「キルアと話した?」
ハンター試験で再会した弟は、帰宅後またこの家から出て行ったらしい。
仕事から戻ったイルミは、酷く取り乱した母からそう聞かされ自分の苦労が水の泡となったことに眉を顰めた。が、どうやら父シルバがそれを許したらしい。それならば、今すぐに自分がキルアに対して何かをする必要はない。イルミはそう判断した。
シャワーを浴び終え、バスタオルで頭を拭きながら寝室に現れたイルミの質問にの肩が僅かに震える。
「少しだけ……引き止められなくてごめんなさい」
「別にいいよ」
イルミはタオルを椅子の背もたれにかけると、広いキングサイズのベッドに腰を下ろした。そして既に淡いブルーのネグリジェに着替え、その場に立ち尽くしているに向かってぽん、と自身の隣を叩く。は表情を変えることなく、素直にイルミの隣に座った。
自分に劣らない艶のあるの髪。てっぺんのつむじを見つめながら、イルミは質問を続ける。
「何を話したの?」
「もう行くのって聞いたら友達が待ってるからって……あと、イルミさんのどこが好きなのか聞かれた」
「へえ、それでは何て答えたの」
「ええと」
の言葉が止まる。少しの沈黙の後、彼女はもう一度「ええと」と小さな声で呟き、徐々に項垂れていった。膝の上に置いた白い手を見つめるの髪を手で梳いてやると、困惑と焦りを滲ませた横顔が現れる。
、と、イルミはその横顔から目を離すことなく彼女の名前を呼んだ。彼女が、彼女の精神状態が今どうなっているのか、確かめるため。イルミは無理矢理の顔を自分の方へ向けさせると静かに唇を重ねた。
全身を強ばらせるの両頬を押さえたまま、深く何度も口付けを繰り返す。イルミの肩に手を置き、時折苦しそうに吐息を漏らすの潤んだ瞳を見つめながら、イルミはどっちだろう、と考えた。
キスをしたあとのの反応は大体二択である。照れながらもっとしてほしいとせがむか、それとも――。
唇を離し、イルミはじっとを見つめた。眉間に皺を寄せて呼吸を整えるは、そんなイルミの探るような視線から逃れるように目を逸らし、申し訳なさそうに呟いた。
「あの……今日は頭が痛くて」
ふう、とイルミが息を吐くと、は「ごめんなさい」と消え入りそうな声で言った。そんな彼女の頬から手を離し、イルミはそのままの肩を押して柔らかいベッドへと沈める。驚いたように、そして恐ろしいものでも見るかのように丸く見開かれたの瞳に、イルミの闇のようなオーラが映る。
「前もそうだったね」
「……え?」
「キルアと話したあとは、針の効きが悪くなるんだよ」
のネグリジェの襟ぐりを開き、現れた鎖骨へ唇を落とす。舌を這わせ、少し乱暴に痕が残るように強く吸い上げれば、は身を捩らせながらイルミの名前を呼んだ。いつもならイルミの頭を抱く彼女の両手は、今はイルミの肩を弱い力で押し返そうとしている。そんな彼女の手をとり、まとめて頭上に縫いつけた。
イルミさん。怯えたようにがイルミの名を呼ぶ。ハンター試験に向かう日までは弾むような声で嬉しそうに、愛おしそうに自分の名を口にしていたのに、今の声色には戸惑いしか感じられない。
仕方ない、刺しなおすか――。イルミはの目の端から零れ落ちた涙を舌で掬った。
人間を操作することは、イルミにとって造作ないことだった。だがそれはあくまで『人形』としてだけであって、『人』であるままで操作するとなると話は別だ。
にはこめかみに針を刺している。自分だけを愛するように、そのために障害となる真実や過去、故郷のこと、その他の感情についてはあまり意識が向かないようにその針で操作していた。キルアに刺しているものと同じ針だ。
しかし、どうもキルアと接触したあとはその針の効果が弱まってしまうらしい。これはイルミにとって誤算だった。キルアがの核となる部分に触れるような話をするからか、それともを手に入れるために、の目の前で殺した彼女の弟がキルアと同い年だったからか。どちらかは分からない。
