月の綺麗な夜だった。
 腕時計に視線を落とす。時刻は夜の二十一時。私の頭上では、歪みのない真円の月が煌々と輝いて辺りを照らしている。
 そんな、いつもよりも明るい夜だったから。
 職場である小さなコーヒーショップの閉店準備を終えて、店の出入口のドアに鍵を差し込んだところでふと気がついた。
 分厚い木製のドアの下の方で光る、金色で丸いもの。ちょうど今、空に浮かんでいる月と似たそれに、私は屈んでそうっと手を伸ばした。

「何、これ……」

 目を凝らして見れば、丸い部分から生えている太い金属が木を割って刺さっている。針のようにも見えるけれど、だとしても随分と不思議な形をしている。
 触れようとした瞬間、ぴり、と頬に刺すような痛みが走った。

「お前、誰?」




 二十年間、どちらかと言えば真面目に生きてきた方だと思う。生まれてすぐに事故で両親を失い、私を男手一つで育ててくれた祖父も一昨年他界。ちょっぴり怖かった祖父に遠慮して幼い頃からわがまま一つ言わず、年相応のおしゃれもせずに友達も恋人も作らず、祖父が遺したコーヒーショップを継いでコーヒーを淹れ続ける毎日。
 面白くはないけれど、つまらないわけでもない。満足しているわけではないけれど、特別不満があるわけでもない。そんな、私の人生。
 恐らく死ぬ直前だというのに、楽しい思い出が何一つ浮かんでこないなんて――。心の奥でそう嘆きながら、ドアに刺さっているものと同じ針を私の頬に突きつけている青年と対峙する。
 黒くて短い髪、透けるような青白い肌。年は十代後半くらいだろうか。どこにでもいる普通の男の子に見えるけれど、異様な雰囲気からただものでないことが分かる。
 つう、と頬を血が滑り落ちていく。それと同時に青年の手が血塗れであることに気づき、私は「ひい」と悲鳴を漏らしてその場にへなへなと座り込んだ。
 がくがくと全身が震え出し、口の中が乾いて何も言葉が出てこない。そして、じいっと動物のようにこちらを覗き込む真っ黒な瞳から目を逸らすこともできないまま、私は遠くの方で緊急車両のサイレンが鳴るのを聞いた。
 何があったかは分からないけれど、絶対にこの人が関係しているに決まっている。
 サイレンの音は彼の耳にも届いたらしい。僅かに片目をひくりと動かした青年は、針を持つ手はそのままで音の鳴る方へぐるんと顔を向けると、「面倒だなー」と呟いた。

「全員殺してもいいけど、じいちゃんに今日はターゲット以外殺すなって言われてるしなー。あ、じゃあ、この女も殺しちゃダメか」

 ぶつぶつと早口でそう言ったあと、青年はすっと手を下ろした。恐る恐る針が触れていた頬を触ると、僅かに垂れていた血で指先が濡れる。それまでの刺すような痛みが、熱を持った痛みへ変わっていく。
 近づくサイレンの音。ひょっとすると、死なない、かも。そう思い始めたとき、鍵をかける前だったドアがぎい、と開く音がして驚いて顔を上げる。すると、へたりこんでいる私を長い足で跨いだ青年が躊躇いなく店の中へと入っていった。

「え、ちょ、ちょっと、」

 慌てて声を上げる。どうして店の中に。というか、店を荒らされたらたまったもんじゃない。何とか立ち上がり、私も追うように中へ入る。青年は当然のように三つしかないカウンター席の真ん中に座ると、細い指でドアを指さして「閉めてくれる?」と言った。
 お願いというよりも命令に近いその言葉に、私は急いでドアを閉めた。しばらくして店の前を通り過ぎて行った緊急車両の警告灯、その赤と青の光が窓から差し込んで青年の顔を不気味に照らす。しっかりと私を捉えていた二つの瞳に、ざば、と心臓に冷水をかけられたような気分になった。
 見方によっては青年を匿っているようなこの状況。店のことなんか放っておいて逃げればよかった、という後悔が襲う。

