この間、有名な占い師に占ってもらったんだけど、私の身体に強い怨念がまとわりついてるんだって。だから殺しとか、程々にした方がいいって言われてさ――。
 部屋の隅に鎮座するクッションソファに沈み込んでいたは、そう話し終えて顔を上げた。薄暗い部屋で煌々と輝くモニターに向かうふくよかな背中はぴくりとも動かない。の相手をするのが面倒なのか、単に彼女の声など耳に入っていないのか。ミルキはひとつも返事をせずにキーボードを鳴らし続けている。
 いつものことだ。少しばかり寂しく感じながらもそう思い直したは、だらりと伸ばしていた腕を持ち上げて本棚にぎっしり並んでいる漫画を手に取ろうとした。しかし、すぐにミルキが息を切らしながら「触ったら殺す」と言う。背中に目でもついているのかしら。は肩を竦める。

「漫画だよ、フィギュアじゃないよ」
「どっちにせよ汚い手で触るな」

 見向きもせずに暴言を吐くミルキに向かって、はいーっと顔を顰めてみせた。そして再びソファに沈んだ彼女は、すっかり見慣れた天井に向かって両手を伸ばしながら欠伸を零した。
 自分は近い将来、ミルキと結婚する。はっきりと誰かにそう言われたわけではないが、両親やゾルディック家の人間たちの態度からは何となくそう感じていた。以前本人にそれとなく聞いてみたところ「絶対にない」と心底嫌そうな顔をしていたが、歳だってミルキと同じで、こうしてゾルディック家に足を踏み入れることを許されているのが何よりの証拠だ。
 ゾルディック家は殺し屋一族としては超超超一流である。だからもし嫁に入ったら、積極的に、毎日人を殺さなければならないのだろう。
 ふと、占い師の顔が頭を過る。数人の女たちから特に強く恨まれているようだが身に覚えはないか。そう問われたが、今まで老若男女公平に殺してきたにとってピンとくるような相手はいなかった。
 しかしいざそう言われると、多少思うところもあるわけで。

「ねえミルキ」
「……何だよ」
「私が奥さんになったら楽な仕事を回してね。なるべく人を殺さなくて済むような」

 ミルキはうとうとしながらそう呟くを一瞥して「うぜえ……」と零した。未来の旦那様の何とも冷たい態度に、彼女は肩を落とした。



 頻繁にゾルディック家を訪れていただが、屋敷内で迷わなくなったのはつい最近のことである。いつでも冷たく、ぞくりとするような空気が漂う暗くて長い廊下。そんな空間が僅かに揺らめいた気がして、はぴたりと足を止めた。
 前方から感じる禍々しいオーラに対する恐怖心が薄らいだのも、わりと最近のことだ。

「イルミ兄さん、こんにちは」

 す、と音もなく現れた人物に向かってはそう挨拶した。そんな彼女に気付いて興味無さげに「来てたんだ」と話すイルミのことを、はいずれ義兄になるのだからと「イルミ兄さん」と呼んでいる。
 すらりとした長い手足に美しい長髪。そして感情の起伏が乏しいところは弟であるミルキとは全然違う。目の前までやって来てこちらを見下ろす黒い瞳を見つめ返せば、イルミは「またミルキのところに行っていたの」と言った。

「ええ、まあ。イルミ兄さんは仕事?」
「キルの訓練だよ」

 そう聞いた瞬間、の頭の中に眩しい銀色の花が咲いた。
 キルア。イルミやミルキたちの弟。兄弟たちの中で唯一銀髪の男の子。一度しか会ったことがないが、そのたった一度で彼がこのゾルディック家の中でも特別な人間であることはすぐに理解できた。

「キルアくん、元気ですか。また会いたいなあ」

 また会いたい、の辺りでイルミの目付きが変わったのでは口を噤んだ。彼がキルアのことを、それはそれは大事に『教育』していることは誰もが知っている。どうやら、いくら将来義理の妹になる女だとしてもなるべく近付けたくないようだ。
 イルミとの会話の切り上げ方が分からない。は逃げるようにイルミの目から視線を逸らした。
 いろんな死を見て、そして触れてきた彼の瞳はまるで深くて暗い穴のようだった。歩み寄れば落ちてしまいそうで、不用意に近付いてはいけない気がする。

