
その悪魔は、召喚者が頼めば過去・現在・未来の質問に回答してくれる。しかし――。
「それ、レメゲトンのゴエティア?」
大きな影が覆い被さってくると同時にそんな問いかけが降ってきた。読んでいた本から顔を上げると、思っていたよりもずっと高い位置に質問者の顔があり、いつも以上に首を傾けなければならなかった。
ぞくりとした。真っ先に目がいったのはルビーレッド色の鮮やかな髪。整った顔立ちに、細くつり上がった瞳。それらに気を取られている私に男はじっとりと視線を寄越したあと、私の手元にある本を指して言葉を続けた。
「たしか、七十二の悪魔について記されている書物。今、キミが開いているページの悪魔はどんな悪魔だったかな?」
「……本をお探しですか?」
分厚い本をバタンと閉じる。あいにくカウンターに他の職員の姿はなく、郊外の古びた図書館にいるには随分と目立つ男に対し、私は一つ息を吐いてそう問いかけた。
雑談お断り。そんな私の無愛想な態度に気を悪くする様子もなく、男は薄い笑みを浮かべて、本を指していた手で自身の顎をトントンと叩いた。
「ン〜、酔狂な奇術師が真面目な女の子と出会って恋に落ちる話?」
何だそれは。少し白けた気持ちで視線を落とし、読んでいた本を隅に寄せてそばにある端末へ身体を向ける。
「題名は?」
「分からない」
「作者」
「さあ?」
キーボードに置いていた手はそのままで、私は再び男を見上げた。
こういうことは、よくあることだ。
図書館に勤めている以上、レファレンス対応も仕事のうちだ。しかし題名も作者も分からないとなると、目当ての本に辿り着くのには相応の労力を要する。男の話すストーリーもまったくピンと来ない。その上、私よりもレファレンスに長けている別の職員は長期休暇中ときた。
私の険しい表情を見下ろしていた男は、あは、と語尾にハートマークでもついていそうな声色で笑ったあと、カウンターに手を置いて座っている私にずいっと顔を寄せた。
「それか、キミのおすすめの本でもいいよ」
どうせ本なんて読まないでしょう。思わず口から零れそうになった言葉をぐっと飲み込み、キーボードを叩く。
名前は知らない。でも私はこの男のことを知っている。男が普段、息をするように人を殺していることを。

私がおすすめした本の中から、男は一冊の本を選びカウンターに持ってきた。だいぶ昔に賞をとって話題になった女性作家の本で、全五話の短編集だ。
そして今、私はその本の隣に置かれたカードに目が釘付けになっている。
「……ハンターライセンス?」
「身分証ってボク、それくらいしか持ってないんだよね」
肩を竦めてそう話す男を一瞥したあと、もう一度カードに視線を落とす。確かに、本を借りるには図書館の会員カードを作らなければならない、そのために身分証を提示してほしい、と伝えはしたが。それでまさかハンターライセンスが出てくるとは。
しかし、どうやら偽物ではないようだ。年に一度受ける講習でしか実物は見たことがないが、カードの艶と質感からそう判断した私は、男にライセンスと本を差し出した。
「それなら会員カードの作成は必要ありません。このまま借りていただいて結構です」
「そうなの? ありがと」
「……都市部の図書館に行けば、一般人には貸出していない禁書だって読めますよ」
「興味ないからいいよ」
本とライセンスを手に取ると、男はそう言って踵を返し歩き出した。彼の向かう出口、ガラスの自動ドアから差し込む西日が眩しくて思わず目を細める。その光の中で男はゆっくりと振り返った。どんな表情を浮かべているのかは分からない。
「ボクたち、どこかで会ったことある?」
「いいえ。初めまして」
――嘘はついていない。『会ったこと』はない。
男は短く「そう」と返事をすると、それ以上は何も言わずに去って行った。

場所は街の中央広場に面しているカフェテリア『エラン・カロン』。テラス席で誰かを待つ、中年の一人の男。鐘の音が聞こえて広場にある大時計に目を向けると、ちょうど午前十一時を回ったところだった。
男の目の前の席に、一人の若い男が座る。昨日、図書館に現れた赤髪の男である。