「……あ、あの、電気、つ、つけても……」

 サイレンの音が聞こえなくなり、沈黙と暗闇に耐えきれなくなったところで意を決してそう言えば、「好きにすれば」とあっけない返事が聞こえて少しだけ拍子抜けする。壁に手を滑らせてスイッチに触れると、店内がぱっと白い光に包まれてその眩さに思わず眉を寄せた。
 雰囲気は確かに異様だけれど、こうしてカウンターに座っている姿はますます普通の男の子にしか見えない。それこそ店を訪れる学生のお客さんたちみたいな。
 と、そこまで考えたところで、店内をぐるりと見渡していた青年が壁に背中をくっつけたままの私に視線を向ける。びく、と肩が震えた。

「ここ、何の店?」
「あ……コーヒー専門店です」
「ふうん」
「……の、飲みます……?」

 何を聞いてるんだ私は。いくら沈黙が苦手だからって、なぜ早く帰ってほしい相手を引き留めるようなことを。
 瞬き一つせず、大きな瞳でこちらを射抜くように見つめる青年。忘れてください、と言おうとするもうまく口の回らない私に、青年はカウンターに頬杖をついて「うん」と言った。

「えっ!? あ、はい!」

 飲むんですか!?
 自分から聞いておきながら、意外すぎる返答に頭の中でそう突っ込まざるを得なかった。
 先程よりも激しい後悔に襲われる中、私からふい、と視線を外した青年のやはり赤黒く染まった指先が目に入る。息を呑んで、私はぎくしゃくとぎこちない動きでカウンターの奥へと入った。
 うちの店で一番人気のコーヒーは、ヨルビアン大陸から取り寄せている豆を使ったものだ。果実を思わせる酸味と甘み、そして豊かなコクが特徴で、わざわざ電車に乗って豆だけを買いに来てくれる常連さんも多い。
 一杯だけ、だよね。そう不安に思いながらお湯を沸かし、手挽きのコーヒーミルを棚から取り出して豆を入れる。ハンドルを回せば、ごりごりと音を立てて豆が細かく砕かれていく。うるさいと言われやしないだろうか、とひやひやしたけれど、特に何も言われることなく時間は過ぎていく。
 沸かしたお湯でフィルターをセットしたドリッパーを温めたあと、挽いて粉になったコーヒー豆を入れて平坦にならす。コーヒーポットでゆっくりと円を描きながらお湯を注ぎ、ふくふくと粉が膨らむのを眺めながら蒸らしたあと、さらにお湯を注いでコーヒーが落ち切るのを待つ。そんないつもと同じ手順に、ほんの少しだけ気持ちが落ち着いていることに気づいた。
 でもだからこそ、余計にこの状況がおかしく感じる。恐らく人を殺めてきたであろう青年にコーヒーを淹れるだなんて、本当何してるんだろ、私。

「どうぞ……」

 淹れたてのコーヒーをテイクアウト用の茶色いカップではなく、コーヒーカップに注いで青年の目の前に置いた。昔から店内でコーヒーを飲んでいくお客さんにはその人のイメージに合ったカップで提供しており、青年に選んだのは金色に縁取られた白のカップで、内側が青藍色というシンプルなものだった。
 砂糖とミルクは、と口にしたところで、青年はじっと見下ろしていたカップのコーヒーをまるで水でも飲むかのようにぐいっと一気に飲み干した。
 熱くないのだろうか。そう不思議に思いながら、かちゃん、とソーサーに置かれたカップと表情一つ変えない青年を交互に見遣る。
 いやでも、ゆっくり飲まれるよりもさっと飲んでさっと帰ってくれた方がありがたい。もうサイレンの音だって、どこからも聞こえないわけだし。
 そんな私の期待をよそに、青年はカウンターに頬杖をついて私を見つめたまま動こうとしない。喋ろうともしない。じわりと額に嫌な汗が滲む。

「お、お兄さんは、何されてる方なんですか……?」

 先程同様、沈黙に耐えきれずそう尋ねてしまった私に、青年はさらりと一言「暗殺稼業」と言う。その短い答えに喉の奥が引き攣る感じがして、思わず噎せた。
 冗談、ではないだろう。手には血がついているし、実際私も怪我させられたし。でも、仮に本当にそういう職業の人だとすれば、一つの疑問が湧いてくる。暗殺者って、もっとこう他人を警戒するものじゃないのかしら。

「赤の他人から出されたものを、簡単に口にしていいんですか……?」

 私の質問に、青年はそこでようやく瞬きをして空になったコーヒーカップを指さした。

「ああ、毒が入ってるかもしれないのにってこと?」
「どっ毒なんて入れてませんから!」
「それくらい分かってる。ま、別に入ってたところで効かないから」
「あ……はは、」