って、暇人なの?」

 そう問われ、思わずどきりとした。例の占いを理由に少しずつ殺人を避け始めていることを、ミルキはともかくイルミには知られたくなかった。

「暇かと言われれば、そうでもないような」
「じゃあちょっと付き合って」

 そう告げたイルミは、「じゃあ」の意味を理解できず呆けるの腕を掴むと来た道を戻り始めた。どこに? 何に? そんなの疑問にイルミは答えず、一度だけ振り向いて「来れば分かる」と言う。
 静かな廊下に、一人分の足音が響く。イルミは移動するとき音を立てない。
 そういえば、“あれ”はそろそろ死んだかな――。イルミの瞳を見たからだろう。一定のスピードで進むイルミの斜め後ろを歩きながら、はふと、本物の“穴”へ思いを馳せた。



 家の敷地には穴がある。何か欠陥があるという意味ではなく、文字通りの“穴”だ。屋敷から少し離れた森の中にぽっかりと空いている、深さ三メートルほどで上に向かって広がるそれは、古くから侵入者用として使用されていた。落とし穴などではなく、単純に屋敷への侵入者を殺したあと、その死体を燃やして処理するためのものだ。
 立派な番犬も有能な執事もいない家で、侵入者の後始末はの仕事だった。しかし占い師の言葉を真面目に受け止めていた彼女は、昨夜家にやってきた男女二人組の侵入者を殺さずに生きたまま穴に放り込んだのである。目や喉を潰し、足も動かないようにしてしまえばたかが三メートルすら這い出でることもできないのだから、と。
 あれよあれよという間にゾルディック家の屋敷を出て、イルミ直属の執事が運転する車に揺られて一時間ほど。状況を飲み込めないまま連れてこられた場所は、街の大通りの一番目立つところにある有名なジュエリーショップだった。
 明るい店内、煌びやかな装飾、ショーケースの中に並べられた宝飾品の数々。普段闇の中で生きている自分が、こんな眩しい場所にいていいのか。そんなの心配を他所にイルミは特に何も考えていないようで、居心地が悪そうにしている彼女をじっと見つめている。

「あ、あのう……」
「指輪を買いたいんだけど。オレはよく分からないからが選んで」
「いや、なぜ?」

 言葉が足りなすぎる。なぜ指輪を買うのか、なぜ自分が選ばなければならないのか。訳が分からず目を白黒させるにイルミは一言、「オレ、そろそろ結婚するんだよね」と言った。

「へ、あ? おめでとうございます?」
「うん」

 驚いたままお相手の名前を尋ねれば、イルミは少しだけ考える素振りを見せて「今の婚約者は」と前置きしたあと、ゾルディック家ほどではないが暗殺一家として有名で歴史ある一族のお嬢様の名を告げた。も一度だけパーティーで顔を合わせたことがある。オレンジ色の髪が似合う溌剌とした女性だった。所謂、美男美女。イルミと並んでいる姿が容易に想像できる。
 それはさておき、イルミが婚約者のことをなぜわざわざ「今の婚約者」と言うのか。それにはイルミの過去とゾルディック家の慣わしが関係している。
 イルミには今まで三人、彼の婚約者という立場の女性たちがいたが、今日までに全員が謎の死を遂げていた。そういう世界で生きている女性ばかりだから死ぬことは大して珍しくないが、中には本人だけでなく一族全員が口を裂かれて殺されていたという婚約者もいたらしい。
 細かいことは知らないが、自分を含めゾルディック家の人間の婚約者に選ばれた女たちは、殺しの才能・能力といったスキル、家柄や容姿・人格などから第一候補、第二候補、という風に順番が決められていると聞く。なので今度イルミが結婚するという相手は、彼の第四候補の婚約者なのである。

「でもあの、普通に嫌だと思いますよ……他人が、しかも女が選んだ指輪なんて。そもそもサイズも分からないし」

 この重大任務から逃れようとそう言ってみたものの、サイズはと同じでいい、の好みで選んで、とイルミは言う。いやよくないだろうと思いつつもあまりにイルミが譲らないので、は仕方なく奥に控えていた老齢の店員を呼び指輪探しを始めた。まあサイズは後から直すことも可能だろうし、もし気に入らないと言われたら新しいものを買い直す財力もあるだろう。

「フルオーダーもできるらしいですけど、今日持ち帰れた方がいいんですか?」
「うん、すぐに渡すつもりだから」
「……私なら、これかなあ」

 数種類の中から、はメレダイヤの指輪を選んだ。アームが少しカーブしていて、店員に出してもらった物の中で二番目にシンプルなものだ。
 イルミはが指差した指輪を彼女の肩越しに見るが特に何も言わなかった。サイズの合うものを持ってきてもらい、店員に勧められるがまま左手の薬指にはめる。ミルキ曰く『汚い手』でも、いざはめてみればそれなりに格好がついた。重さなんてあってないようなものなのに、ずっしりとしているような気がする。
 そこでようやくイルミは一言「似合うよ」と言った。自分に似合っても、あまり意味がないのだが。