「ようやく見つけたよ」
待ち人ではない人間が急に現れてそう言うものだから、中年の男は訝しげに眉をひそめた。が、正体を尋ねる前に赤髪の男の指先が空気を切る。一秒遅れで中年の男のすっぱりと切れた喉元から血が噴き出し、真っ白な丸テーブルを赤く染めた。
「おしまい」
指先に挟んでいた一枚のトランプを胸ポケットにしまいながら、赤髪の男はそう呟いてすぐにどこかへ電話をかけ始めた。か、か、と中年の男が声にならない声を上げるたびに、切り口から溢れ出る血の量が増えていく。
ああ、またか。
二人のすぐ隣に立ち、一部始終を眺めていた私は静かにそう思った。驚きも戸惑いも何もなく、ただ淡々と。
死を迎え入れるしかない中年の男、眉一つ動かさない赤髪の殺人鬼――どちらも私には目もくれない。

じっとりと首に嫌な汗をかいていた。もう何度も経験している最悪な目覚めに少なからず気分が落ち込んでいたが、ゆっくりしている時間はない。むくりと起き上がり、ベッドから下りて、軽く布団を整える。そして本当なら真っ先にシャワーで汗を流したいところだが、私はリビングの棚から一つの箱を手に取り、中から便箋と封筒を取り出した。それをテーブルに置いて椅子に腰かけ、さらさらとペンを走らせる。
何を書いているか。先程見た『夢』の内容である。場所、時間、登場人物、そして起きた出来事。得た情報を漏れなく書き出していく。
すべて書いたところで、私は昨日自分の身に起きたことを思い出した。夢に出てきた赤髪の男が、実際に私の目の前に現れたこと。それもあわせて書くべきか。しばらく悩んで、否、と私はペンを置いた。その情報は、契約外だ。
便箋をたたみ、封筒に入れてしっかりと封をしたところでドンドンと家のドアを叩く音が聞こえた。いつも朝早く来るのだからチャイムを鳴らせと伝えているのに。学ばない男だ。
ドアの向こうには、スーツ姿の男が一人立っていた。笑顔も朝の挨拶もなく、僅かに開けたドアの隙間から手を捩じ込み「今日の分は?」と言う。その無骨さに些かムッとしながらも私は封筒を差し出した。それをひったくるように取った男は、礼も言わずに別の茶封筒を私に手渡し、ドアを乱暴に閉めた。彼は今から自身のボス――私の雇い主であり、先程夢の中であっけなく殺された男の元へと急ぐのだろう。
これが私の毎朝の、最悪な日課である。
「なかなか面白かったよ」
ブックトラックに積まれた返却処理済みの本を棚に戻している最中、ふらりと現れた赤髪の男はそう言って右手を上げた。その手には昨日私がおすすめした本がある。
「え、もう読んだんですか?」
「うん。予定が狂っちゃって、時間ができたからねぇ」
壁に設置されている時計は正午を迎えようとしていた。
「三つ目の話が一番良かったかな。主人公が家族も恋人も仕事もすべて捨てて、部屋から出ていく最後がさ」
「……本当に読んだんですね」
「もちろん。キミが薦めてくれた本だからね」
書架整理の手が止まる。意外だった。本なんて絶対に読まないだろうと思っていた男が、ちゃんと読み終えてわざわざ本を返却しにきたこと。そして印象に残ったシーンが、私と同じであることが。
いつの間にかじっと見つめてしまっていた男の顔から視線を外し、私は持っていた本を目の前の僅かな隙間にぐっと押し込んだ。
男の話ぶりから察するに、私の雇い主はこの男の魔の手から無事に逃れることができたようだ。
私が見る夢はただの夢ではない。契約を交わした人間が知りたいと望む『未来』である。敵の多い雇い主からは、『自分の生死に関わる未来を見てほしい』と依頼されていた。そのため、雇い主の身に危険が及ぶようなことがなければ、私が夢を見ることはない。
とはいえ、それが夢であることに変わりはないのだ。私が一方的に見ている夢の中の登場人物たちが、私を認識することはない。だから、この男がこうして二度も私の目の前に現れたのは、きっと単なる偶然――。
「ところで、良かったら今夜食事でもどうだい?」
陽だまりで優雅にくつろぐ猫のような細い瞳の奥が光る。
「……知らない人と食事は、ちょっと無理」
