両親の喜ぶ顔を見るのは随分と久しぶりのことだった。
 これで我が家も安泰だ。子どもが産まれたらようやくお前も一人前だな。いつもより饒舌な父に、私は曖昧に微笑んでみせた。数年前から一人前の殺し屋のつもりでいたのだが、女である以上子どもを産まない限り本当の一人前にはなれないのですか? そう問いたかったが、父の機嫌が良いのであればそれに越したことはない。喧嘩を売るとあとが面倒なので、その質問は心の内に留めておくことにした。
 ゾルディック家の長男――イルミ様の婚約者第二候補が死んだという一報が私の元に届いたのは、今日の昼過ぎのことだった。
 つまりそれは、第三候補である私が近い将来イルミ様と結婚することになる、ということだ。何としてもゾルディック家と繋がりを持ちたいと考えていた両親は、その知らせに諸手を挙げて喜んだ。

「明日、早速挨拶に伺いましょう。こういうのは早い方がいいですからね」
「そうだな、それがいい。連絡を入れておこう」

 和気あいあいと話す両親の前で、グラスに注がれた真紅のワインを見つめる。短い間にイルミ様の婚約者が二人も死んだ。全く気にならないと言えば嘘になるが、馬鹿みたいに喜ぶ両親を見ているのは何だか気分が良かった。今まで厳しく育てられてきたせいか両親に対して愛情などはこれっぽっちもなく、ゾルディック家に嫁に入れば彼らよりも優位に立てるのだと思うと心の底からわくわくした。

「私は先に休みます」

 口を拭き立ち上がると、両親は会話をやめて私を見上げそうした方が良いと大袈裟に頷いた。いつもなら食事を残して両親よりも先に席を立つと小言を言われるのに。二人のあまりの変わりように、私は込み上げてくる笑いを必死に噛み殺した。

§

「おめでとうございます、お嬢様」

 私の長い髪をくしで梳きながら、メイドのハルノが一言そう告げた。他のメイドとは違っていつも落ち着いている彼女は私の専属メイドで、父に雇われてからずっとこうして私の世話をしてくれている。そのせいか、両親に言われる「おめでとう」よりも彼女からの言葉の方がずっと素直に受け止めることができた。

「ありがとう。ようやく私にも運が回ってきたようね」
「そうですね」
「長男のくせに跡取りじゃないってところが少しネックだけど、まあいいわ」

 私はため息を落とし、正面の鏡に映る自分へと目を向けた。
 白く透けるような肌、栗色の艶やかな髪にすっきりとした目鼻立ち。誰がどう見ても私は美しかった。そしてそれはイルミ様も同じである。
 血の通っていない、まるで精巧に作られた人形のようなあの人が自分のものになる。自分だけを愛してくれる。そう思うと、喜ぶ両親を見ているときよりも心が弾んだ。あの方はどんな声で私の名を呼ぶのだろう。どんな風に私に触れるのだろう。

「お前も一緒にゾルディック家に入れるよう、明日頼んであげる」
 
 そう言うと、鏡越しにこちらへ視線を向けたハルノは少しだけ驚いたように目を見開き、そしてすぐに「ありがとうございます」と言った。ゾルディック家の内情はよく知らないが、確実に我が家よりも使用人たちの待遇は良いはずだ。何せ泣く子も黙る天下のゾルディック家なのだから。長男の嫁となる人間の頼みとあれば、ある程度の融通は利かせてもらえるはずだろう。そうでなければ困る。
 ベッドの中に潜り込み、明日のことを考えた。ハルノに手伝ってもらってとびきり綺麗にしていこう。もちろん、殺し屋としての資質も見られるかもしれないから油断はできないけれど――。
 目を閉じてしばらくした頃、ひやりとした風が頬を撫でて不思議に思った私は目を開けた。視界の端で白いレースのカーテンがゆらゆらと揺れていたのだ。
 ハルノが窓を閉め忘れたのだろうか。珍しいこともあるものだと思いながらベッドから下りたとき、開いていた窓の奥にある小さなバルコニーからカーテンと同じようにゆらりと真っ黒な人影が現れた。思わず短い悲鳴を上げる。

