、は厚いレンズの眼鏡をかけ、髪は後ろで雑にまとめあげている。
野暮ったい姿の彼女に、ヒソカは微笑んだまま取得したばかりのライセンスを見せた。はそれを一瞥し、大して驚きもせず淡々と「おめでとう」と言ったあと、再びうんざりしたようなため息を落とす。
「私、去年遊ばないって言ったよね……?」
「そうだった? よく覚えていないな」
「そもそもどうやってエントランス抜けてきたの」
「たまたま開いてたんだよ」
とぼけるヒソカに向かっては一言「眠いのに……」と恨めしそうに呟いたあと、意外にもすんなりとチェーンを外しドアを大きく開けた。強行突破も視野に入れていたヒソカは、彼女の対応に些か拍子抜けし苦笑を浮かべる。
「ボクが言うのもなんだけど、不用心すぎやしないかい」
「だって来ちゃったんだから仕方ないでしょ。どうせ帰れって言っても帰らないだろうし」
入るの、入らないの。そう問われ、すでに自分のペースが乱されつつあることに気付いていたヒソカだったが、素直に部屋へと足を踏み入れた。
リビングのテーブルに置いてある一台のノートパソコン。その周りには書類や書籍、メモ書きの紙などが散乱していて、お世辞にも綺麗な部屋とは言えない。コーヒーでいいか聞きながらもうすでにキッチンでコーヒーを淹れ始めているを一瞥し、ヒソカは空いている椅子に腰を下ろす。
「生物調査ハンターらしいね」
「まあ一応ね……基本は大学に雇われて働いているから契約ハンターみたいなものだけど。電脳ページでも見た?」
「まあね」
「家はどうやって調べたの?」
「秘密」
は呆れたようにヒソカを見やると、テーブルの上に積み上がっていた本を腕で適当に動かし、淹れたコーヒーを置いた。書類や本がばさばさ崩れる隣でヒソカは頬杖をつき、ライセンスを弄びながら白い湯気の向こうに座ったを見つめる。
眠い眠いと呟く彼女は、ヒソカを気にする様子もなく大きな口を開けて欠伸を零した。
「それにしても久しぶりだね、会えて嬉しいよ」
「私は会いたくなかったけどね」
「今年もキミが試験官だったらいいなと思ってたんだけど」
「え? やだよ、無償でやらなきゃいけないし……それに、試験官は毎年」
変わるの。そう言ってがヒソカに目を向けたとき、ヒソカは持っていたライセンスの後ろに忍ばせていたトランプを彼女に向かって投げた。ぴっ、と軽い戯れのように指先を使い飛ばした一枚のトランプは、の目の前でコーヒーの湯気を切り、軌道を変えて彼女のそばに置いてあった分厚い本へと刺さる。
にこりと笑い、何食わぬ顔でコーヒーを飲み始めたヒソカに向かって、は彼がトランプを投げる仕草を真似して「弁償」と本を指さした。
「面白いねえ、その能力。少しくらい遊んでよ」
「殺し合いなら別の相手と、よそでやって。徹夜続きで本当に眠いの」
額を押さえ、あしらうようにひらひらと手を振るに向かってヒソカは「眠いなら一度眠ればいいだろう?」と言いコーヒーカップを置いた。自分が来たせいでそれができないのだ、とは考えもしなかった。は肘をテーブルにつき、頭を抱えたまま「でもシャワー浴びたいし」などと小声で独り言のように呟いている。そんな彼女はもう、うつらうつらと船を漕ぎ始めていた。
あれだけ闘いたいと思い焦がれていたを目の前にして、ヒソカは毒気が抜かれるのを感じていた。は今ヒソカに対し、恐れも怒りも、それどころか何の感情も抱いていない。そんな、本気でない相手といくら殺り合ったところでつまらないだけだ。
の頭が大きくがくん、と前に揺れ、後ろで縛られていた髪が一房頬に垂れる。それをヒソカは摘まんで指にくるくると巻き付けながら、彼女の長い睫毛に視線を落とす。
ヒソカが何かを愛でることはない。でも恐らく、犬や猫を可愛がる気持ちはきっとこんな感じなのだろう。今まであまり抱いたことのない感情にどう名前をつけようか思案しながら、ヒソカは彼女の頭に手を乗せてくしゃくしゃと撫で回した。
「そんな人間らしいこともできるのね」
「こう見えても紳士なんだよ、ボク」
「紳士はこんな時間に女性の家に押しかけません……何、その顔」
「いや? 可愛いなと思って」
そう言えば、は揺れる髪の隙間から自分を撫で続けるヒソカのことを睨んだ。
「ところで、今回の試験では試験官に手出さなかったでしょうね」
「出してな……くもないかな」
「はあ?」
「でも殺してないよ」
「殺してなくても手を出すのはだめでしょうが」
そう言ったは、最初は真面目な顔をしていたものの次第に込み上げてくる笑いを我慢できなくなったのか、ぷっと噴き出した。全然凝りてないじゃない。そう言いながらけらけらと笑いだした。その笑顔に、柄にもなく遊ぶのはまた今度でもいいか、と思い静かに笑んだヒソカであった。