警戒する私が敬語も忘れて素直にそう答えれば、男は「知らない人ねぇ……残念」と笑った。艶やかで、どこか影のある微笑みに息を呑む。男は怪しむ私の視線を躱し、借りていた本をブックトラックに乗せると静かに去って行った。
単なる偶然。
初めて、私の夢に対する絶対的な自信が揺らいだ瞬間だった。
それから連日、赤髪の男は私の雇い主を殺し続けた。もちろんそれは、私の夢の中での話であるが。
お世辞にも真っ当とは言えない仕事の最中、隠れ家でのリフレッシュ中、愛人たちとのお楽しみ中――などなど雇い主の置かれていた状況は様々だったが、男は毎回ふらりと現れてはあっさりと雇い主の命を奪っていった。護衛がいる場合はその護衛も、愛人がいる場合はその愛人の命も。圧倒的な殺しの技術と表情ひとつ変えずに殺人を繰り返す様はまるで死神のようで、私は恐ろしく思いつつもその手際の良さに半ば感心し始めていた。
それでも、私の雇い主は生きている。彼に『未来』を伝え、彼を生かすのが私の仕事であり契約だから。それゆえに、雇い主は私のことをこう呼んでいた。『僕の天使』と。
次に赤髪の男と現実世界で再会したのは、彼が本を返却しに来た日からちょうど一週間が経った日、夢を見なくなって二日経った日だった。図書館の裏にある広場のベンチで昼休みを過ごす私の元へ、男は穏やかな秋の陽射しを遮るようにして現れたのである。
死神に後光が差している――。職員専用の休憩室で休んでおくんだった、と、後悔しながらそんなことを思う。
「やあ」
「……どうも」
「随分と酷い顔じゃないか。夜、ちゃんと眠れていないのかな?」
私は黙って読んでいた本をパタンと閉じた。伊達メガネで誤魔化してはいるものの、目の下には少し前まではなかった隈がうっすらと浮かんでいる。十分眠れてはいるが、睡眠の質が悪くなったのだ。誰かさんのせいで。
男はすっと自然な動作で私の隣に座った。長い脚を組み、私の反応を窺うようにゆったりと微笑む。仕事に戻ろうかと思ったが、何となくそれを許さない空気を男から感じた。
「……ハンターってことは、相当凄い人なのね」
しばらくの沈黙のあと、男の頭のてっぺんからつま先までを眺めて私は言った。プロハンターなんて滅多に会えるものではないが、まるでマネキンのような細い腰に陶器のような白い肌、人工的なスタイルは私の想像するハンターとは大きくかけ離れている。
「別に、暇つぶしで受けただけさ。あとハンターになっておけばいろいろと便利だし」
「暇つぶしで試験受けてなれるものじゃないと思うけど……」
「キミは本が好きなのかい?」
男はそう言って私の膝上に置いてある本をピッと指さした。
「まあ。本を開けば、すぐに別人になれて別の世界へ行くことができるでしょ」
「つまりそういう願望がある、ってこと?」
「誰だってそうじゃない? 貴方は違うかもしれないけれど」
男は否定も肯定もせずに、「ふうん」とだけ言った。私の話に興味があるのかないのか、どうにも掴めない。
そろそろ仕事に戻らないと、と独り言のように呟いて立ち上がる。嘘ではなく、休憩終了まであと五分しかない。
「ねえ」
少し迷って、私はベンチに腰掛けたままでいる男に思い切って声をかけた。
「私に何か……聞きたいことでもあるの?」
男は一瞬だけ目を見開いたあと、ふ、と息を吐いてくつくつと笑い始めた。想像していなかった反応と、なぜ笑われているのか、その理由が分からず次第に顔が熱くなっていく。
しばらく肩を揺らしていた男は、なぜ笑うの、と私が尋ねる前に立ち上がった。じいっと見下ろしてくるその視線に、思わず一歩後ずさる。
「初めて会ったときから思ってたけど……キミって毛を逆立てた子猫みたいだよね」
「……子猫?」
「ずっとボクのことを警戒して、威嚇してる」
「そんなことは」
「ない?」
男は背を丸めると、私に顔を寄せてにんまりと笑った。伸ばされた男の長い指が、爪先が、私の髪を滑っていく。ふと頭に浮かんだのは、いつも夢で見る男の血で濡れた手。全身がぶわりと粟立った。
やがて男は私の髪についていたらしい木の葉を指で摘み、地面に落とした。季節の移り変わりを知らせるように黄色く色づいた葉が、ひらひらと舞いながら私の視界から消えていく。