「私とミルキもそろそろ結婚かなあ……」

 ぽつりとそう呟けば、隣に立ったイルミが自分を見下ろすのを感じた。イルミが結婚してしまえば、恐らく次はミルキの番だ。
 でもきっと、こんな風にミルキと指輪を買いに来ることなどないだろう。彼の場合、そんなお金があったら自分の趣味に散財するに決まっている。は自嘲気味に笑みを零して指輪を外した。
 指輪を持って奥へと戻って行った店員を待ちながら、は窓の外の大通りを眺めているイルミの横顔を見上げた。自分で選ばないのはどうかと思うが、それでも婚約者に指輪を買ってあげようだなんて意外と義兄は可愛いところがあるらしい。イルミ兄さん、と呼べば、目元が僅かにひくりと動いて冷たい瞳がを捉える。

「イルミ兄さんの婚約者は幸せ者ですね」
「そう思う?」
「はい。あ、指輪はロマンチックなシチュエーションで渡さないとだめですよ、サプライズで」
「……面倒だな。そんなものなの?」

 まっすぐこちらを見据えたまま不思議そうにそう尋ねるイルミに、はしっかりと頷いた。そんなものかどうかは、正直知らないけれど。



 穴のある場所は、ゾルディック家ほどではないが深い森に覆われている。昨日放り込んだ二人がどうなっているか気になっていたは、屋敷に戻る前に穴へと向かった。
 穴の中で死体を燃やすとなれば、燃料がないとうまく燃えてくれない。しかも骨になるまでとなると相当な時間がかかるわけで、はその煩わしさにうんざりして大きく息を吐いた。燃料の入ったタンクを持ち、低木に引っ掛けておいた懐中電灯の明かりを頼りに森の中を歩く。
 しばらくすれば開けた場所に出た。その中心にある穴は月の白い光を集めて吸い込んでるようで、神々しくも見える。ざくざくと土や手入れをしていない雑草を踏んで穴のそばに歩み寄り、真っ暗な中心を懐中電灯で照らす。重なって倒れている男と女のうち、女の身体が僅かにびくびく動いているのが見えては二人のそばに飛び下りた。

「生きてたか」

 懐中電灯をぐるぐる揺らしながらぽつりと呟けば、女は上半身を起こそうと必死に腕を動かし始めた。男の方は、どうやら息絶えてしまったらしい。
 でもひょっとしてこれ、普通に殺すよりも恨まれるのでは――? 土と血の混ざったにおいを嗅ぎながらが何となくそう感じ始めたとき、視界の隅で力を振り絞った女がゆっくりと顔を上げるのが見えて、は男の顔に向けていた懐中電灯を女に向けた。潰した目から流れていた血が固まって頬や顎にこびりついている。
 女の手が、そばにしゃがんでいたの頬に触れた。穴から出ようと足掻いたのか、爪が何枚か剥がれている。土で汚れた形のいい唇が開き、静かな穴の中で女の息遣いと掠れた声が響いた。

「アン、タのせい、で……み、な、しん、だ」

 は女の言葉の意味を理解しようとしなかった。そのときの彼女は、女のオレンジ色の髪から目が離せなくなっていたのだ。



「なんで電話出てくんないのさ馬鹿ミルキ!」

 ドアを蹴破って飛び込んできたに、ミルキはあからさまに顔を歪めてみせた。時間が時間だからか、ミルキは顔と身体に似合わぬ淡いブルーのパジャマを着ておりちょうどベッドに入るところだったらしい。わなわなと肩を震わせながら、ミルキはに負けない叫び声を上げた。

「勝手に入ってくんなよお前!」
「どうしよう、大変なことになっちゃったんだよ」
「そうかよ良かったな! 死ね!」
「実は昨日の夜、イルミ兄さんの婚約者が家に来て」

 噛み合わない会話の中での言葉にいくらか冷静さを取り戻したミルキは、ふうふうと息を吐きながら「兄貴の?」と目を細めた。
 本当ならば、ミルキよりも先にイルミに伝えるべきだ。しかしはイルミの連絡先を知らないし、この広い屋敷のどこに彼の部屋があるのかも知らない。

