家にいることが少ないと話していたイルミの言葉は本当で、何なら想像以上だった。私が眠っている間にたまにふらっと帰って来てはいるようだったが、顔を合わせる機会はそうそうなくすれ違いの毎日が続いている。

「つまらない」

 ソファに足を伸ばして座り、窓から惜しげもなく差し込む陽の光に細い針を翳しながらそう呟けば、朝食の食器を下げに来たアマネがちらりとこちらを一瞥した。しかし彼女は「またか」という表情を浮かべただけで、黙々と皿を重ね続けている。
 借金のことを考えなくていい、食べるものの心配をしなくていい生活は快適そのものだ。しかし、アマネをはじめとする執事以外と顔を合わせることなく針だけを作り続ける毎日は、あまりにも味気ない。寂しいし、何をしても満たされない。
 目を凝らして針の先端をじっと眺めながら、不在がちな夫のことを考える。イルミはこの針でどうやって人を殺すのだろう。そもそもどうして毎日仕事があるのだろう。世の中、殺してほしい人間がいる人間はそんなに多いものなのだろうか。

「……外に出たい」
「それはイルミ様から厳しく止められているはずです」

 ようやく返事をしたアマネに目を向けると、彼女は片付けの手を止めて真っ直ぐこちらを見つめていた。最近気が付いたことだが、どうやらアマネは私の身の回りの世話だけでなく監視役も担っているらしい。いつも私が外出したいと言えば、彼女の目つきが少しだけ恐ろしくなる。私は肩を竦めた。

「どうしてイルミは私を閉じ込めるんだろう。逃げたりしないし、ちゃんと帰ってくるのに」
様のことが心配なのでは」
「もしそうなら過保護すぎる」
「……イルミ様なりの愛だと考えてみてはどうでしょう」

 聞き慣れない単語に私は目を丸くして、すぐに笑った。

「もしこれが愛なら、随分と独りよがりだよ」
「愛とは元々、独善的なものだと私は思います」

 アマネは目を伏せてそう言うと、「では失礼いたします」と恭しく一礼して去って行った。喋り相手がいなくなってしまい静かになった部屋で、私は再び手の中の針を翳す。夫婦に、そして家族になったイルミと私を唯一繋ぐものだ。
 しばらくすれば、心地よい陽射しのせいか少しずつ瞼が重くなっていった。目に見えるもの、肌で感じるもの、全ての境界が曖昧になって溶けていく。
 何が愛で何が愛でないか、私には分からない。でも、ここで大人しくイルミの言う通り針を作り続けることが、私からイルミへの、そしてイルミが私に求める愛なのだろうか。最後にそんなことを考えて、私は膝を抱き目を閉じた。

◇◇◇

「いた、い……?」

 ちくりと手の中に鋭い痛みが走る。寝ぼけ眼で覚醒しないまま手を開いてみれば、中から針が一本出てきた。どうやら寝る前に弄っていたものを握りしめたまま寝てしまったようだ。
 ぷく、と小さな丸い血の玉が親指の付け根辺りに生まれる。それはしばらくしたら、弾けて手首に向かってゆっくりと流れていった。
 ひやっとする風が頬を撫でる。木の匂いがして目線を上げると、窓が開いていてイルミがいた。

「……イルミ?」
「うん、ただいま」

 まだ日が昇っているうちに顔を合わせるのはこの家に来てから初めてのことで、私はまだ夢でも見ているのか、と思った。音もなく帰ってきたイルミは、ソファの隅に座る私に静かに歩み寄る。そして血の伝う手を中途半端に上げたままぼんやりしている私を見下ろして、ほんの少しだけ不快そうに顔を歪めた。

「血出てるけど」
「ああ、針が刺さっちゃって」
「貸して」

 何を、と聞く前に、隣に座ったイルミが私の手首を掴んでぐい、と引いた。イルミからほのかに土のような、大地の匂いがする。そのどこか懐かしい香りに気を取られていたら、私の手から滴る血にイルミが唇を押し当てた。柔らかくて生温かい舌が傷口を優しくなぞっていき、突然の、あまりにも意外すぎるイルミの行動に心臓がぎゅっと握り潰されたような気がした。
 イルミ、と掠れた声で名前を呼ぶ。イルミの長い睫毛、スっとした鼻筋、彼の口から覗く赤い舌。その全てが扇情的で、頭のてっぺんからつま先までを何かが駆け巡っていく。もう一度名前を呼ぶと、イルミの伏せられていた睫毛が震えて彼の大きな猫目が私を捉えた。途端に頭が爆発でもしたかのように熱くなり、私はぎゃっと悲鳴を上げて手を引っ込めた。