 毒が効かないとか。アサシンジョークか何かですか。
 青年は、無理矢理口角を上げてへらりと笑う私により一層強い眼差しを向けたあと、席を立ち「じゃ、ごちそうさま」と言った。ようやく帰ってもらえると胸を撫で下ろしつつ、意外と礼儀正しいのかな、と思う。ちゃんとごちそうさまを言えるのなら、きちんとした家庭で育ってそうだし。
 ドアの方へと向かう青年の細い背中を見つめながら口ごもる。いつもなら、帰るお客さんには「またお待ちしてます」の一言をかけるのだけれど、正直また来てほしいとは思えない。でも無言で見送るのは、なんだか逆に怖い。
 複雑な思いを断ち切るように、私は思い切って「あの!」と声を上げた。ドアに手をかけた青年がゆらりと振り返る。

「……お気をつけて?」

 何を考えているか分からない青年からの視線に、さあっと血の気が引いていく。もしかして、間違えた? せっかく死なずに済みそうだったのに、墓穴掘っちゃった?
 そんな私の不安など知らない青年は、無言のまま視線を逸らすとそのまま店を出て夜の闇に溶けていった。
 立ち去る足音一つ聞こえない。静かになった店内に残されたのは、コーヒーの香りと空になったコーヒーカップ。そして呆然とする私だけ。
 緊張の糸が切れて腰が抜けた。

「助かった……」

 ぺたんとその場に座り込み、私は深く息を吐きながらそう呟いた。本当に死ぬかと思った。恐らく私が殺されなかったのは、青年の気まぐれ、そして青年の口から出た『じいちゃん』のおかげだろう。
 ふと気づいて頬に手をやると、垂れていた血が固まって顔にこびりついている。はあ、と私はため息を落とした。
 死ぬ前に思い出せるような楽しい思い出、一つくらい作っておこう。脱力した身体を動かすことができないまま、うまく働かない頭でそれだけはしっかりと決意した。




「や」

 神様、そして天国のおじいちゃん。私、何か悪いことでもしましたか?
 ぶわりと全身から汗が噴き出す。当たり前のように閉店後に店へやって来て軽く右手を挙げる青年。膝から崩れ落ちそうになるのをすんでのところで堪えて、混乱したまま「いらっしゃいませ……」とお決まりの台詞を吐く私。
 死ぬ前に思い出せるような楽しい思い出、まだ一つも作れていないのに。頭の中でそう嘆きながら、先日と同じくカウンター席の真ん中に腰を下ろした青年に全身が硬直する。店のドアにかけていたプレート、CLOSEにしていたはずだけれど。何なら鍵だってかけていたはずだ。居心地の悪さを感じながら、私は手に持っていた洗い終えたばかりのカップを静かに棚に戻した。
 もう二度と会うことはないだろうと思っていたのに、まさかたったの三日で再会を果たすとは。
 ここ数日、常連さんに会うたび「どうしたの?」と問われる原因にもなっている頬の絆創膏に対して、傷をつけた張本人である青年からの反応はない。私はゆっくり深呼吸をして、無理矢理口角を上げた。

「あの、今日は一体何用で……」
「じいちゃんに、この間お前に見られたことがばれてさー」

 じいちゃん。ターゲット以外殺すなと言っていた人。脳内で瞬時に情報が結びつき、さあっと血の気が引いていく。
 まさか、目撃者がいるのなら殺して来いと言われたのでは?
 布巾を胸の前で握りしめて一歩後退りする。背中が棚にぶつかり、並べているコーヒーカップたちが揺れる音がした。

