イルミが結婚する。その話を聞いたとき、キルアは食事の最中だった。
突然の知らせに、口へ運ぶためフォークに刺していた牛ヒレ肉が皿の上に落ちる。目線だけで当の本人を見れば、興奮して喋り続ける母親の話を聞いているのかいないのか、目を伏せたままナイフとフォークを使い静かに肉を切り分けている。
存命するゾルディック家の人間の中で一番冷酷と言っても過言ではない兄。そんな人間の妻に選ばれた女の姿形が、キルアにはどう頑張っても想像がつかなかった。
イルミが自ら女を選ぶわけないし、きっと父さんと母さんがどこかから見繕ってきたんだろう――。
キルアはそう考えながら「ふうん」と返事をした。本来ならばめでたいことなのだろうが、間違っても仲良くなどない兄に「おめでとう」と言う気分には到底なれなかったのだ。
部屋を用意しなければ。挙式はどうしましょう。などと捲し立てる母をよそに落とした肉を頬張る。ひょっとしたら、イルミに似た能面のような女だったりして。そう考えながら咀嚼する肉はほとんど味がしなかった。
「はじめまして、キルアくん。です」
キルアの予想に反し、イルミの妻に選ばれた女は能面どころかイルミとは真逆の、屈託のない笑みを浮かべる平凡そうな女だった。よろしくね、と言って差し出してきた手は白く柔らかそうで、目の前にいてもイルミのようなおぞましさはまったくない。
なぜこんなどこにでもいるような女が、イルミの妻に選ばれたのか。そう思いつつも兄嫁に面と向かってそんなことを言う勇気はなく、おずおずと彼女の温かい手を握った。そんなキルアを見て、は嬉しそうに顔を綻ばせた。
◇◇◇
「……何してんの?」
がゾルディック家に嫁いできて一か月が経とうとしていた。
定期訓練を終え、たまたま通りかかった屋敷の一角にあるサンルーム。そこで床に腰を下ろし、観葉植物の間で白い布を持ってごそごそと手を動かすの背中が見えて、キルアは一度は通り過ぎたものの後退し彼女にそう声をかけた。
ぱっと振り向いたの焦げ茶色の瞳は驚きからか丸くなっていたが、キルアの姿を捉えると徐々に安堵の色が滲んでいく。
「ほら、明日から雨みたいでしょ? だから日和坊主を作ろうと思って」
「ヒヨリボウズ?」
「私の故郷では、翌日の晴天を願って白い布や紙で作った人形を飾るの」
これがその日和坊主。はそう言うと、持っていた白い布をキルアの目の前に差し出した。確かに人形と言われればそう見えないこともない。顔はないが、何かを詰めて丸くなっている方が頭なのだろう。
「てか、なんで明日雨じゃだめなわけ? どうせ晴れでも雨でも関係ないじゃん」
広壮たるゾルディック家の屋敷でキルアとイルミ夫婦の居住スペースは離れており、こうしてキルアがと屋敷内で会うことは滅多にないことだった。しかし、が嫁いできてから一度も外出したことがないことを知っていたキルアは、素朴な疑問を彼女にぶつける。
は目を伏せると、日和坊主を指先で整えながらぽつりと呟いた。
「明日からイルミさんが長期のお仕事に行かれる予定だから、晴れた方がいいかなって」
「別に、殺し屋に天気なんて関係ねーよ。むしろ雨の方が都合いいことも多いぜ」
「そうなの?」
「雨だとターゲットの行動範囲が狭まって殺りやすかったりするし」
「そうなの……」
しゅん、と、どこか落ち込んだようにも見える兄嫁に困惑したキルアは、彼女のそばに転がっていた二つの日和坊主を拾うと「で、これどこに置くの?」と尋ねた。顔を上げたは再び驚いてキルアを見つめる。
夫婦とは言え、実際にはイルミとがどのような関係性なのか、キルアは知る由もなかった。二人が一緒にいるところを見たことがないし、あの兄がのことを気にかけているとも思えない。ほんの少し、自分のことを相手にしない夫のことを気遣うが不憫に思えた。その上での質問だった。
「置くんじゃなくて、吊るすの」