「あ、いたいた」

 聞こえたのはあまり覚えのない声だった。就寝中も欠かさず太腿に忍ばせているナイフに手を這わせながら、ベッドのそばの明かりをつける。橙色の温かな光がぼんやりと部屋の中を照らし、突如現れた不法侵入者の正体を明らかにした。

「イルミ、様……?」

 つい先程まで頭の中にいた人物が、今なぜか私の目の前にいる。戸惑いを隠せないままおずおずと名前を呼んでみたものの、呼ばれた本人は返事をすることなく足音を立てずに私の元へと歩み寄った。

「な、なぜこちらに」
「お前に用があって」
「私に?」

 そう問いながらナイフに触れていた手を下ろす。まだきちんと挨拶を交わしていないとは言え、彼は私の婚約者、夫となる人なのだ。だからと言ってこんな夜更けに女性の部屋を訪ねていい理由にはならないが、かと言ってすぐさま追い返す理由も特にはない。用があるのなら尚更だ。
 驚きと緊張を隠すように私はにこりと笑った。

「明日ご挨拶に伺おうと思っておりましたのに、イルミ様にご足労いただくことになり申し訳ありませんわ。今、父と母を呼んで――」
「女はこういうのが好きだよね」

 急にイルミ様からそう言われ、心臓が一際大きく跳ねて思わず言葉に詰まった。こうして二人きりで話すのは初めてのことで、いまいち会話のテンポが掴めない。部屋に備え付けてある電話に伸ばした手を止めて振り向けば、彼は棚に飾られている宝飾品の中から私のお気に入りである指輪を手に取ってまじまじと眺めていた。
 私の趣味はジュエリー収集だった。私が殺しで得たお金のほとんどは、世界各国の有名な宝石や職人が作り上げたアクセサリーへと姿を変えている。日常的に身につけるものから観賞用としてただ部屋に飾っているものなど、用途は様々だ。

「女性は、そうですね。皆好きだと思います」
「ふーん」
「宝飾品は人の価値を高めてくれるものの一つですので……男性にとっての地位や権力と同じです」
「価値、ね」

 どこか小馬鹿にするような言い方に、やはりあまり印象が良くなかっただろうかと息を呑んだ。しかし大して興味はないらしく、指輪を元の場所に戻したイルミ様が私の方を向いて「本題」と呟いたので自然と背筋が伸びる。
 目の前に立ったイルミ様は、静かに私を見下ろした。そして彼の瞳が薄暗い部屋でも分かるほど冷ややかであることに気付いた瞬間、身体が鉛のように重くなった。ぬかるみにはまったように動けなくなり、感じるのは妙な胸騒ぎと息苦しさ。見られている、ただそれだけで目眩がして足がすくむ。
 良い話ではない。イルミ様の眼差しは、仮にも婚約者を見つめるときのものではない。これはまるで――。

「挨拶に来るって言ってたけど、必要ないよ」
「必要ない、とは……」

 これはまるで、獲物を捕らえたときの瞳。

「完全にオレの私情でやっていることだから、これは。だからあの二人にも選ばせてあげたんだけど」

 状況を飲み込めずにいる私に対し、イルミ様は淡々とそう言った。じっとりとした嫌な汗が首筋を伝う。
 お前、ともう一度イルミ様が私を呼び、それだけでぞくりと全身が粟立った。

「どういう風に死にたい?」

 張り詰めた空気とは裏腹に、窓辺ではカーテンが優しく揺れ続けている。針を使うとオレがやったってバレるからそれ以外で、と話しながら、イルミ様は目の前に垂れた髪を気怠そうに掻き上げた。
 これは、試験か何かだろうか。私が本当に婚約者としてふさわしい人間かどうかを試すための――。

