「これ作ったの、お前だね」

 トン、という軽い音とともに店のカウンターに突き刺さった一本のナイフ。今にも寿命を迎えそうな点滅する蛍光灯。その光を浴びて輝く銀色に、ああ私はここで死ぬかもしれない、と思った。蛍光灯よりも自分の寿命の方が先に尽きそうだ、と。
 いきなりナイフを投げた長髪の男は、殺気こそはないものの闇から溶けだしてきたような真っ黒なオーラを纏っていて、さながら死神のようだった。
 男が持ってきたナイフは、一年ほど前に私が作ったベンズナイフの贋作である。お金欲しさに製作したものだったが、そもそもベンズナイフは知名度が低い上にコレクターたちのほとんどが目利きだったため二本しか売れなかった。よってこれはその内の一本ということになる。

「な、何のことでしょう?」
「とぼける気?」

 ああ、やっぱり私はここで殺されてしまうんだ。涼しい顔の男に反して、全身からどっと汗が噴き出すのを感じた。
 贋作の製作者まで調べ上げてわざわざこんなところまでやってきたのだから、ごめんなさいもうしませんで許してもらえるはずがない。かと言って購入代金を返す余裕もない。替えの蛍光灯を買う余裕すらないのだから。
 男が下ろしていた右手をすっと上げる。びくっと身体を震わせて警戒すれば、男はカウンターのナイフの隣に何かを置いた。男の手が離れてようやく見えたのは、小さく細い一本の針だ。

「強力なオーラを込めるからもっと強度が欲しい。投げやすいよう長さも」
「はあ……?」
「そういう針、作って。作れなかったら殺す」

 えっ、と声を上げたとき、ぱっと辺りが真っ暗になった。とうとう切れたかと思い天井を見上げれば、二秒程で再び蛍光灯が息を吹き返す。その短い時間の間に男は姿を消していて、私はもう一度えっ、と声を漏らした。
 まさか本当に死神――? そう思ったが、視線を下ろせば男が持ってきたナイフも針もきちんとカウンターの上に残っている。爪の先で針をつつけば、それは何の変哲もないただの針だった。
 納期も代金も詳細なことは何も分からない。分かるのは、言われた通りのものを作らなければ私は死ぬということだけ。今までに経験したことのない妖しい依頼に、肩がずしんと重くなるのを感じた。
 一週間後に男は来た。いつ針を受け取りに来るか分からない中、数日間ほぼ不眠不休で作った針はどうやら男から合格点をもらえたらしい。私は殺されなかったし、男は店の常連になった。そして男が店に通い始めて数か月が経った頃、私は男がイルミという名前で職業が殺し屋であることを初めて知ったのだった。

「面倒なんだよね」
「え? イルミ、何か言った?」

 脚立の一番上に跨って二本目の蛍光灯を替えていたとき、イルミが何かを呟いたので私は彼を見下ろした。倒れないよう押さえておいてほしいと頼んだのに、イルミは脚立を押さえるどころか指一本触れておらず、腕を組んで私を見上げたまま言った。面倒だ、と。

「ただ脚立を押さえておくだけなのに?」
「オレが言ってるのは、こんな辺鄙な場所にあるボロい店までわざわざ針を取りに来るのが面倒ってこと」

 かちりと音を立てて新しい蛍光灯がはまる。古い蛍光灯はうっすらと埃を纏っていて、それを片手で持ったまま慎重に脚立から下りる。壁のスイッチを押すと、何の曇りもない真っ白な明かりが私たちを照らした。ボロい店と言われて些かむっとしたものの、新しい蛍光灯のおかげであちこちに張られた蜘蛛の巣や隅にたまった埃の塊がよく見えて、確かにボロい上に薄汚い店だなあと素直に納得してしまう。
 イルミと出会って八か月。私が彼のことを呼び捨てにし気さくに会話できるようになるには十分な時間だったが、私はイルミがいつもどこからやって来るのか知らなかった。
 