はそう言うと短い紐を取り出した。そして日和坊主の首にその紐を括りつけると、一番近くに置いてあった観葉植物の上部分に吊るした。
まるで首を吊っているようだ。内心そう思ったが、日和坊主を見つめるの温かな眼差しにキルアはその言葉を飲み込んだ。
オレはのことを、この兄嫁のことを何も知らない。どこから来たのかも、どういう経緯でイルミと結婚したのかも。
キルアは彼女の横顔に向かって「ねえ」と声をかけた。は優しい瞳をキルアに向けて首を傾げる。
「こんな物騒なところに嫁いできて、故郷が恋しくなったりしないわけ?」
恋しくならないわけがないだろう。キルアはそう思うと同時に、恋しいと泣かれたらどうしよう、と不安にも思った。彼女に関わらなければいいだけの話だが、なぜかそうできない自分自身にキルアは驚いていた。
しん、と二人のいるサンルームが静寂に包まれる。天井まで硝子でできているこの部屋からは、今にも雨が降り出しそうな曇天がよく見える。
呆然とした様子で、宙を見つめたまま何も答えないに対し不安になったキルアは「オレ、なんか変なこと言った?」と眉を顰めた。その言葉で我に返ったのか、はハッとして首を横に振る。
「不思議と……そういう、恋しいという気持ちにはならないの」
「へえ」
「こうやって、キルアくんとお話できたからかな。なんだか本当の弟みたい」
「ばっかじゃねーの」
微笑むからキルアはふい、と顔を逸らす。そもそもちゃんと会話したのは今日が初めてだし、こんなぼんやりとした姉なんてたまったもんじゃない。そんなことを言えば、隣からさらにくすくすとの柔らかく笑う声が聞こえた。
不憫で可哀想で、なぜだか放っておけない。それはきっと彼女がまだゾルディック家に染まっておらず、自分と同じようにイルミという存在から逃げられない立場にいるから。横目でを見れば濁りのない瞳と視線がぶつかり、キルアはふん、と鼻を鳴らした。
たまにくらいなら相手してやってもいいかな。揺れる日和坊主を見ながら、キルアは兄嫁に対しそう思った。
◇◇◇
それからキルアはと顔を合わせるたびに彼女に構ってやった。方向音痴らしく、いつも広い屋敷の中で迷っているのことを小馬鹿にしながら案内することにも慣れ、イルミが不在のときは彼女の部屋を訪ね一緒に菓子を食べることもあった。
その度にはこう言った。
「キルアくんがいてくれて、本当に良かった」
不思議と、悪い気はしなかった。
そんな日常が半年ほど続いたある日の夕暮れどきのことだ。いつも通り仕事を終えて、屋敷へと続く暗い樹海を歩きながらキルアは決心した。家を出よう、と。
縛られることなく自由に生きたいと願ったことは今までに何度もあったが、決意するまでには至らなかった。しかしこの日は、身体中に染みついた血のにおいと全身にまとわりつく倦怠感にすべてを投げ出したくなったのだ。
実行するなら、親父とイルミが不在のときがいい。できればじいちゃんも。あとの奴らはどうにでもなる。
ズキズキと鋭く痛む頭にの笑顔が浮かんだ。最近はカルトとも親しくなったようで、昨日は朝からカルトのところへ行くと言い何度も同じ廊下を行ったり来たりしていた。そんな彼女は、オレがいなくなったらどう思うだろうか――。
ようやく執事邸のそばまで来たとき、誰かの話し声が聞こえてキルアは足を止めた。ツボネだったら面倒だな。そう思いながら木の影に身を潜めたキルアだったが、声の主がであることに気付き胸を撫で下ろす。しかし彼女の斜め前を歩くイルミの姿に、かろうじて気配は消したままだったが口から心臓が飛び出るほど驚いた。
(まじかよ……)
突然現れた兄夫婦の姿に、キルアは頭の中で嘆いた。初めてと言葉を交わした日以降もキルアはとイルミが並んでいる場面を見たことがなかったので、なんとも不思議な気持ちに襲われていた。
