一日の中で、私は夜が一番好きだ。すべてが眠りについたような静けさの中にいると、心に溜まった蟠りが消えていくような気がするから。


静穏を覆す色



 マンションのベランダに出て窓を閉める。  夜風を浴びながら手すりに身体を預け、私は羽織っていたカーディガンのポケットに入れていたライターで煙草に火をつけた。今日あった出来事を大小問わず振り返りながら、ふう、と白い煙を吐き出す。いつも通りの、私の好きな夜のひとときだ。
 しばらくの間ぼんやりと煙が消えていく様を眺めていたら、突然ふっと大きな影に覆われて顔を上げた。

「……?」
 
 私のいる場所から一メートルも離れていない。寄り掛かる手すりの上に、一人の男の姿があった。私の視線の先で、ふわ、と宙で踊った男の長い黒髪が音もなく彼の肩に流れていく。
 え、ここ、二十五階なんだけど――。
 指に挟んでいた煙草からぽろ、と灰が落ちた瞬間、男の目がぎろりと動いて呆然とする私の姿を捉える。夜の空とは違う、深く暗い海底のような直黒の瞳。いつも通りの夜を覆す色と見つめ合って一瞬の沈黙のあと、男の上げた手が星のようにきらりと煌めいた。
 これは、針――。光の正体に気付いたとき、もうその針は男の手を離れ私に向かってまっすぐ飛んでいる最中だった。ひゅっ、と空気を切る微かな音とともに、針が私の目の前で進路を変える。そしてそれはそのまま、私の背後に置いてあった観葉植物にすとん、と刺さった。
 再び訪れた、沈黙。

「アンタ……う、わっ」

 誰? と問い質すより先に、男がこちらに向かって飛んだ。指先から煙草が落ち、男の身体がぶつかって後ろに置いていたアウトドアチェアと一緒に倒れ込む。背中を襲った衝撃に顔を歪めてすぐ、私に馬乗りになった男の手に再び針が握られているのが見えて、慌てて男の手首を掴んだ。

「ちょっ、ストップ!」
「お前、能力者だね」

 冷たく、何の感情もこもっていない声。もう片方の手で首を掴まれ、ぐぐぐと針が鼻先にまで迫ってくる。息苦しさの中、ちっ、と舌打ちして考えを巡らせたとき、がらりと勢いよく窓が開いた。

と……イルミ? 二人で何をしているんだい」

 私の首を掴んでいた男の手の力が僅かに緩む。なんとか顔を横に向ければ、そこには首を傾げてこちらを見下ろすヒソカがいた。
 イルミ、というのはこの謎の男の名前だろうか。ということは、ヒソカの知り合い――?
 ぽた、ぽた、とヒソカの身体から水滴が落ちていく。私の部屋でシャワーを浴びていたヒソカは、全裸だ。

「服を着ろ!」
「服くらい着たら?」

 攻防戦の真っ只中であった私と男の声が重なった。


「まさかこんなところでイルミに会うなんてね。仕事かい?」
「うん、ちょうどこの上の部屋で。もう終わったけど」
「なんだ、ボクも呼んでくれればよかったのに」
「別に大した仕事じゃないから」
「オリーブの木が……」

 呟くと、リビングで会話をしていた二人の視線が背中に刺さる。
 イルミという名の不法侵入者は、私やヒソカと同じハンターらしい。本業は殺し屋だよ、というヒソカの説明に大して驚かなかったのは、ヒソカ自身が殺人鬼であることを知っていたし、そんな彼と知り合いである時点でまともな人間じゃないだろうと予想していたからだ。
 窓辺に座り、変わり果てたオリーブの姿に肩を落とす。針が刺さり、魂でも吸われたかのように枯れてしなしなになったオリーブの木には、葉が一枚も残っていなかった。花屋で購入して五年。こまめな水やりのおかげで最初は細かった幹も太くなり、枝や葉も増え、ようやく今年初めて白く可憐な花を咲かせたばかりだと言うのに。
 振り返れば、許可した覚えはないのに勝手に室内に入り、腕を組んでこちらを見下ろすイルミと視線が重なる。