「イルミさん、手、痛い」
「あ、ごめんごめん」
いつの間にか強い力で掴んでいたらしい。イルミは少しだけ力を弱めたが、彼女の手首を解放するつもりはなかった。隙間から見れば、そこにはうっすらと圧痕が残っている。
は脆い。だから、何度も針を刺しなおせばいつか必ず壊れてしまうだろう。
キルアはいずれ必ず戻ってくる。キキョウの口から聞いた、シルバの言葉がイルミの頭の中に流れてくる。次にもし、とキルアが接触してまた針が効かなくなったら。
「ねえ、」
針が効かなくなっても、が逃げないようにするためには。
「ずっと、オレのそばにいてね」
イルミの言葉に、は目を見開いた。普段なら嬉しくてすぐさま頷くはずなのに、なぜかそうできない、そうしたくないと考えている自分の思考に絶望しているのだろう。イルミはを拘束したままそう推測した。
「イルミさん、私」
「さ、そろそろ始めようか」
「……は、始める?」
「ずっといなかったから、お前も不安で寂しかっただろ」
人差し指をつうっとの首、鎖骨、そして胸の辺りまで滑らせるとの腰がびく、と跳ねた。今から起きることを理解したらしく、唇を震わせながら青ざめた顔ではイルミを見つめる。逃れようと、が掴まれたままの両手に力を入れたのが分かってイルミは僅かに目を眇めた。
「ごめ、ごめんなさ、今日はほんとに」
「久しぶりに会った夫からの誘いを断るの?」
「それは……」
「うーん、困ったな。無理矢理する気分じゃないんだけど」
イルミはぴと、との頬に手を添えて言った。
「お前も、酷くはされたくないよね?」
ひぐ、とおかしな声を上げてむせ込んだを見下ろしたまま「大丈夫?」と首を傾げる。怯えながらふるふると首を横に振る妻のことを、イルミは可愛いと思った。
馬鹿で可哀想で、可愛い女だ。今さら拒んだところで、行き着く先は同じだというのに。ここ以外にお前の帰る場所など、もうどこにもないというのに。
イルミは片手をベッド脇のサイドテーブルへ伸ばした。置いていたペットボトルの水を口に含み、に深く口付けて流し込む。口の端から、彼女の喉に流れ落ちなかった水が滴り落ちる。何度かそれを繰り返したところで、の身体から力が抜けていくのを感じてイルミは水をサイドテーブルへ戻した。ついでに部屋の間接照明も落とす。闇が二人を包み込む。
「もう余計なことを考えるのはやめなよ」
「っあ、」
布越しにの胸を揉みしだけば、は声を上げて僅かに腰を浮かせた。水に混ぜていた薬の効果が出ているらしい。中に手を入れて固くなった先端に触れると、は切なそうに喘ぎ始めた。
久しぶりに感じるの体温、声、柔らかさや匂い。見えなくても、それらだけで十分滾るものをイルミは感じていたが、頭の中では冷静に一つのことだけを考えていた。
どうせ刺しなおすなら、理性を失っているときがいい――。
イルミはネグリジェの裾を捲ると、下着の上から割れ目を指でなぞった。
「あっや、ん」
「」
「ふ、あ……イルミ、さ」
「大丈夫」
すぐにまた元通りになる。それから先、もし針が効かなくなることがあっても、もう大丈夫。
安心させるように、そして全てを受け入れさせるように。の耳に唇を当て、捩じ込むようにそう呟いたイルミの右手は、既に彼女のこめかみへと伸ばされていた。
◇◇◇
「クロロとやれなかったみたいだね」
ひゅう、と吹いた風がそう話すイルミの髪を揺らす。教会の頂にあるシンボルの十字架に手を置くイルミの視線の先には、同じく教会の屋根に腰を下ろしヨークシンの夜景を見下ろすヒソカがいた。
振り向いたヒソカは眉を下げ、「ボクはつくづくツイてないよ」と肩を竦める。
「でもまだ諦めてないんだろ」