「じゃあ私、イルミの家まで配達しようか。それとも送る?」
「労力だけじゃなくて時間も無駄にしたくないんだよね」
「そんなこと言われても」
「だから、これからはオレの家で作ってよ」
「……オレの家でって、イルミの家でってこと?」
「当たり前だろ」

 そんなことわざわざ聞くなんて、お前は馬鹿だね。イルミはそう言って、呆れたようにため息を落とした。
 
「それは……ちょっと難しいと思う」
 
 古い蛍光灯を新聞紙で包みながらそう言うと、イルミは首を傾げた。

「どうして?」
「まだ借金残ってるし。借金取りから、全額返済し終えるまでは目の届くところにいろって言われてる」

 イルミと出会って間もない頃、どうしてベンズナイフの贋作を作ったのかと聞かれたときに両親が遺した借金については一通り説明している。

「いくら?」
「ざっくり七百万ジェニーくらいかな」
「じゃあそれ、オレが払ってあげるよ」
「……正気? 七百万だよ?」
「はした金だろ。代わりにオレの家で針を作るのが条件」

 イルミはカウンターに手を乗せゆっくりと私に顔を寄せると、反応をうかがうように「どうする?」と上目遣いで私を見た。彼の身体から漏れる禍々しいオーラはいつも私をぞくぞくとさせる。こちらを見据える瞳は、恐らく断ることを許さないだろう。死神のようで神様のようなイルミの提案は、言わば悪魔の囁きのように思えた。
 でも場所が変わるだけでやることは変わらないし、それで借金がなくなるのなら――。そう考えてこくりと頷いた私に、イルミは一言「替える必要なかったんじゃない」と言って眩しく光る天井を指さした。

◇◇◇

「とりあえず、これにサインして」

 数日後、私はイルミの家に向かうため飛行船に乗っていた。労力と時間がどうのこうの言っていたので近くはないと思っていたが、まさか国境を越えるとは。確かに毎回店まで来るのは大変だっただろうなと今までのイルミの苦労を想像しながら、私は手渡された一枚の書類を受け取った。今後の仕事についての契約書か何かだろうと思い目を通せば、書式が思っていたものと異なり思わずぎょっとする。

「……あのう、イルミさん?」
「ペンならここにあるよ」
「そうじゃなくて、書類間違ってるよ。これ婚姻届だよ」
「間違ってないからさっさと名前書いて」

 目の前に差し出されたペンと、正面に座るイルミを交互に見つめる。今までの付き合いの中で、彼がジョークを言う場面に遭遇したことはない。ここまでずっと無表情のイルミだったが、突然のことに固まる私を見て「お前、字書けないの?」と怪訝そうに目を眇めた。

「書けるよ」
「じゃ、書いて」
「いや、でも書いたらイルミと私、夫婦になっちゃうじゃん」

 ご丁寧に、婚姻届の片方にはイルミの名が記されている。

「それの何が不満なわけ」
「不満というか、寝耳に水というか」
「条件飲んだだろ。オレの家で針を作るって」
「それはそうだけど」

 まさかイコール結婚だなんて、普通は思わないだろう。うんうん悩む私の手を、イルミの白い手が掴む。すらりとした美しい手首からは想像できないほどの力で無理矢理私の手にペンを握らせると、イルミはもう一度「書いて」と言った。

「金、受け取ったよね」
「う……」

 それを言われてしまったら、もうどうしようもないじゃないか。
 結局その一言が決め手となり、私は恐る恐る婚姻届にサインをした。迷いながらも逃げられない私の書いた字はミミズのようで、書き終えた瞬間イルミが婚姻届を抜き取る。そして彼はそれを一瞥したあと、いつの間にいたのか私の背後に立っていたスーツ姿の男を呼んで手渡した。
 なんだか詐欺に遭った気分だ。お金のこともあり強く言えない私の視線に気付いたのか、イルミは足を組みかえて「悪いようにはしないよ」と言った。