「早く死んでもらわないと困るんだよ」

 気付かぬ間に項垂れていた私は、イルミ様のその言葉に顔を上げた。

「……それはなぜ、でしょうか?」
がさ、もうすっかりミルキと結婚する気でいるんだ」

 ただでさえ話についていけていないのに、急に第三者の名前が出てきて私は呆然としたままイルミ様を見つめた。ミルキ様は分かる。彼の弟だ。しかしというのが誰だか分からない。――。
 しばらくその名を頭の中で繰り返し、五回目でようやく一人の女の顔が浮かんだ。一度だけ会ったことがある、家の娘。自分と同業だがどこか抜けていて、今日まで死んでいないのが不思議なくらい凡庸な女。

「……なぜ今、彼女が関係するのですか」

 は私と同じくイルミ様の婚約者に位置づけられてはいるが、確か第五候補だった。それと同時に、先ほど名前の挙がったミルキ様の婚約者第一候補でもあったはず。私と彼女ならば私の方が格上だし、何よりあの女はミルキ様との方がお似合いだ。
 考えれば考えるほど思考がこんがらがっていく。なぜ今、その二人の名前が出てきたのか。私の質問に、イルミ様は指の先でトントン、と組んだ肘の辺りを叩きながら表情を変えることなくこう言った。

「オレの結婚相手はだから。お前たちが死なないと、の順番が回ってこないだろ」

 その瞬間、頭にかっと血が上るのを感じた。そしてそう感じたときにはあれほど重かった身体が動いていて、気がつけば私は太腿のナイフを抜いて目の前の彼へと振りかざしていた。
 ナイフの先端がイルミ様の眼前で止まる。容易く私の手首を捻り上げたイルミ様は、ぎりぎりと容赦なく鋭い爪を私の皮膚に食い込ませた。プツリと切れた肌から赤い血が滴り落ちる。
 自尊心がきしむ音がして、全身がわなわなと震え出した。恐怖ではなく、嫉妬と、久しぶりに味わう屈辱のせいで。

「あの女より私が劣っているとでも? 暗殺者としてのレベルも低い上に美しくもないあんな女、イルミ様にはふさわしくありませんわ!」

 感情の昂りを抑えきれずにそう早口で捲し立てれば、イルミ様は力を緩めることなく私の手を引き上げたままうーん、と唸った。

「ま、確かに殺しのスキルとか美しさとか、そういうのは劣るんだよね。だから自身の婚約者としての順位を上げるよりも上にいるヤツらを皆殺しにした方が手っ取り早いかなと思ったんだけど、んー、何だろう」

 爪をがりっと横に引っ掻かれ、手首の内側、皮膚の薄い部分が大きく裂ける音がした。あまりの激痛にナイフを持つ手の力が緩む。それを見逃さなかったイルミ様は、空いていたもう片方の手でナイフを奪い取った。
 鈍く光る銀色が、今度は私の目の前に突きつけられる。あ、と口を開いた瞬間、その切っ先を強引に口の中に入れられ思わず両目を見開いた。

「不思議だね。オレ自身がのことを蔑むのはいいんだけど、他人の口から聞くのは腹が立つな」

 口角にぴり、と痛みが走る。手首から流れ出しているものと同じ生温かさが口の中に広がり、鉄の味と臭いにえずきそうになるのをぐっと堪えながらナイフを歯で噛んだ。震えのせいで、ガチガチという音が頭の奥に響く。
 先程まで渦巻いていた嫉妬や屈辱は消え去っていた。今私を支配しているのはただ一つ、イルミ様に対する恐怖のみだ。は、は、と短く呼吸を繰り返すたびに、血と涎の混ざったものが顎を伝い床にぽたぽたと落ちていく。そんな私を見ても、イルミ様は眉一つ動かさない。
 なぜ、どうして、私がこんな目に? 今までの人生、それなりに修羅場をくぐってきたがここまで命の危険を感じたのは生まれて初めてのことで、頭が上手く回らなかった。これが試験ならまだ巻き返せるかもしれない。でもここでイルミ様に殺される以外の道が全く見えてこない。

