今までの人生の中で、こんなにも判断に迷うことがあっただろうか。
 初めて応募したハンター試験。その第三次試験会場へ向かう飛行船の中で、私は岐路に立たされていた。足元に落ちているのは一枚のトランプ。普段ならば気にすることのない『落とし物』に、私の足は動かなくなってしまったのだ。
 こんなに迷うことも生まれて初めてだが、人間の両腕が綺麗に消える瞬間を見たのも生まれて初めてだった。
 人にぶつかったら謝らなくちゃ。恐らくこの落ちているトランプの持ち主だと思われる男は、人の腕が消えることなんて取るに足らないことのようにさらりとそう言ってのけた。人にぶつかっておいて謝らないのは、確かに悪い。じゃあ、落とし物とその落とし主の正体に気付いておきながら、それを届けないのは?
 縦に並んだ三つの赤いハート。他に誰かトランプを持っていそうな受験者がいただろうか。しばらく黙考するものの誰の顔も浮かばず、私はそっとトランプへ手を伸ばした。触っただけで指が切れてしまうのでは。そう思うと僅かに指先が震えたが、触れてしまえばそれは何の変哲もないトランプでしかなかった。

「腕は、大事だよなあ……」

 ぽつりと、諦めたような呟きが零れ落ちる。拾った時点で『届けない』という選択肢は消えてしまった。私はここで腕を失うわけにはいかないし、試験に落ちるわけにもいかない。当たり前だが、死ぬわけにもいかないのだ。

◇◇◇

 落とし主であるヒソカはすぐに見つかった。飛行船の隅にいる彼を誰もが避けて通る中、周りを気にする様子もなくトランプを積んでタワーを作っていた。
 できれば試験が終わるまで、いや終わってからも関わりたくなかったのに、まさかこんな形で自分から接触しなければならないなんて。半ば嘆きながら、ヒソカの手によってタワーが順調にできあがっていく様子を隠れてこっそり眺める。あれが完成したら、さっと話しかけてさっと渡してさっと戻ろう。

「えっ」

 よし、今だ! そう思って一歩踏み出した瞬間、ヒソカは完成したタワーを指先で軽く弾いた。ぱらぱらと乾いた音を立てて散らばるトランプたちに呆然とする。まさか崩すとは思っていなかった私がつい声を上げると、ヒソカはゆっくりとこちらへ顔を向けた。
 目が合った、たったそれだけで頭の中が真っ白になる。何をしにここに来たのか、それすら分からなくなり身体が硬直した。ヒソカの相手を見定めるような視線が徐々に下がっていき、私の右手で止まる。ヒソカがトランプを指で弾いたように、背中を何かに弾かれたように感じた私は、急いでヒソカの元へ歩み寄り拾ったトランプを差し出した。

「こっ、ここ、これ落ちてましたよ」

 ひっくり返った声でそう言った私とトランプを見比べた後、ヒソカは目を細め笑みを浮かべた。

「ああ……わざわざ届けてくれたのかい、律儀だねえ」
「いえっ、ではさよなら」

 くるりと踵を返し、来た道を戻る。よかった。何事もなく、予定通りさっと話しかけてさっと渡して、さっと戻ることが――。

「ねえ」

 その一言で、初めてトランプを見つけたときと同じように私の足が止まる。後ろから聞こえたのは、確かにヒソカの声だ。
 目だけを左右に動かして確認するが、私たちの他に人はいない。恐る恐る振り返ると、そこにいたのは集めたトランプを慣れた手つきでシャッフルするヒソカ一人だけだった。

「せっかくだから、ゲームに付き合ってよ」
「……えっ?」
「オールドメイド。ルールは知ってるね」
「いや、あの、はい」

 オールドメイドは、私の生まれ故郷ジャポンで言うババ抜きである。ヒソカの言う通りルールはもちろん理解しているが、それ以前に彼と二人でカードゲームに興じるなんて冗談じゃない。私は咄嗟に「はい」と返事をしてしまったことを深く後悔した。
 ヒソカはトランプの中からダイヤのクイーンを抜くと、残ったトランプを二つに分け始めた。これはひょっとして、もう始まってしまう感じだろうか。断ったら、腕を消されてしまう感じだろうか――。
 カードを分け終えたヒソカは、立ち尽くす私を見上げて「もし、キミが勝ったら」と私を指さした。

「キミの言うこと、何でも一つ聞いてあげる」
「な、何でも……?」
「いや、何でもじゃないかな。『死んで』とか『試験を棄権して』は無理だから、それ以外で」

 そう言うと、ヒソカは分けられたトランプの片方に視線を落とし、揃っている組み合わせを見つけては床に放り始めた。もう断ることができないところまで来ているようだ。
 ごく、と唾を飲み込んで、どっどっと激しく鳴る心臓の音を聞きながらヒソカの元へ向かい、おずおずと彼の目の前に腰を下ろす。試験中に時折ヒソカから発せられていた殺気はまったく感じず、それだけが唯一の救いだった。