「で、でも私、現場を見たわけではないですし!」
「金」
「え?」
「コーヒー代。払ったのかって言われて、そういえば払ってなかったなと思って」
「あ、ああ……」

 心臓に悪すぎる! 叫び出したい気持ちをどうにか抑えたところで、意外にも律儀らしい青年がカウンターに置いたお札の厚みにぎょっとした。

「お、多すぎませんか、これ」

 ちゃんと数えていないから分からないけれど、ぱっと見た感じうちの店のコーヒー百杯分以上の金額はありそうな気がする。青年は受け取りを拒否する私を見て軽く首を傾げたあと、お金を指さして「じゃあ今日の分もこれで払えば問題ないでしょ」と言った。
 いや、それでも全然余ります。そう言おうとしてすぐ、口元がひくりと引き攣る。今日の分も、と青年は言った。どうやら、今日もコーヒーを飲んでいくつもりらしい。
 すみません。今日はもう閉店なんです。なんて言えるはずもなく。ぴたりと喋るのをやめてしまった青年の目の前で、いろいろと諦めた私はあの日と同じようにコーヒーを淹れた。
 たった一杯のコーヒーにあんな大金を出せるなんて、暗殺稼業というのはよっぽど儲かる仕事らしい。もしくはただの世間知らずか。ちらりと青年を盗み見るとばっちり目が合ってしまい、心の内を見透かされているようで思わずぎくりとする。

「あー……お兄さんはこの辺の人なんですか?」

 やはり沈黙に耐えきれず、コーヒーに口をつける青年にそう話を振ってみる。相変わらず表情からは何も読み取ることができないし、怖いことに変わりはないけれど、前回に比べると今日は少しばかり話しかけやすい雰囲気だ。

「うん。ククルーマウンテン。知ってるでしょ」

 青年の言葉に、またもや膝から崩れ落ちそうになった。
 ククルーマウンテン。この辺りの人間で、恐らく知らない人はいない。

「も、もしかして、いやもしかしなくても、ゾ、ゾルディックの……」
「うん、そう」

 あまりにも軽すぎる返答に思わずくらりと目眩がした。だって、あのゾルディックだ。泣く子も黙る伝説の暗殺者一家、名家中の名家だ。
 昔、酒に酔った祖父はよく「俺はゾルディック家の人間を全員見たことがある」と豪語していた。幼かった私は、誰も真の顔を知らないというゾルディック家の人間を見たことがあるなんてすごい! と目を輝かせていたけれど、そんな祖父曰く「ゾルディック家の人間は子どもも大人も男も女も全員身長が三メートル以上あり、鬼のような恐ろしい形相をしていた」とのこと。とんだホラ吹きである。
 それにしても、私みたいな小娘に簡単に素性を明かしていいのだろうか。そう考えて、すぐにハッとした。
 きっと、私みたいな小娘だからだ。私みたいな小娘一人ごとき、いつでも始末できるから。だから、別に知られたって特に問題ないのだろう。

「じゃ、ごちそうさま」
「はい、またお待ちしてます」

 あれこれ考え込んでいたせいか、この間は言わなかった台詞が反射的に口から出て「あ」と呟く。
 つい、言ってしまった。目を見開いて青年を見れば、言われた本人はやけに素直に「うん」と返事をしただけで、その不意に見せた少し幼い姿に初めて自然と笑みが溢れた。
 それから青年は大体三日に一度店を訪れるようになった。毎回決まって閉店後、鍵を閉めていても開けて入ってくるので、五回目くらいから閉店後も鍵を閉めなくなった。最初はあんなに恐ろしかった青年に慣れ始めたのも、青年が連れてくる時間と空気、そして一日の大半を過ごしている店がまったく違う世界になるような感覚に心地良さを覚えるようになったのも、大体それくらいからだ。なので、今では私にとって青年は『恐ろしい暗殺者』というより『ちょっと変わった常連さん』といった印象である。たまに服や身体に血がついていることがあるので、そういうときは少しだけぎくりとするけれど。

「最近は紅茶についても勉強してるんですよ。いつか店のメニューにも加えようと思って」
「へえ」
「コーヒーとは淹れ方が全然違うので、まだまだ研究中なんですけど」
「そう」

 青年の口数の少なさにも随分と慣れ、青年の訪問数を数えるのを止めてから少し経ったある日のことだ。
 いつも通り閉店後にやって来て、最初の頃よりゆっくりとカウンター席でコーヒーを飲むようになった青年と雑談を交わしていた私が、彼の方を振り返ったその瞬間。突然店内に大きな音が響き渡り、悲鳴を上げた私は耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
 どこか近くに雷でも落ちたのだろうか。大きな音はその一回きりで、あとはパラパラと何かが崩れ落ちる音が聞こえるだけ。そしてその音も止み、静かになってすぐカウンターから頭だけを出して様子を窺う。すると、店に入って右側――私から見て左側にある窓が見事に破砕していて、窓際のテーブル席にガラスの破片が散乱していたのでぎょっとした。