「ちょうどいいところに。ヒソカ、後ろ留めてくれない?」
寝室で真紅のパーティードレスを身に纏ったは、目の前の鏡に映ったヒソカに気付きそう言った。向きを変えながら全身を確認するの曝け出された背中を見て、ヒソカは初めてこの家を訪れたときと同じことを思う。不用心すぎやしないか、と。
「ドレスなんて珍しいね」
「明後日、お世話になってる財団主催のパーティーがあるんだよね」
髪を両手で持ち上げるの背後に立ったヒソカは、彼女に言われた通り並んでいるボタンを一つ一つ留め始めた。本当に同じハンターなのか、思わず疑ってしまうほど白く傷一つないの背中にそっと指を滑らせれば、彼女は一言「くすぐったいからやめて」と一蹴した。
「は僕に気を許しすぎだよ」
「それはヒソカの方でしょう。私のこと、殺したいんじゃなかったっけ?」
のその質問に、ヒソカは「まあそうだねぇ」と肯定してみせた。
自分のことを殺したがっている男が勝手に家に入ってきても、はいつもあっけらかんとしている。ヒソカがしばらく姿を見せず、今日のように久しぶりに姿を現しても彼女の反応は変わらない。現に今、ヒソカが殺したいことを認めても、彼女のオーラには一分の乱れもない。ヒソカはのこういう捉えどころがないところを、自分でも意外に思うほど好ましく思っていた。
含み笑いし、ドレスの一番上のボタンを留める。
「でも……今は殺したいって気持ちより、このドレスを剥ぎ取ってベッドに押し倒したいって気持ちの方が大きいかな?」
そう言うと、ヒソカは彼女の両肩にひたりと手を這わせて首筋へゆっくり唇を落とした。薄い皮膚の内側に感じる血の流れにヒソカは噛みつきたい衝動に駆られたが、そのまま唇を離して顔を上げる。視線を向ければ、鏡越しにしらけた顔をしたと目が合った。彼女は恥ずかしがる様子もなく一言、「また壁に貼り付けられたいのかな」と言って髪を下ろす。
ヒソカは肩を竦め真後ろにあったベッドに座ると、あることを思い出して「そういえば」と言った。
「イルミとは無事に連絡取れたかい?」
「アイツ、電話出ないんだけど。無視されてるみたい」
メールも返ってこないし、と苛立ちを見せるに大量のオリーブの鉢の行く末を尋ねると、彼女は部屋の隅を指さした。ヒソカが目を向けると、そこには細くて小さなオリーブの鉢が一つだけ置かれている。
「仕方ないから一本だけ残して、あとは人にあげたり大学の研究室に運んだ」
「へえ、それは大変だったね」
「次会ったら厳しく注意しないと。あのひねくれた性格、叩き直してやる」
ヒールの靴を履いてそう意気込むの姿に、くすりとヒソカが笑みを零す。放っておけばいいのに。普段さばさばしている彼女も、どうやらこういうことは無視できないタイプらしい。ヒソカの笑みに気付いたは、ドレスの裾を翻しながらくるりと振り向いた。
「なんで笑うの」
「いや? きっとイルミも、ボクと同じようにのことを好きになったんだろうなと思ってね」
「気持ち悪いこと言わないでよ……」
苦虫を噛み潰したような顔を見せたは、クローゼットの中から別のドレスを手に取った。黒い、袖の部分がレースになっているものだ。それを鏡の前で身体に当ててみながら、ため息を吐く。
「むしろ私のことが嫌いだからあんな嫌がらせしたんでしょ」
「まあ……うん、そうかもしれないね」
同意しながら、ヒソカはあの日の夜、イルミがこの部屋に現れたときのことを思い返していた。帰る直前、の手が頬に触れた瞬間僅かに揺れた彼のオーラのことを。珍しく瞳に動揺の色が滲んだ、イルミの横顔を。
イルミは殺し以外の目的で自ら嫌いな相手に会いに行くようなこと、絶対にしないと思うけどねぇ――。
膝に肘をつき、組んだ両手の上に顎を置いていたヒソカはに「ねえ」と声をかけられ視線を上げた。はヒソカの方を向いて、自らの隣に先程の黒いドレスを掲げている。
「やっぱり赤って派手すぎるかな。こっちの黒の方がいい?」
これはヒソカの『期待』であると同時に『予感』でもあった。もしイルミが、のことをいい意味で意識しているのだとしたら――。ひょっとしたら、あのイルミと本気のバトルができる日が来るかもしれない。
黙っているヒソカを不思議に思ったのか、は「まさかどっちも似合わないとか言わないでよ」と眉を顰める。
殺したい。でもやはり、今じゃない。今はまだ、生きて笑っている姿をこうやって眺めておこう。いつの日か、最高の舞台が整うまで。
「どっちも似合うよ」
ヒソカは微笑んだ。珍しく、遠くない未来に希望を抱きながら。
(2023.11.02)