「なんで針が刺さるだけでこんなになるの、どういう能力なのそれ」
「教えない。それより、さっき針が曲がったのってどういう仕組み?」
「私も教えない。っていうかまず謝ってよ」

 咎めるように言えば、恐ろしいほど無表情だったイルミの目が僅かに見開かれる。彼はこてん、と頭を傾けた。

「オレが? なんで」
「そんなことも分からないの?」
「何コイツ……ヒソカの女?」
「まあそんなところかな」
「違う!」

 着替えを済ませ、呑気にソファに腰掛けているヒソカに向かって吠える。シャワー浴びたんなら、さっさと帰れば。そんな私の言葉に、ヒソカは濡れた前髪をかきあげながら「つれないなぁ」と笑った。どうやら帰れと言われて素直に帰る気はないようだ。
 ヒソカも、このイルミという男も話が通じる相手じゃない。貴重な夜の一人時間を台無しにされたことにふつふつと怒りが湧き始めたとき、甲高い女の叫び声が聞こえた。上の階からのようだ。それを合図にしたかのように、イルミが動き出す。

「じゃあオレ帰るから」
「あ、ちょっ、ちょっと!」

 す、と私の横を通り過ぎてベランダへ下りるイルミを呼び止める。手すりに手を置いた彼は、ゆっくり振り返り窓辺に座り込んでいる私を見下ろした。次第に、真上の部屋が騒がしくなっていく。

「……ここ、二十五階」
「だから?」

 その返答に、私はむっとして眉を寄せた。態度の悪い男だ。絶対金持ちの家に生まれた一人っ子に決まっている。
 そう思いながら別に、と返せば、彼は不機嫌そうに顔を逸らした。その際、風で靡いた黒髪の隙間から見えた赤黒い何かに目が止まる。

「ねえ、何かついてる」
「は?」
「ここ」

 手すりに足を掛けたイルミからうんざりしたような顔を向けられるが、気にせず立ち上がり、イルミのそばまで歩いて行って彼の頬と顎の間あたりにそっと手を這わせる。赤黒くなっている場所を親指で擦ると、イルミの目元がひく、と引き攣るように動いた。指についていたのは、乾いた血。

「なんだ、怪我かと思ったら返り血か」
「……今、何したの」
「え? 別に、なんかついてた」

 から。と言った瞬間、ぱしんという乾いた音が辺りに響いた。じんじんと、遅れてやってきた痛み。イルミから手をはたかれたのだ。
 手すりの上に立ったイルミは、あんぐりと口を開けている私に向かってこう言い放った。

「勝手に触らないでくれる、気持ち悪い」
「き……!?」

 気持ち悪い!?
 いや、そりゃあ勝手に身体に触ったのは悪かったかもしれないけど、初対面の女に言うセリフじゃないでしょう――。
 ぱくぱくと口を動かすもうまく言葉を紡げない私を気にする様子もなく、イルミは宙に向かって一歩踏み出した。そのまま表情を変えることなく落ちていった彼は、私が慌てて身を乗り出し確認したときにはもう姿を消してしまっていた。

「なんなの、アイツ……」

 ぼそりと呟いた言葉が風にさらわれて消えていく。もうそこに、先程まで堪能していた静けさはなかった。
 女だけでなく男たちの怒号、何人かの慌てたような足音が聞こえてくる騒然とした中で、背後からやってきたヒソカがそっと私の肩を抱く。

「そろそろ二人きりの夜を楽しまないかい? ベッドの上で」
「アンタはさっさと帰れ」

 枯れ果てたオリーブの木。倒れたままのアウトドアチェア。そのそばにあるテーブル。そこに置いてあった陶器の灰皿が、ヒソカの後頭部を目掛けて飛ぶ。
 ヒソカはそれを待っていたかのように容易く手で受け止めて、愉快そうににんまりと笑んだ。
 腹が立つ。私と同じボディソープの香りを纏うヒソカにも、あの不躾すぎるイルミという男にも――。
 気を取り直し、再び煙草に火をつける。ヒソカは持っていた灰皿を笑顔で私に差し出した。


「やあ」

 ベランダの椅子に座り、新聞を読んでいたときに突如感じた覚えのある気配。すぐに短い挨拶が聞こえ、週末の天気予報から顔を上げるとそこには当然のようにイルミがいた。
 穏やかで心地よい風が彼の髪を揺らす。先日初めて会った日のように、ここは二十五階だ、などと言う気は起きず、再び新聞へ視線を落とす。