「質問の答えは『YES』さ。いや、『YES』だった、と言うべきかな」
「……だった?」
「だってキミの質問は、ボクがしようとしていた質問に対して『YES』って言っているようなものだから」
ずっと私を捉えていた視線がふっと横に逸らされた。図書館から出てきた数名の利用者たちが、楽しげに会話しながら私たちのいる広場の方へ歩いてくるのが見える。
男は背を伸ばすと「さて、可愛い子猫チャンにボクからアドバイス」と呟いた。
「別人になって別の世界へ行きたいのなら、自分の凝り固まった常識を全部捨ててしまえばいい。キミが薦めてくれた本の主人公のようにね」
そう言うと、男は私の耳元に唇を寄せて「じゃあ、またあとで」と囁いた。それがどういう意味なのかは、深く考えずとも分かることだった。
すぐに気配が消えたので、私は慌てて振り返った。しかし、広場の周りに植えられている落葉樹が風に揺られてざわざわと音を立てているだけで、男の姿はどこにもない。気づかない間に本を強く握りしめていたせいか、冷たくなった指先が痺れるように痛み始めていた。
誰かと契約している間は『眠らない』という選択はできなかった。それも込みで私の能力なのだろう。夢を見る・見ない、どちらであったとしても、時間になるとぷつりと糸が切れるように眠りについてしまうのだ。そのため私にできることと言えば、睡眠環境を整えて、変なところで寝落ちてケガなどすることのないように早めにベッドに潜り込むことくらいだった。

急いで駆けるように流れていた景色がぴたりと止まる。私は『ホテル・ガルデニア』の前に立っていた。私の雇い主が妻や子どもたちとだけ泊まる、決して愛人と利用することのない高級ホテルである。
夢の中の私は、いつも自分がどこへ向かうべきかを理解している。だから今回も透明人間になった気分で吸い込まれるようにホテルへ入り、エレベーターに乗り込んで迷うことなく目的の階のボタンを押した。本来ならばこのスイートルーム専用のエレベーターはカードキーで制限されているらしいのだが、夢の中の私はどこにだって自由に行くことができるのだ。
ドアを開けると、まず雇い主の幼い一人息子が腹から血を流し息絶えていた。彼のそばを通り過ぎて、広いリビングルームのソファで首から血を流し倒れている雇い主の妻を一瞥したあと、ざあざあと水の流れる音が聞こえるバスルームへ向かう。そして目にしたのは、お湯が溢れ返ったバスタブに鼻まで沈んだ雇い主だった。妻と同じように首から流れている血が湯の中に広がっている。彼の眉間には、見慣れたトランプが深く刺さっていた。
赤髪の男はベッドルームにいた。掃除の行き届いた大きな窓の前に立ち、景色を眺める後ろ姿を静かに見つめる。
「いい眺めだねぇ。キミもそう思うだろ?」
振り返ることなく男は言った。
見えていない。でも『いる』と確信している。
進んで、男の隣に立った。窓の向こうに広がる海、そしてそこに溶けていく夕陽。波間に浮かぶ光の筋が美しく輝いていて、とても幻想的である。
「正に、新しい門出にぴったりの景色だ」

ふっ、と視界が一瞬暗くなり、次に見えたのは自室の天井だった。先程とは打って変わった景色にしばらく脳がついていかず、少し経ってからゆっくりと身体を起こした。
何度も目の当たりにした、雇い主の死。けれど、これまでと違い私の心は落ち着いている。
いつものようにペンを走らせ、便箋をたたみ、封筒に入れた。すぐに、激しくドアを叩く音が鳴り響く。
夕陽が落ちた黄昏時。図書館での仕事を終えて外に出ると、駅へと続くまっすぐな道の先に赤髪の男はいた。
歩み寄り、微笑む男を見上げる。彼の右手には一枚の見慣れた便箋が握られている。
「終わったの?」
「うん、ついさっき」
私の質問に男は特に驚くこともなく飄々と答え、ひらりと便箋を差し出した。端の方についた小さな赤い斑点は、恐らく血だろう。上の方に、たしかに私の字で「特筆すべきことなし」と書かれている。それは私が夢を見なかったときに書く一文である。
男はくしゃりと便箋を握り潰した。