「なっなっ、何してっ」
「何って、消毒」
「他人の血なんて汚いよ!」
「他人じゃなくて夫婦だろ」

 それはそうだけど、そうじゃなくて。イルミの唾液で光る手を宙に浮かせたままそうぶつぶつと呟く。イルミは慌てふためく私とは違い至極冷静で、気怠そうに目の前に垂れた前髪を掻き上げた。
 どうしよう、久しぶりだからか何を話せばいいか分からない。
 横目でイルミを見れば、彼はなんだか眠そうな猫のようだった。仕事終わりで疲れているのかもしれない。そこまで考えたとき、そういえばイルミの口から「家族」ではなく「夫婦」という言葉を聞くのは初めてだったかも、とふと思う。
 次イルミに会ったら、もう一度外に出たいとお願いするつもりでいた。いつものように呆れ顔で「そんなことわざわざ聞くなんて、お前は馬鹿だね」と言われるのを覚悟の上で。でもイルミがちゃんと私との関係を「夫婦」として認めてくれているのなら、聞き方を変えれば風向きが変わるかもしれない。

「そうだよ……私たちって夫婦なんだよね?」
「何、今更」
「それなら、もっと夫婦らしいことをしたいんだけど……駄目、かな」

 何も私は『絶対に一人で外出したい』と思っているわけではない。イルミと街へ出て、一緒に買い物したり食事したり、そういう普通の夫婦らしいデートだってしてみたいのだ。
 ひく、とイルミの目元が僅かに引き攣る。さすがに遠回しに言い過ぎたかと思い、焦って「私、イルミと」まで言い直したとき、イルミの片手が伸びてきてぎゅっと私の片頬を摘んだ。

「何なのその誘い方。もっと普通に言えば」
「だって普通にお願いしたら、どうせイルミ却下するでしょ」
「……するわけないだろ」
「えっ? そうなの? というかちゃんと伝わってる?」
「伝わってる」

 そう言うと、イルミは摘んでいた私の頬をぐいっと引っ張って離し、立ち上がった。軽くひりひりする頬を押さえながらイルミを見上げる。

「いいよ。そろそろ頃合いだと思ってたし」
「ほ、ほんとに!」
「とりあえずシャワー浴びたい。その後でいいよね」
「あ、別に今日じゃなくても……イルミも疲れてるだろうし」
「いや、今日でいいよ」
「そう? じゃあ私も急いで準備するね!」

 まさかこんなにスムーズに事が進むとは思っていなかった私は、立ち上がり興奮気味にそう言った。イルミはそんな私を上から下までじいっと見たあと、「そのままでいいんじゃない」と一言告げてバスルームへと消えて行った。
 イルミが生まれ育った地。初めてここに来るときに車の中から見た街は、にぎやかで活気溢れる場所のようだった。今から急いで着替えて化粧して、そうだアマネにも昼食はいらないと連絡しておかなければ。まるで休みの日、親に遊園地へ連れて行ってもらう子どものように浮き足立っていた私は、逸る気持ちを抑えてクローゼットを開いた。

◇◇◇

「わざわざ着替えたの?」

 バスローブ姿で現れたイルミは、私の姿を見てまずそう言った。長い髪は濡れていて、イルミのそういう姿を見るのは初めてでなんとも新鮮な気分である。

「うん」
「そのままでいいって言ったのに」
「え、やだよ」

 ふふ、と私は笑って窓を閉めた。

「だって、久しぶりだもの」

 そう呟いたあと、カーテンを閉める前に外を眺める。標高の高いこの地ではどこをどう見渡しても視界に入るのは自然ばかりで内心うんざりしていたが、今から外へ行けるというだけでちょっぴり愛しく思えた。

「イルミも早く――」

 着替えたら。そう言おうとしたとき、カーテンを掴んでいた私の手にイルミの手が重なった。そしてそれはそのままゆっくりとカーテンを引き、室内が薄暗くなる。

「久しぶり?」

 顔を上げてイルミを見る。その瞬間、頭の中に蘇ったのは初めてこの部屋に来たとき、同じようにこの場所でイルミに言われたこと。ずっとここでオレだけのために生きるんだよ。そう話していたときよりも冷ややかな瞳が私を見下ろしていて、ぞわ、と全身が粟立った。

「い、イル」
「久しぶりってお前、今オレの前で誰のこと考えた?」
「だれ……って、え、どういう意、」

 手首を掴まれたと思ったら力強く引っ張られ、私は小さく悲鳴を上げた。さっきまで普通だったのに、どうして急に怒るの? 久しぶりだと言うことの何がいけなかったの。わけも分からずいろんな思いがぐるぐると頭の中を駆け巡る中、私を寝室まで引っ張って行ったイルミにその勢いのまま広いベッドへと放り投げられる。私の身体を受け止めたベッドのスプリングがぎしりと鳴って、柔らかく滑らかなシーツが両手に触れた。
 どくどくと心臓が激しい音を立てる。咄嗟に起き上がろうとしたが、私の下半身を押さえ込むように乗ったイルミの重さで身動きが取れない。白い手が伸びてきて、それはそのままわたしの上半身をベッドへと縫いつけた。
 イルミの湿った髪が顔や首に下りてくる。何も言葉が出てこない私の唇をイルミはバスローブの袖で乱暴に拭い、真っ白な生地に塗ったばかりの淡いピンク色が伸びていく。ごしごしと擦られ、私はじたばたと足を動かし両手で彼の肩を押し返した。