距離があるため二人がどんな会話をしているのかまでは分からない。一人なら迷わず声をかけるところだが、イルミもいるとなると話は別だ。
自分と同じように屋敷へ向かうらしい二人から離れようと動いたとき、の小さな叫び声が聞こえてぎょっとする。見れば、どうやら木の根に足を引っかけたらしい。彼女はつまずいたものの、転ぶまいとイルミの背中にしがみついていた。
まじかよ。先程と同じ言葉が頭に浮かぶ。すぐにの慌てた声が森にこだました。
「ご、ごめんなさい!」
キルアは息を潜めて様子を窺った。イルミの機嫌次第では、大変なことになるのではないか――。
イルミは振り返りを見下ろすと、何か一言呟いて彼女の二の腕を掴んだ。怒っているようにも、責めているようにも見えず、ただの身体を支えているように見える。それだけでも意外だったのに、さらにイルミはもう片方の手での頬を撫でた。
そのときに一瞬だけ見えたの表情。それが今までに見たことがないくらい嬉しそうで、キルアは目を見開いた。自分と菓子を食いながら喋ったり、カルトと折り紙をしているときのものとは全然違う。どうやら、はイルミのことを――。
(げっ!)
驚くことに、イルミは少しだけ身を屈めの頬にかかる髪を耳にかけてやると、そのまま顔を傾けてと唇を合わせた。
身内の、しかも一番苦手な兄のこういう場面はできることならば見たくない。分かりやすく顔を歪めたキルアが二人から目を背けようとした瞬間、に口付けたままのイルミがキルアのいる場所へ視線を向けた。
ぞわ、と背中を這う何か。禍々しい気。まるで両脚を何かに掴まれているような錯覚に陥ったキルアだったが、気付けば気配を消していたのも忘れてその場から駆け出していた。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い――。あんなことをしながら牽制でもするかのような目でこちらを見るイルミも、普段放置されているくせにあんなに嬉しい表情を浮かべていたも、全てが気持ち悪い。
道ではない茂みの中をしばらく走り続けたキルアの足が止まる。枝や葉が掠ったせいで身体のあちこちに切り傷ができていたが、そんなのはどうでもよかった。
結局オレはのことを、何も知らないままだ。キルアは深くため息を落とした。はゾルディック家に染まっていないと思っていた。自分と同じように、イルミという存在から逃げられないのだと思っていた。この家で彼女のことを分かってあげられるのは、自分だけだと思っていた――。
「キルアくんがいてくれて、本当に良かった」
この言葉にはきっと嘘なんて微塵も含まれていなくて、彼女の本心であることは十分に理解できる。それなのになんだか酷く裏切られた気がするのは、ただの自分の、子どもじみた嫉妬でしかない。
の笑顔と、先程見た二人の姿が頭に浮かぶ。キルアは深呼吸をして、木の幹に置いていた手を強く握り締めた。
その翌日。キルアはイルミやシルバが仕事に出かけたあと、自分を引き止めるキキョウとミルキを刺してゾルディック家を出て行った。とは会わなかった。今の自分を見せたくなかったのだ。
◇◇◇
キキョウと別れて屋敷を出る直前、誰かの気配を感じてキルアは顔を上げた。そこにいたのは、困ったような顔をしただった。
ハンター試験を終えてこの家に戻ってからは、ほとんどの時間を独房で過ごしていたため彼女と会うのは実に久しぶりのことだ。一刻も早く自分を迎えに来たゴンたちのところへ行きたい。そう考えていたキルアの足が、彼女の目の前で止まる。母親にそうしたように、どけよと言う気にはならなかった。
は少し躊躇いつつも、困り顔のまま「おかえり」と笑う。
「顔、大丈夫? 痣できてるけど」
「別に、こんなの大したことない」
「せっかく帰ってきたのに、もう行くの?」
「……ダチが待ってるから」
「そっか……それなら仕方ないね」
はそう言うと、足元へ視線を落とした。