「かっ、考え直ひ、てくだ、わた……わたひの方がふさわひい、て、みんな言う、はずで、す」

 なるべく舌が刃に当たらないよう何とかそう訴えると、イルミ様は一度だけ瞬きをしてすぐに「はは」と薄く笑った。

「じゃ、みんなお前と同じように殺そう」

 イルミ様から発せられる殺気とオーラに当てられて腰が抜けそうになる。痛い、やめて、死にたくない、私を選んで、いろんな思いが綯い交ぜになり、それらは言葉ではなく涙となって溢れ出した。
 イルミ様に殺された第一候補と第二候補の婚約者。私も彼女たちと同じ結末を迎えるしかないらしい。
 そう悟ったとき、どこか遠いところでコンコンと何かを叩く音した。それがイルミ様の背後にあるドアをノックする音だと気付いたとき、部屋の外から「お嬢様」と私を呼ぶ声が聞こえた。ハルノだ。

「失礼します」
「、あ゛……」

 手燭を持った彼女が部屋に入り、私、そしてイルミ様の姿を捉えた。イルミ様の意識を少しでも逸らすことができれば、ハルノには悪いが彼女を犠牲にして逃げることができるかもしれない。咄嗟にそう考えたが、イルミ様はハルノの存在に気付いているはずなのに私から目を逸らそうともしなかった。
 しかしそれよりも、だ。私はこんな状況でも顔色一つ変えないハルノに困惑した。普段から感情をあらわにすることのない彼女だが、だからと言って殺されかけている主人を突然目の当たりにして平静を装うことなどできるだろうか。しかもなぜか、彼女はいつものメイド服ではなく黒いスーツ姿である。
 ハルノ。彼女の名を呼んだのは、私ではなかった。

「はい、イルミ様」
「これが済んだらお前はの監視に回って。些細なことでも報告するように」
「承知いたしました」
「……ハルノっ!」

 二人のやりとりに目を見張った私は、やがて全てを察してナイフのことも忘れ大声で彼女の名前を呼んだ。すぐに舌がぷつっと切れて血が流れ出す。ハルノは驚くことも、ドアの前から動くこともせず、ただまっすぐ私を見据えていつもの落ち着いた声で「お嬢様」と私を呼んだ。

「貴方が死んでくださるお陰で、私はゾルディック家に戻ることができます」

 お世話になりました、と彼女は微笑んだ。初めて見るハルノの笑顔に言葉を失っている私に対し、イルミ様は「もういい?」と呆れたように言うと、ナイフを持つ手に力を込めた。口の端が少しずつ引き裂かれていき、溢れる血のせいで胃液がせり上がってくる。

「ま゛、ぅぐ、待っ」
「決めた?」

 ぎょろりとした大きな瞳が迫ってきて私のぐしゃぐしゃに汚れた顔を映し出す。自慢の美しさも輝かしい未来も、そして望んでいた愛も。もうどこにもなかった。
 どんな声で私の名を呼ぶのだろう。どんな風に私に触れるのだろう。そう期待に胸を膨らませていたことが随分と昔のように思える。

「なま、えを、よんで、」

 絞り出した私の小さな願いに、イルミ様は首を傾げた。

「お前の名前なんて知らないよ。興味がない」

 こんなはずではなかった。私のような美しく優れた人間が、こんな最期を迎えていいはずがないというのに――。
 すぱっと口から横へ抜けていき、視界から消えた刃がすぐに戻ってきて首に突き刺さったような気がしたが、私にはもう何も分からなかった。痛いのか痛くないのか、口から溢れたのが血なのか吐瀉物なのか、立っているのか倒れているのか、もう何も。
 ただ一つ、目を閉じる前に分かったことがある。こんなことになったのは全てのせいで、何もかもあの女がこの世に存在しているから起きたこと、ということだ。
 人生の幕引きに、頭に浮かんでいるのがよりにもよって一番憎むべき相手の顔だなんて。
 呪ってやる。私をこんな目にあわせたあの女を。最期にそう足掻くように深く誓って、私は瞼を下ろした。ぜったいに、なにがなんでも、のろってやる。


(2024.03.02)