男の執着ほど見苦しいものはない。私は常々そう考えている。


 私のいる場所から十メートルほど下に広がる森林地帯。辺りに響いた爆音とともに立ち上る白煙からは、木々が燃える臭い、そして生と死が混ざりあった臭いがする。

「あれやったの、貴方でしょう」

 背後に突如感じた気配。現れた人物を振り返ることなくそう語りかけながら、炎に包まれた一帯に目を凝らす。あの様子だと、今回の私のターゲットだけでなく雇い主も死んでいる可能性が高い。

は自分がどうするべきか、分かってるはずだけど?」

 投げかけられた言葉にぐっと目を閉じる。背中にひしひしと感じる、全身が萎縮するほどの殺気に我慢できず息を呑んで振り向くと、そこには風で長髪が宙に散るのも気にせずにこちらをまっすぐ見据えるイルミがいた。
 冷ややかなのに見つめられると嫌な汗をかくじっとりとした眼差しは、出会った頃から変わらない。

「……私、仕事中だから」

 イルミが何を言おうとしているのかは想像に容易い。彼がこれ以上何かを言う前に、私は短くそう言って逃げるように崖から飛び降りた。
 逃げ切れなかった――。
 岩肌を両足で軽く蹴り、鬱蒼とした木々の間を抜って地面に着地する。イルミの視界から消えたはずなのに、身体にまとわりつく視線が拭えない。私は泣きたくなるのをぐっと堪え、爆発の起きた場所へと急いだ。

◇◇◇

 イルミ=ゾルディックは、私の婚約者だった男だ。過去形なのは、もうすでに婚約は解消されて赤の他人だから。それなのに、婚約を解消して一か月経った今もイルミは私に執着し続けている。
 婚約者としてゾルディック家で暮らす毎日は苦痛でしかなかった。常軌を逸した訓練の数々や仕事量、ゾルディック家の人間や執事たちの、果たして本当にイルミの妻にふさわしい人間なのか品定めでもしているかのような目。そして何よりも一番辛かったのは、イルミの束縛だ。
 いつどんなときでも私の位置情報はイルミに共有されていて、一人での外出はもちろん不可。私の能力の都合上、彼の弟であるキルアやカルトと一緒に仕事に行くことが多かったが、一歩敷地の外へ出たら彼ら以外の人間との会話は厳禁。そして屋敷に戻ればイルミに服を脱がされて、異常がないか全身を隅々までチェックされるというなんとも屈辱的な毎日だった。

「イルミは、どうしてここまでするの」

 一度だけ、そう尋ねてみたことがある。ベッドの上で裸を隠すように白いシーツにくるまり、膝を抱える私。目線だけを上に動かせば、ベッドの脇に立ち私を見下ろすイルミと視線がぶつかり呼吸が苦しくなる。

「どうして? 不満でもあるの?」
「……もっと、自由にさせてほしい。一人で出かけたりしたいし、何よりこんな風に……わざわざ裸にして確認する必要ないと思う」
「妻の管理は夫の役目だろ」

 イルミの『妻』という言葉に身体がびくりと跳ねた。
 まだ私は、貴方の妻じゃない――。そう言おうと口を開いたとき、イルミがベッドの上に膝をついてぎしりとスプリングの音が鳴った。

「それに能力発動中は念が効かない身体になるって言うけど、本当に異常がないか自分の目で見ておきたいし」

 そう言いながら、シーツを強く握る私の手をイルミは掴んだ。
 私の念能力。それは私、および私の半径十メートル以内にいる特定人物のオーラの量を増やすというもの。特定人物が念を使えない場合は基礎体力値や攻撃力を上昇させることが可能で、能力発動中は自身のみ念が効かない身体になるが、能力解除後は能力を使った時間と同じ時間、こちらも自身のみ強制的に絶状態になる、どちらかと言えばサポートタイプの能力だった。
 
「き、今日は能力使ってすぐにカルトがターゲットを殺してたから、敵の攻撃は受けてな、」
「ねえ、これ邪魔」

 言い終わる前に纏っていたシーツを強く引かれる。あっという間に引き剥がされ裸を曝け出した私は、ぎゅっと唇を固く結んで身を縮こまらせた。
 イルミはいつもこうだ。いつも、私の話を聞いてくれない。そんな不満が、どんどん心の中に重く蓄積していく。
 いつも通り、私の上に馬乗りになったイルミの手が身体の上を滑っていくのを耐えていたら、イルミが「あ、そうだ」と何かを思い出したような声を上げた。