「な、なん……」
 
 そろそろとカウンターから外に出て、割れた窓、そして床に散ったガラスの破片を目で追っていく。窓に対面するように置いている販売中のコーヒー豆を陳列していた棚には凹んだ跡があり、そのそばには拳くらいの大きさの石が落ちていた。
 店内に吹き込んでくる冷たい風。徐々に頭の中が冷静になっていく。
 石が勝手に自分で飛んでくるはずはない。どうやら誰かが外から石を投げ込んだらしい。辿り着いた一つの可能性に背筋がぞくりと震える。理由は分からないし、こんなことをする人間に心当たりもない。誰かに恨まれるようなことをした覚えだってない。というかこれ、修理費どれくらいかかるんだろう。とりあえず、まずは警察に連絡を――。

「ふうん」

 そんな声がすぐそばから聞こえてハッとする。こんな大惨事に驚くことなく平然とコーヒーを飲んでいた青年が、いつの間にか私の真後ろに立っていた。
 青年は割れた窓と立ち尽くす私を交互に見たあと、静かに腕を床に伸ばして落ちていた石を拾った。

「あ、あんまり……触らない方が」
「どいて」

 ぴしゃりとそう言われ、青年に伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。青年は拾った石を一度だけ軽く真上に投げてキャッチしたあと、私のすぐ目の前で大きく振りかぶった。
 声が出なかった。ぶん、という鈍い音とともに、ものすごい速さで窓の外へと飛んでいった石。ふわ、と揺れる青年の髪と私の前髪。背筋を伸ばし、ぱんぱん、と手をはたく青年。店内が沈黙に包まれる。

「……えっ、な、投げ……?」
「よし」
「よし!?」

 大声でそう聞き返した私は、青年の行動と言葉でいろいろと察してしまい頭を抱えた。どうしよう。警察、呼べないかもしれない。
 はあ、とため息を吐いてすぐ、青年の右手に目がいく。先程石を投げたその手のひらからはぽたぽたと赤い血が垂れて、床に落ちたガラスを濡らしていた。石を投げたときか拾ったときか、どちらかは分からないけれどガラスの破片で切ったのかもしれない。

「血!」
「ああ」
「救急箱、救急箱……!」
「ねえ」

 慌てて店の奥へ向かおうとしたところで、青年が私の腕を掴んだ。そんなに力は込められていないはずなのに、一歩も進めなくなった私は驚いて青年を見上げた。
 こんなに近い距離で向き合うのも、青年に触れられるのも今日が初めてだ。慣れたはずなのに、真っ黒で何も映していないような瞳を見ていると、初めて会ったときに針を突きつけられたときの恐怖が僅かに蘇ってくる。
 私を呼び止めた青年は何も言わずにじっと私のことを見つめている。先に口を開いたのは、やはりこの沈黙に耐えられなくなった私だった。

「あの、傷……手当てした方が」
「責任ってやつ、取ってやってもいいけど」
「何、んむ」

 急に、より一層近くなった白くて端正な青年の顔立ちに驚くより先に、柔らかくて少し冷たい唇が自分のものと重なる。あまりにも突然の出来事に、喉の奥で「んん!?」と声を上げるも唇が離れることはなく、顔を背けようとすれば青年の血で濡れた右手が私の後頭部を強く押さえつけた。
 今まで恋人のいなかった私でも、これがどういう行為なのかくらいは分かる。でもどうして、どういう理由でこのタイミングでキスされているのか、それはさっぱり分からない。ついでに青年の言う『責任』の意味も。
 ぬる、と生温い舌が割って入ってきて私の舌と絡み出し、一気に全身が熱くなった。ほんの少しだけコーヒーの味がする口付けにじわじわと脳が痺れていく。これはちょっと、さすがにあれ、まずいのではないか。両手で青年の胸を押してみても、彼の身体はびくともしない。
 だんだん足から力が抜けていき、もうだめだ、と強く目を閉じたとき。やっと動いた足の踵がガラスの破片を踏んだ。ぱり、という軽く乾いた音で、ようやく唇が解放される。

