
「私、ヒソカのことが好きなんだよね」
カラン、とグラスの中で溶けた氷が揺れる。久しぶりに飲んだお酒は私をまるで夢の中にいるような心地にさせてくれていて、ついでに言うと普段の三倍くらい大胆にさせていた。
外はバケツをひっくり返したような酷い雨が降っている。そのせいか、路地裏の地下にある隠れたバーにはまったく客がいない。内緒話をするにはうってつけの空間で、ずっと心の内に秘めていた想いを吐露したというのに、私の隣に座る男は驚くほど無反応だ。
少しだけむっとして、グラスの中に残っていた琥珀色の液体を一気に呷る。そしてカウンターに肘をついたまま、私の話を聞いているのか聞いていないのかさっぱり分からない幼馴染へ身体を向けた。
「イルミ、ヒソカって恋人いる?」
「ってさ、暇なの?」
グラスを揺らしながら、イルミは呆れたようにそう言った。私が欲しかったのは「いないよ」という答え一つだけだったというのに。
彼の予想外の返答が意外にもぐさりと心に突き刺さり、こちらを見ることなく酒に口をつけるイルミの横顔を睨んだ。シャープな輪郭とまっすぐ長い黒髪は、女の私が羨ましくなるほど美しくて、余計に私を苛立たせた。
「ええ、暇ですよ。無職なんでね。でもそんな私に付き合うイルミはもっと暇なのね」
「帰る」
「冗談、ごめんってば」
席を立ったイルミの腕を慌てて掴む。彼は再び呆れた表情を浮かべて腰を下ろした。
奢るから、と言えば当然でしょ、と返したイルミがバーテンダーに次の酒を頼むのを眺めながら、私はふう、と息を吐いた。恋煩いでため息だなんて、馬鹿馬鹿しい。そう思う反面、それもなかなか悪くないと思っている自分がいる。どうやらもう手遅れなくらい、頭がおかしくなっているようだ。
「イルミはさあ、ずるいよね……」
「何が」
「ヒソカの連絡先知ってるから、私に内緒でたまに仲良く会ったりしてるんでしょ」
「別に仲良くないけど。内緒にしてるつもりもない」
イルミはそう言って、新しい酒をぐい、と一気に飲み干した。家庭の事情で毒が効かない体質の彼は、もちろんアルコールで酔うこともない。つまりそれは酒本来の楽しさを味わえないというわけだが、私の奢りである以上遠慮するつもりもないらしい。私より一時間遅れてやってきた彼の注文は、既に私の数を超えていた。
「ハンター試験も、二人一緒に受かっちゃってさあ」
口を尖らせて筋違いの恨み節を連ねる。イルミはようやく私へと視線を向けた。
「あんな簡単な試験、落ちる方が悪い」
「うっ」
ぐさり。またもやイルミの言葉が深く突き刺さる。さらに彼は「は馬鹿すぎるよ」と、とどめを刺す言葉を吐いた。
ヒソカやイルミと同じ期にハンター試験を受けた私は、ゼビル島での第四次試験で不合格となった。試験の内容自体は、プレートを六点分集めるという非常に単純明快で難易度も低かったのだが――。
「最後、集合場所で自分のプレートを失くしたことに気付くとかさ」
「ぐっ」
「多分、オレ以外のヤツも『あ、こんな馬鹿いるんだ』って思ってたよ」
「言わないで……」
あの日、あの瞬間の出来事は、私にとって忘れたい過去ナンバーワン、人生の汚点であると言っても過言ではない。イルミの言う「オレ以外のヤツ」にヒソカも含まれていると思うと、今すぐ舌を噛み切ってしまいたくなる。
それから必然的にヒソカとは会っていない。試験が終わったら連絡先を聞こうと思っていたのに、まさかの不合格でそれも叶わなかったのだ。だから余計に、ヒソカと連絡を取り合い今もたまに会っているらしい幼馴染の存在が憎くて羨ましかった。
会えない時間が愛を育てるとはよく言ったものだ。私がヒソカに恋をし、彼のことを考えない日は今日まで一日もない。姿かたちだけでなく、人を殺すときの所作一つ一つが美しくて強烈で、もし殺されることになったとしてもあの指先に触れられてみたいと思うのだ。
「それはつまり、抱かれたいってことだよね。言えば?」
「言えるわけないでしょ、てかイルミ連絡先教えてくれないじゃん」
助言が欲しいわけでも背中を押してほしいわけでもないが、イルミの言葉を聞いていると少しずつ気分が落ちていく。それに加えて、ヒソカと会えないことがたまらなく辛くなってくる。