「……このマンション、殺し屋から命を狙われるような人がそんなに住んでるの?」
「今日は仕事じゃない」
「ヒソカなら来てないけど」
「あ、そう。それが?」

 それが? って。じゃあなんで来たの。
 じっとこちらを見つめるイルミの重い視線にため息を零すと同時に、あの日と同じように針が宙を飛んだ。

「本当、アンタとヒソカって似てる」
 
 呆れて新聞を畳みながら呟く私の目の前で、くん、と曲がった針がテーブルに刺さる。先日、私の大事なオリーブを枯らしたものと同じ形状の針だ。
 私がイルミを恨むことはあっても、恨まれるようなことはしていないはず。そう考えながら腕を組み、眉間に皺を寄せる私に向かってイルミは「ふうん」と呟いた。

「ただ軌道が変わるだけじゃなくて、別の対象物に吸い寄せられるみたいだね」
 
 そう話しながら新たな針を出すイルミに思わず頭を抱え込んだ。私の能力について、この前はっきり「教えない」と伝えたはずなのに。ちらりとイルミの表情を窺うも、相変わらず何を考えているか読み取ることができない。しかしこちらの能力をある程度把握するまで、諦めるつもりはないのだろう。
 イルミに隠したところでヒソカには知られているし、致し方ない――。私は畳んだ新聞をテーブルの上に放り、「磁力よ」と言って、両手の人差し指を立てて互いにくっつけた。
 私の能力。それは選択した二つの対象物それぞれに、正極と負極を生成することができるというものだった。
 両極を生成することで、磁界、そして磁力が生まれる。今の事象で言うならば、イルミが私に向かって投げた針とテーブル、それぞれにオーラで両極を生成したため、途中で針が軌道を変えてテーブルに引き寄せられたのだ。

「こんな感じ」
 
 そう呟いてすぐ、灰皿に置いていた煙草がぴく、と震える。そしてそれは、黙って私の説明に耳を傾けていたイルミに向かってまっすぐ飛んで行った。煙草とイルミに極を生成したのだ。

「これで満足?」

 そう言うと、イルミは返事の代わりに片手で受け止めた煙草をぽろ、と落とした。広げた手のひらが薄らと黒ずんでいるのが見えた。
 細かいルールはまだあるが、すべてを教える義理はない。ハンター十ヶ条で同胞のハンターを標的にしてはいけないと定められているとは言え、世の中まともなハンターばかりではないのだ。こちらの手の内をすべて明かすことは好ましくない。
 部屋の中に戻った私はリビングを突っ切ると、カウンターキッチンの奥にある冷凍庫の中から氷を取り出した。それをアイスバッグに入れて、イルミの元へ戻る。

「……何?」

 彼は私が差し出すアイスバッグを一瞥し、そう呟いた。

「煙草触ったんだから、冷やした方がいいでしょ」
「別にこんなの痛くも痒くもないけど」
「……ヒソカもだけど、アンタたち痛みに鈍感だといつか大変な目に遭うよ」

 私はそう言ってイルミの手を引っ掴み、彼の手のひらに無理矢理冷たいアイスバッグを握らせた。とりあえず私の説明で満足したのか、イルミの手にもう針はなかった。

「とにかく、用が済んだならもう帰って」

 テーブルの上に置きっ放しだった新聞を取り、再び部屋の中へ戻ろうとしたそのとき。目の前を通り過ぎようとした私の腕を、イルミはぐい、と掴んだ。
 ぎょっとして振り返った私の手を握ったイルミが、そのまま私の手のひらを自身の頬に押し当てる。彼の思いがけない行動に、思考が一時停止した。そして意外にも手のひらから伝わるイルミの体温が温かくて、ああ、この男も血の通う人間なのか、と当たり前のことに驚いている自分がいた。