「じゃ、ごちそうさま」

 袖で口を押さえて乱れた息を整える私に対し、青年は涼しい顔で目にかかっていた前髪を掻きあげる。そしていつもコーヒーを飲んだあとに必ず言う台詞を吐いたあと、床のガラス片を気にすることなく踏みながら店を出ていってしまった。酷い有様と化した窓から入ってくる風が、すっかり火照ってしまった頬を撫でていく。
 よろよろと歩き、カウンター席に座る。すぐそばには今や青年専用になりつつある白のコーヒーカップ。それを横目に私は突っ伏した。

「何なんだ……」
 
 私は困惑していた。今までに経験したことがない出来事、そして想像もしていなかった出来事が、この短い時間の間に一気に起こったから。そして、青年が私にした行為に対して、驚くことに嫌悪感などこれっぽっちも湧いてこなかったから。
 というか、ごちそうさまって。どっちに対しての言葉だったんだ、あれは。
 テーブルに額をごつん、と打ちつける。なかなか顔から熱が引いてくれず、むしろじわりと汗が滲み始めた。
 一体どういうつもりであんな、キスなんてしたんだろう。同情か、それとも慰めか。その二つが浮かんだけれど、どちらもしっくりこない上に何か特別に意味のある行為だった気もしなくて、考えれば考えるほど分からなくなっていく。
 もうだめだ。お店もこんな状況だし、明日は臨時休業にして家でひたすら眠ろう。目を閉じてそう決意するも、どう頑張っても眠れない未来しか想像できず私は嘆息を漏らした。




 翌日。とにもかくにも、まずは窓の修理だ。
 というわけで、想像していた通りほとんど眠ることができずに朝を迎えた私が修理業者へ連絡すると、幸いにもすぐに対応してもらえて窓はすっかり元通りになった。
 想定外の出費になってしまったけれど、こればかりは仕方ない。むしろ前より窓が綺麗になって良かったじゃないか。あれは、ただの事故だったんだ。
 無理矢理そう思い込みながら、店の前を箒で掃除する。風で飛んできていた落ち葉を黙々と集めていたら、立ち止まった誰かの足が視界に入ってふと顔を上げた。

「何じゃ、今日は休みか」

 そこにいたのは、一人のおじいさんだった。白髪と同じ色の特徴的な髭。人の顔を覚えるのは得意な方なので、すぐに初めて会う人であることを認識する。
 後ろ手を組み、少し背中の曲がったおじいさんと目が合って私はハッとした。

「すみません、今日は臨時休業で」
「そうか……ときにお嬢さん、二つほど聞きたいんじゃが」
「? 何でしょう」
「お嬢さんはどんな男がタイプじゃ」

 面食らった私の口から「へ」と気の抜けた返事が漏れる。タイプ? 今、どんな男がタイプじゃって言った? このおじいさん。
 何かの冗談、もしくはクイズかと思ったけれど、おじいさんの眼光の鋭さに思わず息を呑む。冗談のようなことを冗談ではなく真剣に話す様子がどことなくあの青年を彷彿とさせる。考えないようにしていた昨夜の出来事が頭に浮かび、私は箒の柄を握りしめて咳払いをした。

「真面目な人、ですかね」
「ほう」
「あとは、意外って言われるんですけど……髪の長い男の人が好きです」
「そうか」

 私の返答に何かを考えるように目を伏せたおじいさんに首を傾げる。どうしよう、うちにちょうどいい年頃の孫がいるからぜひその嫁に、とか言われちゃったら。
 頭の中でそんな妄想を膨らませる私にもう一度視線を向けたおじいさんは、それ以上私の男性の好みについて深掘りすることはなく、何か困ってることはないか、と言った。
 それが二つ目の質問なのだろう。またもや突拍子もない問いかけに私は驚いたまま首を横に振った。ない、ということはないのだけれど、例えば昨夜割られた窓のことを話したところで、このおじいさんには関係のないことだ。
 訝しげな様子で私を見つめていたおじいさんは、しばらくして「突然すまんかったの」と言うと踵を返して歩き始めた。