「とりあえずには今まで通り針を作り続けてもらう。オレは家にいないことが多いけど、必要なことは執事に言えば大抵どうにでもなるから」
「う、うん……」
「オレは家族が大事だから、のことも大事にするよ。家族である限りね」

 私は窓の外を眺めるイルミの横顔を見つめた。最後の一言が不穏にも思えたが、そうか、私とイルミは夫婦であると同時に家族になるのか。たった一枚の紙切れで。
 突然でゆっくり考える暇もなく無理矢理だったような気がするが、実の両親に遺されたものが今にも潰れそうなアングラな店と借金のみだった私にとって「家族」や「大事にする」の言葉は存外嬉しかった。じいっと見つめる私に気付いたイルミが、冷めたように「何」と呟く。今になって恥ずかしさが込み上げてきた私は「何も」と言ってふるふると首を振った。
 イルミ本人が今まで通りと言っているわけだし、やはりやることは変わらないのだから。彼の家で針を作ることを決めたときと同じようにそう自分を安心させたあと、彼の見つめる暗い空へと視線を向けた。

◇◇◇

 人の店のことを辺鄙な場所にあると言ってのけたイルミの家は、私の店以上に交通の便の悪い場所にあった。巨大な門の前で車から降ろされ山の中を進む道中、この山には他にも誰か住んでいるのかイルミに聞いたところ、この山を始めとする広大な敷地すべてがイルミたちゾルディック家のものだと言うものだから両目の玉が飛び出るかと思った。さすが七百万ジェニーをはした金だと言うだけはある。

「いろんな生き物がいそう……」
「ああ、犬がいるよ」
「へえ、私犬好き」
「今日は出てこなかったけど、いつか見せてやるよ」

 どうやら放し飼いしているらしい。殺し屋も犬を飼うんだなあと勝手にイルミの見た目から毛の長い犬を想像しながらしばらく歩けば、目の前にそれはそれは大きな屋敷が現れた。山を所有している時点で普通の家には住んでいないだろうと思ったが、これまた度肝を抜かれてしまうほどの立派な屋敷である。
 荘厳な雰囲気の中、天井に施された彫刻を見上げていたらイルミが「口開いてる」と言って私を追い抜いて行った。慌てて彼の背を追えば、イルミは長く薄暗い廊下をずんずん進みながら振り返ることなく「これからのことだけど」と話を始める。

「とりあえず、父さんと母さんに会わせる」
「き、緊張する……」
「大丈夫。多分死なない」
「多分?」
「多分」

 イルミに置いていかれないようにと必死に動かしていた両足から、徐々に力が抜けていくような気がした。立ち止まった私を振り返ったイルミはもう一度「大丈夫だよ、多分」と言う。「大丈夫」だけならまだいいの、「多分」のせいで不安になっているの。そう言おうとしたが、諦めて口を噤んだ。抗議したところで、どうせ逃げられないのだし。とぼとぼと歩いてそばまでやってきた私のつむじを見下ろして、イルミは「母さんの機嫌が良ければいいけど」とさらに私の不安を煽るような独り言を吐いた。
 結果、私は死なずに済んだ。イルミの両親、つまり私の義父母となる人たちはそこまで私を歓迎しているようには見えなかったが、拒絶もしなかった。信じられないことに、息子の結婚相手にあまり興味がないようだ。