「え、な、何してるの」
「別に、意味はない」

 意味がないのに、なぜこんなことを。
 柄にもなく緊張して全身が強ばる。そんな私からイルミは視線を逸らすことなく、まっすぐ私の瞳を見つめたまましっかりと私の手を頬に当てている。
 沈黙が気まずい。しかし、何を言えばいいか、言葉が出てこない。先日、人のことを「気持ち悪い」と吐き捨てた人間のやることではないし、そもそも二度目に会った異性に対する距離感ではないのだが。
 あまりの気まずさに、私は生まれて初めて、心の底からヒソカの来訪を望んだ。

はさ」

 急にイルミの口から私の名が出てきて、びく、と肩が震える。緊張しているのは私だけのようで、イルミの表情は変わらない。

「この間、なんで怒ってたの?」
「……え?」
「今日はそれを聞きに来たんだけど」
「はあ?」

 思わず素っ頓狂な声が零れ落ちる。だったら針なんか投げずに最初からそう言いなさいよ。そう言おうとしたが、口から出たのは大きなため息と「本当に分からないの?」という言葉だった。
 黙ったままのイルミを目の前に、力が抜けていく。そうと分かっていたら、自分の能力を明かすことなんて絶対にしなかったのに。私は空いている方の手で額を押さえたあと、顔を上げてイルミを見つめ返した。

「大事なオリーブの木を台無しにされたから」
「……ああ、あの木」

 イルミは一瞬だけ目を伏せて考える素振りを見せたあと、すぐに思い出したのかそう言って私の手を離した。
 夜風で少しだけ冷えていた私の片手は、イルミの体温によって仄かな熱を帯びていた。しかし「帰る」と言ったイルミがその手にアイスバッグを乗せたため、彼から伝わった熱が一瞬で消えていく。
 いや、帰るって。なぜ怒っていたのかを聞いた上で謝らないのか、この男は。
 あの日と同じように二十五階から飛び下りて帰ろうとしているイルミの背中に向かって、私は思い出したように言った。

「ねえ、もうこんな風に来るのはやめてね」

 能力も教えたし、もう私なんかに興味ないでしょう。
 そう声をかけると、イルミは私に背を向けたまま「分かった」と頷いた。何の躊躇いも感じさせない身軽さで手すりの上に飛び乗ると、風で散る髪を押さえる私をゆっくり振り返る。その際に見えた彼の表情に目を見開いた。ほんの僅かだが、口元が綻んでいる。笑っていたのだ。

「オレからに接触するのはやめるよ」
「……え」

 オレから、という言葉の真意を問い質す前に、イルミは消えた。彼の気配はもうどこにも感じない。やっぱり、よく分からない男だ。
 最後の言葉に何か引っかかるものを感じたものの、しばらく悩んだのちにまあいいか、と思った私は窓を閉めて鍵をかけた。向こうから接触してこないのなら、もう二度と会うことはない。だから、もう彼について深く考えるのはやめよう。


「わあ、すごいねこれ。オリーブの栽培でも始めるのかい」

 いつものように気まぐれで部屋を訪れたヒソカは、目の前に広がっていた光景に茶化すようにそう言って笑った。そんな彼を黙って睨みつけると、ヒソカはわざとらしく肩を竦めてみせた。
 イルミの二度目の訪問から数日後。我が家に大量のオリーブの鉢が届いた。ベランダに収まりきらなかった鉢植えは、リビングやキッチン、さらには寝室にまで侵食し、家中を占領している。
 ソファの上で膝を抱える私の頭の中には、あの夜のイルミの微笑が浮かんでいた。この大量のオリーブの送り主はイルミだ。彼はきっと、あの瞬間からこの状況を生み出すことを考えていたのだ。
 鉢植えの間をすり抜けてソファまでやってきたヒソカの胸倉を掴む。驚く素振りも見せないヒソカは、すんなり私に押し倒されると唇を舌なめずりしながら上に乗る私の腰を撫でた。

「おや、積極的だねぇ」
「……ヒソカ、アイツの」

 言ってしまったら、私の負けだ。でも。
 あの日のイルミの言葉、そしてどこか勝ち誇ったような微笑み。頭に蘇るそれらすべてに一瞬思いとどまるも、私は心の底から湧き上がる感情を抑えきれなかった。
 直接、あの涼し気な顔に文句を言ってやらないと気が済まない。

「イルミの……連絡先教えて」



(2023.11.02)