「てか何だよその顔、きったねえな……よく見りゃ服も泥だらけじゃん」
「わ、わた、私、イルミ兄さんの婚約者の目、つつ潰しちゃったよ」

 しん、と部屋が静まり返る。女の正体に気付いてからずっと心臓に冷たい水をかけられているようで、は今にも倒れそうな気分だった。
 あのオレンジ色の髪を持つ彼女がイルミの婚約者だと知ったのは今日のことだし。何より昨夜、家に侵入して自分を殺そうとしたのはイルミの婚約者の方だし。次々と自分の行動を正当化するための理由が湧いてくるが、それらは全て今日ジュエリーショップで見たイルミの横顔に掻き消されていく。
 イルミ兄さんの大切な人に、取り返しのつかないことをしてしまった――。
 頭を抱えるに対し、意外にもミルキは慌てることなく冷静に「ふーん」とただの相槌で済ませた。

「ふーん、とは!?」
「で、殺したのか?」
「いや殺してない殺すのはさすがにやばすぎるでしょ」

 どうしてそんなに落ち着いていられるの、と尋ねる前に、背後から「何してるの」と抑揚のない声が聞こえての身体は硬直した。
 ぎこちなく振り返れば、腕を組み壁に背を預けるイルミがいた。彼もミルキと同じように、の顔を見て「なんでそんなに薄汚いの」と頭を傾ける。そこでようやく両頬を擦ってみれば、手の甲に赤黒い血がついていた。あの女の血だ。視線を下ろせば靴の先や服の裾にもついていた。
 つかつかと歩み寄るイルミに思わずたじろぐ。どう説明しようか必死に脳をフル回転させているの隣で、ミルキが「が兄貴の今の婚約者を半殺しにしたんだってさ」と言ったものだからは頭の中で絶叫した。

「ばっ、ミルっ、なっ」
「……それ、本当?」

 イルミが足を止める。恐る恐る目線だけを上げていくと、真っ黒な瞳の向こうに血塗れの顔で何かを訴える女の姿が見える。

「……は、はい、ごめんなさい……」
「なるほど、どうりで探しても見つからないわけだ」

 は泣きたくなった。今日二人で指輪を買いに行ったとき、イルミが婚約者に指輪をすぐに渡すつもりだと話していたことを思い出したのだ。
 殺されても仕方がない。知らなかったとは言え、それだけのことをした。覚悟を決めて起きたことを包み隠さずイルミに説明する。昨夜、イルミの婚約者が男と二人で自分の家に侵入したこと。殺されそうになったので、普段通りに対処したこと。男の方は死んだこと。イルミの婚約者の目を潰してしまったこと。
 何を言ってもイルミは無反応だった。表情を崩さないままずっと黙っているので、ひとつずつ漏れなく説明しているはずなのに自分の言葉が滑っていくような、おかしな気分になる。

「あの、とりあえず、死んでお詫びします……」
「どこにいるの?」
「え?」
「まだ生きてるんでしょ? どこにいるの」
「あ……うちの、」
「穴?」

 穴のことをゾルディック家の誰かに話した記憶はなかった。大した話でもないし、そもそも穴自体そこまで重要なものでもないのだ。
 おずおずと頷くを見て、イルミは長い髪を靡かせて部屋を出ていった。話の流れからしてイルミは自身の婚約者のことを助けに行ったのだろうが、追いかけるべきか迷ったは傍観していたミルキへと視線を向ける。どうするのが正解なのか目で尋ねてみたが、魔法少女がプリントされた抱き枕を抱えたミルキは呆れたようにため息を零し、「兄貴がお前について知らないことがあるわけないだろ」とよく分からないことを言うだけだった。



 ゾルディック家までバイクを飛ばしてやって来たがイルミを追うことを決めて外に出ると、置いていたバイクが忽然と姿を消していた。いつも自分を監視しているゾルディック家の執事を呼び出して尋ねれば、なんとそのバイクにイルミが乗って行ってしまったらしい。きっと婚約者のことを思うと一秒たりとも待っていられないのだと思うと、胸が酷く痛んだ。
 がようやく帰宅できたのは、すでに日付が変わった頃だった。門の前に乗り捨てられていたバイクを横目に、真っ先に穴のある場所へと走る。地面に投げ捨てていた懐中電灯を拾って辺りを照らす。風もなく不気味な静けさの中で、自分の息遣いと鼓動の音だけが妙に耳についた。
 イルミを見つけられないまま穴のそばまで辿り着いた彼女は、そうっと穴の中を覗き込んだ。変わらずそこには男女二人が倒れている。辺りをぐるりと見渡す。イルミは到着しているはずだが、どうやらここには来ていないらしい。