「あの!」

 咄嗟に呼び止めると、おじいさんの足がぴたりと止まる。ゆらりと振り返ったおじいさんに、私は笑った。

「明日はお店開けますから。ぜひいらっしゃってくださいね」

 私の言葉に、それまで固かったおじいさんの表情がほんの少しだけ緩んだように見えた。
 あんなことを聞いて、一体何がしたかったんだろう。ただの雑談にしては聞きたいことだけ聞いて去って行った感じだし。一人になり、握りしめていた箒で掃除を再開する。
 不思議な雰囲気のおじいさんに思いを馳せながら、彼が去って行った方向へ視線を向ける。あの道をまっすぐ進み、昼間は賑わいを見せる通りを抜けて観光客向けのバスに乗れば、すぐにククルーマウンテンだ。
 そうだ。私は、真面目で髪の長い男の人が好きなのだ。だから、あの青年は私の好みではない。そもそも私は青年のフルネームすら知らないわけで、それは向こうだって同じはずだ。そんな相手にあんなことをするなんて、からかってる以外の何物でもないのかもしれない。
 私は強く首を振った。暇だからこんな変な思考に陥るんだ。いつの間にか、店の前のはすっかり綺麗になっていた。
 せっかくの臨時休業、窓も新しくなったことだし、今日は店の大掃除でもしよう。そう思い立って普段自分しか目にすることのない棚の奥や水回りなどの細かい箇所を掃除していたら、いつの間にか夕方になっていた。朝に軽くサンドイッチを食べただけで昼も抜いてしまったし、自分のことになると適当になるの、どうにかしたいな。そう考えながら戸棚を閉めて、薄暗くなった店内の明かりをつけようと立ち上がると同時に店のドアが開く音が聞こえてぎくりとする。そして恐る恐る振り返り、さらに驚いた。
 そこには、今一番私を困らせている青年――ではなく、二人組の男性が立っていたのだ。
 戸惑いから言葉に詰まる。顔を見合わせる彼らに、「あ」と乾いた声が零れ落ちた。

「すみません、今日は臨時休業で……私、鍵閉め忘れてたかも」

 そう話しながら汚れていた手を拭いて彼らの前へ歩いていく。ぼんやりしていて、いつもの癖で鍵を閉めていなかったのかもしれない。
 あれ、でも、プレートはちゃんとCLOSEにしていたよね。

「この女か?」

 恰幅がいい方の男性が、もう一人の痩せた男性にそう尋ねる。
 あ、これ、なんかまずい、かも。
 彼らが自分の想像していた『客』ではないことに勘づいて背筋がぞわりとした、瞬間。こちらを見下ろすぎらりと光った目に捉えられた私は、気がつけば腹を思い切り蹴られてカウンター席まで吹っ飛んでいた。
 ぶつかった椅子が激しく音を立てて倒れる。その衝撃でいくつかカップが割れる音も聞こえた。突然のことに理解が追いつくはずもなく、身体の中の内蔵がぐちゃぐちゃになった感覚に、おえ、と嘔吐く。頭を打ったせいだろうか、ものすごい頭痛がした。頭の奥の方では、ガンガンと鐘を打つような音も聞こえている。
 逃げなきゃ。でも、身体が動かない。ひゅ、ひゅ、と短い呼吸を繰り返すたびに肺が痛み、口から涎が零れた。

「人質にする、でいいんだよな」
「いや。連れ帰って、もしあの殺し屋が取り返しにでも来たら面倒だろ」
「じゃ、殺して死体を晒しとくか」

 そんな不穏な話を繰り広げた男たちが、倒れて動けなくなっている私の元へゆっくりと近づいてくる。腹を押さえて何とか立ち上がろうとするも、やはり私の足は動かないままだ。
 わけが分からない。どうして私がこんな目に。
 鼻の奥がぎゅっと締めつけられたかのように痛んで、両目からぼろぼろと涙が溢れた。多分、私はこの男たちに殺されるんだ。理由は分からないけれど、もう助かる気がしない。鼻をすすりながら、男たちから少しでも離れようと床を這う。死にたくない。怖い。怖い。怖い。
 ふと、棚から落ちて割れてしまったカップの数々が視界に映る。その中には、いつも青年に出していたカップもあった。手を伸ばして、ただの破片になった冷たいカップに触れる。
 青年と過ごす夜のひととき、私の話を聞くときの冷たい眼差し。興味なさげな適当な相槌に、コーヒーを飲むときに伏せられる長い睫毛。そして帰り際に必ず言う「ごちそうさま」。それら全てが、最初はただただ恐ろしかった。恐ろしかったはずなのに。
 死ぬ前に思い出すのが、そんな青年の姿だなんて。
  スカートの裾を痩せた男が踏みつける。這うことすら許されなくなった私の目に映ったのは、男が振りかざした銀色のナイフ。来る衝撃に備えて、私はぎゅっと強く目を閉じた。