少しくらい、親身になって協力してくれてもいいのに。いやでも、こうして彼には何のメリットもない話をただ聞いて相槌を打ってくれるだけでありがたいと思うべきなのかもしれない。
胃の中がとても熱い。じわじわと、徐々に身体を蝕んでいくような睡魔に目を擦る。それに気付いたイルミはすぐさま「寝たら置いて行くよ」と言った。それは本当で、店員に起こされたとき既にイルミの姿は消えていた、ということを今までに何度か経験している。
「ヒソカ、」
「オレ、ヒソカじゃないけど」
「会いたい……」
瞼の重さに抗いながらそう呟くと、視界の端でイルミが携帯を取り出し操作するのが見えた。きっとイルミのことだから、こんなにお酒を飲んだあとでも仕事に出かけ、要人を二、三人くらい殺してくるのかもしれない。
睡魔との勝負に負けて、カウンターに突っ伏し目を閉じる。瞼の裏にはいつも通り、赤い髪を逆立てた想い人の姿があった。
◇◇◇
雨は止んだようだが、次は槍の雨、いや、針の雨が降るかもしれない。目を覚まして真っ先に私はそう思った。
規則正しいリズムで揺れる私の身体は、なんと驚くことにイルミに背負われ運ばれているようだった。あのきれいな、女みたいな横顔からは想像もできないほどの逞しい背中。私の太腿を支える彼の両腕は安心感があり、やっぱりイルミも男なんだな、と思う。
意外な温もりに微睡みながら、私は彼の肩に回していた腕に力を込める。
「置いて行くって言ったくせに優しいのね、イルミ」
肩に顔を埋めて独り言のように呟く。イルミは恐らく呆れているのだろう、聞こえていたはずだが返事はなかった。
昼間は賑やかなこの街も、夜になれば静寂が訪れる。暗闇に強いイルミが躊躇いなく進む足音に耳を傾けながら、私は懲りもせずバーでの話を再開させる。
「ヒソカってさあ、普段何してるのかな。どんな女の人が好きなんだろう」
こんなこと、イルミに聞いても仕方がないのに。私は、私のとりとめのない呟きを拾ってくれるイルミに甘えてしまっている。そう思っていても、初めて抱いた恋心を誰かに話す以外でどう昇華すればいいのか、さっぱり分からない。
「もし私がヒソカに好きだって言ったら、彼はどんな顔すると思う?」
「見てみるかい?」
私のものでも、イルミのものでもない声。でも確かに、どこかで聞いたことがあるその声に、ひゅ、と喉が鳴る。そして、そこでようやく私は顔を上げた。
ちゃんと見れば服は違うし、黒くて長い髪はどこにも見当たらない。それなのにどうして気付かなかったのだろう。微睡みの中から抜け出し、どんどん冷静になっていく頭の中でそんな疑問がぐるぐると回る。
なんで、どうしてこんなところにいるの――。
「こんな顔だよ」
立ち止まったヒソカは、驚く私へ顔を向けニコリと笑った。
会うのは実に一年半ぶり。でも毎日欠かさず思い浮かべていたヒソカがすぐそばにいる。その事実に何も言葉が出てこない。
ハンター試験のときとは違い、ヒソカは髪を下ろし頬にスートのペイントも施していなかった。初めて素の彼の姿を目の当たりにし、心臓が別の生き物のように動いている。
「どっ、どうして……」
「イルミに呼ばれたんだよ、キミを家まで送ってくれって」
ヒソカはそう言うと正面へ顔を戻し、再び歩き始めた。
「金は払うって言ってたけど、多分それはがって意味だよね」
「は、払います、いくらでも」
イルミに呼ばれたから来たのか、金に釣られて来たのか。それとも、私のために来てくれたのか。もちろん最後だと嬉しいが、そんなのもうどうだっていい。
既にここにはいない幼馴染の計らいに感謝しながら、シャワーを浴びている最中だった、と話すヒソカの髪の毛先から歩く度にぽたぽたと雫が落ちるのをうっとりと眺める。
ヒソカが話すのを止めると、私たちの間に沈黙が流れた。会いたいと切に願い、毎日恋焦がれていた相手と実際に再会するとこんなにも心乱されるのか。嬉しいはずなのに涙が出そうなほど胸が苦しくて、私はその衝動をぶつけるようにヒソカの首に腕を回し強く抱きついた。
「ねえ、ヒソカ」
「なんだい」
「私が貴方を好きって聞いて、どう思った?」
もう私の想いはヒソカにばれてしまったのだ。今さら怖いことなど何もない。
「嬉しいよ」
「じゃあ、私の恋人になってくれる?」
「恋人、ねぇ」
ヒソカは口元に笑みを携えたまま、少しだけ馬鹿にしたようにそう呟いた。