「イルミ兄さん――」

 そう名前を呼んだとき、とん、と身体が揺れた。ふと視線を下げれば自分の胸から血塗れの手が飛び出していて、ひゅ、と喉が鳴った。
 ぶわっと全身から汗が噴き出す。しかし瞬きをすれば自分の身体を貫いた手は消えていて、慌てて触れて確かめてみたがそこには傷一つなかった。

「次、オレのことを兄さんと呼んだら許さないよ」

 背中に自分のものではない熱を感じる。一生冷めることのないような熱を持った手で、の背後に立っていたイルミは彼女の背に触れていた。少しでも力を加えられたらそのまま穴に落ちてしまいそうで、自然と両足に力が入る。
 ごめんなさい、と謝る声が震えた。

「なんで謝るの?」
「だって、私、取り返しのつかないことを、」
「……ああ、あれのこと? 別にいいよそれは、むしろ手間が省けてよかった」

 あれ。手間。イルミが何を言おうとしているのか理解できないまま、は緩く腕を引かれ彼と向かい合った。持っていた懐中電灯が手から滑り落ちる。ずっと雲で隠れていた月が現れて、イルミの青白い顔を照らす。

「なんだっけ、ロマンチックなシチュエーションで渡すんだろ」

 ほら、と言ってイルミが差し出したのは、彼に頼まれてが選んだ指輪だった。月の光を浴びて輝く指輪はところどころ赤い血がついていて、それを持つイルミの手にもべっとりと多量の血が付着している。
 返事をしないの左手を取り、イルミは指輪をはめた。当たり前だが、自分好みでサイズもぴったりである。

「どうして……」
「あれが死んで、ようやくに順番が回ってきたから。お前がオレの結婚相手だよ」

 イルミは地面に落ちていた懐中電灯を拾い、すっと穴の中を照らした。真っ白な光が伸びた先を見れば、女の胸に先程までなかった赤黒い染みができている。

「でも、私はミルキの婚約者では……?」
「そうだよ。ミルキの婚約者第一候補で、オレの婚約者第五候補」
「……すみません、後者は初耳でした」
「まあオレより先にミルキが結婚するなんて有り得ないし、オレは第一から第四までの女たちを最初から殺すつもりでいたから実質はオレの第一候補の婚約者ってことになるね。理解した?」
「り、理解……は、しましたけど」
「あ、そう。じゃあついでに納得もしてね」

 そう言って、金にならない殺しは疲れると独りごちるイルミの顔をは夢の中にいるような気分で見つめた。
 ミルキが自分との結婚を「絶対にない」と言っていたこと。占い師から言われた数人の女たちからの怨念。穴の中で死んだ女の言葉。記憶のあちこちに散らばっていた情報が徐々に集約されていく。
 じっと見つめるに気付いたイルミは、彼女を見つめ返すと表情を緩めた。初めて見る顔に、は自身の心臓がいつもと違う動きをしたように思えた。

「オレの婚約者は幸せ者なんだろ」

 深くて暗い穴のような瞳。歩み寄れば落ちてしまいそうだと思った瞳。まさか逆に歩み寄られるだなんて、思いもしなかった。
 穴の中から小さな呻き声が聞こえた。ほぼ同時にイルミとの顔が声のした方へと向けられる。光の先で、女の下敷きになった男の手が動き出すのが見えた。
 正面から盛大なため息が聞こえ、はぎくりとする。手が伸びてきて反射的にぎゅっと目を閉じれば、イルミの指先がの頬を優しく撫でた。新鮮な擽ったさに思わず目を見開く。

「男は死んだって言ってなかった?」
「う……勘違いでした」
「変な占い師の言葉なんか信じてないで、ちゃんと人は殺しなよ」

 イルミはそう言うと、するりと穴に下りていった。占い師の話はミルキにしかしていないわけだが、彼曰くイルミは自分のことを何でも知っているようなので、穴のことを知っていたときに比べると大して驚かなかった。
 サイズ直しや買い直しの心配なんて、必要なかったな――。ぼんやりと指輪を眺めながら、イルミの「似合うよ」という一言を思い出す。その言葉が今になって意味を持ち始め、心を温かくしていく。
 しかし、だ。イルミはもう少し「ロマンチック」を勉強した方がいい。
 この状況をイルミがロマンチックだと思っていることがおかしくて、我慢できずにがふふ、と笑みを零したとき、男の胸に穴が空いた音がした。

−穴−

(2024.01.27)