「じいちゃんが、お前にはもう関わるなって言うんだ」

 何かが倒れる音が聞こえてすぐ、そう話す声が聞こえて目を開ける。最初に見えたのは、先程まで男に踏まれていたスカートの裾に刺さったナイフ。次に、うつ伏せになって倒れている男たち。彼らの後頭部に二本ずつ刺さった見覚えのある針。そしてその向こう、開いたドアの前にぽつんと立つ青年の姿だった。
 驚いて声も出せないまま、もう一度私は倒れている男たち、青年、そして青年に襟ぐりを掴まれている一人の男を順番に眺める。倒れている二人の男たちと同じように、頭に針が刺さりぐったりとしている男をずるずると引きずりながら、青年が私の元へつかつかと歩み寄る。

「オレたちみたいな人間はカタギを巻き込んだらいけないって」
 
 倒れている男たちの間に立った青年が掴んでいた男から手を離し、ごとん、と頭が落ちた音に思わず息を呑んだ。その場に屈んだ青年が、人差し指で私のぐしゃぐしゃになった前髪を上げる。私の瞳を覗き込む真っ黒な瞳に、一瞬だけ全身の痛みを忘れた。

「でもさー、もう手遅れだと思うんだよね」

 青年は私を襲った男二人の頭から針をずるりと引き抜いたあと、彼らの髪を掴んで頭を持ち上げた。光を失った瞳と苦痛に歪んだ顔。絶命している二人の表情に再度嘔吐きそうになり、私は口元を押さえてふいと顔を逸らす。

「こうなったのも、店の窓が割られたのも、多分オレのせいだし。でもオレはお前に関わることをやめるつもりはないから、これからもこんなヤツらにたくさん狙われるんじゃないかな」

 今日は運が良かったけど、多分お前、明日には死ぬんじゃない?
 首を傾げて、いつもより饒舌にそう話す青年に絶句する。それと同時に納得もした。つまり青年――恐らくゾルディックであることは知られておらず、単純に一人の暗殺者だと思われている彼に何らかの形で恨みを持っている人たちが、青年と関わりのある私を狙っている、ということだ。
 それにしても、死ぬんじゃない、なんて。実際に死にかけた私にとっては一大事だと言うのに、青年は無関係ではないのに、どうしてそんな酷いことを他人事のように言うのだろう。
 
「お前が選ぶ道は二つ。こんなしょうもないヤツらに殺されるか、オレと結婚してオレの家で暮らすか」
「け……な、何言って……」
「ん、違うな。こんなしょうもないヤツらに殺される前にオレに殺されるか、オレと結婚してオレの家で暮らすか、だ」

 青年が男たちの髪からぱっと手を離す。再び聞こえたごとん、という鈍い音に、止まっていた涙が溢れ出した。死ななかったことによる安堵感と、結局殺されてしまうかもしれないという恐怖、そして死ぬ前に思い出すほど大事な存在になっていた青年にまた恐ろしさを感じていることに対する悲しみからだ。
 二つの選択肢、どちらも選べるはずがない。青年は私のスカートに刺さっていたナイフを抜くと、嗚咽を漏らす私の涙で濡れた頬にその刃を滑らせた。そこには初めて青年に会ったときにつけられた傷がまだ薄らと残っている。

「どうして泣くの?」
「こ、こわ、こわくて」
「ああ、怖かったの? でも大丈夫だよ、もう死んでるし。ちなみにもう一人は、昨日店の窓を割ったヤツらの親玉だよ」
「違う、あなたが、怖い……」
「オレ? なんで怖いの? お前、オレにキスされたとき嬉しそうだったよ」

 ぐっと、銀色の刃が頬に食い込んでいく。消えかけていた傷跡から再び血が流れ始める。

「あ、一応言っておくけど」

 ガンガンと頭の中で鳴り続けていた警鐘の音が大きくなっていく。その奥の方で、初めて会ったときと同じ緊急車両のサイレンの音が小さく聞こえた気がした。

「オレ、仕事はちゃんとこなすし結構真面目なんだよね。髪は別にこだわりないから、のために伸ばしてやってもいいよ」





( 2025.02.24 / バッドエンドのサイレンが鳴る )