「実は友人に頼まれて引き受けた仕事でさ、今日中には終わらせたかったんだ」
「……貴方、友人なんているの」
そう聞くと、いつも怪しく笑んでばかりの男は初めて不服そうな表情を浮かべた。驚くとこ、そこ? と言いながら。思わず小さく吹き出した。
「もしキミが正直に伝えていたら、今日ボクは彼を殺せなかったかもしれない。今までのように」
「そう」
「どういう心境の変化だい?」
「……散々私のことを脅しておいて、それ聞く?」
「脅し? ボクが?」
男は心外だと言わんばかりにわざとらしく肩を竦めてみせた。今までの私に対する振る舞い、あれを脅しと言わなければ何と言うのか。
辺りが暗くなり、道端に並ぶ電灯がぽつぽつと灯り始めた。夜が訪れても、私の脳裏にはあのホテルから見た海の景色が焼きついたままだ。
まあ、門出にちょうどいい景色だったから。ぽつりとそう呟けば、男は満足気に微笑んだ。
「一つ、聞いてもいい?」
「なんだい?」
「どうして私を殺さなかったの」
男は恐らく、いやきっと最初から私がしていることに気がついていた。普通に考えれば、先に私を殺してから標的である雇い主を狙う方が効率的だったはずだ。そうすれば、今回のように時間を無駄にすることもなかっただろう。
私は契約した人間の未来を見ることができる以外、何の能力も持たない素人なのだ。私の息の根を止めることくらい朝飯前だったに違いない。
男は顎に手を当てて少し悩む素振りを見せた。今日の男は、今までで一番人間らしく感じた。
「ま、気まぐれ……ってとこかな。お望みなら、今、殺ろうか?」
「それはイヤ」
「相変わらずツレないなぁ、子猫チャンは」
笑って男は前髪を掻きあげた。
かつて、今は亡き雇い主は私のことを『天使』と呼んだ。そして、私の目の前にいる男には、今も私が毛を逆立てた子猫に見えているのだろう。
「……私を殺さないでいてくれたお礼に、一つ教えてあげる」
「ん?」
「ベリト」
男はきょとん、と無言で首を傾ける。
「最初に貴方が図書館に現れたとき、私が読んでいた本のこと覚えてる?」
「ああ、ゴエティアだったね」
「私が見ていたのは、その中の『ベリト』って悪魔」
地獄の公爵と言われるベリトは、召喚者が頼めば過去・現在・未来の質問に回答してくれる。しかし――。
「しかし、ベリトのことは決して信用してはならない」
「なぜ?」
「ベリトは、たまに嘘をつくらしいの」
そう言って、小さく笑みを零す。
今の私はベリトのようだ、と思った。天使でも子猫でもない、ただの悪魔であり、男と同じ死神だったのだ。
いつの間にか俯いていた私は、ふう、と息を吐いて顔を上げた。
「じゃ、もう会うことはないと思うけど」
「さあ、どうかな?」
「私、今日でここ辞めるの」
正式な手続きを踏んだわけではないが、もうこの図書館に来るつもりはさらさらなかった。明日の朝か、遅くても昼までには三つの死体が発見されるはず。そうなれば、必ず私は追われることになる。
幸い、しばらく働かなくても生きていけるくらいの金は稼がせてもらった。だからなるべく早いうちに国を出ておきたい。
「それじゃあ、食事でもどう?」
思いがけない言葉が飛んできて、それまで頭の中で考えていたアレコレがすぽん、と抜けていってしまった。はあ? と、素っ頓狂な声が口から出て、同時に肩にかけていたバッグがずるりと滑り落ちた。
「え、ボク、何か変なこと言った?」
「言った。もう私に用はないでしょ? それも気まぐれだったりする?」
「うん、どっちも正解……なんだけど、単純にキミに興味が湧いた」
男はすっと手を上げると、どこから取り出したのか二枚のトランプを私に表面を隠すようにして立ててみせた。不意に差し出されたそれに、身体が強ばる。男がトランプを用いて殺人を犯す場面を、私は何度も見ているからだ。
細かい唐草模様の裏面をじっと見つめたあと、私は静かに首を傾げた。
「……何?」
「ゲームをしよう。キミがもしジョーカーを引いたら、ボクと食事へ行くってのはどう?」
「どっちもジョーカーだったりして」
「そこは信用してくれとしか言えないなぁ」