「あの……も、もし私が負けたら、」
「そのときは、ボクの言うことを何でも一つ聞いてもらうよ」

 同じ条件でハンデなし。簡単なゲームなんだからいいだろう? 床に胡座をかいていたヒソカは、片足を立ててにやりと笑う。

「もちろん、死んでだなんて言わないよ」
「う、腕は」
「ん?」
「腕は、消さないでほしいです……」

 私の言葉に一瞬だけぽかん、とした表情を見せたヒソカだったが、私が何を不安に思っているのか察したらしい。ふ、と口元を緩ませたかと思ったら声を上げて笑い始めたので、かっと顔が熱くなった。
 何もそんなに笑わなくてもいいじゃないか。そう文句を言えるはずもなく、黙ってトランプをかき集める。

「分かった、お互いを傷つけるようなことはなしにしよう。キミ、面白いね」
「……準備、できました」

 馬鹿にされているようだが、そんなのはもうどうでもよかった。身の危険がないのなら、勝っても負けてもいいからさっさとゲームを終わらせたい。いや、もちろんできれば勝ちたいけれど。
 与えられたトランプをヒソカから見えないように並べ替える。私の手持ちの中にクイーンは入っていない。同じようにトランプを並べたヒソカは、それらを片手で持って私に差し出した。ゲームスタートだ。

「トランプを届けてくれたお礼に、キミからどうぞ」

 落ちていたトランプを拾ったときと同様に指先が震える。勢いに任せて右から二番目を一枚引き抜く。スペードの二。ダイヤの二と合わせて、私たちの間に乱雑に散らばっているトランプの上へ乗せていく。
 何もかもが初めてづくしの一日だった。その締めくくりが、よりにもよってヒソカとのカードゲームだなんて。
 途中、そばを通りかかった受験者たちがぎょっとした様子でこちらを見ては、すぐに何も見なかったかのような素振りで通り過ぎていく。同郷で試験中に話す機会の多かったハンゾーも現れたが、彼は冷や汗を流しながらふい、と顔を逸らし逃げて行ってしまった。
 あのハゲ……。小さくなっていくハンゾーの背中をぎろりと睨みながら頭の中でそう呟いたら、ゲームが始まってからずっと黙っていたヒソカが口を開いた。

「キミは、どうしてハンターになりたいの?」
「へ、」

 突然の質問に、間抜けな声が漏れる。ちらりとヒソカを見やれば、彼は手持ちを見つめたままでこちらを見ようとはしなかった。
 別に興味があって聞いているわけではないだろう。でも、もし答えを間違えたら――。背筋がぞわぞわとしてどう返そうか考えるが、いい返答が思い浮かばない。

「世の中の知らないことを、一つでも多く知りたい、から……?」

 気が付けば、素直に応募動機を口にしていた。

「ふうん。見かけによらず強欲なんだ」
「うっ」

 思わず声を上げる。強欲、と言われたからではなく、引いたのがハートのクイーンだったからだ。慌てて口を押さえ取り繕うものの、そもそも二人でやっている以上どちらがクイーンを持っているのか隠すことなどできないのだから、あまり意味はなかった。
 再度ヒソカから見えないよう、少なくなった手持ちのトランプを混ぜる。くつくつと喉を鳴らして笑うヒソカは「でも欲張りな子は嫌いじゃないよ」と言って、迷うことなくクイーン以外のカードを抜いていく。
 いくら誤魔化しても、ヒソカにはまるで私のカードがすべて見えているかのようだった。いつまでも手の中にあるクイーン。微かに見えていた勝ち筋が徐々に消えていく気がして、嫌な汗が首筋を伝う。
 ヒソカと私は違う。ヒソカと私、と言うより、ヒソカはどの受験者とも違い別格だった。私たちが目指すハンターである試験官たちと比べても異質。そんな彼が、こんな簡単なゲームにすら勝てない私に一体何を求めるというのだろうか。
 私の手の中に残ったダイヤの六とハートのクイーン。目の動きでバレているのかもしれない。ヒソカにとってのあらゆるヒントをなくしてしまおうと、私はトランプを掲げたままぎゅっと目を閉じた。