「うん、除念師を探す」
そこまでしてクロロと闘りたいのか、と思ったがイルミはそれを口にしなかった。ヒソカが戦闘狂であることは十分すぎるほど理解していたし、何よりそんな雑談をするために彼の元へ来たわけではなかった。
「報酬はいつもの口座によろしく。針使わず顔変えるの結構しんどいからさ、ちょっと高めに設定してるよ」
じゃ、と言って去ろうとしたイルミを、ヒソカは「ねえ」と呼び止めた。そんなヒソカの表情にイルミは眉を顰める。
「少しだけボクと遊んでいかない? 消化不良でおかしくなりそうなんだよねぇ……」
ヒソカの、自分とは違うどろりとしたオーラと殺気にイルミはうんざりしたようにため息を吐いた。正直、金をもらえればそれも考えないこともないが、今ヒソカと闘うことはなるべく避けたい。
「イルミさん、実は――」
脳裏にはにかむの姿が浮かぶ。ハンター試験後、キルアが戻り再度出て行ったときに刺しなおした彼女の針は、今のところ何の問題もなく機能していた。
立ち上がり、イルミに向かって怪しい笑みを浮かべ手を伸ばすヒソカの名を呼ぶ。
「オレ、早く家に帰りたいんだよね」
「少しくらい寄り道したって構わないだろう?」
「もうすぐ子どもが産まれるんだよ」
ぴたり、とヒソカの手がイルミの眼前で止まる。無表情のイルミに対し、ヒソカの顔は驚き一色だった。
「……子ども?」
「そう、子ども」
「誰のだい」
「オレの」
沈黙。ヒソカの放っていた殺気が一瞬で霧散していく。イルミの飄々とした様子に、ヒソカは手を下ろすと苦笑いを浮かべた。
「え、そもそもキミ、いつ結婚したの?」
「したって言うか、ヒソカと知り合う前にはしてたよ。言ってなかった?」
「……言ってなかったねぇ」
やれやれと息を吐いたヒソカは、興がそがれたのか再びその場に腰を下ろすと頬杖をついてイルミを見上げた。
「子どもも気になるけど……キミの可愛い奥さんの顔、見てみたいなあ」
今度、会わせてよ。にたりと笑ってそう言った途端、イルミの目の色が変わったのをヒソカは見逃さなかった。
無表情で一見分かりづらいが、地雷は分かりやすい。ヒソカはイルミのことをそういう男だと認識している。
「断る。ヒソカのことだからどうせ殺したがるだろ」
「失礼だなぁ、ボクを無差別殺人鬼みたいに」
ヒソカは笑いが止まらなかった。妻は子を成すための道具である。イルミのことだからてっきりそう考えていると思ったが、どうやら先程の反応や早く家に帰ろうとするあたりそうではないらしい。単純に子どもが産まれたらあとは用済みになるのかもしれないが、それでも彼の妻がどんな女なのか俄然興味が湧いたし、新しいおもちゃが手に入るかもしれない、と思うと笑みを堪えきれなかった。
「それにしても、キミが父親だなんてまったく想像できないな。子どもとか欲しいタイプだったんだ?」
「血筋は大事だからね。まあ、絶対欲しかったわけじゃないけど……母親になれば」
イルミの言葉の途中で、大きな鐘の音が辺りに響き渡る。教会のすぐそばにある古い時計塔が時刻を伝える鐘だ。
「じゃ、オレ行くから。入金忘れないでよね」
「分かってるよ……イルミ」
「ん?」
「『母親になれば』、なんだい?」
ヒソカの問いに、イルミは二、三度瞬きをして呟くように答えを返したあと、もう一度「じゃあね」と言って消えた。
先程までイルミがいた場所から、再び景色へと視線を戻す。クロロと闘れず鬱々としていた気分が幾分かマシになっていることにヒソカは気付き、にんまりと笑った。
「母親になれば、そう簡単にオレから逃げられないだろ」
彼にとっての『道具』は、どうやら妻ではなく子どもの方だったらしい。
「面白くなりそうだねぇ……」
愉悦に浸るヒソカの呟きが、ヨークシンの空に消えていった。
(2023.10.03)