男は肩を竦めてそう言った。
以前、図書館で同じように食事に誘われたときのことを思い出す。知らない人と食事なんてしない、と言うには、私たちはあまりにもお互いのことを知りすぎてしまった。
黙ってしまった私に痺れを切らしたのか、男は空いている方の手で片方のトランプに触れた。
「じゃあ代わりにボクが引いてあげよう」
「分かった、分かった。引くってば!」
慌てる私に、男は含み笑いを浮かべた。
自分が選んだ道がこれで良かったのかどうかは、正直分からない。正解なのか、そもそも正解があるのかどうかさえも。
自分の常識なんて捨ててしまえばいい。いつかの男の助言が頭を過ぎる。にんまりと笑う男に対し、はあ、と盛大にため息を落としたあと、私はトランプを引いた。
「オレは『さっさと殺せば』って言ったんだけどね」
の昔話に、聞いているのか聞いていないのかよく分からない表情で酒を飲んでいたイルミが冷たい声でそう言った。
酔いが回った頭で彼女はその言葉の意味を考え、すぐに気づいて「あ」と声を上げる。
「あのときヒソカに仕事を依頼した友人って、イルミさんだったんですね……」
「友人とかやめてくれない? 気色悪い」
人形のような綺麗な顔立ちで容赦ない毒舌を吐くイルミに、は思わず苦笑する。すみません、と軽く謝って、彼女は青色のカクテルに口をつけた。
とヒソカが出会って二か月が経った。その間、は本来なら出て行くはずだった国に留まり、ヒソカと共に殺した男の部下たちに報復されることなく平穏な日々を送っている。それはなぜか。
の門出となったあの夜。ジョーカーを引いてヒソカと一緒に食事をしたは、彼に契約を持ちかけた。貴方と契約する代わりに、私のことを守ってほしい、と。ヒソカと契約を交わすことは彼女にとって本意ではなかったが、敵に回した組織の大きさを考えると、『出国した程度では一生逃げ切れないかもしれない』という不安があったからだ。
わざわざ未来のことを知りたがるような男ではない。だからきっと、断られるだろう。そう思いながら期待せずに持ちかけた話だったが、意外にもヒソカは二つ返事で了承した。
その代わりに、ヒソカが提示した条件が以下である。
・は夢で得た内容や結果について、ヒソカに対して一切開示しないこと。また、未来の結果を変えようとする行為は行わず、常に不干渉であること。
最初に聞いたとき、前雇い主との契約とはまったくの真逆では拍子抜けした。理由を聞いても、本人は「別に。ただ見られてるだけで興奮するから」とはぐらかすだけ。貴方が知りたいと望む未来がなければ夢を見ることができない、と伝えると、ヒソカはいいことを思いついた、と笑顔で言った。
「じゃあ、ボクの夢を通してキミは自分が明日生きているかを見ればいい。ボクがキミを追うヤツらをちゃんと始末しているか、ちゃんと契約通り動いているか。どう?」
は悩んだが、最終的にそれで生き延びられるのなら、とその条件を受け入れた。ヒソカにとって何のメリットもない契約だったが、やはり彼にとっては自身の未来なんて些末なことなのだろう、と一人で納得したのだった。
最初は半信半疑だったが、彼はを追ってきた人間を殺し続けた。そして契約は、現在も履行中である。
「ボク以外の男とデートだなんて、妬けるなぁ」
「……ヒソカ」
ねっとりとした声が聞こえ、は顔を上げて彼の名を呼んだ。ヒソカは静かに笑いかけて、の隣に腰を下ろす。
「外に二人いたから殺っといたよ。しつこいねぇ」
「ありがとう」
二か月前のの裏切りは、未だに尾を引いていた。いい加減返り討ちにも飽きた頃だろうに――と、半ば呆れた気持ちで彼女はため息をついた。
最初の頃は、ヒソカが追っ手を始末する夢を見る度に、翌日その現場に立ち会う度に複雑な気持ちを抱いていた。後悔はしていないが、後ろめたい気持ちがないとは言えなかったのだ。
しかし時間の経過というのは恐ろしいものである。彼女は死にも、赤く飛び散る血にも、すっかり慣れてしまった。今では罪悪感も何もなく、感じるのは終わりが見えないことに対する倦怠感だけだ。