「いた、イルミ、口痛いよ」
「知らなかったよ。って、男と寝るときはこんな風に化粧するんだね」
「さっきから、」

 何の話をしているの。そう尋ねる前に、イルミは私の両手首を掴んで強くベッドに押さえつけた。接近したイルミの吐息がふと口元にかかる。顔を背けることは許されず、そのままイルミは私の唇に噛み付いた。

「ん、ぐ……!?」

 ぎょっとして口を開いたが最後、舌と舌が触れ合い、歯と歯がぶつかり合って、痺れるような痛みの中に脳を蕩けさせるような心地良さが混じった。イルミが角度を変えて唇を重ねる度に酸素を求めるが、それを許さないイルミの舌が荒々しく咥内を乱していく。
 もう頭がどうにかなってしまいそうだった。手首が圧迫されているせいで血がうまく巡らず、指先がじんじんと痺れていく。視界が霞んでいく。

「さすがにさー、頭にきたから」
「っイル、ひっ!」

 ようやく唇が離れたかと思ったら、服の隙間から滑り込んできたイルミの右手がぐい、と下着をたくし上げたせいで両胸があらわになる。かっと顔が熱くなり全身をこわばらせた私の耳朶に噛み付いたイルミは、耳の奥へ捩じ込むように言った。

「優しくするのやめた。この先、正気でいられると思うなよ」

 無防備な胸にイルミの手が触れる。下から持ち上げたと思ったら、指先で先端をぎゅう、と抓られ腰が浮いた。身体の奥から自分でも言い表すことのできない何かが込み上げてきて、その波に耐えようとイルミのバスローブの襟ぐりを掴みぶんぶんと首を振る。

「どうして急に、なんで」
「元はと言えば、誘ったのはでしょ」
「わ、私はイルミと、夫婦らしくデートしたいなって、おもって」

 耳元でずっと喋り続けていたイルミが顔を上げる。またキスされるのかもと思いながらきゅっと唇を引き結べば、イルミは眉間に皺を寄せ、真上から私を見下ろしたまま首を傾げた。

「……何の話してるの、お前」

◇◇◇

 が悪い。そう言ってベッドの上にあぐらをかいて座るイルミの前で正座をする。手首にはうっすらと赤い痕が残っていた。
 ちら、と目線を上げればイルミのバスローブの前がはだけ臍まで見えてしまっている。つい先程まで私たちの間で行われていた諸々を思い出すと今にも発狂してしまいそうだった。
 イルミが何度目か分からないため息を零す。普段は感情の読みづらい彼が心底呆れていることが見て取れる。

「あのタイミングであの言い方、伝わるわけがない」
「そ、それは悪かったと思っております誠に申し訳ございません……」
「そもそも懲りないよね。オレ、外に出たら駄目だって何度も言ってるだろ」

 そう言ってイルミが片足を立てたので、私は大慌てで彼のバスローブを掴んで捲れた部分を元に戻す。

「イルミが私を一人で外出させたくないのは十分理解してるんだけど……じゃあ二人ならオッケーなのかな、と思って……」

 直視できず、斜め下にあるイルミの指先を見つめながらそう説明する。こんな誤解が生じるなら、遠回しにお願いなんてせず素直に「二人で出かけよう」と言えばよかった。
 少しの沈黙のあと、イルミが何かに気付いたように「あ、そうだ」と言った。それと同時にずっと眺めていたイルミの指先が動いて、私の顎を持ち上げる。さっきのこともあり、引いたはずの熱が再びふつふつと蘇ってくる。

「じゃあ今日の夜、二人で出かけようか」
「え……えっ、いいの?」
「いいよ。まあ夜には、立って歩けなくなってるだろうけど」

 背中がベッドに沈む。イルミがどういう意図でそう言っているのか、この状況で分からないほど馬鹿ではない。組み敷かれるのは二度目のことで、一度目のときと比べると羞恥はあったが恐怖はまったくなかった。
 最初にオレを誘ったのはなんだから。もう一度そう言って私を見下ろすイルミの瞳はほんの少しだけ楽しそうで、口元も僅かに緩んでいるように見える。驚くことに、初めて見るイルミの表情に私の胸が高鳴った。

「あの、イルミ」
「何」

 こつん、と額が合わさる。理由は分からないが、その瞬間に頭に浮かんだのは今朝のアマネの言葉。イルミ様なりの愛だと考えてみてはどうでしょう。愛とは元々、独善的なものだと私は思います。
 もしこれが本当に彼の愛ならば、ちゃんと受け止めてあげたい。このとき、私は初めてそう思ったのだ。

「イルミって、私のこと愛してるの?」

 そう聞くと、イルミは私を見つめたまま何度か瞬きをした。ふっと眼差しが優しいものに変わったと思ったら、すぐに真っ黒な瞳が見えなくなる。唇が触れ合う直前、聞こえたのは、イルミの優しく落ち着いた声音。

「そんなことわざわざ聞くなんて、お前は馬鹿だね」


(2023.12.13)