オレが急にいなくなって、はどう感じただろう。戻ってきたことに対し、少しは嬉しいと感じたのだろうか。
そんなことを考えていたキルアだったが、目を伏せたままのが呟いた言葉に思わず目を見開いた。
「きっと、イルミさんが悲しむと思う」
キルアは唇を噛み締めてを睨みつけた。頭に血がのぼり、なんの力も持たない義姉のことを殴ってしまいそうだった。
「……はどうなんだよ」
「え?」
聞こえなかったらしく、は首を傾げてキルアを見た。そこで初めて自分が睨まれていることに気付いたのだろう。キルアと目があったは、まだ幼い彼から初めて向けられた表情に目元をひく、と引き攣らせる。
お前はどうなんだよ。お前は、悲しくないのかよ。せっかくオレに初めて友達ができて、初めて自分で決めた道を進もうとしているのに、快く送り出してくれないのかよ――。
頭の中に、最終試験でイルミに言われた言葉の数々が蘇る。最悪な気分だった。
「ってさ」
「う、うん」
「兄貴の……イルミなんかの、どこが好きなんだよ」
あんなヤツ、みたいな普通の、優しいはずの人間が好きになるような相手じゃないだろう。
キルアの質問に、から表情が消える。そのうえ彼女は、まるで質問の意味を理解できないかのように「好き……?」と呟いた。その様子に、キルアは違和感を覚える。
そういえば、がこの屋敷に来てまだ間もない頃も同じようなことがあった。故郷が恋しくならないのか、と聞いたとき。そのときの彼女の反応も、今と同じようなものだった。
執事邸のそばでイルミとを見かけたときのことがキルアの頭に浮かぶ。イルミのことが好きでなければ、あんな顔はしないはずだろう。
じっと考え込んでしまったに対し、キルアはため息を吐いて頭を掻いた。
「あー、やっぱいいわ。わり、変なこと聞いて」
「いや、ごめん……私の方こそ、すぐ答えられなくて」
「じゃあオレ行くから」
抱いた違和感は、待たせているゴンたちに早く会いたいという気持ちにかき消される。の横を通り過ぎる瞬間、彼女が何か言おうとしていることに気付いてキルアは走り出した。これ以上イルミの名前を出されるとのことまで嫌いになりそうだったし、自分を快く送り出してくれないことに対する細やかな反抗のつもりだった。
一度だけ――。そう思い、キルアは振り返る。屋敷の前に立ち尽くすの姿。ここに戻るつもりはないから、きっと彼女に会うのはこれが本当に最後だろう。
「……じゃあな」
との縁を断ち切るように、キルアはそう呟いた。
◇◇◇
飛行船の窓から見える夜景に目を細めながら、キルアはゾルディック家で過ごした懐かしい日々を思い返していた。
現在、キルアを乗せた飛行船はパドキア共和国へと向かっている。もう戻ることはないと思っていた実家へ向かっている理由はただ一つ。キメラアントとの闘いによって今も生死の境を彷徨っているゴンを救うためだ。
キルアは自分の額へと手を伸ばした。知らぬ間に自分を制御するために刺さっていたイルミの針。それを抜いてから、ずっと考えていることがある。のことだ。
故郷が恋しくならないのか、と尋ねたときの呆然とした顔。イルミに頬を撫でられ、無邪気に愛おしそうに笑っていた顔。それなのにイルミのどこが好きなのか聞いたときのあの反応――。
それらを思い返し、キルアは頭を抱えた。一つずつ、何かが剥がれ落ちていく。一度抱いてしまった疑問は、もう看過できない大きさにまで膨らんでいる。
「キルアくん」
瞼の裏に現れたが、笑顔でオレの名を呼ぶ。
自分に対するイルミの執着はこちらの予想を遥かに超えるものだった。もしそれが、自分だけでなくにも向けられていたとしたら。もしがイルミ自ら選んだ相手で、なおかつ自分を愛するよう、逃げないように針で矯正されていたら――。
どうしても、そう思わずにはいられないのだ。
(2023.10.03)