「あのベンズナイフの贋作はよくできていた」
「ゾルディック家の慣わしに従うのであれば殺しはしません」

 私の「初めまして」に対する義父、義母の返答である。贋作に対するお褒めの言葉は素直に嬉しかったが、隣に立っていたイルミに「偽物ってバレる時点で贋作としてはダメだと思うけど」と言われ、それも確かにと気落ちした。義母に関しては怖すぎである。
 挨拶は呆気なく終わり、二人のいる部屋を出たあとイルミにこっそり「母さんの機嫌が良くて良かったね」と言われ、あれで機嫌が良いのなら悪いときはどうなるのだろうと考えて背筋が凍った。
 しかし、もうそのときには私の気力体力は限界を迎えていた。飛行船ではろくに眠れず、空港からこの家に辿り着くまでも一苦労だったのである。いい加減、何の心配事もなくゆっくり休みたい。そんな思いでイルミの後ろをついていけば、くるりと振り向いたイルミが「ついたよ」と言った。

「オレたちの部屋」
「オレたち、って、イルミと私の?」

 聞くと、イルミは何も言わずに私を見た。そんなことわざわざ聞くなんて、お前は馬鹿だね。イルミの大きな黒い瞳がそう言っているようで、私は黙って肩を竦め部屋に足を踏み入れた。
 イルミと私の部屋は随分と広く何部屋かあるようだったが、必要最低限のものが置いてあるのみで少し殺風景にも思えた。隅には私が数日前に送った荷物が寂しげに積まれている。部屋にはバスルームもトイレもあり、食事も執事がここまで運んでくれるという。作業部屋も用意してあるらしく、あまり屋敷内をうろうろせずに済みそうだとほんの少し安心した。

「街に出たくなったときは、執事の方に言えばいいのかな」

 窓辺に立ち、そう尋ねながらカーテンを開けると目の前には闇が広がっていた。飛行船が空港に到着したのは昼過ぎだったのに、そこからの移動が長すぎたせいでとっぷりと日が暮れている。今私たちがいる部屋以外の明かりは一つも見えず、鬱蒼とした森がずっと先まで続いていることが分かる。
 質問に対して返事がなく不思議に思い振り返ると、ドアの側にいたはずのイルミが私の背後に立っていたので思わず息を呑んだ。
 長い黒髪がはらりと顔に落ちてくる。こんなに近くまで来ていたことに気付きもしなかった。射抜くような瞳から視線を逸らすことができず、本当に殺し屋なんだなと、そう思った。

「何言ってるの?」
「えっ。必要なことがあれば執事に言えばどうにかなるって言ってなかったっけ」
「外に出る必要なんて、ある? ないよね」
「……イルミ?」

 名前を呼ぶと、イルミは私の両肩にひたりと手を這わせた。力なんて少しも込めていないはずなのに、一瞬で身体が動かなくなった。

はこれからずっと、ここで、オレだけのために生きるんだよ」

 そう囁いたイルミは、私の身体から手を離すと窓を押し開けた。ひゅうう、と細い音を立てて吹き込んできた冷たい風が私とイルミの間を駆け抜けていく。流れるように滑らかな動作で窓枠に飛び乗ったイルミは、呆然とする私に向かって「仕事に行く」と呟いた。

「か、帰ってきたばかりなのに?」
「依頼が立て込んでるんだよ。いつ戻れるか分からないからは寝てていいよ」
「でもその、さすがにいきなり一人は」

 話している途中、ふっとイルミの姿が消える。飛び降りたようにも、空に向かって飛んで行ったようにも見えて、思わず目を擦った。窓から身を乗り出してよく見てみたものの、もうどこにもイルミはいない。狐につままれたような気持ちで立ち尽くす私の耳に届くのは、ざわざわと木々が揺れる恐ろしい音だけ。

「心細いよ……」

 いざ言葉にすると、余計に心細くなる気がして私は慌てて窓を閉めた。
 せっかく家族ができたはずなのに一人で暮らしていた頃より何十倍も寂しい気がするのは、知らず知らずに夫婦や家族というものに過度な期待を寄せすぎていたからなのかもしれない。
 その日は疲れていたせいか、気が付けばベッドの上で死んだように眠っていた。目が覚めて真っ先にイルミの姿を探したが、どこにも彼が帰ってきた痕跡はなかった。



(2023.12.13)