「再来週の、の誕生日だけど」
「誕生日……?」
「うん、その日に籍入れるから」

 頭を鈍器か何かで殴られたような気がした。婚約者という立場上いつか来るものだとは思っていたが、まさかこんな急に、直前になって言われるだなんて。
 私が何も言わないのをイルミは特に気にしていないようだった。イルミにとって私と籍を入れることはもう決定事項で、私の返事など聞く必要はないのだろう。
 固まる私の唇をイルミの指が撫でる。雲が流れて月が出てきたのか、カーテンの隙間から僅かに差し込んできた白い光がイルミの顔を青白く照らした。黒い瞳は底が見えなくて、飲み込まれてしまいそうで、とにかく恐ろしい。
 イルミの唇が下りてきて、そっと私の乾いた唇に触れる。そして唇を触れ合わせたまま、イルミは小さい子どもに言い聞かせるように、それでいて冷然とこう言った。

はさ、もうオレから逃げられないんだよ」

 翌朝、イルミが仕事へ出かけてすぐに私はゼノ様のところへ向かった。幸い私の身体は絶状態が続いており、訓練や仕事に復帰するまでまだ時間があったのだ。
 イルミとの婚約を解消したい――。突然の申し出にも関わらず、ゼノ様は喫驚することなく龍の装飾が施された湯呑みのお茶を飲み、一言「そうか」と呟いた。
 この話をするのにシルバ様やキキョウ様ではなくゼノ様を選んだのは、単に話しやすいという理由もあったが、それ以上に父母二人に比べてイルミの結婚をそこまで重要視していないように思えたから。本気で頼み込めば、きっと私の力になってくれる。そう予感していたのだ。
 ゼノ様は湯呑みを置くと、「イルミは嫌か」と笑った。

「嫌と言うか、まあ、そうです」
「正直じゃのォ」
「イルミのそばにいたら、自分が自分じゃなくなりそうで……。だからどうか、お願いします」

 頭を下げると、ううむ、とゼノ様が悩む声が聞こえた。
 ゾルディック家に来て得たお金にはほとんど手をつけていない。もし婚約解消にあたって慰謝料が発生することになっても、ある程度なら大丈夫なはずだ。

「ワシはお前さんを高く買っとったんじゃが」
「すみません」
「……ま、去る者は追わず、じゃな」

 ゼノ様は立ち上がると、私の横を通り過ぎるとき静かな声で「今すぐこの屋敷を出ろ」と言った。その言葉に、私は勢いよく顔を上げる。

「後のことはワシがまあ、うまくやるわい」
「ゼノ様」
「ただし」

 部屋のドアを開けたゼノ様は振り返ると、忠告するようにこう言った。

「去る者は追わずじゃが、去る者を追う者もワシは追わんぞ」
「……分かっています」

 私はもう一度、深く頭を下げた。
 分かっている。ゼノ様がどんなにうまく執り成してくれたとしても、きっとイルミは私が出て行ったことを許さないだろう。それどころか、地の果てまで追いかけられて殺されてしまうかもしれない。そのとき私に協力してくれる人は、誰もいないのだ。
 それでも、私はイルミから離れたい。ゼノ様と別れたあと、私は早速行動に移した。私物のほとんどと肌身離さず持ち歩いていた携帯を置いて屋敷を抜け出し、初めて一人で試しの門から外に出た瞬間、それまで感じていた不安は一瞬で解放感に掻き消された。
 やっとの思いで手に入れた自由は、私をどこまでも羽ばたかせてくれる。そんな気がした。

◇◇◇

の今回の仕事って成功報酬だろ? 全部パアだね、残念」

 爆発地点からそう遠くない場所に並んでいた二つの死体は私のターゲットと雇い主で、彼らは全身に針が刺さった状態で絶命していた。
 残念と言いつつ、声色からは全く残念がっている様子はうかがえない。背後に迫るイルミの足音は、まるで死へのカウントダウンのようだった。
 死体の前に座り込んだ私の後ろでイルミは立ち止まる。