「あと、ボクはね」

 ヒソカが手を伸ばし、一枚引いていく。ゆっくり瞼を開けると、そこには残されたハートのクイーンの向こう側で微笑むヒソカがいた。

「分かりやすい子も嫌いじゃないんだよねえ」

 はらりとヒソカの手からトランプが落ちる。彼の手持ちのカードは、もうない。
 負けた――。その瞬間、全身からどっと汗が吹き出すのを感じた。これで私は今からヒソカの言うことを何か一つ、聞かなければならない。その事実が今更どかんと重くのしかかってきて、全身が小刻みに震え出した。
 私が傷つくことはないが、今すぐ誰かの首を持って来いとか言われたらどうしよう。そのときは、あのハゲの首で許してもらえるだろうか。
  ヒソカは私が持っているハートのクイーンをぴっと引き抜くと「いい暇潰しになったよ」とトランプを集め始めた。その後に続く言葉を待つが、ヒソカは何も言わない。痺れを切らした私は、「あの」と呟いた。

「……それで私は何をすれば」
「ん? ああ、そういうルールだったっけ」

 忘れていたのか……!
 ヒソカの飄々とした様子に、あれやこれやと心配していたのが馬鹿らしくなった。というか、忘れていたのなら言わなければよかった――。気が抜けてぼんやりとしている私を、ヒソカはちらりと一瞥する。そしてすぐに、人差し指でとんとん、と自身の頬を叩いた。そのよく分からない仕草に、思わず真似して私も自分の頬を指さす。

「じゃあ、軽くほっぺにキスでいいよ」
「なっ!」

 予想だにしていなかった言葉に、驚いて身体を後ろへと仰け反らせる。そんな私を不思議に思ったのか、ヒソカは首を傾げて「嫌かい。じゃあ唇で」とさらに難しい要求を述べた。
 キスだなんて、とんでもない。そして唇だなんて、もっととんでもない。私は「あ、う」と声にならない声を上げながら大きく両手と首を振った。

「ほ、ほっぺ、ほっぺにしますから!」
「あ、そう? じゃあどうぞ」

 そう言って笑ったヒソカは、少し顎を上げて目を閉じた。この隙にダッシュで逃げてしまおうか、と一瞬だけ考えたがどう考えても捕まる未来しか見えず、私は覚悟を決め背筋を正した。
 膝をついたまま、恐る恐るヒソカに近付く。彼の肩に手を置こうとして、触っていいと言われていないのに触るのは良くないなと思い直し、両手を引っこめる。キスなんて一瞬で終わるんだから、大丈夫。自分にそう言い聞かせて、私はヒソカに顔を寄せた。
 大人の男にしては随分と綺麗な肌をしている。風変わりな見た目と際立つ異常性のせいで気付かなかったが、よく見るとなんとも整った顔立ちだ。
 ヒソカの頬に描かれた星。その下に触れるだけのキスをしようとしたそのとき、それまで黙っていたヒソカが「あ、そうそう」と言って急にこちらを向いたせいで、私の唇はヒソカの頬ではなく唇に触れた。
 ふにゅ、と感じた柔らかい感触。悲鳴すら出ず、ひゅっと喉が鳴る。どくどくと、身体すべてが心臓にでもなったかのようだった。至近距離でにこりと笑ったヒソカが、すっと右手を上げる。その手にはハートの三のトランプ。私がヒソカに届けたものだ。

「これはボクのじゃないから返すよ」

 唖然。ヒソカは何も言うことができずにいる私のそばにトランプを置き、立ち上がった。

「興味ないから名前は知らないけど、いつも一緒に行動している三人組の男たちがいるだろう? 彼らが持っているのを見かけたから、彼らのじゃないかな」
 
 もはや喋ることも立つこともできないでいる私の肩にとん、と手を置いたヒソカは恍惚とした表情を浮かべ、そっと私の耳元に唇を寄せてこう言った。

「じゃあ、ごちそうさま。

◇◇◇

 ヒソカが立ち去って、どれくらい立っただろうか。ぬっと大きな影に包まれて振り返れば、そこには一人の男が立っていた。逆光で顔は見えないが、てっぺんが眩しく光っているおかげですぐに誰だか理解した。
 私を見下ろしたまま、ハンゾーが「お」と声を漏らす。

「生きてたか」
「殺す」
「何でだよ」
「何ででも」

 疲労が一気に押し寄せてきて、なんだか目眩がする。試験会場に到着する前に少しでも休んでおきたい。大きなため息を吐いてようやく立ち上がった私は、膝や尻についた埃を落とそうと両手ではたいた。
 それにしても。ヒソカの座っていた場所を見つめたまま、ふとあることを思う。
 私、ヒソカに名前教えてないんだけどな。
 こちらを覗き込んでくるハンゾーと目が合って、顔を顰める。

「……何よ」
「お前、顔赤いぞ」
 
 ハンゾーの頭は、叩くととてもいい音がした。

 道化師のマリオネット


(2023.11.13)