あ、これ、だめなやつじゃない? ヒソカの、どこか冷ややかでつまらなそうな口調に軽く絶望する。断られることを想像した瞬間、閃いたように光ったヒソカの金色の目が私を捉えた。
「は、イルミの恋人ではないのかい?」
「えっ」
「こんなになるまで飲むほどの仲なんだろう」
実際はただ飲んで眠ってしまっただけなのだが、ヒソカは私が酔い潰れたと思っているらしい。私は彼の両肩に手を添えて身体を起こし、ぶんぶんと強く頭を振った。
「ちがっ、イルミとは何もないよ! ただの腐れ縁で、恋人だなんてそんな馬鹿な」
「なんだ、じゃあいいや」
「え!」
「キミがイルミに愛されていたのなら、手を出したかな」
ボクはスリルのある関係に興奮するタイプだから。そう言ってふい、と視線を逸らしたヒソカを私は呆然と見つめる。それは単純に、ただイルミを怒らせてみたいだけでは? 私の指摘にヒソカは「まあね」と愉快そうに笑った。
やっぱり、だめなやつじゃん。私は、ヒソカの眼中にないのだ。
その事実に傷ついているはずなのに、どこか納得もしていた。何よりヒソカが私の名を呼び、私に笑いかけてくれたというだけでこの先しばらくは生きていけそうだ、と感じる。
ヒソカに運ばれながら、空を見上げた。雨雲は消え去り、小さく輝く星がいくつか見える。そんな何の変哲もない夜空のことを、私は一生忘れないだろうなと思った。
「私の家、ここなの」
到着したのは、私が住処にしている三階建ての小さなアパート。白塗りされた階段の前で、ヒソカは私を背中から下ろす。
「階段、大丈夫かい」
「大丈夫。ありがとう」
ヒソカと触れ合っていた場所から、彼の熱がすっと消えていく。それが名残惜しくて、私は彼の腕を掴んだ。
「ねえ、ヒソカ」
「うん?」
「私がもし、ヒソカのことを本気で殺そうとしたら……嬉しい?」
そう尋ねれば、僅かにヒソカは片目をひくりと動かした。
ヒソカの背中でずっと考えていた。彼が興奮すると言う『スリルのある関係』を、どうすれば私とヒソカの間に築けるのか――。
イルミに愛されるのは、まず無理だ。どれだけ考えてみても、戦闘狂、殺人鬼と称される酔狂なヒソカと恋人以外で深い繋がりを得るためには、もう命のやりとりをする以外に方法はないように思う。
ヒソカは顎に手を当てて少し考える素振りを見せたあと、せがむような眼差しを向ける私を見てくすりと微笑を浮かべた。
「はボクの理想の強さには至ってないからねぇ……プレートだって失くすし」
「それは忘れて……」
本日予期せず二度も抉られた古傷。胸が痛むと同時に顔中に熱が集まる。額に手を当てる私に向かってヒソカは手を伸ばすと、そのままゆっくり私の首に触れた。
「でもまあ、好きって言われるより、そっちの方がボクは嬉しいかな」
ヒソカなら、きっと片手一本で私を殺せる。ヒソカの爪がぐっと皮膚に食い込むのを感じて、鋭い痛みと彼の禍々しいオーラに背筋がぞわぞわと震えた。
恐ろしい。けれど、そんなヒソカを、私はおかしくなりそうなくらい愛している。
「じゃあもっと強くなって、ヒソカのこと殺しに行くから」
だから、それまで絶対死なないで。他の女のものにもならないで。私がどこまでも追いかけて、ヒソカのことめちゃくちゃにする。
私の言葉を聞いたヒソカはにたりと笑った。首から手を離し、一歩だけ歩み寄る。そして背を丸めて私の耳元に唇を寄せる。
「今のは少し、ぐっときたよ」
そう囁いたあと、ヒソカの身体が離れたと思ったら、私の額に柔らかくて温かいものが触れる。背負われていたときに感じた彼のシャンプーの香り。それがまた一瞬だけ強く香って、消える。
額に触れたものがヒソカの唇であったことに気付いたとき、もう既にヒソカは闇の中へと溶け出していた。
「ヒソカ、」
「またね」
一言だけ別れの挨拶を述べたヒソカは、たまらなくなっている私を置いて姿を消した。つ、と首筋に違和感を感じて指でなぞってみる。見ると、赤い血だった。
好き、大好き、だから一日でも早く、殺しに行きたい。もはや恋や愛と呼ぶには重すぎるこの感情は、今この瞬間から私が生きる理由になるのだ。
ヒソカによって、私の世界は成り立っていく。これから先、私が死ぬまで。幼馴染にそう話したならば、きっとまた呆れた顔で「は馬鹿すぎるよ」と貶すだろう。それもまた、悪くない。
(2024.06.15)