が目を擦り始める。それを見計らっていたかのように、ヒソカは彼女の手からグラスを奪って中身を一気に飲み干した。
「そろそろ時間だろう。今日も家まで運んであげるよ」
彼女の肩を抱きながらヒソカは優しい言葉をかけた。
が強制的に眠りについてしまう時間まであと少ししかない。最初の頃は必ず隠れ家のベッドで眠っていただったが、今ではヒソカが一緒のときに限って外出先で眠ってしまうことがある。そういうときは必ずヒソカが家まで運んでくれたし、『彼が自分に変なことをすることはない』という謎の安心感があったのだ。それゆえに、家で必ず眠るというのマイルールも次第に緩くなっていった。もちろん、この二か月で彼女がヒソカを信頼するようになったということ、ヒソカ本人へ夢の内容についての報告義務がない、という点も理由である。
はふう、と息を吐いて、カウンターに突っ伏した。
「いくら何でもうんざりしないの? 毎日殺しなんて」
「全然。ま、つまらないときもあるけど、たまに骨のある相手に当たるときもあるし、ちゃんと楽しんでるよ」
「……私が追われなくなったら、そのときは、この契約も……」
朧気に話すの瞼が次第に閉じていく。ヒソカはグラスを置いて、の耳に唇を寄せた。
「おやすみ、。良い夢を」
すう、すう、と規則正しい寝息を立てるを間に挟み、イルミとヒソカは軽く視線を交わす。イルミは頬杖をついて彼女を見下ろし、「お金、振り込んどいてよね」と呟いた。
ヒソカはポケットから取り出した携帯をすいすいと操作し、にやりと笑う。
「今、送金しといたよ」
「……別に、自分でやればよかったんじゃない?」
「それじゃあ彼女にバレちゃうし、つまらないだろ」
そう言って、ヒソカはバーのマスターに酒を注文した。
二か月前、恐らく彼らが契約を結ぶ前。ヒソカからこの依頼――彼女を追う組織の殲滅――を受けたときも、イルミは同じことを言った。自分でやれば、と。大金が入る依頼を断る理由はなかったのだが、なぜヒソカ本人がやらないのか単純に疑問だったのだ。
しかしその理由がどうであれ、報復のためにを追い続けていた組織は今日、末端までイルミが片付けてしまった。もう明日から彼女が追われることはない。彼女も、そしてヒソカも、晴れて自由の身というわけだ。
ヒソカの目の前に、赤いカクテルが置かれる。レモンの浮かんだそれは店内の照明もあり、どす黒い血のようにも見える。
「あ、そ。ちゃんと入金されたんならあとはどうでもいいけど」
「ボク、明日、彼女のこと殺すんだ」
そう言って、ヒソカは細長い指での目にかかった前髪をそうっと掻き分ける。ぴく、と僅かに動いた彼女の瞼はしっかりと閉じられたままだ。
イルミはため息を吐いた。
「一応オレ、気遣ったつもりなんだけど。それ、声に出して平気なわけ」
「が見ている未来は、ボクによって彼女自身が『明日生きているか』だからね。つまりここでのボクらの会話をは夢で見ていない」
「ヒソカがコイツを『明日殺す』って言うこと自体は関係ないんだ?」
「ないみたいだね。ま、ボクはただ『を明日殺す』って二か月前に決めていただけだし」
ヒソカは笑ってカクテルの入ったグラスを掲げた。
ヒソカの言葉がすべて本当なら。彼女は今、ヒソカに殺される夢を見ているということになる。
「彼女、明日目を覚ましたらどうするかな。話が違うって怒るかなぁ。契約違反と分かってて逃げるか、大人しく僕に殺されるか……あぁ、できれば逃げてほしいなあ……」
「別に逃げたところですぐ捕まえられるでしょ、ド素人なんだし」
「でも彼女は未来を見ているんだ。少しは鬼ごっこ、楽しめそうじゃないかい?」
わくわくした様子のヒソカをイルミはじっと見つめる。
ヒソカは自分の大事なオモチャを最後には必ず壊したがる男だ。つまり、のことを『お気に入り』に分類しているのだろう。
せっかく自分を追い続けていた組織がなくなったというのに、次は契約を交わした一人の男に追われながら毎日自分が殺される夢を見る、か――。
ま、興味ないな。イルミはそう言ってため息を零した。グラスの中で溶け落ちた氷が、カランと音を鳴らした。
( 2025.08.03 / 死神、君を見ていた )