「十分一人を満喫しただろう、もう戻っておいで。そうすれば、こんなくだらない仕事で日銭を稼ぐ必要もなくなる」
「……だ」
「え?」
「いやだ」

 はっきりとそう言って、イルミに向かってべえ、と舌を出す。もう私はイルミの婚約者ではない。彼の指示に従う必要はないのだ。
 私の拒絶にイルミは少しだけ目を見開いたが、すぐにいつもの無表情に戻るとわざとらしく困ったようなため息を零した。

「なんでかな、オレが大事にしてあげようと思うヤツはみんな出てっちゃうんだよね」

 キルアもお前が出て行ったあと、すぐ家出しちゃったし。イルミのその言葉に、今度は私が目を見開いた。
 キルアとは仕事で一緒になることはあったものの、ちゃんとした会話を交わした覚えはない。私と同じようにイルミに縛られていた彼は、きっとイルミの婚約者だった私を警戒していたのだと思う。
 そうか、キルアも逃げたんだ――。勝手にキルアに対し親近感を抱いていた私はその事実に酷く安心した。
 私のそばに屈んだイルミが、私の頭の上に手の平を置く。ついこの間まで彼の支配下にいた私を絶望させるには十分すぎる行為だ。

「大丈夫、キルアもそのうち連れ戻すつもりだから。でもまずは、お前だよ」
「……どうして、ここまでするの」

 手に強く力を込めれば、指先が地面を抉った。私の能力は確かにゾルディック家の役に立つかもしれないが、元々才能に溢れ普通の念能力者より上を行く彼らにとっては必ずしも私が必要というわけではないだろう。
 イルミが、なぜここまで私に執着するのか全く分からない。そんな意味を込めて、あの日と同じ質問をイルミに投げかける。また「妻の管理は夫の役目」などと言われるだろうか――。
 イルミの手は私の頭をぽんぽんと撫でたあと、ゆっくりと下りていき私の顎を掴んだ。強制的に視線を合わせられる。

「どうしてって、そんなのオレがを愛しているからに決まってるだろ」

 そのイルミの言葉にはなんの感情も含まれていなかった。絶望と恐怖と悔しさで、目の端から涙が落ちる。

「私は、自由に生きたい……」
「自由なんて不便なだけさ。現に今、は自由に生きているけど困っているだろう?」
「それは、イルミが」

 ふ、と一瞬で右目の前に小さな点が現れる。それがイルミの持つ針の先端であることに気付いたとき、遅れてやってきた風が私の前髪を揺らして全身からは大量の汗が吹き出した。
 イルミが私に針を向けるのは初めてのことだった。私のオーラの動きを読んだのか、イルミが「無理だよ、」と注意するように呟く。

「仮に今オレから逃げられたとしても、能力解除後に絶状態になったお前がオレに見つかったらどうなると思う?」

 悔しい、悔しい、悔しい――。
 我慢できず、涙が次々と零れ落ちた。そもそも私とイルミとでは圧倒的な力の差がある。イルミに見つかった時点で私の負けは確定していたのだ。
 ぐす、と鼻をすすり、私は力なく首を横に振った。

「針で刺されても、私がイルミを愛することは、ないよ」
「そんなことはないさ。きっとオレのことが好きで好きでたまらなくなる」
「でも、そんなの、偽物の愛でしょう……」
「別に偽物でもいいよ、お前が永遠に、死ぬまでオレのそばにいるのなら」

 イルミはそう言うと、私の目に針を突きつけたままもう片方の手で頬を撫でた。
 イルミの愛は歪んでいる。指先から伝わるイルミの体温を感じながら、私はそう思った。愛とは本来、与える方も与えられる方も幸せになるものだろう。けれどイルミの歪んだ愛は、私だけでなく本人さえも幸せにしない。そのことに、どうしたら気付いてもらえるのだろうか。

「イル、」

 頬からイルミの手が離れてすぐ、とん、と首筋に何かが刺さるのを感じた。恐る恐る手を伸ばせば、触れたのは一本の針。目の前の針にばかり気を取られすぎていたようだ。
 突如感じた目眩と吐き気で視界が回る。倒れる私の身体を抱きとめたイルミが、耳元で静かに囁いた。

「言ったよね、オレからは逃げられないって」

 逃げられない。でも。

「イルミ、」

 最後に見えた黒い瞳の奥に、私の知らない屈折した念いが渦巻いていた。
 逃げられない。でもそれは、果たして私だけなのだろうか。


(2023.09.17)